七、四京院はるか(美麗男装イケメン女子)
七、四京院はるか
俺は机に突っ伏して、落ちこみまくっていた。隣で撫祇子がニヤニヤ見ている。どうせ俺の憔すいしきった顔に萌えているのだ。勝手にしろ。午後、英語ゼミの教室だった。
「まあまあ、そう落たんすることはないぞな」
撫祇子が、むだに俺の肩をぽんぽんやったが、俺は無反応だ。でも、かまわず続ける変しゃべりの歴女。
「今年がダメでも、また来年、チャンスをねらえばいいなりよ」
「ら、来年は蘭子さん、四年生だぞ!」
いきなりがばっと起きあがって怒鳴るみっともない俺。だが奴は少ししかおどろかず、目は変わらずふざけたような半目で、口も大きくニヤけたままだ。それでも、かまわず続ける残念な美形マゾ男の俺。
「四年なんて、来年は卒業だぞ! 就活で、合宿どころじゃないにきまってる! ちっくしょう、なんで今年なんだ! 今年が去年だったらいいのに!」と、机をばんばんたたく。
今、いつものように最前列に座っているが、後ろの奴らにどん引かれようがかまわない。見れば、撫祇子がまわりに「はいはい、ごめんなさいねースマイル」をかましている。まるっきり世話女房気どりだ。だが、いくら奴にお世話されようが、たとえこの場でブリーフをずり降ろされて履かれようが、俺の絶望は変わらない。
あれだけ夢と希望に満ちていたモデル部の合宿が、今年は中止になったのだ。理由は予算がないからとのことだったが、じっさいには何ヶ月もまえに確定していたことで、俺だけが知らなかったらしい。まあ、ずっと幽霊部員だったから、しかたないが。
しかし「たかが数日宿泊する金もないとは、大丈夫なのか、この部」とぐちったら、橘が苦笑して、「うちはファッションとかオーディションの参加費とか、活動費で部費が飛んじゃうから。でも来年はがんばって貯める予定だから、期待してて」と言った。
だが、ほかの部員はそれでよくても、俺には天国から地獄だ。蘭子さんの来ない合宿なんて、神のいない神社みたいなもんだ。まったくの無意味。
「もうあきらめて、撫祇子に乗りかえたら、気持ちが一気に楽になりまっせ」
「そ、そんな安直なこと、できるかっ」
「なんで? 撫祇子がきらいなりか?」
顔をかたむけて真顔で聞くので、ぎょっとした。
「い、いきなり聞くなよ、こわいだろ!」
「ふふん、君には下品で強引な女が、いちばんお似合いなりよ」と不敵に笑う。俺はどっと疲れた。
「自覚はあるようだな……あっ、てゆうか、おい!」
いきなり気づき、大声が出そうになって声をひそめる。
「な、なんで俺が蘭子さんを好きだって、知ってるんだよ」
「そんなの、見てればバレバレなりよ。かずみくんが部長といるときの、あのだらしない顔。まさに恋する乙女の発情まるだしぞな」
「す、ストーカーかよ! もうお前とは絶交だ! 近寄るな!」と、しっしっとやっても、気にもしないで続ける。
「モデル部の右どなりが、歴史研究会の部室なり。で、左が料理研究会の部室。だから、君の部活での醜態は、わっちにつつぬけなりよ」
そうだ、こいつ二つのサークルをかけもちしてたんだ。
だがそれが、よりによって、うちの部室を左右からはさんでいたとは。
「でも、それにしたって部屋のなかの様子まで、いちいちわかるわけないだろう」
「ちょくちょくベランダに出て、窓からチミをちら見しながら部活してるぞな。料理なら、ベランダでボウルをかき混ぜながら、チミを見てうっとり。歴史なら、ベランダで戦国武将のコスプレして大見得をきりながら、横目でチミを見つめて、ため息……」
「こええわ! もうやめろ!」
「そ、そんな、遠くから見ていることも出来ないの……」
いきなりしおらしくなり、目に涙をためてうつむく。うっ、かわいい。顔の両側のおさげのせいで幼さが発動し、ロリロリなエロスがにじみ出て俺を攻撃してきた。どうしたら、こうも変われるんだ、この悪魔ヤロウ。
「とにかく」と元にもどる悪魔。「蘭子部長とつきあいたいなら、とっとと告るべし。でなきゃ、撫祇子に襲われても、いたしかたない」
「いたしかたなくねえよ! いいんだよ、蘭子さんとは、そのう、デートにまでこぎつけたんだから」
「デート? それは、すごい快挙なりねえ」
「ま、まあな」
「ファックは、もうしたなりか?」と流し目。
「なんでそう、えげつないんだよ! し、してねえよ、そんなの」と、バツ悪くなって目をそらす。「だいたい、初デートでそんなこと……」
「だから、合宿で麻酔薬をかがせて押し倒そうとしてたなりね。わかるわぁ」
「危険人物かよ! てか、わかるんじゃねえ!」と指さす。
「でも部費なんて、演劇部とかのほうがよっぽどかかりそうなのに、おかしいなりよ」
真顔で上のほうを向き、指であごをさわって考える。
「誰かが、ピンはねとかしてるにちがいないぞなもし」
「演劇部は、うちみたいな学生サークルとちがって部活だから、顧問もついてて、学校から予算も出てるんだよ。だから、でかい舞台セットなんかも作れるんだ」
「ロミジュリ、今年もやるらしいぞな!」
ふいに話題を変えて、ハイテンションになる。
「知っとるけ、主演の子? またあの子のロミオが見れるなんて、超ラッキーなりよ!」
「あーわかった、わかった。ほら、先生が来たぞ」
俺は疲労困ぱいして教壇を向き、教科書をひらいた。だが、ふいに撫祇子が、俺に声をひそめて言った。
「でも本当は撫祇子、かずみくんのロミオが見たいんだけどなぁ……」
「ロミオやってくれ……」
「はあ?!」
いきなりのひとことに、俺はあいた口が三秒間そのままだった。部室に入るや、机で腕ぐみしていた部長が、眉間にやたら深刻なしわをきざみ、いかにも無理やりそうに口をあけ、低く押し殺すようにぽつりと言ったのだ。そうとう言いたくないらしいが、なら言わなきゃいいんだ。
だが、こっちは言わねばならない。やっと息つぎして、言葉をひりだす。
「ろ、ロミオって、ロミオとジュリエットのことっすか?」
そこで、ふと窓へ行き、黒いカーテンをさっと引いて、もどった。けげんな顔になる部長。
「暗くなるじゃないか。電気代がもったいない」
「いえ、今ベランダに、かっちゅうを着て、ヤリと盾をかまえた奴がいたんで。
……で、そうそう、ロミオのことですよ」
「ああ。じつは演劇部から平川に出演のオファーが来てな。ぜひ、お前にロミオ役をやってもらいたいそうだ」
「な、なんで俺に。演劇部でもなんでもないのに。あ、まさか、またあっちの顧問となんかしがらみがあって、俺をいけにえにする気じゃないでしょうね!」と指さす。「また変態に殺されかけるのはごめんですよ!」
