九、東郷雪乃(二)
そりゃ撫祇子がニヤつくのは、しかたがないことだ。あれだけ見たがっていた俺のロミオを、じっさいに見れることになったのだから。それが当日、いきなり去年とおなじヅカ女と入れかわるのだから、それを思うと、俺もニヤつきそうになる。
「そうだ、わっちがジュリエットをやれば完璧なりよ! これはナイスアイディアなり!」
早く先生こないかなぁ。と、あくびが出そうだが、だまって言わせておいた。講義がはじまるまえの講堂の最前列は、いつもこいつのせいでお祭りさわぎだ。そう勉強熱心でも目だちたがりでもないのに、いちばん前の席に陣どっているのは、うしろにいたら前の人の迷惑だし、撫祇子のふるまいが恥ずかしいからだ。もっとも前にいても、うしろの席で誰かが笑っているだろうが、少なくとも見えないから、気にしなくてすむ。
「むむっ、かずみくんも乗り気なりね。今日の練習のときに、撫祇子をジュリエットに推してくれる気、まんまんと見た! よっしゃあ!」とガッツポーズする。
「なにが『よっしゃあ!』だよ、そんなことするかっ。だいいち、いきなりお前がジュリエットとか、ありえんだろう。なんでそうなるんだ」
「だってかずみくん、なんかうれしそうなりよ」と、例のイヤらしい流し目をかます。「きっと撫祇子にジュリエットをさせて、舞台で押し倒されたくて、今からはぁはぁしてる可能性が、無限大ぞなもし」
「ジュリエットが押し倒すような展開はねえよ! 妄想もたいがいにしろ!」
思わず声がでかくなると、奴は「ほら、みんな予習してるなりよ」と、ひそひそ注意しやがる。いかん、当日の陰謀のことを思いだしたせいで、顔が笑っていたようだ。
なんだかんだ言って、はるかと立てた計略を実行にうつすのは、楽しいことだった。って、俺はたんに学校にも行かずに、うちで仮病つかうだけなんだけど。
「でも高校じゃあるまいし、いくらロミジュリといっても演じるのは大人なんだから、もっとオリジナリティがあっていいはずぞなもし」
そんなオリジナリティはねえよ、と思ったが、めんどくさいので、だまっていた。
ただ、やつの言うことにも一理ある。ロミジュリといえば、中学や高校の文化祭でよく使われる演目で、俺の高校でも演劇部がやっていたし、じつはそのときもあやうくロミオ役をやらされそうになったことがあるのだ。まさに歴史はくりかえす。そういうわけで、大学なんだから、もっと内容をいじるべきだ、というのも分かる。
この「ロミオとジュリエット」は、じつはシェイクスピアの四大悲劇にふくまれておらず、悲劇は悲劇でも、ロマンチックな要素が濃厚な悲恋もので、一般には大衆むけというか、子供むけみたいに思われている。ハムレットみたいに「生きるとはなんぞや」みたいな重いテーマはない。
それを大人がやるばあい、大人むきに改変しそうなものだが、うちの劇部の演出担当は、それをしなかった。学生主導のお遊び要素の強いサークルとちがって、顧問のいる部活でありながら、先生がのんびりしているせいか、わりと作品の進歩性などにはこだわらず、みんなで楽しもう、みたいなゆるい傾向が強い。
だが、撫祇子の言うような大人向け要素は、断じて十八禁のことではないはずだ。ていうか、文化祭でそんなの上演したら、即、通報である。
しかし、奴はあきらめきれないらしく、講堂に先生がくるまで、ずっと両目を真上にあげて、口もとをぐっとつりあげた、だらしなくてあぶない顔で、あれこれ妄想をつづけた。どうでもいいけど、先生おせーよ。
「かずみくんの、あの裸にむかれたあられもない姿は、いまも撫祇子の目に、ありありと浮かんでくるなり」
「ありありと浮かばんでいい!」
まっかになって叫びそうになり、声をひそめる。
「てか、まわりに聞こえるだろ!」
「おおっ、その羞恥の表情、そそるなりよー」
ニヤニヤしながら、よだれをすする変態。
「でも、稀代のマゾ男のかずみくんなら、満員の観客の見まもるなか、ステージのドまんなかで全裸でふんじばられて、ジュリエットにムチうたれる妄想して、オナニーするくらいはしたはずなり」
「してねえ、悪いけど」
さめきった目で言ったが、それでもめげない変質女。
「ムチじゃ、たりないなりか。やっぱ、ジュリエットに殴る蹴るの暴行をうけて、あまりの快感にチンポから――」
「うるせえ! もうお前とは、口きかん」
むくれてそっぽをむくと、とたんに「そんなぁ、冗談なりよぉ」と苦笑して、まとわりついてくる撫祇子。
だが同時に俺は、いまの奴の「殴る蹴るの暴行」発言で、ある重大なことを思いだしていた。忘れようもない、ある人のことを。
