六、伊吹蘭子(二)
「す、すまなかった! ほんっ、とうぉぉぉ――にっ、すまなかったっ!」
部室に入るなり、部長が土下座して謝るので、面食らった。美しい蘭子さんの醜態は、それはそれで萌えな気もするが、やはりあこがれの人だから、いい気持ちはしない。
「もういいんですよ、顔をあげてください!」
あわててそう言うと、彼女は土下座のまま顔をひょいとあげて、こっちを見た。とうとつに、むかしカゴで飼っていたミドリガメにえさをやるときを思いだした。そのときは真冬で、ある晩、うっかり玄関の下駄箱のうえにカゴを放置してそのまま忘れ、凍死させた。そのときのカメは、こんな顔だったんだろうかと思った。なさけない八の字眉にうわ目づかい、口は半びらきで、おろおろと俺の顔をうかがっている。長くて豊富な美しい髪が床の四方に水をぶちまけたように流れ、着ているシャツやパンツがしわになって汚れるのもかまわずに。
これほどの美女が、このうれいの表情。あのきりりとした蘭子さんとは思えない弱気に、俺の心中は複雑だった。サドだったら大よろこびのシチュだろうし、俺だって人間だから、マヌケな上司の姿は面白いっちゃ面白いが、やっぱり部長には、いつもカッコよくて、どっかと椅子に座って足をくみ、腕ぐみでもして、ドヤ顔で「ふっふっふ」と余裕でかまえていて欲しい。
「俺、もう気にしてませんし、ぜんぶまるく収まりましたから。それに部長は、なにも悪くないですよ」
「いいや、トレーニングを受けろ、と強制した私の責任だ」
はいつくばったまま言い、床に目を落とす。
「あいつが変わっているとは思っていたが、まさか、そこまで性的におかしいとは……。トレーナーとしての腕は確かだった。私も、コーチしてもらったんだ」
「だ、だいじょうぶだったんですか?!」
言って手を差し出すと、素直に取って、やっと立ちあがってくれた。それでも弱気さは変わらず、眉はあいかわらず下がり、顔つきは暗い。これはこれで、アンニュイだけど。
「たぶん、女に興味ないから、助かったんだろう」
その言葉に、俺は目をふせた。
「そうっすね。やっぱり俺がこんなに……」
かわいいから、と言いそうになって、やめた。それじゃ、まるで自慢だ。そのつもりなんかないが、それを聞いた世の中の九十九パーセントが、そう思うだろう。
だが蘭子さんは、残りの一パーセントの人だった。ぱっと俺の心中を察した顔になり、両手で俺の手をつつむと、真剣に言った。
「平川、おわびがしたい。ごちそうするから、なんでも食べたいものを言ってくれ」
「ええっ?!」
先輩とディナー。
ということは、デートってことですか?!
まさかそんな日が、こうも早く来ようとは思ってもみなかったので、戸惑った。だが、むろんオーケーである。
「いいっすけど……俺、店とか知らなくて。ファミレスとかしか」
「いや、そんな場所では、わびにならん。そうだ、高級レストランを知ってるから、そこはどうだ。ステーキハウスだが」
「そ、そんな高そうなとこ、わるいっすよ」
「なにを言っている」
眉をつりあげる蘭子さん。そう、この顔が見たかった。やっぱこの人は、こうでなくっちゃ。
「殺されそうになったんだから、わがまま言ったって、バチは当たらん。いや、むしろ今は、わがまま言ってくれ」
わがまま言ってくれ、って、彼女の口から聞くと、なんか興奮するなぁ。そこまで言うなら甘えようと思った。
承諾すると彼女は安心し、女神のようにさわやかに笑った。窓からの日ざしが、その美麗な顔をきらきらと輝かせ、俺の胸に、ずきゅーん! と電流が走った。
(か、かわいすぎるっ……!)