「大丈夫だ、顧問の水谷先生は男で、女好きだから、なにもされん」
そう言われて少しは安心したが、まだ解せない気持ちでいっぱいだった。
「それにしたって、なんで俺が……」
「お前は自覚がないだろうがな」
卓にひじをつき、顔の前で指を組んで言う蘭子さん。なんか組織のボスが部下に命令するくさい格好だ。
「お前は、この学校じゃかなりの有名人だ。学校一の美形とまで言われてるんだぞ」
「そうなんですか?」
「はあ……」
ため息をつき、こまったように続ける。
「いいか、今度の文化祭でお前がロミオをやるのは、劇部の部員全員の希望なんだ」
「だって、毎年やってる人がいるんでしょう?」
「今年は降りた。だからお前に白羽の矢が立ったんだ。いいか平川、」
席を立ってこっちへ来て、右肩にそっと手をおく。蘭子さんにさわられるなんて、本来なら超興奮モノのはずだが、そのときはイライラしてて、そんなひまはなかった。ちっくしょう。
「知ってのとおり、お前は体力ゼロだ。今のままではモデルの基礎すらおぼつかない。といって、また筋トレをやっても、あまりのひ弱さに、おそらく続かないだろう。
だが、役者の演技なら相当の体力を使うが、バテるほどじゃない」
「体力づくりのために役者やれってんですか? むちゃくちゃですよ。文化祭には、モデル部も発表があるんですよね? かけ持ちになっちゃうじゃないですか」
「安心しろ。お前は出ない」
「がーん」
ショックだったが、考えたら当然だ。入部して数ヶ月のひよっこが、ファッションショーのステージに立てるわけがない。だが、どこかで自分にも何かの役割あるのでは、と期待していたのはたしかだった。
俺の落ちこみを察したのか、蘭子さんは俺の両肩に手をおき、子供相手みたいに少しかがむと、俺の目をじっと見つめた。
「平川、私も内心では、ただ出てきてすぐ引っこむだけでいい、一度は、お前がランウェイに立つところを見たい。だが、それじゃ、お前のためにならない。
体力だけじゃなく、演技の勉強と舞台経験は、自分の見せ方と表現力を身につける絶好のチャンスだ。演劇は、きっとお前のモデル修行に大きなプラスになる。今年は、そっちをやってもらえないか。もちろん、上演当日は、絶対に観にいく」
今度は、俺がため息をついた。
「じゃあ、今年はみんなと離れて、演劇部で活動するってことですか」
「いや、半々でいい。週の前半は向こう、あとはこっち、とかな。文化祭が近づくと、あっちオンリーになるだろうが」
「……」
「いやか……?」
眉をよせ、ぬれたような、うれいのひとみで俺を見る。そ、そんな顔されたら俺、今すぐ活火山にでも飛びこむんですけど。
「わかりました。部長の頼みだし、やりましょう」
「おお、そうか、ありがとう!」
手を思いっきり握って、満面の笑顔。それを見て、一気に胸がほかほかして、しあわせになった。俺はダメすぎる。
だが彼女の次のひとことで、もっとダメになった。
「どうだ、またあそこへ行きたくないか?」と腕ぐみしてドヤ顔になる。
「えっ、どこへです?」
「劇が成功したら、そのう……」
急に照れて顔をそむけ、口ごもる。
「ほら、またあのレストランで、だな……」
「えっ、ニューヨークですか?! い、いいんですか?!」
これには、おどろいた。
「ああ、また私がおごる」
「そんな、またおごりなんて、わるいっすよ」
「気にするな。私からの無理なお願いなんだし」
急に顔がくもる。
「考えたら、お前には死なせかけたり、無理やりよその部活に行かせたり、ろくなことしてないな……」
「いいですよ、気にしてませんし」と両手をふって苦笑する。「デートのあとは、またちゃんと、お宅までお送りしますから」
「も、もう、ああいうことはないぞ!」
顔が、かーっとゆでだこのように赤くなる。あまりのかわいさに死にかけた。
「ワインは一杯にしてくださいね。二杯であんなになっちゃうと、俺はいいけど、部長のお体が――」
「二杯じゃない、五杯は飲んだぞ。そんなにやれば、ああなって当然だ。というか――」
いきなり両手を伸ばして俺のほほをぎゅうっとつねる。いててて。
「デートって言うな! 誤解をまねくだろ!」
しかし、時すでに遅し。またもいいところへ橘が入ってきて、「まーた、乳くりあってぇ」とニコニコ笑った。あわてて手を離し、「ち、ちがう、これはだな!」とあせる蘭子さん。
「またデートしてくれるそうなんですよー」と告げ口のように言うと、「だまれー!」と、また手をペンギンが羽ばたくように、ばたばたさせてテンパる蘭子さん。楽しいなぁ。
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悪い予感がしていた。
空色のシャツを着て、下はすそにフリフリのついたスカート、頭にベージュのベレー帽を引っかけた愛らしい丸顔の女の子が、講堂の裏へ入っていく。俺に興味を持ってここへ来るのなら対応は心得ているが、この場合、そうではない。こっちが彼女を追いかけたくてしょうがないのだ。
だが、ああいうのは全く完ぷなきまでに俺のタイプではないから、そういう意味であとを追いたいわけではなく、ただわけもなく、気になってしょうがないのだ。
前に白猫を追ったときは蘭子さんに出会ったし、追っているあいだは幸せな気持ちだったが、今のこれは、どうもそれとはちがう。なにか不穏なのだ。ついていくと、きっとヤバいことがある。なのに行きたい。それがなんなのか、見届けないと気がすまない。
俺は彼女が壁の向こうに消えたあと、数歩足踏みさえした。どうする。この前とちがうぞ。きっと良くないことがある。さもなきゃ、そうとうまずい奴に会う。それが撫祇子ぐらいですめばいいのだが、あいつとはちがう。たぶん、もっとヤバい。
俺のこの妙な予感は、だいたい当たる。だったら行かなきゃいいのだが、どうしても知りたい。このまま無視できない。そうだ、最低限、確認だけして、さっさと逃げよう。
などと言いわけして、バカな俺は、けっきょく彼女のあとを追い、壁の向こうへ入ってしまった。
講堂の裏庭はそう広くなく、敷地をぐるりと囲む壁の前に、青葉のしげるイチョウがずらりと並んでいるさびしい場所だった。彼女が行く先に立っている男を見て、なんとなく事情が分かった。誰も来ないし、告白にはもってこいの場所である。その顔が見えて、不穏なわけが分かった。そりゃ緊張する。男に愛を告げるんだから。
だが、それだけで、俺がこうも関心を持つとは思えない。俺ほどの天然はいないので、自分がなにを思っているのか、自分で分からないことがよくあるが、今がまさにそうだ。男のほうを見ても、とりたてていやな感じはしない。ただ、妙な違和感はある。
