【第19話】当日
堺谷さんの声には怒気が込められていて、それはボクに「いえ、言ってないです」とはぐらかすことを許さなかった。確かに粂田さんには、堺谷さんがボクにもっと柔らかい態度で接してくれるよう言ってほしいと頼んだけれど、まさかボクがここを辞めたいと感じていることまで話したとは。
「す、すいません……」と項垂れながら、内心では粂田さんのことが少し恨めしく思えてしまう。
「お前さ、マジでふざけんなよ。ただでさえ今ウチは人手が足りてないんだから、お前みたいなモンでも必要だっていうのによ。あれか? お前はここで辞めることで、さらに俺たちを苦しめたいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」と反応しながら、ボクははっきりと傷ついていた。堺谷さんに「お前みたいなモン」呼ばわりされたことが、紛れもなく悲しい。
きっとそれはボクの仕事ぶりだけを指しているのではないだろう。そう考えると、さらに気分は塞いでいってしまう。
「じゃあ、どういうわけなんだよ。つーか、お前常識ねぇんだよ。あれか? ベトナムでは人手不足で困ってる中でも、好き勝手にバイトを辞めていいのか?」
「いえ、それは……」
「あのさ、お前が今いるのは日本なんだよ。だったら、せめて日本の常識には従ってくれよ。少なくとも日本では人が足りなくて困っている中で、それでも辞めますって言い出す奴はなかなかいないけどな」
「は、はい。すいません」
「いいよ、別に謝んなくても。そんな不自然な日本語で謝られても、ただムカつくだけだし。それにお前、『俺が冷たいから、仕事に入りづらい』って粂田さんに言ったらしいな。ふざけんなよ。そんな甘えた理由が、通用すると思ってんのかよ」
「す、すいません……」
「だから、謝んなって。ムカつくから。俺も粂田さんに『もっとグエン君に優しくできないか』って言われちまったし。マジふざけんなって話だよ。何の理由があって、お前なんかに優しくしなきゃいけねぇんだよ。それに俺、そこまで冷たく接してないだろ。別に普通だよな?」
何が普通だ。堺谷さんにとっては相当の理由もなく、人を睨んだり不満げな表情を向けるのが普通なのか。
ボクはとっさにそう思ったけれど、それを口に出せるはずはない。そんなことを言ってしまったら、堺谷さんの怒りに油を注いでしまうだけだ。
だから、ボクはたとえ本心は違ったとしても、「そ、そうですね……」と答えて、この場をやり過ごそうとするしかない。
だけれど、ボクのその煮え切らない態度は、さらに堺谷さんを苛立たせていた。
「つーかさ、なんで今以上にお前に優しくしなきゃいけねぇんだよ。この際だからはっきり言うけどさ、お前ムカつくんだよ。拙い日本語で懸命に接客しようとしてる姿に、イライラすんだよ」
堺谷さんが言ったことは、今のボクを全否定しているに等しかった。そう言われたら、外国人であるボクはこの国ではどこの職場でも働けなくなってしまう。堺谷さんだって、外国に出たら同じ立場に立たされるというのに。
だけれど、今のボクは一刻も早く話を終わらせるために「すいません」と謝り続けるしかない。たとえ口にした瞬間から「理不尽だ」と強く感じたとしても。
「つーかさ、お前なんでウチで働こうと思ったんだよ。お前みたいなモンは黙って、家と大学を往復してりゃいいんだよ」
堺谷さんの言い方はますます酷くなっていて、もはや一線を越える間際まで来ていた。ボクのような留学生にはアルバイトをすることさえ、自分で自由に使えるお金がほしいと臨むことさえ許されていないのだろうか。
ボクは思わず言い返したくなったけれど、そんなことをしても堺谷さんからはさらに強い言葉が返ってくるだけだろう。だから、ボクはたとえ意に添わなくてもこの場をやり過ごすために、「す、すいません」と謝るしかない。
それでも堺谷さんの不満は、まだ収まってはいなかった。
「そもそもさ、なんでお前日本来たんだよ。なんで留学なんてしようと思ったんだよ。ベトナムで大学に行った方が金もかからねぇし、日本語を覚えるのにも苦労しなくて済んだのによ」
そう吐き捨てるように言った堺谷さんに、ボクは自分の心が砕ける音が聞こえたとさえ錯覚する。
いや、堺谷さんは容赦のない言葉のハンマーで、ボクの心を粉々に叩き壊したのだ。
それは裏を返せば、「日本に来んなよ」と言っているのと同じで、もはや完全に一線を越えている。これもあの政党が掲げる「日本人ファースト」の影響なのだろうか。
いや、たぶん堺谷さんは元々ボクたち外国人のことを快く思っていなくて、そこに現れた「日本人ファースト」という主張に共感しただけなのだろう。
