【第1話】入学
「以上で、合計が八九七円になります」
ボクは落ち着いてはっきりと口にする。まだたどたどしい日本語でも、相手を不快にさせないために。
仕事帰りと思しきスーツ姿の男性はスマートフォンを取り出すと、一瞬何かを思い出したような顔をする。その顔がボクには、「面倒だな」と書かれているように見えた。
「あの、一七番のタバコ、一つもらえますか?」
男性の訊き方は、とてもよそよそしかった。もしかしたらそれは、ボクが日本人じゃないからなのかもしれない。少し壁があるような接し方にもボクはもう慣れっこになっていたはずなのに、今は内心で不快さに顔を歪めてしまう。
ボクは一七番のタバコを手に取って、レジに読み込ませる。そして、改めて合計金額を告げると、男性はスマートフォンを操作して「paypayでお願いします」と言って、ボクにバーコードが表示された画面を見せた。ボクも流れ作業のように、バーコードを読みこんで会計を終了させる。
だけれど、「ありがとうございました」と言っても、男性はボクとは目を合わせようとはしなかった。購入した弁当と缶ビール、タバコを持つとそのまま店内を出ていってしまう。
煌々と明かりが灯るコンビニエンスストアのレジで、ボクは一人残される。いくら都内とはいっても、郊外の街の最寄り駅からも歩いて二〇分ほどかかる店には、そんなにひっきりなしにお客さんが来るわけではない。
小さく吐いた息が、効きすぎている冷房にかき消されていく。
「グエン、八時まで休憩入れよ」
バックヤードから出てきた堺谷さんが言う。その言い方はいつもように少しぶっきらぼうだったけれど、でもボクも二時間は休憩を取っていないので、「ありがとうございます」と応じた。
バックヤードで飲料の補充をしていた入江さんに軽く挨拶をしながら、ロッカールームに着いたボクは、自分のロッカーを開ける。リュックサックの中からスマートフォンを取り出して、エックスを開く。
ベトナムのトレンドはこの日行われるサッカーの試合や、発売されるアイドルの新曲といった話題が並んでいて、懐かしく思う。
だけれど、日本にトレンド表示を切り替えてみると、そこには今日行われている選挙の話題がずらりと並んでいた。与党が苦戦しそうだの、野党が躍進しそうだのといった話題が飛び交っている。
今日は日本の行く末が決まる大事な日だ。それはボクにだって分かる。
でも、その未来にボクは含まれているのだろうか。いや、未来なんてぼんやりとしたものじゃなく、大切なのはここにある今だ。そう思うと、ボクは怯えてしまう。
そして、それはとある政党の名前が目に入ってきたときに、ピークに達した。このままではいられない。
ボクは同じリュックサックからプラスチックのケースを取り出した。それを両手で大事に抱えながら、店内へと戻っていく。
レジに戻ったときには、まだ店内にお客さんはいなかった。
「どうした、グエン? 休憩入っていいって言ってるんだけど」
堺谷さんが不思議そうな顔をして言う。どうやら何も心当たりはないらしい。
ボクはプラスチックケースのチャックを開ける。その中身を取り出すと、堺谷さんの視線はその一点に集中した。
ボクは今包丁を握っている。紛れもなく自分の意志で。
「おいおい、どうしたんだよ。グエン、そんな物騒なもん持って」
「……堺谷さん」
「何だよ」
「ボクは、二の次なんですね……?」
ボクは思い切って口にした。僕が感じている疑問を、この国を覆いつつある空気を、せめて目の前にいる堺谷さんには否定してほしかった。
それなのに、堺谷さんは「いや、お前何言ってんだよ」と、ボクに理解を示すことはなかった。突拍子もないことを言われて、戸惑っているのかもしれない。でも、その反応がボクに改めて決意を固めさせた。
ボクは堺谷さんに包丁の先を向けたまま、一歩近づく。「おい、まさか本気じゃないだろうな?」と堺谷さんは言っていたけれど、ボクは気にしない。