イケメンだ。それも俺とタメを張るほどの超絶かわいい美形である。そのたたずまいはアイドルが雑誌からぬけ出てきたかのよう。ポケットに両手をつっこみ、ややうつむきかげんでイチョウの前に立つ彼は、深緑のスラックスに、チェックのシャツがびしっときまっている。
だが彼は、女が来たのに気づくと、そっちを見て顔をくもらせた。残念そうなのは明らかだが、女はそれに気づいていないようだ。彼女は必死に自分をふるいたたせ、今まさに人生をかけて、おのれの思いを伝えようとしている。いくら俺のタイプじゃないといっても、かわいそうになった。男の顔つきからして、前途多難なのは目に見えていたからだ。
「四京院はるかさんですね?」
彼女が、ともすれば先走る自分をなだめようとするように声を低めて言うと、男は「うん」と言った。けっこう声が高い。
「わ、私、あなたのことが好きです! つきあってください!」
告って頭を下げると、イケメンは困った顔をして頭をかいた。すでに彼女がいたりすんのかな、と思った。やたらモテるつらさは、わかる。俺はいないから気が楽だけど。いや待てよ、いたほうが断りやすくて楽か。
彼はいったん息をつくと、真剣な目で答えた。
「ごめん。君とはつきあえない」
「もう、つきあってる人がいるんですか?」
「ちがう」
彼はまた間をあけ、なにかめんどうそうに言った。
「僕は男が好きなんだ。だから君とは――」
「ええええええ――っ?!」
驚がくする彼女。なるほど、ゲイならしかたないな、とは思ったが、おどろきすぎだろう。俺だって、知りあいにはいないから慣れないとかはあるが、相手がそうと知っても、たぶんここまでびっくりしないぞ。ものすごい田舎から出てきたばかりで、同性愛者を怪獣みたいに思ってるんだろうか。
だが、彼女が驚いたのは、その点ではなかった。まるで信じられない、というふうに、わなわなと震えながら言う。
「お、男が好きって、いったい、どういう――」
「ごめん、よく誤解されるんだ。まあ、されてもしかたないけどね」
そう言って肩をすくめたが、女は彼の言葉にまるで納得しないようすだ。
「お、女じゃダメなんですか? ほんとうに?」
「つきあってみたこともある」
そう言って彼女の両肩に手をおき、さとすように続ける。
「僕は昔から女の子っぽくなかったし、もしかしたら、って思ってさ」
うん?
なに言ってんだ、この人?
一瞬ぽかんとしたが、すぐに飲みこめた。最初に見たときから、てっきり男だと思いこんでいたが、そうか、この人は……。
「でも、ダメだった」
言って手をはなし、離れて遠くを見る。風でみじかい髪がさらりとなびき、そのビジュアルのあまりのさわやかさ、美しさに、思わず見とれた。
「僕は女にどきどきしたり、ぽーっとなるってこと、ないんだ。子供のころから、恋愛対象は男ばっかだ。なりはこれでも、生物学的には女だから、まあしょうがないんだけど。じゃ、すまないけど、そういうことで」
言い残し、背をむける。そうか、完全にわかった。
彼は女だ。いや彼じゃない、彼女だ。なるほど、だから女に告られてもむだなのだ。どうりで声が妙に高いわけだ。最初に聞いて、これは女でも通用するくらい高いなと思ったが、そうとわかると納得する。ふつうより低いだけの、まるっきりの女の声だ。
だがしかし、そうなると――。
考えたとたん、彼女がいきなりすごいテンションで俺と同じ疑問を提示してくれた。
「じゃあ、なんでそうやってだますんですか?! ひどいわ!」
「だます?」
驚いてふりむくイケメン女に、ベージュのベレー帽の可愛い系は、両のこぶしを固くにぎり、さらにわなわな震えながら、烈火のごとく怒鳴りだした。
「そうよ、男が好きなら、ちゃんと女の格好すればいいじゃない! そんなんじゃ、誤解するでしょう! 私、大恥かいたじゃないの!」
「ご、ごめん。ほんとうに、ごめん……」
弱って両手で相手を抑え、ひたすら謝る。なにかは知らないが、事情があってああしてるんだろうから、ちょっと気の毒になった。
女に告ったつもりだったんだから、あのベレー女はビアンである。イケメン女のほうは、そうとう変わってはいてもいちおう異性愛者だから、たぶん気を使っているんだろう。
だが、相手は気づかわれて、ますますキレた。
「謝ればすむって問題じゃないでしょ。だいたいあなた、おかしいわよ!」と指さして叫ぶ。「なんで女なのに、男の格好してるのよ!」
とたんにカチンときたのか、美形の女は眉をつりあげて女に対峙し、腕ぐみして叫んだ。
「男が好きだからに、きまってるだろう!」
可愛い系が泣いて帰ると、残されたイケメン女はイラついた顔で地面に目をうつし、しばらく立っていた。いやイケメンというより、ヅカ系と呼んだほうがよさそうだ。少女マンガやアニメには、そういう少年ぽい外見としゃべりの女キャラがちらほら出てくるが、それとそっくりだ。女子高にあんなのがいたら、モテてえらいことになるだろう。
彼女はしばらくうつむいていたが、ふいに顔をあげてまわりを見まわし、いきなり木陰に隠れている俺に向かって声をあげた。
「そんなところに隠れてないで、出てこい! 平川かずみ!」
これには、あぜんとした。
(な、なんで俺のこと知ってるんだよ……)
やはり、ここへ来たのはヤバかった。
俺が出てくると、ヅカ女はいやなものを見るような目を向けて言った。
「僕は四京院はるか。『元』演劇部の部員だ」
「元」ということは、今は部員ではないわけだが、やたら強調したところを見ると、未練があるっぽい。
だが、それよりも俺には聞きたいことがあった。
「どうして俺の名前を」
「君は有名人だ。ここじゃ知らないものなどいないぞ」
そう言って腕ぐみしてあごを引き、いまいましくにらみながら続ける。
「超絶美形の二年生、平川かずみ。ほんとうなら僕が君の立場だったのに、入学当時から、君が学内の人気をすべてかっさらった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は多少あわてた。俺がそんなに人気あるなんて、ぜんぜん知らない。
いや、待てよ。女生徒が寄ってくることは、たしかにしょっちゅうあるな。でも告白とか、たとえば今見たような場面を自分が経験したことは、二年生になってからは一度もない。入学一年目より前なら、学年・季節を問わず腐るほどあって、しまいにはうんざりしてたもんだが。てっきり急にモテなくなっただけかと思っていたが、実際にはそうじゃなかったってことか?
