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ただ、雨宿りがしたかった

作者: 久遠 睦

序章:夕立、あるいは邂逅

夕暮れの仙台駅西口は、音と光と人の洪水だった。ペデストリアンデッキの上を、淀みなく流れる人の波。ビルボードのネオンが濡れたタイルに反射して滲む光景、ひっきりなしに行き交うバスの走行音と駅のアナウンスが混じり合う不協和音。誰もが顔を伏せ、それぞれの目的地へと急ぐ巨大な都市の心臓部。


その人波に逆らうように、桐谷美咲、27歳は立ち尽くしていた。市内の広告代理店でPRを担当する彼女は、今しがたクライアントとの消耗する打ち合わせを終えたばかりだった。手にした紙袋の中には、明日朝イチで必要なプレゼン資料がぎっしりと詰まっている。それなのに、追い打ちをかけるように、パンプスのヒールがぐらりと傾き、カツン、と乾いた音を立てて根本から折れた 。


「……うそでしょ」


思わず漏れた声は、雑踏にかき消される。片足だけ背が低くなり、無様によろめいたその瞬間、空が泣き出したかのように、大粒の雨がアスファルトを叩きつけ始めた。折り畳み傘は、会社のデスクに置き忘れてきた。あっという間に湿っていく紙袋を胸に抱え、なすすべもなく立ち尽くす。


どうして、いつもこうなのだろう。仕事も、プライベートも、肝心なところで何かが壊れたり、足りなかったりする。社会人5年目、キャリアの正念場だと自分に言い聞かせ、がむしゃらに走ってきた。けれど、ふと立ち止まると、自分だけが雨の中にいるような孤独感に襲われる。SNSを開けば、友人たちの結婚報告や、生まれたばかりの赤ちゃんの写真がタイムラインを埋め尽くしている 。喉の奥が、乾いたスポンジのようにきゅっと縮こまる。駅のアナウンスが頭の中で意味のない音の塊になり、目の前のネオンの滲みが、まるで自分の未来そのもののように、ぼやけて定まらない。ぎゅっと握りしめた紙袋の持ち手が、汗で滑る。ただ、少しだけ雨宿りがしたい。心も、体も。


その時だった。ふわりと、頭上から雨音が遠のいた。見上げると、大きな紺色の傘が、無慈悲な雨から彼女を守っていた。傘を差しだしていたのは、青年だった。歳は、おそらく自分よりずっと下。大学のキャンパスにいそうな、気負いのない雰囲気。イベントスタッフのアルバイト帰りなのか、シンプルな黒いブルゾンを着ている 。


「……あの」

「大丈夫ですか。足、怪我してませんか」


彼の声は、都会の喧騒の中にあって、不思議なほど穏やかに響いた。同情でも、下心でもない。ただ純粋な、事実確認のような響きがあった 。彼の冷静な視線は、美咲の壊れた靴と、濡れて心もとない紙袋に落とされる。それは、彼女の窮状を感情的に受け止めるのではなく、解決すべき問題として認識している者の目だった。


「これ、使ってください」


彼は自分のカバンから、まだ真新しいハンカチを取り出して、紙袋の濡れた底をそっと拭った。そして、近くのドラッグストアを指差す。


「あそこなら、靴の接着剤、売ってると思います。それと、この傘もどうぞ」

「え、でも……」


美咲が戸惑っているうちに、彼は自分の荷物を濡れないように抱え直し、傘を彼女の手に押し付けた。そして、軽く会釈すると、雨の中に歩き出そうとする。その背中に、美咲は慌てて声をかけた。


「待ってください!傘、返さないと。連絡先を……!」


彼の行動は、あまりに自然で、見返りを一切期待していないものだった。だからこそ、美咲はこのまま彼を行かせるわけにはいかないと思った。それは、ただの親切に対する義務感だけではなかった。この乾いた都会の片隅で差し伸べられた、飾り気のない優しさを、手放してはいけないような気がしたのだ 。


