【第11話】駅前
ボクが講義の受講や課題の提出、アルバイトに月二回ほどあるFC KEICHOの活動に明け暮れていると、月日は瞬く間に流れ、六月に突入していた。
ベトナムとは違って、東京は六月でもまだ比較的涼しいとボクは聞いていたのだが、それでも実際はベトナムにも負けず劣らず暑かった。六月の早いうちからボクは半袖で過ごさざるを得なくて、暑さ自体はベトナムで慣れているつもりだったけれど、東京の方がじめじめと身体に張りつくような暑さがあって、大変なことには変わりない。
また、東京に限らず日本には「梅雨」というものがあって、ベトナムでの雨季に相当するような雨が集中的に降る期間があるとも聞いていたのだが、そんな気配もボクには感じられなかった。
もちろん雨が降る日もあったが、それも二日続くことはなく、むしろ晴れている日の方がずっと多い。晴れている方がボクにとってもありがたかったが、それでも聞いていたのとは違う感じは拭いきれなかった。
そして、その日。六月の第四水曜日はボクが所属しているフットサルサークル・FC KEICHOの活動日だった。まだほとんど大学に話し相手を見つけられていないボクにとっては、他の学生と話したり交流を持てる貴重な機会だ。
その日も晴れていたので、当然夜の七時から活動はあって、ボクも間に合うように集合場所となっている駅の北口に向かう。集合時間の一五分ほど前にモノレールを降りて、そのままペデストリアンデッキで繋がっている北口を目指す。ちょうど日本では今が一番昼の時間が長いらしく、午後の六時を過ぎても駅前は、まだまだ街灯も点いていないくらい明るい。
そして、駅の北口に向かうにつれて、ボクの目はとある光景を捉える。駅に出入りする人を狙って、何人かの人がチラシを配っていたのだ。その人たちは一様にオレンジ色のTシャツを着ていて、手当たり次第といったように道ゆく人に声をかけていた。
でも、ボクには近づいてくる様子はなく、ボクは内心で首を傾げてしまう。この駅前で誰かがチラシだったりポケットティッシュを配っていることは珍しくないが、その人たちはボクにも他の人と同じように接してくれるというのに。
いや、もらったチラシは大体がゴミになってしまうことを考えると、貰わないに越したことはないのだけれど、気になったボクは先にやってきていた加賀さんに、「あの人たち、何やってるんですか?」と尋ねていた。
「そりゃ見りゃ分かるだろ。ビラ配りだよ」
「いや、それは分かるんですけど、いったいどんな内容のビラ? を配ってるんですか?」
「いや、俺も断ったけど、どうやらある政党の支援者が配ってるみたいだな。きっと政策とか、候補者の名前が書かれてるんだろ。そういうのベトナムでもなかったか?」
「それはありましたけど、でもどうしてそんなことしてるんでしょうか?」
「そりゃあれだろ。選挙が近いからだろ」
「えっ、そうなんですか?」
「何だよ。グエン、お前ニュースとか見てないのか? 日本には衆議院と参議院っていう二つの議院があって、そのうちの参議院で来月選挙が行われるんだよ。日本にいたら、嫌でも知ってそうなもんなんだけどな」
「そうなんですか。でも、それならどうしてボクには声をかけてもくれないんでしょうか?」
「何だよ、グエン。お前、ああいうのに声かけられたいのか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど、なんだか無視されてるような気がしてしまって」
「そっか。まあ、でもしょうがないだろ。お前は留学生として日本にやってきてる以上、選挙権は持ってないんだから。ああいう奴らが声をかけるのは、選挙権を持ってるような人だけだよ。だって、お前に声かけても票には繋がらないんだから。そんなの時間も手間も無駄だろ」
加賀さんの説明は言われてみれば、その通りだったけれど、それでもボクは釈然としない感じがしてしまう。
そりゃボクは日本での選挙権を持っていないけれど、それでもまるで存在していないかのように無視されるのは堪える。ボクは確かにここに立っているというのに。