あの、髪をまんなかから左右にきれいに分けてひっぱった、ドルビーサラウンドのマークのようなうしろ頭は、まちがいなく、あの人だった。さらに、左右のおのおのを三つ編みにし、両肩のまえへするっとたらした、あのおさげ髪。
ここは廊下で、つぎの講堂へ移動中。撫祇子はいない。まわりに人影もない。思わず足ばやになり、そのきゃしゃな背に声をかける。
「雪乃さん」
ふりかえった西洋ドールのように愛らしい顔は、ぱっと驚きにそまり、大あわてで近くの教室に逃げこんだ。誰もいない視聴覚室は、黒いカーテンを引きっぱなしでうす暗かった。ただ、窓ぎわにあとずさり、困惑の表情をむける彼女の顔だけが白かった。
「す、すみません。もうあわない、といったけど」
俺は、おもわず追いかけてしまったテンションのまま、言葉をえらびながら、けんめいに話した。雪乃さんは、意味なく三つ編みのおさげをいじってアンニュイに見つめながら、ぽつりと言った。
「わたくしの勝手なわがままなのは、承知していたのだけれど……」
そして、ぬれた瞳をこちらにむける。ずきと心が痛んだが、同時に、すばらしくきれいだとも思った。
「おわかれしましょう、ってわたくしから言ったはずなのに、すぐに、無理だってわかったわ」
かけより、両手で俺の手をつつむ。ひんやりするのが、せつなかった。そういえば、この人に手をにぎられたのは初めてだ。あんなにすごいことしといて。
初めて会ったその日、俺は彼女の部屋で軽いSMプレイをし、彼女に激しく蹴られてイッたのだった。だがそのあとラインで、「父親に俺とのつきあいを猛反対されたので別れよう」と来た。俺はつい、そのままバカ正直に「はい」と答えてしまった。それを話すと、薫さんは言った。
(彼女、いまごろ泣いてるかもしれんぞ)(女は不安だからね、わざと別れるとか言ってためすんだよ、男を……)
「かずみさん、あなたが好き」
うわずった声で告る雪乃さん。
「ごめんなさい、あんな身勝手なことを言っておいて。でも、不安すぎて、ついあんなことを。あなたが今すぐにでもかけつけてくれるのではと、そんなことを期待してしまったの。別れたいなんて、うそよ。あなたが好きなんだもの。この気持ちは変えられない」
「俺も、あんな返事しちゃったけど……ほんとうは、別れたくなんかないんです」
俺は、うつむきかげんで言った。もうバカの百乗くらいの正直さ、白く洗われたようなまっさらの姿で、いま俺は彼女のまえにたたずんでいる。
気持ちを、ぜんぶ言わなきゃダメだ。適当なこと言ってすませちゃいけない。
口から言葉が流れるようにつづく。
「雪乃さんのことは、性的には好きです。こんなに性的に相性がいい人なんて初めてで、ほかには誰もいません。なのに俺、ほかに好きな人がいるんです」
彼女の顔が暗くしずむのが痛いほどわかったが、つづけざるを得なかった。
「でもその人、たぶんサドじゃないんで、雪乃さんのようなことをしてくれと言っても、してくれないでしょう。いい感じになっても、せいぜい普通のセックスだけだと思います。
つまり俺は、体は雪乃さんが一番あうのに、心はその人じゃないとダメなんです。最低でしょう?」
声がどんどん重く落ちこんでくる。顔がますますうつむく。
「俺は、きたない奴なんです。どっちかに決めるべきなのに、できない。たぶん、どっちも欲しいんです。ひどいでしょう、図々しいでしょう。あなたとはヤリたいけど、愛してるのはあっちです、なんて……。雪乃さんとつきあっても、ただ利用することにしかならない」
眉間にしわがよるのがわかる。蘭子さんが一番だと言いながら、悪気もなく、言いよられるままにほかの女とつきあいまくっている。クソだ。
胸がきりきり痛む。ここまで自分がゴミだと思ったことはない。
言いおわって見ると、雪乃さんは、あわれむようにうっすら笑っていた。
「性的には、わたくしが一番よかったのよね」
「……」
「でも、いちばん好きなのは、その人なのね。そのあいだで、あなたはひき裂かれているわけでしょう?」
「俺は最低です。女をえらばず、みんな持っていたいと思うような、クズです。俺とかかわると、雪乃さんも不幸になる。やっぱり、話しかけないほうがよかったんだ。こんなことなら――」
俺の頭を、雪乃さんはいきなり両腕でつつんだ。
「ゆ、雪乃さん……?」
「抱いたことなかったわね、考えたら」
見あげる俺を、菩薩のようなあたたかい笑みが見おろしていた。