だが、その感動はあっさり断ちきられた。いきなり入ってきた橘が、いまだに俺の手を握ったままの部長を見て目を輝かせた。
「あー! そういうことだったんですねー!」
勘違いして盛りあがり、あわてて手を離し、弁解しだす部長。
「ち、ちがう、これは、そういうことじゃない!」
「じつは、デートの約束もしたんですよー」
俺がニコやかに言うと、橘は頬を両手で包み、嬉しそうに「きゃー!」とはしゃいだ。「ちがーう!」と、ますますあせって、両腕をペンギンのようにぱたぱたさせる蘭子さん。あー楽しい。
次の土曜の晩は、晴れて星がよく見えた。都心の某高層ビルの最上階に、そのニューヨークという名のステーキ・レストランはあった。ちょっと調べたら、東京屈指の眺望レストランで、夜景が素晴らしいとのこと。ちょっと、というのは、あまり事前に知っていると、実際に行ったときの感動がうすれるのと、せっかく蘭子さんがおごってくれるのに、下調べなんて失礼だと思ったからだ。
待ちあわせの新宿駅南口に降りると、タクシーが来ていた。蘭子さんが窓から顔を出して俺を呼んだ。ビルで待ちあわせると絶対にまようから、これで直通にしたとのことだが、どこまで太っ腹なんだ。もしかしたら、家が雪乃さん並みの金持ちか、さもなければ、ちょうどモデル代が入ってリッチなのだろうか。むろん、聞くわけにもいかない。
そういえば、部長の家や家族の話は聞いたことがないが、こんなふうにいっしょにいる時間が増えれば、おいおいわかってくるかもしれない。
なんだかんだ言って、タクシーで彼女の横に座ってるあいだじゅう、俺は天にものぼる気持ちだった。蘭子さんとデートである。たとえ不始末の埋めあわせというさえない理由であるにせよ、今夜は二人きりでディナーをごいっしょできるのだ。そのあと、なにか続きがあるなんて、もちろん夢にも思わない。もしあったら、俺のやわな心臓は破裂するだろう。
普段着NGの店らしいので、入学式で着た背広をひっぱり出したが、薫さんは「就活みてえだな」と笑いやがった。もちろん、蘭子さんはそんなことはしない。俺を見て、「おしゃれに決めてきたな」と、ちがう意味で笑ってくれた。大物である。彼女は紺のドレスで、そでにフリルのついた大人っぽいワンピを上手に着こなしていた。
最初は緊張したが、すぐにうれしさがそれを凌駕した。だが告ろうとはまるで思わなかった。せっかくこんなにいい日なのに、それでもしダメだったら、もう立ちなおれなくなって、完全にぶち壊しである。むこうから来れば話はべつだが、その可能性はゼロに近い。いや、彼女に関しては、むこうから来ないから好きになったわけだから、それでいいのだ。
店の中は、まわり一面ぐるりとガラス窓で、新宿の景色が見わたせた。思わず「うおおー!」と叫びかけてあわてて口を押さえたら、蘭子さんは俺の肩に手をおいて笑い、「いいぞ。私も最初は声が出た」と言った。今夜は、おそろしくやさしい。埋めあわせだからと思っても、つい、かんちがいしそうになる。もしかして、ほんとうは俺のことを……。ないない。
店内の壁には、アールヌーボーだかのしゃれた絵がでかでかと飾られ、ひかえめな音量でゆったりしたジャズがかかっている。ボーイさんに、はじの四角いテーブルまで案内される。
白いシーツが高級そうでビビるが、それよりも、窓から見える絶景に心を奪われた。無数の星のようなネオンライトの洪水。夜空にも、白い星の点が、一面ばらまいたようにちらちらして、その下に横たわる無数のビルたちの影と、青い窓の明かりの群れは、海底に沈む古代の遺跡のようだ。その屋上あたりには、火のような赤いライトが点々とまぶされて、それらが頬紅のようで、夜景全体が絶妙な光のバランスをたもっている。美しい、とかではとてもたりない。見た瞬間、息をのんだほど。
座るのを忘れていたので、「ほら」とうながされた。やっと座ったが、すごいですねとかなんとか言えばいいのに、言葉が出ない。だが、向かいあって座る蘭子さんの顔は、上からのうす明かりにぼうっと幻想的に浮かびあがって、あまりにロマンチックで、俺からさらに言葉をうばった。コースだからと言われてメニューは見なかったが、きっとメタクソ高いので、見なくてよかった。