「俺なんか表立って活躍もしてないし、ただふつうに授業に出てるだけだ」と言いわけっぽく続ける。「最近は、誰からもキャーキャー言われた記憶がないし、とても自分が大人気なんて気はしない」
「そりゃ終始、女がくっついていれば、あたりまえだ。すでに恋人がいるやつに、わざわざ告るような猛者はいない」
「えっ、俺に恋人なんていないぞ? 誰のことだ?」
「ほら、顔がでかい、お下げのがいるだろ。はっきりいって、お前とはメチャクチャつりあわないが、まあ人の趣味をとやかく言う筋あいはないしな」と冷笑する。
撫祇子のことか……。
やはり、とは思ったが、実際、まわりからそう思われていたんだな。
たしかに、あいつと恋仲になった覚えはないが、ゼミだけでなく、ほかの講義もかなりかぶってて、しょっちゅういっしょにいるので、誤解を招いてもしかたがない。どうも二年生に上がってから、女が寄ってこなくて毎日が気楽だと思ったら、じつは学内であいつが盾になって防いでくれていたのだ。
しかし、それもまわりの誤解のせいだから、複雑な心境である。あいつとはただの友達で、セフレの一歩手前なだけだし、だいたい、俺の本命は蘭子さんなんだ。撫祇子とデキていると思われたらはっきりいって困るし、もし蘭子さんの耳に入ったりしたら、一大事だ。これも、すべては俺の優柔不断が原因だから、俺が悪いのだが。
とにかくここは、なんか無駄なようだが、いちおう誤解は解いといたほうがいいだろう。
「いや、撫祇子とはただの友達で、恋人ってわけじゃなくて」
「いや、君がいくら女にモテようと、僕には関係ないから、それはいい」と右手で制し、「男にモテてたら、むかつくけどな。君が大人気だといったのは、あくまで女に対してだから、好きなだけハーレム作ってくれ。なんなら、僕にかんちがいして寄ってくる女を、ぜんぶ送りこんでやってもいい」
「いいよ、いらないから、そんなの!」と、こっちは両手で制する。
すると四京院はるかは、急に足もとを見つめ、声をふるわせた。
「だが、僕からロミオを取ったことだけは、ゆるせない……!」
そして、うらめしそうな横目をむけるので、俺はあわてた。
「いやべつに、取ったわけじゃ」
「取ったじゃないか。去年も僕だったんだぞ。だいたい、劇部でもない者に、あの大役がつとまるものか。学内の人気だけで人から主役をうばいやがって。おかげでこっちは、部員すら辞めるはめになった」
「ええっ、君がおりたんじゃないのか?」
おどろいて聞くと、彼女は噛みつきそうなテンションで言いかえした。
「おろされたんだよ! もともと、演技のエの字もわからん連中ばかりだったがな。演劇部といったって、僕みたいに子供のころからやってるわけじゃない」
「へえ、長いんだ、君……」
「そうだ。どいつも素人に毛がはえたような演技だ。それが年うえだからって先輩づらするんだぞ。本来なら僕に指導をこうのが正しいくらいだ。それを、演技についてうるさく言えば、やれ、なまいきだの言いやがるし……」
そう言って、くやしそうに唇をかむ。
おぼろげに見えてきたのは、どうもこいつの性格に問題があって、今回、いい機会だからと役をおろされ、かわりに俺がそこにぶっこまれたらしい……という事情だった。
あんまりな状況なので、言いたいことがムラムラと出てきた。
「俺だって、好きで君の役を取ったんじゃない。うちの部長に頼まれて、しかたなく引きうけたんだ。どうも、そっちの顧問としがらみがあったらしくて」
「やりたくないのか?! じゃ、ことわってくれ!」
いきなり手をにぎられ、顔が急接近する。美麗なギリシャ彫刻のごとく、きらめくように白く美しい目鼻が目の前にちらつき、まぶしさに思わず目をこらしたほどだ。ううっ、鏡で見る自分よりイイかもしれん。他人の美しさに嫉妬したなんて、はじめてだ。
が、いまはそんな場合ではない。
俺は目を覚ますように顔を振って、落ち着いてから言った。
「俺がことわったとしても、君が復帰できるとは限らないぜ? どうも話を聞いてると、君はいやがられて降ろされたっぽいし」
「ふ、ふん、そんなことはわかってるさ……」
手を放し、うつむいて暗くなる。そのアンニュイ炸裂の表情に、おどろいた。うう、なんだこれ。俺もよくやるらしいが、こっちは色白の女だ。つまり、俺の究極の美化。
急に親近感とでも言おうか、なにかの情がわいて、なんとかしてやりたいという気がしてきた。といって、俺が演劇部に頼んだとしても、そう簡単に承知するとは思えない。
だが、これだけは言える。
彼女が戻り、俺が役を外れれば、すべては元どおりでまるく収まるのだ。
しかし、それはかなり難しいのでは……。
俺は、いちおう聞いてみた。
「君が態度をあらためて、部員全員に頭をさげて謝れば、また部員に戻してもらえるんじゃないか? それなら、俺もよろこんで君にロミオを返すよ」
「あ、謝れだって?! 冗談じゃない!」
いきなり激こうし、きっと指さしてくるイケメン女子。
「そうか、そんなとうてい不可能なことを僕に強要するとは、さてはキサマ、本当はロミオをやりたいんだな?! その手に乗るものかっ!」
「ちょ、ちょっと待て! なんでそうなるんだ?!」
「いいだろう! 君の本心は、よーくわかった!」
あわてた俺の言葉もきっぱりと否定し、大見得をきるように右腕を大げさにふって空を切ってから、ズドーン! と落とす。演劇歴が長いせいか、いちいち動きが芝居がかっている。
「こうなったら、僕も意地だ。僕のすばらしい演技を見せて、奴らに認めさせてやる。僕にしかロミオが出来ないことをな。お前なんかに、絶対にロミオは渡さん! じゃあな!」