「自分をそんなふうに言わないで。わたしが一番だって言ってくれて、本当にうれしい。その一番の人にも、ぜんぜん負けてないわけでしょう?」
「で、でも、いちばん好きでもないのに、こんな」
「いいのよ、わたし、セフレでも気にしないから。それは、かずみの一番にはなりたいわよ。でも、今すぐには無理でしょ。なら、ずっと思いつづけるくらいはいいでしょう。君がわたしに向く可能性は、無限にあるわけだから」
「……」
「でも誰かを愛してるのに、ヤリたいのはわたしだなんて。気持ちと下半身がバラバラじゃ、どうすればいいかわからないわよね」
「いろんな女にいじられてきました」
つい、うつむいて本音が出た。
「みんな、俺の顔とエロさだけが目的でした。人間あつかいされたことなんかないです。そのいちばん好きな人は、はじめて俺をエロじゃなく、人あつかいしてくれたんです。そして、雪乃さんも……」
彼女は俺をのぞきこんだ。吸いこまれそうな瞳だった。宇宙だと思った。それが急にどっとぬれた。星の雨が降りそそいだ。
「ずっとつらかったんでしょう。もうがまんしないで」
鼻声で俺をぐっと抱きしめる。
「あなたが苦しんでいるのは、つらいわ」
(この人は、俺をわかってくれたんだ……)
ずっと胸につかえていたなまりが取れたような気がした。彼女の柔らかい胸に顔を押しつけて泣いた。
雪乃さんが先に出ていってから、しばらく視聴覚室でぼうっとしていると、いきなりあいたドアの向こうから、ひょこっと顔が出たので、ビビった。
つい十数分まえ、目のまえにあった顔。それはいつものエロい流し目のニヤけとはちがい、目はぱっちりとこちらを見すえ、意味ありげに口もとがゆるんでいる。彼女はドアのふちに手をかけ、子供のように教室をひょいとのぞきこんだまま、言った。
「撫祇子は、かずみくんを人間あつかいしなかったことなんて、一度もないなりよ」
「うそだ」
俺は急に頭に血がのぼり、顔をしかめて言った。雪乃さんに甘えまくった直後で、感情のおさえがきかなくなっていた。かっこ悪いとも思わず、ドアからのぞく撫祇子をにらんで続けた。
「なら、俺がもしイケメンじゃなくて、ぜんぜんエロくなくても、お前は、部屋で同じように押したおしたか?」
「うーん、それは……」
少し考えるので、俺は意地わるく言った。
「ほら、やっぱりお前も、俺がこんなだから手が出るんだ。こうじゃなかったら、きっと見むきもしないだろうよ。どうせ俺の体にしか興味がないんだ。ただ俺を犯したいだけ。それのどこが人間あつかいなんだ」
「でも……たとえイケメンじゃなくてぇ、中身が今のかずみくんそのまんまならぁ……」と、あごに指をあてて考える。「撫祇子、けっきょく、似たようなことをすると思うぞな」
「似たようなことって?」
「うーん……結婚とか?」
ずっこけそうになった。
いかん、こいつと深刻な話をしようとしても、けっきょく深刻にならない。ダメだ、笑いをこらえるのがやっとだ。ちっくしょう。
「な、なんでここにいると分かった」と、ごまかすように聞いた。
「トイレから出たら、かずみくんが美人とここに入るのを見て、これは捨ておけん、と思いましてな。でも、けっきょくエロいことはおきなかったのが、残念ぞな」
「ほかの女と抱きあってたのに、イヤじゃなかったのか?」
「うーん、けっこう深刻そうだったし。まぁ考えたら、イヤかなぁ」と、またあごに指をあてて天井を見てから、「でも、かずみくん、それどころじゃないみたいだったから」
「撫祇子……」
自分より、まずは俺のことかよ……。
また泣きそうになって、あわてて後ろをむく。どうも今日は涙せんがゆるくていけない。セフレの多さに押しつぶされそうになっているのか。
でもそれ、まるっきり俺のせいなのか? 俺から手を出した相手は、ひとりもいないんだが……。
ふと肩に手を感じ、見ると、やや大きめのお下げが間近でゆれていた。その隣に撫祇子の顔。見たこともないような、やさしい目だった。
「薫さんも、いまの子も、蘭子さんも、そして撫祇子も、みんなかずみのことが、だいすきだよ、きっと。ただヤリたいだけじゃなくて、君の人間が好きなんだよ。だから、安心していいと思うよ」
「……」
彼女は手をはなすと、うーん、と伸びをした。
「いやぁ、講義がつづくと疲れるなりなぁ。……あ、もう始まっちゃう」と、スマホで時間を見る。
「やばい、俺もだ!」
暗い教室を飛びだして、俺たちは正反対の方向へかけていった。「ほんじゃあねー」と手をふる撫祇子の顔が、窓からのまぶしい日ざしできらきらと輝き、えらくきれいに見えた。