それでも、間もなくすると駅から木更津さんが出てくるのが見えた。でも、やはりチラシを差し出されていて、たとえ受け取っていなかったとしても、自分との違いを思い知らされるようで、ボクは寄る辺ない思いを抱いてしまう。
だけれど、木更津さんは何も起こっていないかのように、ボクたちに取り留めのない話をしてきていて、たとえ相槌を打つことしかできなくても、二人と一緒にいるだけで、ボクにはここに存在している実感が得られていた。
それからも日付は止まることなく進んでいき、スマートフォンのカレンダーは七月に入っていた。
その日、ボクは朝の九時に目を覚ます。二限目の講義まではまだ時間に余裕があることもあって、起きるとボクはまずスマートフォンを手に取って、SNSを開いた。
トレンドの表示を「日本」に切り替えると、そこにはいくつもの政治に関係のあるワードが上っていた。でも、ボクはそれらをタップして詳しく表示するようなことはしない。七月に入ってから、ずっとこの調子だ。
そして、その理由もボクにははっきりと分かる。今日は加賀さんが言っていた、参議院選挙の公示日だった。
適当にSNSのタイムラインを眺めてから、ボクは昨日のうちにコンビニエンスストアで買っておいたパンで朝食を済ませる。
きっと今頃は、朝から全国各地で最初の選挙運動が行われているのだろう。特に新宿や渋谷といった人が集まる場所は騒がしそうだ。
でも、ボクの家は都心からも遠く、最寄り駅もモノレールだ。外もいつもと変わった様子はなくて、ボクは落ち着いて大学に向かうまでの時間を過ごせていた。
敬朝大学では、二時限目の講義は一〇時半から始まる。ボクは講義が始まる五分前に教室に着けるように、家を出た。まだ大学に話し相手もいないボクは、早く大学に着いても特にやることがない。
ボクはいつもの道を、普段と変わりなく歩く。まだ一応梅雨は続いているのに、空には雲一つなく、太陽は容赦のない日差しを浴びせかけてくる。ただ歩いているだけでも、汗をかきそうになってしまうくらいだ。
それでも大学に向かっていると、ボクの目にはこの地区の集会所が見えてくる。それももう見慣れている光景だから、今さら何かを感じない。
と、昨日までなら言えたのだが、今日は明確な変化があった。集会所の前にある掲示板に、いくつもの選挙ポスターが貼られていたのだ。きっと夜中に貼ったのだろう。今日が公示日であることを考えれば、別段驚きはない。
ボクは通りかかったついでに、掲示板に目をやる。様々な候補者の写真や政党の名前がいくつも並んでいる中で、そのポスターを一目見た瞬間に、ボクの足は止まった。
目が留まったのは、候補者の写真に添えられている言葉の方だ。
「日本人ファースト」
目立つようにオレンジ色ででかでかと書かれたその言葉を、ボクは見間違えるはずもない。
それを目にして、ボクはすぐに戦慄した。「日本人ファースト」ということは、ボクたち外国人は二の次ということか。
日本人でもそうでなくても同じ人間であることには変わりないし、ボクたち外国人だって紛れもなくこの社会を形成している一員だというのに、そこに序列を、優先順位をつけるというのか。
ボクたち外国人が当然持っているはずの権利さえないがしろにされそうな気配を感じて、ボクは震撼してしまう。自国民や自民族を優先した国や政権が過去に何をしたのか、ボクだって知らないわけではない。
極端な考え方かもしれないが、その歴史が繰り返されそうな思いさえして、ボクは恐怖を感じる。
そして、その政党は自らの名前もオレンジ色で記していて、そのときボクはつい先日に駅前で見た光景を思い出した。オレンジ色がシンボルカラーとなっているとしたら、この候補者が所属しているのは、はあの日駅前でビラ配りをしていた政党ではないのか。だとしたら、「日本人ファースト」を掲げている以上、外国人であるボクを無視するのも当然だろう。
こんな主張をする政党が存在していること自体が怖くて、ボクは足早に掲示板の前を立ち去った。だけれど、距離を取っても「日本人ファースト」という文言は、ボクの頭にへばりついたように離れなかった。
(続く)




