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【第15話】慰留

「それで、どうしたんだ? グエン。俺に話があるって」


 その日のシフトが終わった後、控え室で粂田さんがボクに問うてくる。休憩時間に「今日のシフトが終わったら、少し話せますか?」と声をかけたのはボクの方なのに、改めてそう尋ねられると、ボクは服の下で汗をかいてしまうようだ。喉も渇き始め、今すぐに帰りたい気にもなってしまう。


 それでも、ボクはどうにか堪えて、返事をした。


「は、はい。もしの話なんですけど、ここを辞めることってできますか……?」


 思いきって切り出したボクに、粂田さんは少し目を丸くしている。それでも、ボクにとってはたとえ一日でも、考えて出した結論だ。


 もうここで働くことはできない。そう確信めいた思いがあったから、ボクも簡単に退くわけにはいかなかった。


「一応訊くけどさ、それはどうしてだ? 辞めるにしても理由を教えてくれないか?」


「そ、それは大学の勉強との両立が難しくなってきたからです。もうすぐ期末試験も控えていますし、今は勉強の方に集中したいなと」


 ボクの答え方がおずおずとなったのは、それが一番の理由ではないからだった。もちろん大学での勉強とアルバイトの両立は楽ではないが、でもそれも同じ店舗に堺谷さんがいることに比べれば取るに足らないことだ。


 日本人ではないからという理由で、ボクを邪険に扱う人とは一緒にいたくない。


 でも、それを粂田さんに言えるわけもなくて、ボクは適当な理由でお茶を濁してしまう。粂田さんは、少しボクを訝しむような目をしていた。


「グエン。お前、それ本当の理由じゃないだろ?」


 言った側から図星を突かれて、ボクは返事に詰まってしまう。他の嘘の理由を、ボクは用意できていなかった。


「大学での勉強が大変なのは分かるよ。でも、期末試験が迫ってるなら、その間だけ休めばいい話だろ。それぐらいはキツいけど俺たちだって融通は利かすし、その分夏休みにシフトに入ってくれれば済む話だ。にも関わらず辞めたいって言うのは、多分人間関係のことだよな? 具体的に言えば、堺谷との」


 やはりボクと堺谷さんとの折り合いの悪さは、粂田さんも気づいていたのだ。とっさに「いえ、そんなことないです」と否定しても、「いや、それくらいは俺だって分かるよ」と説き伏せられてしまう。


「まあ、正直結論から言うと、今お前に辞めてもらうわけにはいかないな。ほら、最近だって世武や小野寺が、立て続けに辞めたばかりだろ。だから、ここでお前にまで抜けられると、本当に厳しいんだ。それは、お前も分かってくれるよな?」


 粂田さんの返事はボクにとっては訊くまでもなく分かっていたことで、一縷の望みは粉々に砕け散る。


 この店舗は先々週に世武さんが、先週に小野寺さんが二人続けて辞めたばかりだ。だから、今ボクにまで辞められるわけにはいかないという粂田さんの思いも、もっともだろう。


 それを思うと、理由は分からないが立て続けに辞めた世武さんたちを、ボクは恨みたくさえなってしまう。それが完全なお門違いだと分かっていても。


 ボクが小さく頷いて同意を示すと、粂田さんはさらに続けた。


「それにさ、たとえお前が堺谷を苦手に思ってるとしても、苦手な人間がいることは、誰にとっても当たり前のことだろ? 俺にも『この人、苦手だな』って思う人はいるし。それでもさ、そんな人ともどうにかやっていかなきゃならないのが、仕事であり社会なわけじゃんか。お前もそれくらいは分かるだろ?」


 粂田さんの言うことは本当にその通りで、ボクも「……はい」と返事をするしかなくなってしまう。


 だけれど、それでもなお釈然としない思いは、ボクの中に残り続ける。


 ボクが堺谷さんに対して抱いている感情は、「苦手」という言葉ではとても収まらない。堺谷さんは、まだ日本語も覚えている途中の外国人だからという理由で、ボクに冷たく当たっているのだ。