そのままボクは、堺谷さん目がけて駆け出す。堺谷さんは逃げようとしていたけれど、レジの中に逃げ場はなかったし、ボクが堺谷さんを刺す方が早かった。ずぶりと包丁が皮膚にめり込んでいく感触が、ボクの手に伝わってくる。
その瞬間、ボクは戦慄したけれど、でももう起こったことをなかったことにはできない。
堺谷さんは一瞬動きを止めたかと思うと、そのまま床に倒れ込んだ。「痛ってぇ、痛ってぇ」とわめいている。刺した箇所の制服が、瞬く間に赤黒い血で染まっていく。
ボクは、包丁を堺谷さんから抜き取った。血はますます流れ出し、床にも血だまりが広がっていく。その現実を目にして、ボクは恐ろしくなって叫びだしたくさえなったけれど、どうにか堪える。
「堺谷さん、飲料の補充終わりました」と入江さんがバックヤードから出てくる。だけれど、堺谷さんは床に倒れているし、包丁を持っているボクの手もレジ台に隠れて見えない。
入江さんが、一歩一歩レジに近づいていく。そして、倒れている堺谷さんとボクが握っている包丁を目にした瞬間、入江さんは甲高い悲鳴を上げた。
* * *
『大丈夫? カン、ちゃんと大学で友達はできそう?』
電話の向こうのお母さんに、ボクは『大丈夫だよ』と応じる。アパートの二階には柔らかな日差しが差し込んできていて、近くの公園に桜の花が咲いているのも見える。
四月一日は、間違いなく快晴だった。
『そう? でも、カンって元々少し引っ込み思案なところがあるでしょ。そう考えると、お母さん心配で心配で』
『だから、大丈夫だって。それにお母さんこそ、大丈夫なの? だって、そっちはまだ夜中でしょ。明日のためにも早く寝た方がいいと思うんだけど』
『そうね。じゃあ、カン。日本での大学生活頑張ってね。色々慣れないこともあると思うけど、それでもグエンは一人じゃないってこと忘れないでね』
『分かってるよ。じゃあね、お母さん。おやすみ』
『うん、おやすみ』
お母さんからの返事を聞いてから、ボクは電話を切った。「よし」と一つ息を吐く。
窓に映るボクは、黒のスーツに青のネクタイを合わせている。これなら大学でも浮くことはないだろう。
ボクはリュックサックを手にして部屋を出る。暖かな陽気に、心が弾むようだった。
大学にもほど近いアパートを借りることができたから、キャンパスへは歩いて一〇分ほどしかかからなかった。敬朝大学は辺りを程よく緑に囲まれていて、正面に見えるガラス張りとなった吹き抜けの建物が、清涼感を醸し出している。
入学式が始まる三〇分ほど前に来たものの、既に構内はスーツや晴れ着を着た新入生で賑やかで、ボクは緊張も感じたけれど、その一方で気分は引き上げられていく。
だけれど、既に何人かの友達で来ていたり、親と同伴で来ている人を見たら、ボクは少し引け目も感じてしまう。
留学生の支援機構を通じて知り合った同じベトナム人学生はいるけれど、今日この大学に入学するベトナム人学生はボクだけだ。そう考えると一人で来ていることに、ボクは少し心細さも感じてしまう。
それでも、ボクは入学式が行われる体育館の前に辿り着く。体育館の前には「令和七年度 敬朝大学 入学式」と太字で書かれた看板が立てられていて、多くの新入生がその前で写真を撮っていた。
ボクも記念に一枚撮ろうと空いたところを見計らって、看板の前に向かう。そして、ポケットからスマートフォンを取り出したボクは、辺りを見回した。
もちろん、体育館に向かってくる新入生はいる。だけれど、誰かに「よかったら写真を撮ってもらえますか?」と声をかける勇気は、ボクには出なかった。見ず知らずの外国人に話しかけられたら、向こうも戸惑うだろう。
だから、僕はスマートフォンをインカメラに切り替えて、目一杯腕を伸ばして写真を撮った。その間もボクには、通りすがる人たちが「何やってんだ」という思いで、ボクを見ているような気がしてならない。
そうして撮った写真は、合成のように不自然だった。
(続く)




