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【第14話】些細

 ボクはどうにかオフィスに辿り着いたけれど、ホアさんとの面談には正直身が入っていたとは言い難かった。ホアさんは留学してきてから初めての期末試験に不安げなボクにいくつものアドバイスをくれたけれど、それも全てがボクの耳をすり抜けていた。


 今のボクが不安に思うことは、期末試験よりもよっぽど「日本人ファースト」を掲げるあの政党や、その政党の選挙運動に参加していた堺谷さんのことで、自分の身にリアルに恐怖が差し迫っているように感じてしまう。


 だけれど、ボクはそのことをホアさんには打ち明けられなかった。ホアさんは不安げな表情をしているボクに、何回か「大丈夫ですか?」と尋ねていたけれど、「大丈夫じゃないです」と言う勇気はボクには出なかった。


 ホアさんとの一時間近くの面談を終えて、おそるおそるその駅に戻ったときには、既に候補者や選挙カーはいなくなっていて、駅前の光景は何事もなかったかのようにいつも通りだった。


 それでも、つい一時間ほど前にここで行われていたことを思い返すと、ボクは足早に改札をくぐって、ちょうどやってきていた電車に駆け込むように乗り込まずにはいられない。電車やモノレールに乗っている間も、ボクの中で動悸にも似た鼓動は収まることはなくて、それは家に帰ってからも変わらなかった。


 普段だったら録画してあるアニメを消化したり、日本語の勉強をしたりして時間を過ごしているのだが、今日に限ってはいつもやっているはずのことが、何一つ手につかない。


 深夜のアルバイトに備えて今のうちに仮眠を取っておこうと思っても、なかなか眠れずに、ボクはじりじりと長い時間を家で過ごしていた。


 それでも、ゆっくりとでも少しずつ時間は流れ、ボクはアルバイトに向かう時間を迎える。だけれど、今日のボクは当然だが気が進まない。別に堺谷さんと二人きりというわけではないのだが、それでも堺谷さんと同じ空間にいることは想像しただけで、息が詰まるようだ。


 だけれど、ここで穴を開けてしまったら、粂田さんからの信用にも関わってくる。


 だから、たとえ気が進まなくても、ボクは支度をして家を出るしかなかった。何度も歩いている夜道にも、ボクは嫌さと心細さで思わず声を出したくなるようだった。


 そうして、ボクはシフト開始の一〇分ほど前にコンビニエンスストアに到着する。だけれど、堺谷さんもちょうど来たところだったようで、ボクたちはロッカールームで鉢合わせしてしまう。昼間のことを考えると、ただ顔を合わせただけなのに、ボクはわずかにでも恐怖を感じずにはいられない。


 おそるおそる「こ、こんばんは」と挨拶をしても、堺谷さんは一瞬ボクの方に顔を向けるだけで、返事をすることはなかった。それは今までと変わらない反応ではあったものの、今のボクは身の毛がよだつようにも感じてしまう。


 ボクと堺谷さんのロッカーは隣同士だったけれど、ボクはなるべく堺谷さんから離れたところで、制服に着替え始めた。堺谷さんの棘のある雰囲気は、自ずから近づきたいと思えるようなものではなかった。


 そうして、ボクたちは定時通りにアルバイトを開始する。とはいっても、堺谷さんと同じ空間にいると思うと、たとえ別々の仕事をしていても、ボクは窮屈さを感じずにはいられない。ボクと同じ空間にいることで堺谷さんが何を思っているか、想像しただけで怖くなってしまう。


 そして、その思いは一緒にレジに立っていると、さらに高まった。急に叩かれたり、理由もなく怒鳴られるということはなかったものの、それでも堺谷さんと一緒にいると、ボクはそうされているような気持ちを抱いてしまう。


 それは深夜になって、あまりお客さんが来なくなればなおさらだ。堺谷さんから無言の圧を感じて、ボクはレジを抜け出したくなってしまう。


 だけれど、そんなに頻繁に掃除や品出しをする必要も今はなかったので、理由もない状態ではボクは気軽にレジを抜け出すわけにはいかなかった。


 そうしてゆっくりと時間は流れていき、深夜の三時を過ぎたところで、堺谷さんは三〇分間の休憩に入っていった。そうすると申し訳ないけれど、ボクはようやく一息つくことができる。


 堺谷さんと一緒にレジに立っていると気が休まる瞬間は一秒たりともなくて、まだ同じ空間にいるにせよ、少し距離が取れたおかげで気持ちも落ち着いてくるようだ。今一緒に店内にいる入江さんからは、堺谷さんのような圧は感じない。