「私も最初に見たときは、そんな顔になった」
夜景のことを言いつつ、オリーブオイルトーストをかじる蘭子さん。これは初めて食べたが、パンにオリーブオイルをかけて塩をふっただけらしいのだが、とんでもなくおいしい。そのあとは、ただおしゃれで高級だ、くらいしか分からないグリルや、皿に乗った牛の煮こみなどが次々に出た。
そのうち、妙なことに気づいた。まわりの席も徐々に埋まってきたが、どこも濃厚なカップルばかりで、手をにぎりあって見つめあうわ、男のひそひそ声のくどき文句まで聞こえてくるわで、かなり恥ずかしくなった。蘭子さんもそれに気づいたようで、急に店内に目をやっては、気まずそうに皿を見おろしたりしだした。
(もしかして、ここは……)
どうやらここは、男が女を落とすために連れてくるような高級レストランで、蘭子さんは、それを知らなかったっぽい。
「あ、あのう、ええと……」
俺が苦笑すると、彼女はすがるようなうわ目になって言った。
「す、すまない、前に家族で来たときはランチで、まわりも家族づればかりだったんだ。景色に感動したんで、夜だったらさぞかし、と思ったんだが……」と、まわりを横目で見て、「まさか、こんな状態とは……」
うすいライトに照らされた彼女のほほが、ほのかに赤らんでいるのが見えて、かわいいと思った。
「気にしないでください。そうだ、ワインでもやれば、落ちつきますよ」
俺は微笑してグラスを指した。赤なので、うす明かりでは血のように黒く見える。
「ここはニューヨークといいながら、カリフォルニアワインなんだ」
妙にふてくされたように言い、くいとあおる彼女。ほほにかかる髪がさあっと流れて、なんでもないしぐさも、いちいちうるわしくて見とれる。
「ちなみに、肉も和牛だ。ニューヨークなのに」
「ちがいは全然分かんないすけど」
言いつつ俺も飲む。味は分からんが、すんげえうまい。いかん、酔わないようにしないと。
「すんげえうまいっすね、これ」
「ナパのメルローは飲みやすいからな」
「ナパってナパームですか?」
「産地の名前だ」と口をフキンで押さえる。「いかん、飲みすぎるな、これ。パンを注文していいか?」
「ええ、どうぞ」
断らなくてもいいのに、と思ったが、俺のためのディナーだから気を使ってくれているのだ。完璧だ。
「はっきりいって、ここはパンが一番うまい。あと牛肉な」と、来たトーストをかじる蘭子さん。
「きっと、夜景がニューヨークってことでしょうね」
言って、外を見る。確かにすばらしい。死ぬまで見ていたいくらいだ。晴れだからとくに輝いているが、雨や雪のときも、きっとすばらしいだろう。
「だな……。ん? お前……」
一瞬、窓に気を取られたすきに、パンを取られたのに気づき、片眉をつりあげる蘭子さん。やべえ、気づくと思わなかった。しかし、すでに口に突っこんだあとだ。
「ふ、ふいまへん、ふい……(す、すいません、つい)」
もぐもぐやっている俺を見て、不機嫌そうに腕ぐみする。やばい、俺はなんてことを。パンがうますぎるのがわるい。やっと飲みこんで、弁解する。
「ええと、こういう場所で、これはやっぱよくないっすね。すいません……」
「マナーがどうじゃない」と、ぷいと横を向く。「ここはパンがいちばんうまいのに、それを、お前は……」
一瞬、目が点になった。
(えっ、マナーじゃないの……?)
(たんに、食べたかったから、怒ってんの……?)
思わず、ぶっと吹きだしそうになるのを、顔をそむけて口をおさえ、わなわなとこらえた。
「なんだ、パンが好きでわるいか」
「い、いえ、そういうわけでは」
だが笑いをこらえて顔を見た俺は、すさまじい感動に目が見ひらいた。
ずきゅううーん!
ハートを射ぬかれた。
蘭子さんはいま、テーブルの縁をつかんでやや身を乗り出し、顔を赤らめて目を細め、への字ぐちで俺を見つめているではないか。完全に、ふてくされているのだ。たかがパンくらいで。まさか、彼女がこんなに甘えんぼうだったとは……!