言いすててさっさと行ってしまい、どこかで閑古鳥が鳴いた。なるほど、これじゃ降ろされるのも無理ないな、と思った。まるで話にならない。すべては振りだしだ。
だが、それでも俺は、ものさびしい裏庭に一人ぽつんとたたずんだまま、四京院はるかの透きとおるように美しい目鼻立ちを思い出していた。
翌日、講義は午前で終わった。昼を学食ですませ、家に帰って驚いた。玄関でエプロン姿の薫さんが出むかえて、ニヤニヤと言った。
「おっかえりー。シキョーインって子が来てるよー」
「ええっ、な、なんで――」
「いっやぁ、母はうれしいぞお」
話も聞かず、勝手にうきうきとポニーテールをふりふりエキサイトする。かわいいからいいけど。
「お前もやっと、男の友達ができたんだなぁ。これで女だらけの不健全な生活とはオサラバだぜ! いや、よかったよかった。
しかも、さすがはかずみちゃん、類は友をよぶ、ってんですか? まあたこれが、とんでもなくかわええ美少年でねえの、じゅるじゅる。
あ、だいじょうぶ、手ぇ出したりはしないからね。大事なかずちゃんのお友達ですからね。ささ、なにしてんの、奥でお友達が待ってますよぉ。ええと、はるかくんだったよねぇ」
「う、うん、はるかくん……」
やっと答えた俺に説明のすきも与えず、「お前のぶんのお茶もあとで……と言いたいところだけど、母さんバイトなのよねえ、ちっくしょう」と、引っこんで数秒で出てきて、俺のほほにキッスして「じゃあねー、ごゆっくりー」と手をふって出て行った。仕事着の上にエプロンしてたらしい。あの浮かれぶり。あとで女と知ったら、さぞがっかりすることだろう。
が、今はそんな場合じゃない。なんでいるんだ、あいつ。
いや、そもそも、なんで来るんだ。
「ああ、早かったな。おじゃましてるよ」
どかどか入ると、奴は小テーブルの上の麦茶を飲んで、くつろぎながら言った。昨日と同じような男装だが、白の開襟シャツに、深緑のストライプの入った明るいグリーンのスラックス、足もとは白ソックスという、学生服みたいな清潔な格好だ。きっとうちに来るために、わざとまじめっぽくしたんだろう。見あげる顔は、相変わらずイケメンオーラで光り輝いて美形さく裂だが、こっちは怒りで不細工になろうが、知ったことではない。
「なんで俺の部屋にいる」と俺。
「友達だと言ったら、ここに通された。いいお母さんだね」
「どうやって住所を調べた」
「これだ」
卓に放られたうすい冊子には、俺の顔の隠し撮り写真が表紙になっていた。どうでもいい顔だ。題は月刊「かずみ」。なめている。
めくると、俺の写真や資料がてんこ盛りで、寒気がした。ふと高校時代を思い出した。が、あのときはネットのファンサイトだった。
「お前のファンジンだ」
「雑誌とか、古風すぎだろ」
「ネットより、本人にバレる確立が低いんだってさ。そこにお前の住所と電話番号も、ばっちり載っている」
「俺にことわりもなく。犯罪だぞ、こんなの」と、ぱらぱらめくって顔をしかめる。「未成年ならともかく、いい歳した大人が、こんな……」
そこでとまった。見知った顔が、インタビューに答えている。目にマーカーが入っているが、明らかに撫祇子だ。
「うーん、恋人といえるか分かりませんねえ、そこんとこは、グレーゾーンなり……」
アホめ。
俺はため息ついて、向かいに座った。しげしげと見る四京院。
「平川、お前、本当にエロい顔だな」
「お前に言われたくない」
「僕は超美しくてうるわしいけど、そんなエロくはないな」と髪をかきあげる。「正直、うらやましい」
「で、なんの用だ?」
あきらめて聞くと、四京院は急に言いにくそうに目をそらした。
「じつはその、考えたんだが……。君とあらそっても、意味がないと気づいたんだ」
そして歯をキラーンと光らせて、美少年スマイルをかます。このうえなく美しいが、俺はイラついてるから落ちない。
「君とは協力しあったほうが双方の得だ。どうだ、手をむすばないか」と身を乗りだす。「僕はロミオに復帰できれば、それでいい。君はロミオを降りれれば、それでいい。見事な利害の一致じゃないか」
「俺も考えたんだが」
俺もいったん目をとじて言い、見つめる。
「じつは部長から条件をつけられていた。俺がロミオ役を引きうけて、もし成功したら、部長とデートしてもらえるんだ。わるいな、すっかり忘れてた」
「部長って、あの伊吹蘭子とか?」と驚く。「あんな超スーパーモデルとデートだと? あきらめろ、いくら君でも無理だ」
「無理もなにも、すでに一度デートしてるんだぞ」
「な、なんだと……!」
目と片眉をつりあげ、うめくように言う。
「それじゃ、女とデートしたいがために、わざわざド素人の身で舞台に立つつもりか? バカなんじゃないか?!」
怒りだしたが、俺の知ったことじゃない。
「バカさ。だからこの件は、君が一人でがんばりたまえ。じゃ、そういうことで、さっさと帰ってくれ」
手でうながしたが、相手は腰をあげるようすもない。
「僕からロミオを奪ったうえに、女とデートまでするとは! どこまで鬼畜なんだ!」
「俺が奪ったんじゃないって。劇部の奴らがきめたんだろ」
「ひどい、最低だ……」とうつむいたかと思うと、目をうるうるさせて俺を責める。「僕を泣かせてまで、デートがしたいのかっ?!」
「そんなの、そっちの勝手だろう」
「僕を窮地に追いつめて、うはうは楽しみやがって! サドにもほどがあるぞ!」
ニッポンいちのマゾ男を自負している俺に、ひどい言いぐさだ。奴がみじめに泣こうがわめこうが何も楽しくないし、うるさいだけだ。
だが、こうして俺がガンとしてゆずらないでいると、奴は急に作戦を変えてきた。俺の隣にまわって、首に抱きついてきたのだ。
「こ、こらっ、なにを」
「いいじゃないか、男同士なんだし。君のお母さんも言ってたろ、男友達って」