 だけれど、ボクが落ち着いていられる時間もほんの一〇分くらいに過ぎなくて、ボクはふとバックヤードから出てきた粂田さんに声をかけられる。ボクも休憩に入っていいとのことだ。


 午前四時頃からは朝の混雑時に向けた品出しがあり、そのときには全員が店頭に出ている必要がある。それはボクにも分かっていたし、休めるときに休んでおいた方がいいと言われれば、それはそうだろう。店頭も粂田さんがカバーに入ってくれるのなら、困ることはない。


 だから、ボクは粂田さんの言葉を聞いて、休憩に入ることにした。控え室で堺谷さんと二人きりになるのが嫌だとは、とても言えなかった。


 ボクがバックヤードに入って控え室に行くと、そこではやはり堺谷さんが椅子に座ってスマートフォンを見ていた。本当は近づくことでさえもためらわれるくらいなのだが、それでも立っているわけにもいかなかったので、ボクは堺谷さんと向かい合って座るしかない。ペットボトルのお茶を飲んでも、一息さえつけない。


 本当はボクも、スマートフォンをひたすら見ているべきなのだろう。


 だけれど、たとえ堺谷さんが相手でも一言も交わさないまま二人きりでいるのは、ボクには気まずすぎた。深夜特有の神妙な空気も、その思いに拍車をかける。


 だから、ボクは「あ、あの、堺谷さん」と声をかけてしまう。呼びかけられて、さすがの堺谷さんもスマートフォンから顔を上げる。その双眸がこちらに向いているだけでボクは息が詰まりそうだったけれど、それでも一縷の望みにかけて続けた。


「今日の昼間、恵比寿の駅前にいました……?」


「ああ。いたけど、それがどうかしたのかよ?」堺谷さんはそっけなく答えていて、それだけでボクのわずかな望みは粉々に打ち砕かれた。やはりあれは堺谷さんだったのだ。


 信じたくなかったけれど、確定してしまったことにボクは動揺する。それでも、口はボクの意志を無視するかのように動く。


「あ、あの、今度ある選挙のポスター配ってましたよね……?」


「ああ。そうだけど、だからそれがどうかしたのかよ」


「い、いえ、それは……」


「お前さ、もしかして俺が選挙運動に参加してて引いてるんだろ?」


「い、いえ、そういうわけじゃないですけど……」


「言っとくけど、俺は何も間違ったことはしてねぇからな。むしろ他の奴らが、選挙とか政治に関心を持たなすぎなんだよ。今回の選挙は、俺たちの生活や未来に直結してる。それを少しでも良いものにしていくために、選挙運動に参加するのは当たり前のことだろ。違うか?」


「違います」そう堺谷さんに面と向かって言えれば、どれだけよかっただろう。排外主義的な響きを持つ「日本人ファースト」を掲げる政党を、ボクは堺谷さんに支持してほしくない。実際に堺谷さんが、その政党のチラシを配っているのを見たとき、言葉にできないほどのショックを受けたくらいだ。


 だけれど、ボクは「いえ、何も違わないです」と言っていた。政治に関心を持つことは、何も悪いことではない。


 でも、それ以上に「違います」と否定して、堺谷さんに「はぁ?」と睨まれることが、ボクには恐ろしかった。


 それに、選挙運動に参加していたくらいなのだから、投票日になったら堺谷さんはその政党から出馬した候補者に一票を投じるのだろう。もしかしたら、いち早く期日前投票を済ませているのかもしれない。


 もちろんたった一票の持つ影響力はたかが知れているが、それでもその政党に一票でも入れる人がいることが、「日本人ファースト」を支持しているようで、ボクにはやはり恐怖でしかない。


 以前SNSで見た意識調査でも、その政党は高い支持率を獲得していた。だとしたら、実際にその政党に投票する人もきっと少なくないことだろう。


 そうなると、ボクは顔も知らない多くの人たちから「ボクたち外国人は、日本社会では重要ではない」とか、極端な表現をすれば「外国人は日本から出ていけ」と言われているような気分にもなってしまう。もはや外を歩いて誰かとすれ違うことでさえ、ビクビクしてしまいそうだ。


 それがボクの完全な思い過ごしでないことは、少なくとも目の前に座っている堺谷さんが証明してしまっている。


 その堺谷さんは「だったらいいだろ。そんな些細なことでいちいち話しかけてくんなよな」と言って、スマートフォンに再び目を落としていた。その態度は間違いなくボクを拒絶していて、「些細なこと」だとはボクにはどうしても感じられない。


 これはボクがこの先も日本で暮らしていけるか、生きていけるかに関わっている問題なのだ。他の日本人の人からしてみれば「そんな大げさな」と思うかもしれないけれど、ボクはいたって真面目にそう考えていた。



(続く)

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