青年は少し驚いたように振り返ったが、やがて小さく頷くと、スマートフォンの連絡先交換画面を差し出した。彼の名前は、相葉健人、21歳だと表示されていた 。


第一章:展望台の夜景と本音

健人への礼として、美咲が食事の場所に選んだのは、仙台駅に隣接するAERビルの最上階、31階にあるレストランだった。ガラス張りの店内からは、宝石を散りばめたような仙台市街の夜景が一望できる。ここは、彼女が普段から利用する、勝手知ったる「大人の」空間だ。年下の学生をもてなすには、これくらいが丁度いいだろう。無意識のうちに、彼女は自分がコントロールできる領域に彼を招き入れることで、二人の関係性の主導権を握ろうとしていた 。


「先日は本当にありがとうございました。健人くんがいなかったら、どうなっていたことか」

「いえ、大したことじゃないです。それより、靴と資料は大丈夫でしたか」


健人は、高級な店の雰囲気に物怖じする様子もなく、自然体でそこにいた。彼は大学で社会学を専攻していること、学費と小遣いのために市内のカフェでアルバイトをしていることなどを、気負いなく話した 。一方、美咲は自分の仕事について語った。PRという仕事の華やかさと、その裏にある泥臭い努力。最近手掛けているプロジェクトの難しさ。彼女が使う言葉は洗練され、社会人としての経験に裏打ちされていた。


健人は、そんな彼女の話を興味深そうに聞いていた。彼の視点から見ると、美咲は眩しい存在だった。仕事に情熱を傾ける横顔、時折見せるプロフェッショナルな厳しい表情、そして、ふとした瞬間にその鎧の下から覗く、隠しきれない疲労の色。そのすべてが、彼にとっては新鮮で、魅力的だった 。彼は、彼女の完璧さではなく、その奥にある複雑さや人間らしさに惹きつけられていくのを感じていた。内面では、二人の世界の差を痛感し、自分がここにいていいのだろうかという小さな不安を感じながらも、それを悟られまいと必死に背筋を伸ばしていた。


食事を終え、会計を済ませた後、健人が言った。「せっかくだから、あっちも行きませんか。無料なんですよ」


彼が指差したのは、レストランの隣にあるAER展望テラスだった。ウッドデッキが敷かれたその空間は、レストランの静謐さとは対照的に、街のざわめきと夜風を直接肌で感じられる場所だった 。学生時代、お金がなくてもロマンチックな雰囲気を楽しむためにカップルがよく訪れる、仙台市民にとってはお決まりのデートスポットでもある 。


テラスに出た途端、ひやりとした風が美咲の頬を撫でた。ガラス壁のわずかな隙間から吹き込む、予期せぬリアルな夜風。レストランという完璧にコントロールされたガラスケースの中から解放され、彼女を包んでいたプロフェッショナルな鎧が、少しだけ緩むのを感じる。


「あそこ、新幹線が見えるんです」と健人が指差す。眼下には、光の帯となって滑り込んでくる列車の姿があった 。「俺、ぼーっと電車見てるの、結構好きで」


彼の横顔は、レストランで仕事の話をしていた時よりもずっと生き生きとして見えた。美咲は、自分が彼を「年下の学生」という枠にはめ、格付けするような場所を選んでしまったことを、少しだけ後悔した。このテラスのような、誰にでも開かれた場所の方が、ずっと彼らしかった。


「美咲さん、さっきすごく楽しそうに仕事の話しますね」

「え?そうかな。大変なことばかりだよ」

「でも、目がキラキラしてます。俺、そういうの、いいなって思います」


健人のストレートな言葉に、美咲は面食らった。会社の同僚や取引先の男性たちからは、決して向けられることのない種類の、混じり気のない賞賛だった 。彼女は健人のことを、礼儀正しく、心根の優しい「年下の男の子」だと感じていた。その純粋さは心地よかったが、それはあくまで安全な距離を保った上での感情だ。弟に接するような、あるいは庇護欲に近いその感情は、彼女が恋愛対象の男性に向けるものとは明確に異なっていた 。