あまりのかわいさに、呼吸困難におちいりかけた。
「どうした? だいじょうぶか?」
俺の異常に気づき、やや顔色をかえて言う。
「い、いえ、だいじょうぶです」と、やっと息をととのえて苦笑する。「飲みすぎですね、きっと」
そしてあわてて水を飲んだが、おかしい。味がきつい。
「それ、ワインだぞ」
「あっ」
「はははは」
とたんに笑いだす彼女。まわりに悪いので、なんとか口を手で押さえて声をひそめて。あんまりウケるので、俺は、なんかむっとした。
「そ、そんなにおかしいっすか?」
「だって、飲みすぎだって言いながら、ワインって、ふふふふ」
指で目じりの涙をふくが、ツボに入ったようだ。
「いかん、とまらない」
俺も笑えてきた。「失礼します」と、ナプキンで涙をふいてあげた。大人しく目をとじて顔を差しだすので、メイクさんになった気分だ。
「こんなに泣いたのは、ひさしぶりだ」
「それふつう、悲しんだときに言うセリフですけどね」
「やめろ、もう笑かすな」とふくみ笑いし、やっと落ちついた。席に背をもたれ、バッグからコンパクトを出して、顔をなおす。
「まったく、お前のせいだぞ」
「ええっ、蘭子さんがふてくされるのがわるいっすよ」
「もとはといえば、平川がパンを盗みぐいしたから――」
言いかけて、言葉がこの場にふさわしくないと気づき、声をひそめ、顔を近づけた。俺もそうすると、口のわきに手をあてて、ないしょ話のように、
「……今日は、お前のためのディナーだから、このくらいは許してやる。だが、次にパンを取ったら、ただじゃおかないからな」
これには驚いた。
「えっそれ、次もあるってことですか?!」
「かんちがいするな。部室とかで、またやったら、という意味だ」
顔がものすごく近いので胸がどきどきしたが、むこうは気にしていないようだ。その唇から甘い酒のにおいがして、こっちの体の芯まで染みとおる気がした。
ふと隣のカップルが目に入った。同じ体勢でキスしている。
(う、うわあああ――!)
俺はいっぺんに恥ずかしくなり、席に引っこんで萎縮した。まるで中学生だ。とても大人の反応じゃない。でも、そうだ、こういうことに免疫がないんだから、しかたがない。
また、さぞ笑われるだろうな。と思ってひょいと見ると、なんと彼女のほうも、椅子に引っこんで顔を赤らめ、目をあたりに泳がせていた。同じとは驚いた。
が、さらに驚くことが起きた。また俺に顔を近づけ、まわりに目を走らせながら、ささやいてきた。
「き、キスしてるぞ……」
「そ、そうすね……」
「ど、どうする……?」
どうするったって。「こっちもしますか?」とか言うわけにはいかない。
「こっちもしますか?」
バカか俺は。やっぱ酔っている。
彼女は一瞬、目がひらいたが、すぐに席に戻った。鉄が急激に冷えるかのように、一気にテンションが下がったのが分かった。そして目をそらし、ぽつりと言った。
「そろそろ出るか……」
帰りのタクシーでは、ほとんど会話がなかった。だめだ、完全に怒ってる。俺の恋はおわりだ。あんなバカなことを言っただけで。
だが、半分冗談のつもりだったのに、なにも、こんなに怒ることないじゃん。いや、酔いがさめて、いつもの蘭子さんに戻っただけにも見える。いや、やっぱ怒ってるか……。
横顔をちらちらうかがっても、なにを思っているのか読めない。話しかけるしかない。
「ええと、きょ、今日は、ありがとうございました」
「……」
返事がない。車の静かなうなりと、かすかな街のけん騒ばかり聞こえてくる。俺はあせった。
「て、展望が良かったですね」
あとで思うと、展望ではなく眺望だったが、そのときは、こんなボケをかましても、やはり無反応だった。
「……」
「あ、あのう、あのとき、あんなことを言ったのはですね、そのう……」
「……」
弁解しようとしたが、なんと言っていいかわからない。見れば、目をとじている。寝ちゃったか? もう駅なのに、まずいな。寝てるうちに帰るわけにも――。
そのとき、いきなり目をひらいたと思うと、彼女はいきなり俺にだーっとなだれこんできた。
(えええええ――?!)