アンニュイな目で甘ったるく言い、耳に息を吹きかける。思わずぞくっとしてビビった。
「ば、ばか、お前、女じゃないか。だいたい、お、俺には、蘭子さんという――」
「なんだ、首もよわいのか。どれどれ……」と、首筋に舌を這わせてくる。勃起しそうになって、あわてて離れた。
「わ、わかった、協力する! だから、変態行為はやめろ!」
「ふん、マゾの変態のくせに……」
もとの位置に引っこみ、妖艶な目つきで猫のように指をなめる。ふと、冊子のひらいてあるページに目がいった。
「かずみどのは、ああ見えて、かなりマゾの気がありんす。いいや、長年の友達としての観察から見て、それはまちがいないなりよ」
俺は歯がみして、はるかをにらんだ。
こいつ、知ってやがったな。
結局、立った計画は、双方の顔が立つように折ちゅうした、さえないものだった。
俺はロミオ役をやるために日々練習にはげむが、当日、急な病気とかの理由で出られなくなる。そこへ救世主のように現れたはるかが、代役になる。
俺は劇には出られないが、そのためにがんばってきたことは蘭子さんも認めるだろうし、そもそも無理いってロミオ役を頼んだのはあっちなんだから、その後のデートの件はくつがえらないだろう。
どうだ、これで。いいじゃないか、完璧だ。
いや完璧ってことはないぞ。劇部の連中は、お前をあくまで立たせないかもしれん。
いいや、代役をさがす時間もないし、あの役は僕いがいには絶対に無理だ。
よし、なら、それで行こう……。
こうして、秋の文化祭まで続く俺たちの大計略は完成した。
計画が立つのに三十分もかからなかった。俺がよほど、とっとと決めたくて急いだんだろう。
時間は、まだ午後二時。薫さんは今日みたいな遅番だと、早くても九時すぎないと帰ってこない。
いっしょに姦計をはかるあいだがらになったてまえ、すぐ帰ってもらうのもなんなので、そのあとはおたがいにくつろいで、ふつうの会話になった。って、俺たちの場合、あまりふつうにならないが。
「きのうみたいに、女に告られるのって、よくあるのか?」
俺が聞くと、はるかは意味深な笑みを浮かべた。
「ああ、君も不思議だろう。女の僕が、なんで男の格好をしてるのか……」
そう言いながら胸をそらし、自分を見せびらかすように上半身を小さくゆらした。そんなしぐさをしても、胸があるのかないのかよくわからないので、外見は男にしか見えない。だが、じつは女である、という事実のせいで、その肉体から言いようのない湿ったエロスがかもしだされている気がして、ちょっとどきっとした。なにか男にはない艶というか、べたっとしたぬめり気というか、言い方は変だが、独特の温度みたいな。
俺の気持ちが分かったように微笑すると、彼女はおもむろに自分の話をしだした。
「こう見えて僕も、幼児のころは、ふつうに女の子っぽい格好で、女らしい言葉づかいで生きていたんだ」
「へえ、そうなのか」
「で、ほら女って、そうすると男の子より得するもんだと早くからさとってさ、それこそ幼女のころから、かわいこぶって、まわりの大人にこびを売るようになるだろ? ところが僕は、そういうふつうの子より、はるかに早熟で色気づいていた。
五歳にして、男の子を見るとむらむらして、なんとかしてモテたいと思うようになったんだが、一生懸命こびを売っても、なかなかうまくいかない。もともと女らしくするのが好きじゃなかったんで、無理してた、っていうのもある。
ところが、六歳になって間もない、ある日の夕方のことだ。Tシャツにジーパンという、めずらしくボーイッシュな格好で公園に行くと、知らない男の子たちが、砂場でくんずほぐれつして遊んでいたんだ。集団プロレスというか、バトルロイヤルのつもりだったらしく、『お前もやるか?』と聞かれて、まじった。今みたいに髪も短かったから、男の子とまちがわれたのさ。
で、いっしょになって取っ組みあって暴れたんだけど、えらく感動したよ。だって、平気で男の子にくっついたり、さわったりできるばかりか、向こうも、僕のいろんなとこにくっついたり、さわってくれるんだよ! 今まで、男の子どころか、女の子ともそんなに体が密着したことがなかったのに、いきなり全身をべたべたされるわ、のしかかられるわ押さえ込まれるわで、いやもう異常興奮で、その晩は一睡もできなかった」
話しながら、鼻息あらくこぶしを握り、目がらんらんと見ひらくさまを見て、俺はふと、今まで俺を襲ってきたいろんな誰かを思い出した。さっきのセクハラといい、女はみんなこうなのかな。それとも、俺がたんに、そういう女としか縁ができないだけなのか。
で、こいつもふだんはクールを決めているようだが、根本的にはいっしょのようだ。一皮むけば野獣である。
「それからさ、僕が男装するようになったのは。男の格好をすれば、相手は近寄りやすいから、きっと男なんてすいすい釣れてモテモテにちがいない、なんて。
ところが、最初はそう思ったんだが、それには、じつはでかい落とし穴があった。この技は、僕を知らない奴にしか通じないんだ」
まぶたに何か浮かんだのか、ふと遠くを見つめる目になった。そして、またこっちを見る。澄んだきれいな目だった。
「中学生のころ、ある男を本気で好きになった。近所のスーパーでよく見かけた。気がついたら、買い物がてらじゃなく、夕方になると、そいつを探すためだけに、わざわざ行くようにまでなった。
そのうち、なんとかきっかけを作って話しかけて、友達になった。同い年だったが、ちがう中学だったんで、性別はバレなかった。
親しくなるにつれ、僕は天にのぼるほどの幸福を味わった。だって、むこうは僕が女だなんて知らないから、話しながら平気で僕の肩に手をまわしたり、肩をくんだり、あげくはふざけて馬乗りになったり、密着しまくってくれるんだぜ! そのたびにもう、のぼせあがって、心臓バクバクものさ。好きな男にべたべたされて、ほんと異常興奮の毎日だったな」