きらめく夜景を背に、美咲は思う。この青年との出会いは、乾いた日常に舞い込んだ、ささやかな非日常。それ以上でも、それ以下でもない。展望テラスから見える夜景のように、綺麗だけれど、決して手の届かない世界の出来事。そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、隣を歩く彼の穏やかな存在感に、小さな波紋が広がっているのを無視することはできなかった 。


第二章:定禅寺通りの四季

最初の食事をきっかけに、美咲と健人は休みの日に会うようになった。彼らの会う場所は、AERのような洗練された空間から、もっと自然体でいられる場所へと移っていった。その変化は、二人の関係性の深化を静かに物語っていた 。


彼らのお気に入りの場所の一つが、杜の都・仙台の象徴ともいえる定禅寺通りだった。ケヤキ並木が作る緑のトンネルは、都会の喧騒を忘れさせてくれる 。新緑が目に鮮やかな初夏、二人は並木道の下を歩き、とりとめのない話をした。中央分離帯の遊歩道は、さながら野外ギャラリーのようで、イタリアの作家たちが手掛けたブロンズ像が点在していた 。


ある日、二人はひときわ有名な彫刻の前で足を止めた。エミリオ・グレコ作、「夏の思い出」 。すらりとした裸婦像が、天を仰ぐようにたたずんでいる。


「この像、定禅寺通りの象徴みたいなものだよね」と美咲が言った。「グレコはイタリアの彫刻家で、故郷のシチリアの夏を思って作ったらしいよ。線の使い方がすごくエレガントだと思う」


彼女が分析的な言葉で像を語る一方で、健人はただ、その像が喚起する感情を受け止めていた。「夏の思い出、か。なんだか、楽しいけど、少しだけ切ない感じがします。夏休みがもうすぐ終わっちゃう、みたいな」


健人の言葉は、美咲の胸に小さく響いた。彼と過ごす、この何でもない週末の時間。それはまさに、束の間の「夏休み」のようだった。いつかは終わってしまう、期間限定の特別な時間。


時には、桜の名所でもある緑豊かな榴岡公園を散策し、近くのカフェで遅いランチをとった。またある時には、「八木山ベニーランド」へ行き、少しレトロなアトラクションではしゃいだ。仕事の鎧を脱ぎ捨て、無邪気に笑う美咲の姿を、健人は愛おしそうに見つめていた 。


こうした時間を重ねるうちに、彼らの会話は深まっていった。仕事の愚痴や表面的な話題ではなく、家族のこと、子供の頃の夢、将来への漠然とした不安。美咲は、会社の誰にも話したことのないような胸の内を、不思議と健人には話すことができた 。


互いに、相手の意外な一面に心惹かれる瞬間も増えていった。いわゆる「ギャップ萌え」というものだろう 。いつもは落ち着いている健人が、好きなバンドの新譜を見つけて子供のようにはしゃぐ姿に、美咲は胸をときめかせた。逆に、いつもは完璧なプロフェッショナルである美咲が、些細なことで慌てたり、不器用な一面を見せたりする様に、健人はどうしようもなく惹きつけられた 。


秋になり、同じ道を歩きながら、舞い落ちる枯葉が、美咲の心に芽生え始めた疑念や不安を映し出す。健人と過ごす時間に癒されている自分に気づいていた。彼の純粋さや物事を新鮮な目で見る姿勢は、仕事で擦り切れた彼女の心を洗い流してくれるようだった 。年齢差という事実は、もはやただの数字に過ぎないのではないか。そんな風に思い始めていた。健人にとっても、美咲の存在はますます大きくなっていた。彼女の経験、知性、そして時折見せる弱さ。そのすべてが、彼にとっての憧れであり、守りたいと願う対象になっていた 。


定禅寺通りのケヤキが季節ごとにその装いを変えるように、二人の心もまた、ゆっくりと、しかし確実に色合いを変えていた。それは、友情と呼ぶにはあまりに深く、恋愛と呼ぶにはまだ少し、ためらいのあるグラデーションだった 。