 そのことが、ボクには理不尽にさえ感じられていた。


「もちろん、堺谷には俺からも言っとくよ。『お前とうまくやってけよ』ってさ。でもさ、お前ももっと堺谷に歩み寄る必要があるんじゃないか? お互い心を閉ざしていたら、仲良くなんてできるはずがないだろ」


 ボクにも原因の一端があるかのように言う粂田さんに、ボクは思わず口を開けそうになってしまう。


 もちろん、ボクだってまだまだ日本語を勉強する必要はある。だけれど、どれだけ日本語がうまくなったところで、堺谷さんが心を開いてくれるとは、正直ボクにはあまり思えない。


 だって、「日本人ファースト」を掲げるあの政党を支持しているくらいなのだ。きっとボクだけじゃなくて、街で見かける他の外国人のことも、疎ましく思っているのだろう。


 そう考えると、歩み寄るなんてとんでもないとさえ、ボクには思えてしまう。そもそもボクは、堺谷さんに心を閉ざしているわけではない。話しかけられれば、普通に答えたいと思っている。


 とにかくボクは他の人と同じように堺谷さんに接したいだけだ。仲良くなろうとはこれっぽっちも思っていないし、堺谷さんがそう簡単に心を許してくれるとも思えない。さらに日本語を勉強する以外に、ボクに何ができるだろうかとすら思えてしまう。


 だけれど、それも粂田さんには言えず、ボクは「……そうですね」と、自分にも非があることを認めてしまう。


 両親が今のボクを見たら、間違いなく悲しい顔をしていることだろう。


「だからさ、ひとまずこの話は保留にさせてくれないか。本当にどうしても辞めたい、ここで働きたくないと思っても、それは頼むからもっとバイトの人が増えて、お前がいなくなっても十分に回せるようになってからにしてくれ。もちろん、俺もバイトに入ってくれる人を見つけられるように頑張るから。だからさ、頼むからそれまでは辞めないでいてくれ。今のウチにはお前は絶対に必要なんだよ。だから、な?」


 一気に言う間に、二回も「頼むから」と言っていた粂田さんに、ボクは本当に困っていることを察する。「絶対に必要」という言葉が、労働力以上の意味を持っていないことは、ボクにだって分かる。


 粂田さんは多少仕事を覚えた人間を手放したくないだけで、それはボクでなくたっていいのだろう。おそらく入江さんや堺谷さんが「辞めたい」と言っても、同じことを言うに違いない。


 だけれど、ボクはそこまで困っている粂田さんを無視して、「いえ、辞めます」とは言えなかった。


 ここでボクが辞めると、新しいアルバイトを採用しなければならなくなり、また一から仕事を教える手間がかかる。それはただでさえ逼迫しているこの店を、より窮地に追い込むことになるだろう。それはボクにとっても本意ではない。


 入江さんや粂田さん、それに堺谷さんでさえも今以上に困っている姿を想像すると、ボクが困って苦しんだ方がマシなようにも思えた。


「……分かりました。もう少し、ここでの仕事を続けたいと思います」


 ボクがそう言うと、粂田さんの表情はいくらか明るさを取り戻す。


 もちろん堺谷さんと一緒に働くことは嫌だけれど、ボクもまたせっかくの貴重な収入源を失いたくはなかった。


「そうか。ありがとな。俺もバイトの人を増やして、お前にも少し楽させてやれるよう頑張るから。だから、お前も引き続きウチでの仕事を頑張ってくれ」


「はい」そう頷きながら、ボクはこれで良かったのだと思い込む。ボクがアルバイトを続けていれば、入江さんや堺谷さんの負担が今以上に重くなることはない。


 もちろんここで働くことは、決して楽だとも楽しいとも言えないが、それはボクが多少なりとも我慢すれば済む話だった。



(続く)

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