【第2話】撃沈
看板とともに写真を撮ったボクは、階段を下りて体育館の中に入っていく。ボクがベトナムで通っていた高校の倍以上の広さがある体育館には緑色のシートが敷かれ、その上に何百ものパイプ椅子がずらりと並べられていた。
その光景に、ボクは「これが日本の大学の入学式か」と圧倒されてしまう。前方が新入生の席になっていることは分かったが、想像以上の規模に足が竦んでしまうかのようだ。
それでも、入り口で立ち止まっているわけにはいかなかったので、ボクは新入生の席に詰めて座った。
隣には、髪の毛を首筋の辺りまで伸ばした男子学生が座っている。スマートフォンを見ていて、少し退屈そうだ。
でも、ボクは緊張で同じようにスマートフォンを手に取ることはできない。じっと座っていると、ボクの頭では二つの思いがせめぎ合う。このままじっと入学式が始まるのを待つか、それとも隣の男子学生に話しかけてみるか。
当然、後者には勇気が必要だ。でも、ボクは四年間をただ一人で過ごしたくはない。
だから、なけなしの勇気を振り絞って、隣の男子学生に「あの、こんにちは」と声をかけてみる。「こんにちは」とスマートフォンから顔を上げた男子学生は少し戸惑っている様子だったけれど、ボクは尻込みしたくなる思いを抑えて続けた。
「ボ、ボクはグエン・ヴァン・カンです。ベトナムから、来ました。あ、あの、あなたは……?」
「僕は吉木です。和歌山から来ました」
「あー、和歌山ね……」と言いながらも、ボクは会話に詰まってしまう。日本の地理は少なからず勉強してきたつもりだったけれど、ワカヤマがどこにあるのかは見当もつかなかった。
自分から話しかけたのに言葉に詰まってしまうと、ボクたちの間には気まずい空気が流れ始める。ボクは懸命に頭を回して、どうにか話題を捻り出す。
「あ、あの、ボクは経済学部なんですけど、吉木さんは……?」
「僕は文学部です。違う学部ですね」
「は、はい、そうですね……」
そう返事をしたはいいものの、ボクにはその先が続かなかった。吉木さんとボクの間に共通項は何もなく、話のとっかかりが掴めない。ここで「誕生日はいつですか?」とか「今朝は何を食べましたか?」と訊くのも、この場の雰囲気には合っていないように思われる。
吉木さんも外国人であるボクと何を話せばいいのか、いまいち分かっていないのだろう。ボクたちはすっかり黙ってしまう。お互いに軽く顔を合わせながら、相手の表情を探っている時間がこの上なく気まずい。
ボクはその気まずさに耐え切れずに「あ、あの、これから、よろしくお願いします」と言ってしまう。それは紛れもなく会話を終わらせてしまう言葉で、吉木さんも「は、はい。よろしくお願いします」と返事をすると、間もなくして再びスマートフォンに目を落としていた。
手持ち無沙汰になったボクも自分のスマートフォンを取り出してしまう。何となくエックスを見てみても、緊張は一向に紛れなかった。
入学式は、一時間ほどで終わった。体育館から出るとさらに暖かくなった日差しをボクは浴びる。
周囲には元から知り合いだったのか、それともこの短時間で仲良くなったのか、いくつもの友達連れやグループができていて、「飯食いに行こうぜ」なんて言っている。
今日のボクたち新入生の予定は入学式だけで、大学生活や来週から始まる講義に向けたオリエンテーションは、明日行われる。だから、ボクにはこの後の予定はなかった。
隣に座っていた吉木さんとも入学式が終わってすぐ離れてしまったし、ラインなど連絡先も交換していない。
それでも、このまま一人で帰ることはボクには忍びなかった。初日で誰かと仲良くなれなければ、四年間ずっと一人で過ごすかもしれないという強迫観念がある。
それでも、ボクはやはり一人で歩いているような人に話しかける勇気が出なかった。入学式の前の吉木さんのように話が弾まなかったり、微妙な反応を示されたらどうしようと思ってしまう。
そもそも外国人で、まだ日本語も拙いボクに話しかけられたいのか。そう思うと、ボクは一人で歩き出すしかなかった。
コンビニエンスストアでお茶と弁当を買って家に帰ると、時刻は午後の一時半になったところだった。一人で昼食を食べていると、ボクは「何をやっているんだろう」という思いすら感じてしまう。
それでも、昼食を終えると昨日は緊張であまり眠れなかったこともあって、僕は少し眠たくなってくる。軽く昼寝でもしようと思ったそのときだった。スマートフォンが振動音を鳴らしたのは。
お母さんがまた電話をかけてきたのかと思って画面を見ると、そこには「ホアさん」と表示されている。ボクが敬朝大学に入学するときや今のアパートを探すときにも協力してくれた、留学生支援機構の職員だ。
ボクはためらわずに電話に出る。
『もしもし、カンさんですか? 今、お時間大丈夫ですか?』
『はい、大丈夫です』
『そうですか。今日は敬朝大学の入学式の日だったんですよね。どうでしたか?』
ホアさんの用件は、ボクの想像と少しも違ってはいなかった。きっと支援している学生全員に、こうして電話をかけているのだろう。
ボクもありのままを素直に答える。
『はい。特に問題はなかったと思います。昨日は緊張であまり寝れなかったので、来賓と思しき方の挨拶のときには、少しウトウトしてしまいましたけど』
『そうですか。それくらいなら全然大丈夫だと思いますよ。まだ一日ですけど、大学生活はうまく送れそうですか?』
『は、はい。キャンパスの広さや建物の多さには戸惑ったんですけど、これから徐々に慣れていくと思います。明日からはオリエンテーションも始まりますし』
『それはよかったです。それで、カンさんは今日は誰かと話されたんですか? 仲良くできそうな人は見つかりましたか?』
そう訊いてくるホアさんに、ボクは少し息が詰まってしまいそうになる。でも、ここで嘘をついたり見栄を張っても仕方ないので、ボクは正直に答えた。
『そ、それは正直まだ……。ボクは日本語もまだまだ勉強している最中ですし、話しかけることはできたんですけど、あまり会話は弾みませんでした』
『そうですか。でも、カンさん。落ち込むことはないですよ。初めは誰でもそんなものですから。それにまだたった一日が終わっただけじゃないですか。これから講義やサークル、ゼミなどで人と一緒になる機会はいくらでもありますから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ』
ホアさんは、弱気になっているボクの心を見透かしているかのように励ましてくれた。その言葉が、ボクに勇気を与える。
そうだ。まだたった一日だ。今日で全ての新入生や在学生に会ったわけではないし、これから大学生活を続けていく中で会う人の方が、遥かに多いことだろう。
『そうですね。ホアさんの言う通りだと思います。ボクもまた明日のオリエンテーションから、大学に馴染めるように頑張ってみます』
『ええ。私も陰ながら応援してますよ。また何かあったときは、いつでも電話をかけてきてくださいね』
『はい。ホアさん、ありがとうございます』
『いえいえ、ではまた』
『はい。また』
そう返事をしたところで、ボクは電話を切っていた。電話をもらう前は少し落ち込んでいた部分もあったけれど、それでも今は明日からもまた何とかなると、いくらか楽観的な気分でいられる。
困ったときに相談できる人の存在を再認識して、心強ささえ感じられるようだった。
(続く)