ピンクに染まる両のほほに、手をあててうっとりする。不覚にも、かわいいと思った。スキンシップで興奮する気持ちもわかる。自分と違う異性の肉体にくっつく、あの感じ。わきあがる背徳感にも押され、今すぐその場で強引にねじふせられて、メチャクチャにされたいという、悪魔のような衝動にかられる。
だが彼女は、すぐにもとの人形のように冷ややかな顔に戻った。眉が寄り、ふてくされたような顔。そんなのでも透きとおるようにきれいなんだから、ほんと妬ける。
「それが、ある日のことだ。いつも落ちあう公園で、彼がいきなり土下座するんだよ。おどろいて、どうしたんだと聞くと、彼は目にうるうる涙さえためて、こう言うんだ。
『すまない、知らなかったんだ。どうか、ゆるしてくれ』
『おい、落ちつけ。いったいなんのことだ? なんで急に謝るんだ?』
『はるか、お前、女だったんだな……』
情けない顔で見あげる。
『気づかなかった俺がバカだった! 本当にごめん!』
そして中腰になり、悔しそうに歯がみしながら、ふるえてにぎにぎする自分の指を、食い入るように見つめる。
『なのに、お前にあんなことや、こんなことまでしちまって。も、もうダメだ。俺の人生はおわりだ……』
『なんだ、べたべたさわったことか』
僕はあきれて笑った。
『だいじょうぶだ、そんなの気にしてない。いや、それどころか、むしろ――』
これは、告る絶好のチャンスだった。
なのに、次の彼の一言で、すべて台無しになった。
『たのむ。つ……通報、しないでくれ……!』
いきなり言って、また土下座だ。
頭がまっしろになった。
いやちがう。いいんだ。
好きで君にさせてたんだから、いいんだそれは……。
そう言いたくても、舌が根を張ったみたいに動かない。かわりに、僕の口は、とんでもないことを言った。おもむろにポケットに両手を突っこみ、冷ややかに彼を見おろす。
『わかった。通報なんかしないから……』
そしてそっけなく、でも震え声で言った。
『今すぐ、消えてくれ……』
彼は這うように逃げていった。
それきりさ。
おかしいだろ? 好きだったはずなのに、出てきた言葉は真逆。つまり、いっぺんに醒めちまったのさ。
もちろん、彼はぜんぜん悪くない。自分がじつは犯罪をおかしていたと知ったら、そりゃ誰だっておびえるよ。たんに、そんなことで幻滅した僕が幼かったのさ。
とにかく、そのことでひとつの教訓を得た。男の格好をすれば、確かに相手は安心してベタベタしてくれるが、女だとバレたら、一巻の終わりだってことだ。それなら、最初から女の格好でいたほうがマシだ。だから、誰も男装なんてしないんだと思う。
でも僕はあいにく、この格好が気に入ってるんだ」
そう言って胸を張る。かすかに乳房のラインが出たように見えたが、目立たなかった。
「王子さまっぽく女にキャーキャー言われたり、チヤホヤされるのもきらいじゃない。でも、いちばんの理由は、男の姿のほうがパンツが見えないし、緊張しないで気楽に生きられるから、ってことだな。あと、まぁなんだかんだ言っても、やっぱりこのほうが男が寄ってきやすい。それで、男装はやめなかったわけさ」
聞いてて、いろいろと感慨があったが、印象深いのは、はるかをさわっていた男の、ものすごいビビりようだ。ひるがえって、俺を襲った女どもの強さったらどうだ(いま俺を見ているこいつも、ついさっきやった)。薫さんも、性犯罪になるとか、少しはおびえてほしいもんだ。
そこで、ふと疑問がうかんだ。
「男が寄ってきやすいのはいいけど、それだと逆に、痴漢にあいやすいんじゃないか?」
「寄ってきて、僕の中に入れてやるのは、気に入った男だけだ。どうでもいいのは、威かくして追いはらう。僕はふだんから怖そうに見えるらしいから、その点は楽だね」
「怖そうじゃないと、男装しちゃいけないってことか?」
「そりゃそうさ。おとなしくて安全でボーイッシュ、なんてんじゃ、襲ってください、と言うようなもんだ。
とくに、君みたいのはダメだ」
「あのう、俺、男なんですけど……」
「悪いけど僕には……男装にしか見えない」
「がーん」
ショックで足もとを見た。たしかに、無防備すぎるとか、男らしくない、とかは、さんざん言われてきたが、生物学的にも否定されたのは初めてだ。
「君の場合は、男じゃなくて女が襲ってくるわけだが、被害の度合いは同じだ。さっきも、僕にヤラれっぱなしだったじゃないか」
「で、でも、なんで俺がヤラれまくってることを知ってるんだ」
「ファンジンに載ってた」
撫祇子のヤロー、どこまでしゃべってんだ。今度あったら殴ってやる。と思っても、どうせ出来ないけど。
「まあ、好きな奴にヤラれてるんなら問題ないが、ちがってたらマズいだろ? 体育教師のときみたいにな」
「あ、あれは最初はよかったんだ。途中から相手がヤバくなっただけで」
「だって死にかけたんだろ? 命にかかわるほど弱いのは、どうかと思う」
「じゃ、じゃあ、どうすれば」
「僕のように、クールにふるまえばいいのさ」
「は、はあ」
「じゃあまず、こんなふうに口もとをつりあげて、流し目で、冷酷非情に見える表情をつくって」
醒めきったその顔は、寒気すら感じるほどに怖かった。氷のキツネというか、テロリストというか、異界から出た魔物みたいで、背後から暗黒星雲の冷気がぶーっと吹いてきて突き刺さるようだ。こんなん、真似できるかっ。
でも、いちおうやった。大笑いされた。
「はははは、なんだよ、それ」
苦しそうに言いながら、指で目頭から涙をぬぐう。その顔があまりにもかわいいんで、かなりおどろいた。まるで別人だ。