第三章:六歳の壁

その言葉が紡がれたのは、広瀬川の河川敷だった。日が落ちて、対岸の街の灯りが水面に揺れる。特別な日ではなかった。ただ、いつものように一緒に過ごした休日の終わり。沈黙が心地よいと感じるようになった、そんな関係性の中でのことだった。


健人が告白する直前、美咲はスマートフォンの画面に目を落としていた。大学時代の友人からの、第二子出産の報告。幸せそうな家族写真が、彼女の胸をちくりと刺す。それが引き金だった。


「美咲さん。好きです。俺と、付き合ってください」


健人の告白は、彼らしく、どこまでも真っ直ぐだった。飾り気のない言葉が、静かな夜の空気の中をまっすぐに美咲の胸に届く。


その瞬間、美咲の頭の中は、真っ白になった。心臓が激しく鼓動し、手のひらに汗が滲む。広瀬川のせせらぎの音が、耳鳴りのように遠のいていく。


――六歳も年下の、大学生。


その事実が、重い鉛のように彼女の思考を支配する。頭の中を、落胆した両親の顔や、憐れむような友人たちの視線が駆け巡る。社会的に「正しい」とされる道を歩みたいという彼女の「善良」さと、世間の物差しから外れた、自分だけの幸福を選び取るために必要な「傲慢」さとの間の、激しい衝突。それは、自分が信じてきた、あるいは信じ込まされてきた「あるべき人生」のレールから脱線することへの、根源的な恐怖だった。


「ごめんなさい」


美咲の口から出たのは、拒絶の言葉だった。


「無理、絶対に無理なの。お願いだから、これ以上私を困らせないで」


それは理知的なものではなく、必死に自分を守ろうとする悲痛な叫びに近かった。


「あなたじゃない、年齢なの。これはもう、どうしようもないことなの。お願いだから、分かって」


それは、彼女が咄嗟に掴んだ、最も強固で、反論の余地のない盾だった。年齢。その一言で、彼女は自分の内にあるもっと複雑で、もっと臆病な感情のすべてを覆い隠した。本当は、彼に惹かれている自分を認めるのが怖いだけなのに 。


健人はただ傷つくだけでなく、困惑と、一瞬の苛立ちを瞳に浮かべた。「どうしようもない? どうして? 数字が違うだけで? 俺には、分からない」


彼の反応は、二人の間の断絶をより際立たせた。これまで感じたことのないほど高く、冷たい壁がそびえ立った。それは「六年」という名の、美咲自身が築き上げた壁だった 。


第四章:届き続ける言葉と光のページェント

健人からの告白を断ってから、二人の時間はぷつりと途絶えた。美咲は、自分の選択を正当化するかのように、仕事に没頭した 。残業も厭わず、新しい企画に次々と手を挙げた。キャリアを磨けば、あの決断は正しかったのだと思えるはずだった。勧められるままに、年上の男性と食事にも行ってみた。だが、彼らの当たり障りのない会話や、計算されたエスコートは、美咲の心に少しも響かなかった。むしろ、健人との飾らない会話がいかに貴重だったかを痛感させられるばかりだった 。


一方、健人は美咲の決断を尊重し、会うことを強要することはなかった。しかし、彼は完全に姿を消したわけではなかった 。数週間に一度、彼のスマートフォンから短いメッセージが届く。


『この前話してた映画、観てきました。美咲さんの言った通り、すごく良かったです』

『榴岡公園の桜、もうすぐ満開ですよ。綺麗です』

『前に言ってた大きなプレゼン、頑張ってください』


彼のメッセージは、再考を促すような切実なものでも、未練がましいものでもなかった。それは、二人が共有した時間の続きであり、彼が彼女の言葉を一つ一つ、大切に記憶していることの証明だった 。その事実は、彼を「未熟な若者」というカテゴリーに押し込めた美咲の論理を、静かに、しかし確実に揺さぶった。