ビビりまくる俺の膝のうえに、うつぶせになる。
「すまん……」
そして、うわごとのように言った。
「家まで……送って……く……れ……」
悪酔いしていたのだった。
来たときと同じタクシーなので、家はわかっていた。彼女のきゃしゃな体つきやぬくもり、ドレスの絹ずれの感触などに感動もしたが、やはり心配のほうが大きかった。
店を出てタクシーに乗るまでは、しゃんとしていた。が、妙に無愛想だった。その異様な状態は、じつは俺がテーブルでキスについてバカを言った直後から続いていたので、てっきりそれに腹をたてて黙っているのかと思ったが、本当は酒のせいだったのだ。きもちわるいのに、平気なふりをしていたのである。俺の前で見栄をはっていたのだ。
(俺なんかのために、なんで……)
いや、きっと俺のためのディナーだから弱るわけにいかず、気をはっていたにちがいない。それがさっき、ついに限界にきたのだろう。
俺は、膝のうえですうすう寝息をたてる彼女を見おろし、胸が、ぎゅううっ、と熱くなった。「いとおしさ」とでもいおうか、わけのわからない熱い感情が、がーっとこみ上げて、思わず抱きしめたくなったが、こらえた。
だが、うつぶせのままじゃ顔を圧迫されてまずい。上を向かせなきゃダメだ。そうなると、どうしてもいっぺん抱きおこす必要がある。
肩に腕をまわして上体をおこすと、彼女は「うーん」とけだるい声をもらし、身をかるくよじった。俺のすぐそばに輝くほどに美しい顔があり、両目をとじて甘い息をもらし、あまりにもアンニュイな雰囲気をむんむんさせている。流れるような髪がいま、俺の腕の中にある。その柔らかく艶めく唇に、あわや口づけしそうになった。
が、そのまま上を向かせて頭を自分の腿のうえに置き、髪が床に流れ落ちないようシートにあげた。彼女の顔を見おろし、その肉体とあたたかいぬくもりを感じ、いつまでもこうしていたかった。蘭子さんを、このまま永遠に感じていたい。家になんか着かなければいいのに。
しばらくすると慣れてきたのか、胸のどきどきが多少おさまった。車がまがるたびに、窓からさしこむ街のネオンが、彼女の安らかな顔を何度も縦横から、きらびやかに撫でてはきえていく。それを見おろして、俺はなんてしあわせものなんだ、と思った。
雪乃さんのお屋敷ほどではなかったが、蘭子さんの家もけっこうでかい邸宅で、タクシーが着くと、いきなり中からぞろぞろと若い男が出てきた。
一方、俺はそうとう困っていた。料金を払うはずの人が熟睡したまま横たわっているので、じゃあ代わりに俺がと財布をあけても、とても足りる金額ではなかった。運転手が怒りだす前に、なんとか家の誰かを呼んで払ってもらおうと思った、その矢先だった。
「ちょ、ちょうどよかった! ちょっと待っててください!」
けげんな顔の運ちゃんに言ってドアをあけるや、数個の男の顔が車内をぐいぐいのぞきこみ、怒とうのように言葉を発しだした。俺の顔を見て歓声をあげ、「さすが姉ちゃんの初デートの相手だ! ほら、言ったとおり超イケメンだろ!マコト、千円な!」「ちっくしょう」などと大さわぎがおこり、車内の者は寝ている一名をのぞき、しばしこの嵐に耐えねばならなかった。
会話から察するに、彼らはどうも蘭子さんの兄弟のようだが、おどろいたことに、その場の全員が、そろいもそろって超絶美形だった。しかも、マコトだのユウヤだの、おのおの名前がついているが(って、あたりまえだが)、みんなほとんど同じ顔で、俺とじゅうぶんタメを張れるほどに、メチャクチャかわいい美少年顔だったのである。
「蘭子姉ちゃん、あれだけ大丈夫だって気ばってたくせに、やっぱりこうなったか」
一人が感心し、手を出してきたので握った。
「姉をここまで送っていただいて、ありがとうございます。僕は次男のタツロウです。で、こっちが三男のマコト、四男のユウヤ。まあ、みんな同じ顔なんで、覚えようがないでしょうが」
「い、いえ」
俺もあわてて頭をさげた。
「平川かずみです。どうぞ、よろしく」
「姉はメチャクチャ酒に弱いくせに、たまに無理に飲んで倒れるんですよ。甘えん坊なんで苦労をかけますが、これからもよろしくお願いします」
「い、いえ、あの」