だが、またすぐ冷ややかな、いけすかない奴にもどる。
「まあ、わざとだからおかしいだけで、身につけば、かなりイケるぞ」
「本当に、こんなんで女に襲われないのか?」
「ああ。君に足りないのは怖さだ。怒っても怖くなかったら、それは人間じゃない。人権の放棄だ。怖がらせて自分をまもるんだよ。君のように、なにされても『ドーゾ、ドーゾ』じゃ、ただの虫けらだ」
これにはカチンときた。
「俺だって、望まないことをされたら、ちゃんと怒るぞ」
「へえ、ほんとかなぁ」
いきなり妙な目つきになり、猫のようにさっと近づいて、俺にすり寄ってきた。突然なんで、胸がどきどきした。
「うわわっ、自分が襲ってどうすんだ!」
「ふふん、やっぱりダメじゃないか……」
低く言い、うわ目で見つめると、いきなり抱きついて俺の唇を奪った。俺は押し倒されてうめいた。
「むううっ!」
かまわずのしかかり、きゃしゃな体を押しつけてディープキスしまくるはるか。押しのけようとしたが、腕にろくに力が入らない。
「や、やめてくれ、たのむ……あっ、だめっ、そこっ……!」
「……まったく、君ほどエロい男はいないよ。エロすぎて、おかしくなりそうだ」
顔を上気させ、息を荒らげるはるか。
最初のうちは、このままヤラれてもかまわないどころか興奮すらしたが、同時に、いやな気持ちも生まれた。それはむくむくと大きくなり、すぐに快感を凌駕した。さっき聞いた失恋話を思い出したせいだ。
きっと、こいつは典型的なツンデレだ。好きな男にはツンツンして振られ、逆にどうでもいい奴には、かわいいとか簡単に言って、平気で性行為する。ようするに、今の俺は完全に遊ばれてるだけだ。
どこか尊敬できるところでもあれば、遊ばれてもそれは名誉だが、悪いがこの四京院はるかに対して、そういう感情はない。見た目は確かに超絶モデルのようにすばらしいが、それしかない。せいぜい、男装のことで苦労してきてかわいそう、ってなだけ。正直、そういうのに襲われても不快なだけだ。
俺がいきなり真剣に見すえたので、奴は動きを止めて、きょとんとした。
「やめろ……」
俺は眉間にしわを寄せて低く言い、次の瞬間、そのおきれいな顔へ、ハンマーを振りおろすように言った。
「通報するぞ……!」
とたんに目を見ひらいて飛びのくはるか。俺が起きあがると、奴は、わなわなと責めるように指さし、叫んだ。
「そ、その言葉を、僕に言うのか?!」
とたんに俺はむなしくなり、「わかった」と目を閉じた。
「通報なんかしないから、」
目をあけて、冷たく言った。
「今すぐ消えてくれ……」
はるかが這うように廊下に消えて、はじめて、ドアの向こうに誰かが立っていることに気づいた。いつもどおりの俺のヒーロー、薫さんだ。
「……見てたの?」
俺が立ちあがって言うと、薫さんは、あわれむような暗いような顔で、ぽつりと言った。
「……うん」
「……ずいぶん、はやかったね」
「……店長が用事あるって、早く閉まってさ」
「……ふうん」
薫さんは背をむけて行きかけたが、すぐに「かずみ」とふり向いた。
「なに」
彼女は、口もとをゆるませ、限りなくやさしい目で言った。
「よくやったな」
その晩、食堂に俺の好きなホイコーロー丼を持ってくると、彼女はいつもの薫さんに戻っていた。今日のは豚肉がいつもの倍だ、などと自慢のように言い、おいて去りぎわに、ふと俺の両肩に手を置き、真剣な顔ではげますように言った。
「心配すんな。世の中には、アセクシャルといってな、性欲のない人もいるんだ」
「はあ?」
わけが分からずきょとんとする俺に、気づかない様子で続ける。
「きっと、いつかお前にも友達ができる。今のままじゃ、せいぜい小さい子供か老人としかつきあえないが、最近のガキはませてるからどうせ欲情するし、ジジイもお前と会ったら、たちまち若返って性欲モリモリになり、襲ってくるだろう……」
俺はバイアグラですか。
どうも彼女は、また変な誤解をしているようだ。俺がなにも言わないと、急に厳しい顔と口調の、説教モードになった。
「とにかく、あのシキョーインって奴とは、つきあっちゃダメだ」
ああ、やっぱな、と思った。そりゃそうだ。あんな場面を目撃したら、母として許せないに決まってる。撫祇子に体育教師、そして四京院はるか。俺を襲った女は、みなことごとく薫さんに撃退され、すごすご逃げていった。今日のはるかだけは、俺が自分で追いだしたんだけど。
ところが、薫さんは悩むように額を指で押さえ、妙なことを言い出した。
「まったく、お前のエロさは性別まで超えちまうんだからなぁ。考えたら、たとえ男だろうが、お前のすさまじい爆弾的エロスのとりこになって当然だ。いや、むしろ、男のほうが危ないかもしれん……」
えっ、いったい、なに言ってるの?
「あーあ、せっかくかずみにも男の友達ができたと思ったのに」と腕ぐみしてなげく。「うちに来た初日に、もう襲ってんだもんなぁ」
ちょ、ちょっと待ってくれ。
思う間に、また俺の両肩に手をおき、俺の目をじっと見すえて、深刻に言った。
「お前は、人類すべてに襲われる運命かもしれん……」
それ、すんげえヤなんですけど。
「だが、めげるな。おまえの前にも、今にきっと性欲のない奴が現れるさ。それまで、お前を襲うような不届きものは、老若男女を問わず、あたしが追い払ってやるから、安心しろ」
あんたが、まず最初に不届きだったと思うぞ。まあ、あれは酒のうえでのことだったが。
とにかく、薫さんはひとりで勝手にしゃべって勝手に納得し、洗い場に去っていった。
なにがなんやら、わけが分からない。
だが、ひとつはっきりしているのは、彼女がはるかを、今も男だと思っている、という事実だ。