12月。街が華やぐ季節。後悔に苛まれていた美咲は、吸い寄せられるように一人、定禅寺通りに来ていた。仙台の冬を彩る風物詩、「SENDAI光のページェント」 。ケヤキ並木に取り付けられた数十万個のLEDが、温かみのあるオレンジ色の光で夜を包み込んでいた 。


大勢のカップルや家族連れに囲まれ、美咲は孤独を噛み締めていた。この光のトンネルは、幸せな人々のためにあるように思えた。自分の決断は、本当に正しかったのだろうか。


その時だった。午後7時。予告もなく、通りの光が一斉に消えた。「スターライト・ウインク」 。一日に数回だけ行われる、消灯と再点灯のイベントだ 。


突然の闇。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、周囲から息を呑む気配だけが伝わってくる。完全な暗闇の中で、美咲の心に、後悔がはっきりと形を結んだ。失うのが怖くて、本当に大切なものから目を逸していた。他人の物差しで自分の幸せを測っていた。このままでは、きっと一生後悔する。


次の瞬間。まばゆい光が一斉に、再びケヤキ並木を灯した。わあっ、という歓声が、波のように広がっていく 。暗闇から光の世界へと引き戻されたその劇的な瞬間に、美咲の心にも、確かな希望が灯った。まるで、もう一度やり直せる、と光が告げているようだった。


涙が滲む視界の先、光の渦の中で、見慣れた背中を見つけた。健人だった。彼もまた一人で、光に見入っていた。美咲は、ためらわなかった。人波をかき分け、彼の元へ駆け寄る。


「健人くん……!」


振り返った彼の目が、驚きに見開かれる。言葉は、いらなかった。光のページェントの圧倒的な輝きと、再点灯の瞬間の高揚感が、二人の間の壁を溶かしていく。美咲は、あの時言えなかった本当の気持ちを、今度こそ伝えようと決心していた。


第五章:歳の差の向こう側

転機は、予期せぬ形で訪れた。会社の先輩との雑談の中だった。10歳年下のミュージシャンと結婚した彼女は、幸せそうに笑って言った。


「周りは色々言ったよ。でも、結局は自分たちが良ければそれでいいじゃない?他人の物差しで自分の幸せを測ってたら、一生窮屈なままだよ」


その言葉が、美咲の心に深く突き刺さった。自分はずっと、他人の目や社会の「常識」という見えない物差しに怯えていた。失うのが怖くて、本当に大切なものから目を逸していたのだ 。このままでは、きっと一生後悔する。


その日の夜、美咲は自ら健人に連絡を取った。震える指で、「会って話したいことがあります」とメッセージを送る。会う場所に指定したのは、定禅寺通りから少し入った路地裏にある、隠れ家のようなカフェだった。見栄や体裁を捨てて、あの時の素直な気持ちに戻りたかった 。


カフェの席で向かい合った二人。先に口を開いたのは美咲だった。


「ごめんなさい。あの時、嘘をつきました」


彼女は、正直に自分の本当の気持ちを打ち明けた。年齢を理由にしたけれど、本当に怖かったのはそれだけではないこと。将来への不安、世間の目、決められたレールから外れることへの恐怖 。鎧を脱ぎ捨て、初めて見せた彼女の弱さに、健人はただ静かに耳を傾けていた。


一通り話し終えた美咲に、健人は穏やかに言った。


「未来がどうなるかなんて、俺にも分かりません。約束もできない。でも、今、美咲さんが好きだっていう気持ちは本当です。これから先、大変なことがあるなら、その時二人で一緒に悩めばいいじゃないですか」


それは、魔法の言葉ではなかった。しかし、どんな慰めよりも力強く、美咲の心を打った。彼の言葉は、不確かな未来を共に歩む覚悟に満ていた。それこそが、美咲が求めていた「大人」の答えだったのかもしれない 。


「俺は、美咲さんと一緒に未来を作っていきたいです」


歳の差という壁は、彼らが向き合い、共に乗り越えていくべき課題へと変わった。美咲は、目の前の青年の瞳の中に、自分たちがこれから築いていくであろう、揺るぎない未来のひとかけらを見た気がした。彼女はゆっくりと頷き、テーブルの上に置かれていた彼の手を、そっと握った 。


