婚約破棄された魔王の娘は、涙の別れとともに王都を去る
「お前との婚約を破棄する」
王宮の玉座の間。陽の光が射し込むその場所で、王太子アレックスは冷ややかに告げた。彼は黄金の髪を揺らし、エメラルドの瞳に嘲りの色を宿している。
あまりの言葉に、私はその場に立ち尽くした。心臓が強く脈打ち、視界が歪む。
「国王陛下は、この件をご存知なのでしょうか?」
かすれた声で尋ねた私に、アレックスは薄笑いを浮かべて肩をすくめた。
「知るはずがないだろう。親父はいま国外遠征中だ。この隙を逃す理由がどこにある?」
「でも、そんなことを独断で…!」
「うるさい。俺は、お前みたいな子供じみたちんちくりんと結婚するつもりはない。俺にはもっとふさわしい相手がいる」
彼の言葉に、胸が締め付けられる。私は実年齢こそ十七だが、見た目は人間の幼い少女にしか見えない。それは私が魔族であり、人間よりも遥かに長命で、成長が遅い種族だからだ。
「……わかりました」
絞り出すように答えると、アレックスは満足げに笑った。
「よし、話が早くて助かる。今日中に荷物をまとめて出ていけ。王宮からも、王都からもな」
私は小さく頭を下げ、自室に戻った。手慣れた動作で荷をまとめながら、心は十年前へと遡る。
あの時――人間と魔族は、血で血を洗う争いの只中にあった。終わりの見えない戦に疲弊しきった双方を救ったのは、現国王シルバニアだった。彼は命を賭して魔王のもとに赴き、和平を結んだ。そして、その証として私――魔王の娘と、人間の王太子アレックスとの婚約が定められた。
だがそれは、名ばかりの婚約だった。私はずっと、この王宮で人質として扱われてきた。
来年、アレックスの成人と共に婚儀を迎えるはずだったその約束は、今まさに打ち砕かれたのだ。
私は王宮の門をくぐる。十年ぶりの自由は、あまりにも痛々しい別れとともにあった。
街は賑わい、人々は笑顔で暮らしていた。誰もが、平和が永遠に続くと信じて疑わない。だが――それは、私がここにいることで辛うじて保たれていた均衡だった。
頬を伝う涙は、止まらなかった。
そして――その瞬間、大地が唸りを上げた。
地鳴り。揺れる地面。悲鳴。崩れ落ちる家々。
裂けた大地の隙間から、次々に現れるモンスターたち。棍棒を振るうゴブリン、槍を構えたリザードマン、剣を操るスケルトン。そして人間を踏み潰す巨大なキュクロプス。
王都は、わずかな時間で地獄と化した。
アレックスが勝手に婚約を破棄したこと。それは、平和協定の破棄そのものだった。
空を舞う炎のドラゴン。人々を手当たり次第に喰らうオーガ。逃げ惑う人々に容赦はなく、男も女も、子どもも老人も、すべてが血の中に飲まれていった。
私は、泣きながらただ歩き続けた。背に背負った滅びの重さを、誰よりも知っていたから。
そして、草原の先に一人の男が立っていた。
銀の髪に深紅の瞳。その姿を見た瞬間、私は膝から崩れ落ちる。
「すまない。……お前には、苦労をかけたな」
その声に、私は幼い子どものように泣き崩れた。
「……お父様」
魔王――私の父が、そっと私を抱きしめた。
その日、王都は一日で灰と化した。