【第16話】距離
それからのボクは、誇張抜きで毎日アルバイトのシフトに入った。ある日は講義が終わった後に。ある日は深夜の時間に。粂田さんに頼まれて、その両方に続けて入ったこともある。
その分だけ稼げるのは良かったが、それでもボクはそれ以上に疲労を感じてしまう。それは身体的なものもそうだったし、堺谷さんと一緒のシフトに入ったときの精神的な負担も大きかった。
堺谷さんは相変わらず、ボクに対して突き放したような態度を取っていて、ボクはますます歩み寄りたくなくなってしまう。
結果として、ボクたちの溝はさらに広がっていて、堺谷さんと一緒に働いた後は神経がすり減って、家に帰ってもしばらくは何もできなくなってしまうくらいだった。睡眠時間も不規則になり、講義を受けている最中にウトウトすることも増えてくる。
期末試験前の重要な期間に、ボクは本末転倒だとさえ思える時間を過ごしてしまっていた。
そして数日が経った頃。大学の講義が終わってから深夜帯のアルバイトが始まる前に、ボクは上り電車を途中で降りて、とある駅を出ていた。
この駅で降りるのはボクには三回目くらいで、めったなことがなければここで降りることはないのだが、今日のボクはこの駅の近くで予定がある。北口を出たボクは、駅前の商店街から脇道に入る。
ボクは今日、この街にあるベトナム料理店でトゥーと夕食を食べることになっていた。
店内に入ると相も変わらず原色に彩られた、それでも不思議と落ち着く空間がボクを迎える。ボクたちは今日もトゥーの名前で予約していて、店員にそのことを告げると、ボクは店内でも中ほどの席に通された。
だけれど、そこにトゥーの姿はなかった。ボクは予約時間の三分前に来て、それでも大分ギリギリだと思っていたのに。
疑問に思いながらも、ボクはひとまず二人席に腰を下ろす。トゥーがやってくるまでは、勝手に料理を頼んではいけないだろう。
ボクはトゥーにラインで『店、着いたけど』というメッセージを送る。でも、トゥーからは返事はおろか、既読もなかなかつかなかった。
『悪ぃ。遅くなった』そう言ってトゥーがやってきたのは、ボクが店に入ってから一五分ほどが経った頃だった。肩で息をしていて、額には汗をかいていたから、大学からここまで急いで走ってきたことが分かる。その姿を見ると、ボクも『遅ぇよ』と責めることはしにくい。
それでも、『どうしたんだよ』と、遅くなった理由は尋ねてしまう。トゥーは『明日提出しなきゃいけない課題に時間がかかった』と答えていて、その真偽のほどは分からないけれど、でももし本当だったらしょうがないとボクには思えた。
『じゃあ、今日もお疲れってことで、乾杯』
トゥーが席に着くなり注文したチャ・ダーはすぐにやってきて、ボクたちはそのままコップを突き合わせた。『俺、まだこの後にバイトあるんだけど』と言っても、それは詮無きことだろう。
チャ・ダーに口をつけると、鼻に抜けるスーッとした感じが懐かしい。それでも、トゥーはチャ・ダーに口をつけた後に、ため息を吐いていた。それはボクには無視できないほどの大きさで、思わず『どうしたんだよ。ため息なんかついて』と尋ねてしまう。
でも、トゥーは『いや、いいわ。ここでわざわざ言うことでもねぇし』と答えた。それは『何かある』と言っているのとまったく同じで、ボクはますます気にならずにはいられない。
『いや、いいから言ってみろって。他の人には言えなくても、同郷の俺になら言えることってあるんじゃないか?』
ボクが重ねてそう訊くと、トゥーは少し辺りを窺うような様子を見せていた。心配しなくても夕食にも少し早い今は客はまばらだし、この店にはベトナムのポップソングが小さくない音量で流れているから、よほど大きな声を出さなければ、他の客にも聞こえないだろう。
トゥーもそれが確認できたらしい。少し言いよどむような様子を見せてから、『あのさ、これは他の誰にも言わないでくれるか?』とボクに声をかけてくる。
ボクも頷いて、たとえホアさんにも口外しないことを約束した。
『あのさ、何言ってんだって思うかもしれないけど、最近大学があまり楽しくないんだよな』
そう呟くように言っていたトゥーを、ボクは少し意外に思ってしまう。前に会ったときには、トゥーは軽音サークルにも入って、とても充実した大学生活を送っているように見えたのに。
『どうしてだよ?』