第六章:それぞれの世界で

付き合い始めて数週間が経った頃、二人はそれぞれの日常の中で、自分たちの関係を近しい人々に打ち明けていた。それは、ささやかな、しかし確かな覚悟の表れだった 。


健人の場合


大学の学食。健人は、サークルの仲間である雄介と拓也に向かい合っていた。

「で、最近やけに楽しそうな理由ってわけだ。彼女できたんだろ?」拓也がニヤニヤしながら問いかける。健人は少し照れながら頷いた。

「まあな。すごく、素敵な人なんだ」

「へえ!どんな人?同い年?」雄介が身を乗り出す。健人は一瞬ためらった後、正直に話すことにした。

「ううん、年上。27歳で、社会人の人」

その言葉に、二人は一瞬固まった。「にじゅうなな!?マジかよ!」拓也は興奮気味に声を上げるが、雄介は少し冷静だった。

「でも、大丈夫なのか?社会人と学生って、生活リズムも金銭感覚も全然違うだろ。それに、相手は結婚とか考える年齢じゃん」

雄介の現実的な指摘は、健人が考えないようにしていた部分でもあった。

「……分かってる。でも、そういうのも含めて、ちゃんと向き合いたいって思ってる。俺が子どもだからって、不安にさせたくないんだ」

真剣な健人の表情に、友人たちはそれ以上茶化すのをやめた。「お前が本気なら、応援するよ。まあ、何かあったら聞くからさ」雄介はそう言って健人の肩を叩いた 。


美咲の場合


会社の給湯室で、美咲は同期の沙織とランチ後のコーヒーを淹れていた。

「美咲、最近なんか雰囲気変わったよね。いいことあった?」沙織の言葉に、美咲はドキリとしながらも、微笑んで頷いた。

「うん、実は。彼氏ができたの」

「えー!やっぱり!どんな人?同い年くらい?」

「それが……6歳年下で、まだ大学生なんだ」

「ろくさい!?」沙織は目を丸くした。「でも、大学生って……。美咲ももう27でしょ?将来のこととか考えたら、ちょっと不安じゃない?正直、ただの火遊びで終わるんじゃないの?」

その辛辣な言葉は、かつて美咲自身が抱いていた不安そのものだった。しかし、今の彼女は違った。

「不安がゼロって言ったら嘘になるかな。でも、彼、すごく誠実な人なの。年齢とか、立場とか、そういうの抜きにして、ちゃんと一人の人間として私を見てくれる。だから、私も彼を信じたいって思うんだ」

凛とした美咲の言葉に、沙織は少し気圧されたように黙り込む。そこへ、以前アドバイスをくれた先輩の由香里が通りかかり、満足そうに頷いた。「いいじゃない。周りがどうこう言うことじゃないわよ。美咲が幸せなら、それが一番。まあ、何かあったらいつでも相談に乗るから」 。


第七章:就活という現実

健人が大学3年生の冬を迎えると、二人の間には新たな現実が横たわるようになった。就職活動だ。美咲と同じ広告業界にも興味を持った健人は、仙台の広告代理店やIT関連企業を中心にエントリーシートを書き、説明会に足を運ぶ日々が始まった 。


健人は、東京での就職も視野に入れていた。選択肢の多さ、キャリアの可能性。その魅力は否定できない。ある夜、彼は安物のスーツに身を包み、深夜バスで東京へ向かっていた。疲労とプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、車窓に流れる景色を眺める。彼の内なる苛立ちは、まるで噴火寸前の活火山だった。どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。美咲の隣に立つには、あまりにも頼りない。