完全につきあっていると思われているが、この状況では否定もできず、料金を払ってもらい、今もすやすや眠っているお姫さまを運びだす手伝いをした。二人が両側から肩をかついで運び、俺はあとに続いたが、この先どうしようかと思った。するとタツロウさんが、「中でお茶でも飲んでいってください」とさそった。どうも蘭子さんは長女で、彼がその次らしく、四人の中でいちばん気がきいていた。
だが俺は、とても今夜の経験を他人に話すような気力がなく、お断りした。また駅までのタクシー代を出すと言われたが、近くの駅まで歩くといって別れた。「またいらしてください」と手をふって見送られたが、彼らが親切であればあるほど、胸の中は妙に切なくなった。
あんなに美形の弟にかこまれて育ったら、なるほど、俺を見ても、なんとも思わないわけだ。あのキャンパスで猫を追いかけて出会ったときからずっとそうだったが、ほかの野獣のような女どもとちがい、彼女にはいい男に飢えていない余裕があり、それが彼女を、とても上品できれいに見せていた。
(しかし、なんで俺は蘭子さんを好きになったんだろう……)
あまりにも今さらの疑問がわいた。俺は昔から、きゃぴきゃぴした愛くるしい少女とか、清楚可憐な乙女とか、聖母のように優しい女性にはてんでひかれず、性欲むんむんの野獣系の下種な女にしか興味がなかったはずだ。
蘭子さんは、そういうのとはぜんぜんちがう。たしかに見た目としゃべりは男っぽいが、今まで見てきたあばずれ状態の女どもよりはずっとクールで、むこうから俺に興味を持ってどうこうはいっさいしてこない。というか、俺を「男」として見ない。見た目がかわいいからとか、かっこいいからとか、エロいとか、そういう意味で俺とつきあおうとしないし、そういう興味をまるで持たない。
だから、逆に安心できる。相手からやたら欲望の対象に見られると、どうしても落ちついていられない。でも、それがふつうだと思っていた。誰かといっしょにいて、安心できなくてあたりまえだと思いこんで、日々を送っていた。なのに、彼女に出会ったとき、それがいきなりぶっ壊れた。誰かといても気を抜いていいんだ、と初めて知った。
こんなふうになったのも、俺が男友達を作れないせいだろう。男はどういうわけか、俺と知りあっても、徐々に離れていき、縁がきれる。女にモテる容姿だから同性にねたまれて嫌われるのかというと、そういうわけでもなさそうだ。同じように容姿のいい奴と知りあっても、やっぱり向こうから次第に避けられて、疎遠になって終わるのがふつうだったから。
いや、きっと俺のほうが壁を作っていたのだ。幼いころから周りに女ばかりいて、女としかつきあってこなかったせいで、いつのまにか誰も信用しなくなっているのかもしれない。気づけば身近には、むこうから有無を言わさず襲ってきたり、蹂躙してくる鼻息むんむんの女しかおらず、そういう関係がふつうだと、慣れちまったのである。
俺はいつしか、自分からいっさい動かなくなった。そして、薫さんや撫祇子みたいに、向こうから欲情まるだしで押したおしてくるようなのが、自分の好みだと思いこむようになった。
だが、本当にそうだろうか?
自分が壮絶なマゾなのは、疑いようもない事実である。ただの思いこみでなく、じっさいに女のほうから手を出してきてくれるのはうれしいし、それが好きだ。
それは確かなのだが、そういう生き方をしているところへ、いきなり蘭子さんという爆弾が投げこまれて、俺は芯から破壊されたのかもしれない。ただの女のオナニー用バイブではなく、人間あつかいされる快感に目覚めたのだ。
だが待てよ。それじゃ撫祇子や薫さんは、本当に俺をただの欲情のはけ口にしようとして襲ってきたのか?
ちがう。
撫祇子は俺を好きだと言ったし、薫さんは……よく分からんが、まあ俺を道具あつかいはしてないだろう。雪乃さんもそうだ。
だんだんわからなくなってきた。いったい俺は、マゾとして女にいじられて生きるべきなのか、それとも、人間としてつきあってくれる蘭子さんを慕って生きるべきなのか。こんなん、誰に相談すりゃいいんだ。
駅につくとスマホが鳴り、薫さんからラインが来ていた。
「デートは、どうだったぁ? いま取りこみ中なら、さみしい母に実況しておくれー(笑顔マーク)」
アホかと苦笑した。ふいに会いたくなり、階段を急いでかけ降りた。駅の時計は午後十一時を過ぎていた。