『いや、講義にはちゃんと出席できてるし、サークルにも毎回参加はしてるんだよ。でもさ、最近サークルの人たちが俺に対して、何かよそよそしいんだよな。まるで壁を作られてるみたいに。サークルに入った当初は、そんなことなかったのに』
『それって、何か心当たりがあったりするのか?』
『それがさ、全然ないんだよ。自分で言うのもなんだけど、俺はギターもそこまで下手な方じゃないと思うし、コピーバンドで出た初めてのライブだって、大成功ってわけじゃなかったけど、仲が悪くなるほどうまくいかなかったわけでもなかったし。でもさ、先月の終わり辺りから、少しずつ他人行儀みたいな感じになっていっててさ。俺が何か悪いことでもしたのかなとは、正直思うよ』
『そっか。お前も色々大変なんだな』
『まあな。茅原さんや星川さんも、俺とは最近ちょっと距離置くようになってる。前は一緒に飯とか食ったりしてたんだけど、最近じゃそれもなくなってさ。今、俺一人で寂しく飯食ってる状況なんだ。もちろん誰とも話さずに』
『そっか……』そう相槌を打ったきり、ボクは後に続く言葉を見つけられない。トゥーが一人でご飯を食べているところが鮮明に想像できるのは、ボクもまたそうだからだ。
自分の身を顧みると、『まあなんとかなるって』とトゥーを励ますことは難しかった。
『ていうかさ、『お前も』って言ったってことは、グエン、お前も大学大変なのかよ』
『まあ、大変じゃないって言ったら嘘になるな。講義には何とかついていけてると思うんだけど、でももう前期も終わるっていうのに、大学で話せる人は本当に一人もいないんだ』
『そうなのか……。でもお前、前にフットサルのサークルに入ったって言ってたよな。その人たちはどうなんだよ』
『正直言うと、それもあんまり……。一応毎回フットサルをした後の飲み会まで参加してるんだけど、それでも進んで俺に話しかけてくるような人はいないんだ。まあそれは、俺がフットサルが下手だったり、まだ日本語を勉強している途中だからでもあるんだけど、でも毎回ほとんど誰とも話せないまま帰るときには、どうして俺は会費や飲み代まで払って参加してるんだろって思うよ』
『そっか。確かにそれはこうして聞いてるだけでも、大変だなって思うよ』
『ああ。でも、別に大学のことはいいんだ。俺たちは大学に勉強をしに行っているわけで、遊んだり友達を作ったりするために行っているわけじゃないから。でもさ、それ以上にしんどいのがバイト先なんだよ』
『バイト先? そう言えばお前、コンビニでアルバイト始めたって言ってたよな』
そう訊き返してくるトゥーに、ボクはこのことを打ち明けようか一瞬迷う。だけれど、一度愚痴を口にしてしまったからには、その勢いは簡単には止められなかった。
『ああ、こんなこと聞いても楽しくないと思うけど、一人さ俺に対してめっちゃ冷たい人がいるんだ』
『冷たいってどんな風にだよ?』
『その人は、きっと俺のことが嫌いなんだと思う。仕事に必要なこと以外は全然話さないし、俺が何か話しかけようとしても、簡単な返事をするだけで、話をしようとする気は一切ないし。正直、俺もその人のことが苦手でさ。できれば、同じシフトにもあまり入りたくないくらいなんだ』
『それは酷ぇな。確認だけど、お前がその人に対して何か嫌なことや、失礼なことをしたわけじゃないんだよな?』
『ああ。もちろん俺もまだまだ完璧とは言えないけど、大分仕事は覚えてきてるし、自分で言うのも何だけど、普通レベルにはこなせてると思う。そりゃ始めたばかりの頃は迷惑をかけることもあったけど、でもそんなのは誰だってそうだし、それをいつまでも根に持つって少し大人げないとさえ、俺には思えるんだけど』
『ああ。俺もグエンの言う通りだと思う。実はさ、俺も最近バイト先で似たような状況になっててさ。もちろんその人みたいにあからさまに俺を嫌ってる人はいないんだけど、でもバイト先でも同僚の人には少し距離置かれるようになっちゃってて。仕事以外の会話もほとんどなくなっちゃったし、働き始めた頃はそんなことなかったのに、どうしてこんなことになってるんだろうって思う』
トゥーは『どうして』と言っていたが、ボクにはその理由が明確に分かるようだった。それは、ボクたちの力では変えられないことだ。
ボクの相槌も『そうだよな……』と下降気味になってしまう。
ボクたちの間には沈黙が降りる。店内ではポップソングが鳴り続けていて、まったくの静寂ではないことがかえって気まずい。
(続く)