だけれど、いずれにせよボクの「それでも堺谷さんを、この国をよく思いたい」という思いは、根本からへし折られた。これ以上ボクを嫌いどころか、憎悪さえしている人とは一緒にいたくない。
ボクは制服を持って、ロッカールームの外へと歩み出していた。堺谷さんからの「おい、逃げんのかよ」という声にも足は止まらない。
堺谷さんと同じ空間にいることさえ嫌で、ボクは従業員通用口から外に出る。蒸すように暑い空気が、ボクを包み込む。唇を噛むと溢れ出てくるものがありそうで、ボクは思わずしゃがみこんでいた。
その日は、朝の七時に自然と目が覚めていた。昨日も半日ほどコンビニエンスストアでのアルバイトに入って、疲れているはずなのに。
いや、実際ボクの頭は鉛を含んだように重たくて、気分もちっとも晴れない。
だけれど、ボクは続けて眠ることはできなかった。ベッドから起き出してカーテンを開けると、東からの日の光が眩しい。
だけれど、雲一つない空にも、ボクは今日が良い日になるとはこれっぽっちも思えない。不安で立っていることさえしんどかったのは、きっと今日が参議院選挙の投票日だからだった。
何とか昨日のうちに買っておいた菓子パンを食べても、それからのボクは起きているんだか寝ているんだか、分からない時間を過ごしてしまう。頭も身体も重たくて、ベッドに横になっていることしかできない。
本当は明日提出する課題を完成させたり、いよいよ迫ってきた期末試験に向けて勉強をしなければならないのだが、今のボクはとてもそれどころではなかった。スマートフォンで好きな漫画を読んだり、アニメを見たりすることさえ、億劫に思えてしまう。
単純に気力もなかったし、それにそれらを作ったのは大体が日本人だ。でも、今のボクにはその日本人全員が怖い。もちろん堺谷さんの影響は強いが、それでも街で会ったりすれ違ったりする日本人の人が、内心でボクのことをどう思っているのかは完全には分からない。
悪く思っていないと信じることもできない今、ボクは外に出ることさえできていなかった。
ひたすらベッドで横になっていると、いつの間にか眠っていたらしい。気づくと、時刻は正午近くになっていた。
ほとんど動いていなかったからお腹もあまり空いていなかったけれど、ボクは気分を少しでも紛らわせるように、昼食にカップラーメンを作って食べる。好きなはずのカップラーメンが、今日はあまり美味しくない。
それでも、どうにか食べ終わるとボクは手持ち無沙汰になってしまう。しなければいけない勉強にも気が向かない。
きっと今頃は投票の真っ最中なのだろう。選挙結果を想像すると、ボクは夏なのに寒気に襲われる。「日本人ファースト」を掲げるあの政党が一つでも議席を獲得するのではないかと思うと、怖くてたまらない。
ボクは縋るように、スマートフォンを手に取った。声を聞いて少しでも安心したくて、お母さんに電話をかける。
だけれど、祈るような気持ちで呼び出し音をいくら聞いても、電話は繋がらなかった。ベトナムは朝の九時くらいだから、まだ寝ているのだろうか。
もちろん平日の仕事に疲れているとしたら、それもおかしな話ではない。それでも、ボクは悲しくなってしまう。
レストランで働いているから休日こそ忙しいお父さんにも一応電話をかけてみたけれど、結果は同じだった。
ボクは誰にも頼ることができない。縋ることができない。そのことを突きつけられると、息をすることさえ苦しくなるようだった。
それから家での時間をどう過ごしたのか、ボクにはあまり記憶がない。起きていたのか寝ていたのかさえ定かではなく、気がついたらアルバイトに行く時間を迎えていた感じだ。
ふとスマートフォンを見て、「そろそろアルバイトに行かなければならない」と思う。いつものように必要なものをリュックサックに詰める。
でも、その途中で今日のボクはキッチンから包丁を取り出して、リュックサックに入れていた。天井照明を反射して鈍く光る刃に怖いとかおぞましいとか、そういったことは一切思わなかった。ただあたかも毎日のルーティンであるかのように、ボクは自然と包丁を手に取っていた。
多分、感覚が麻痺していたのだろう。でも、目の前の刃の鋭さよりも、今日の選挙の結果や日本を覆いつつある空気の方が、ボクにはずっと怖かった。
支度を調えたボクは、そのまま普段通りに家を出た。夕方を迎えても外はじりじりと暑く、建物の隙間から差し込んでくる西日が、目を細めてしまうほど眩しい。
コンビニエンスストアへと向かう間にはいくつか学校や集会所があって、今この瞬間も投票が行われているかと思うと、暑いのにボクの身体は震えてくるようだ。なるべく足早に通り過ぎる。
そうしていると汗はさらに噴き出していて、良いことなんて一つもないように感じられた。
(続く)