彼はスマートフォンの画面に、美咲の写真を映し出した。彼の成功への渇望は、彼女と対等な存在になりたいという強い願いと分かちがたく結びついていた。


立て続けに選考に落ちて落ち込んでいる健人から電話があった。「俺、何がしたいんだろうな……。美咲さんみたいに、自信を持って仕事の話ができるようになれるのかな」

弱々しいその声を聞いて、美咲は決心した。自分の不安を押し殺し、ただ彼を支えようと。「大丈夫だよ。健人くんは、ちゃんと自分の足で進んでる。私は、健人くんがどんな道を選んでも応援するから」 。


数週間後、健人から弾んだ声で連絡が入った。仙台市内のIT企業から内々定をもらったという。

「色々考えたんだ。東京も魅力的だけど、俺は美咲さんのいるこの街で、自分のキャリアを築きたい。美咲さんの隣で、社会人になりたいんだ」

この激しい葛藤の末の決断は、単に東京を諦めたのではなく、彼らの街で、彼女と共に未来を築くことを「能動的に選択した」のだという、力強いメッセージだった。受話器の向こうで、健人が少し照れくさそうに笑う気配がした。美咲の目から、知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ちていた 。


第八章:新しいスーツと、変わらない想い

春になり、健人は真新しいスーツに身を包んで社会人になった。学生時代のラフな服装とは違う、少し窮屈そうなその姿が、美咲には眩しく、そして愛おしく見えた 。


社会人1年目の現実は厳しく、彼は毎晩くたくたになって帰宅した。「学生の頃は、美咲さんのこと、すごいなあってただ憧れてた。でも、今は少しだけ分かる気がする。仕事って、こんなに大変なんだなって」そう言って苦笑する健人の横顔は、以前よりもずっと大人びて見えた 。


健人が初めての給料を受け取った日、彼は少し照れながら小さな箱を美咲に差し出した。中には、シンプルなデザインのネックレスが入っていた。

「まだ、こんなものしか買えないけど……。でも、これは俺が稼いだ金で買った、最初の一歩なんだ。いつか、もっと素敵なものを贈れるように、仕事頑張るから」


それは、高価なものではなかったかもしれない。仙台のIT企業の新卒初任給が月額およそ22万円から24万円であることを知っている美咲にとって、その価値は計り知れないものだった 。彼が自分の力で稼いだお金で、自分のために選んでくれたという事実。それは、かつて彼女が恐れた「ライフステージの差」という壁を、彼が自らの力で乗り越えた証だった。


彼女は「ありがとう」と囁き、彼の首に腕を回した。学生だった彼が、一人の男性として、自分と向き合ってくれている。その実感が、確かな喜びとなって心に満ちていった 。


終章:青葉城址から見る未来

それから数ヶ月が経った、ある週末の夜明け前。二人は、仙台の街を一望できる青葉城址を訪れていた。伊達政宗の騎馬像が、夜の闇から浮かび上がる街並みを見下ろしている 。


「ここに来ると、あの日のこと思い出すね」美咲が言ったのは、AER展望テラスでの最初のデートのことだった。眼下に広がる光の海は、あの時よりもずっと穏やかに、二人の目に映る。


「俺は、今日のこと、思い出すことにします」そう言って、健人は美咲の手を強く握った。社会人になって少しだけ骨張った彼の手の感触が、頼もしく伝わってくる。


「ここも、昔は何もなかった場所から、これだけの街を築いたんだ。俺たちにも、できるかもしれない」健人が、活気あふれる現代の街並みを見下ろしながら言った 。舞台の持つ歴史的な背景が、二人の個人的な物語に、壮大で力強い共鳴を与える。


六歳という年の差は、これからも彼らの間から消えることはない。だが、それはもはや彼らを隔てる壁ではなかった。数えきれないほどの会話と、共有した時間、そして一度は離れたからこそ確かめられた想い。就職という大きな変化を共に乗り越えた今、二人の絆はより一層強く、しなやかなものになっていた 。


これは、おとぎ話のハッピーエンドではない。たくさんのためらいの先に、ようやく見つけた、二人の本当の始まりの物語だ。きらめく朝の光の中、彼らの視線は過去ではなく、これから共に歩んでいく未来へと、真っ直ぐに向けられていた 。


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