五、春日部あきら(変態筋肉教師)
俺は、あまりのことに絶望のどん底におちて、丸椅子に座ったまま、じっと大人しく裁きを待っていた。むかいには蘭子部長が、おなじ丸椅子に腰をおき、足を組んで腕ぐみしながら、けわしい目でにらんでいる。カーテンをひいたうす暗いモデル研究部の部室は、女だらけの華やかなふだんとは、うって変わって殺風景に見え、いっけん取調室のじん問のおもむきだ。
「平川、お前には失望した」
「す、すみません……」
部長の言に俺がうなだれると、ちょうど入ってきた橘が、あわてて言った。
「ど、どうしたんですか、いったい?!」
「橘は、だまっててくれ」
「なにやらかしたの、平川くん?!」
聞かれても答えるわけにいかず、俺はうなだれ続けた。尋問を続ける蘭子さん。
「平川……お前には……」
「はい……」
「体力が、なさすぎる」
「はあ?」
きょとんとする橘を無視し、続ける蘭子さん。
「キャンパスのトラックを一周しただけで、もう息ぎれしてふらつくようじゃ、ウォーキングどころじゃない。もっと筋肉をつけてもらわないと、とてもうちの部ではやっていけない」
「な、なあんだ!」
気がぬける橘。
「なにかと思ったら、体力の話ですか。まったく、おどかさないでくださいよぉ、部長ぉ」と手招きで苦笑する。
「なんだとは、なんだ」
横目でにらむ蘭子部長。
「体力は重大問題だぞ。ネジを外して、パーツをかえればすむようなわけにはいかん。筋肉はそうやすやすとは増えないし、簡単に解決することじゃない」
「それは、そうですけど」と俺を見る橘。「地道に筋トレするしかないんじゃないですか?」
「まあ、それはそうなんだが」
息をはいて、足を組みかえる蘭子さん。そんな場合ではないが、こんなしぐさもいちいちセクシーで、見とれる。
「じつは、急速に体力を増やせるトレーニングがあるそうだ。平川、お前にはさっそく午後、そこへ行ってもらう」
「体力増強って……まさか」
橘が信じられないという顔で言うので、俺はぎょっとして蘭子さんを見た。なんか、いやな予感しかしないぞ。
「ああ、そのまさかだ」
言ってドヤ顔になり、俺をびしっと指さす部長。
「平川、今日の一時半、フィットネス部の部室へ行ってこい。顧問の春日部が待っている」
「春日部……! うわぁ、かわいそう……」
眉間に眉をよせて言い、ほほを両手で押さえる橘。横でビビる俺。
(か、かわいそうって、ナンデスカー?!)
恐怖しかなかったが、部長の命令では逆らえず、午後にフィットネス部の部室へ行った。入り口のドアに貼られた紙に「まずは更衣室へ行け」と矢印といっしょに書いてあったので、そのとおりに入ってすぐ右の更衣室に入ると、青のレオタードが用意してあって、それにもまた「これに着がえろ」と書かれた紙が貼ってあった。いちいちうるさいが、親切っちゃあ親切である。
着がえて部屋の奥に行くと、そこで待っていたのは、うわさの春日部先生ではなく、最近ゼミでも顔をあわせていない、ある意味、俺と最も親しい人物だった。
「ぶ、撫祇子?! なんでお前がここに?!」
「おお、かずみくん、君もしばかれに来たなりかー」
大きめのお下げを、幅のあるパワフルな顔の両側に下げて、黄色のリボンでむすんだ俺と同じ二年生、振臼撫祇子が、俺を認めると、ニコやかに殺ばつとしたことを言った。彼女もピンクのレオタード姿だった。
この撫祇子は、俺の取っている英語ゼミでよくいっしょになり、前に家に呼んだら襲われかかって、薫さんに助けられたこともある、かなりの危険人物だが、根はやさしくて世話好きだ。語尾が独特なのは、歴史オタクで、よく歴史上の人物になりきるかららしい。俺は知識がないから分からないが、有名な武士とか明治大正時代の書生とかで、要するに中二病をこじらせたしゃべりなのである。
モデル部のような、壁にモデルのポスターがあったり、机にモデル雑誌などのきらびやかな資料が積んであるような明るい雰囲気とは真逆のこの部室は、灰色にくすんでところどころ黒ずんだ壁に、端々がさびたロッカーが墓石のようにたち並び、あとはパイプ椅子と机があるだけの殺風景なもので、いかにも体育会系の部屋だった。朝の蘭子さんの尋問を思いだした。
(また取り調べかよ。体力がないだけで、なんでこんな……)
などと思ったが、今はそれ以上に、目の前で椅子に座ってニヤついている悪友が気になった。彼女は、いつものように俺にイヤらしい流し目をくれると、声も低くイヤらしく言った。
「さては、モデル部の部長に怒られましたかな? 君ほどに体力のない男子も、めずらしいですからなぁ」
「う、うるさいよ。撫祇子こそ、なんでここにいるんだよ」
「わっちも、君とおんなじぞな」
言って照れ笑いして頭をかく。一瞬だが、可愛いとか思った。いや、あくまで一瞬だ、一瞬。
「お料理研究部の部長に、『お前は体力がなさすぎるから、きたえてもらってこい』と言われて、ここへ来たなりよ」
「撫祇子、サークルに入ってたの?」
「歴史研究部とかけ持ちぞな。料理のサークルなら食費が浮くと思って入ったのに、やれやれ、とんだ誤算ですわ」と肩をすくめる。
「料理って、そんなに体力つかうのか?」
「あれは土木作業員と同じなりよ。底がでかくて高いずんどう鍋に、お湯を満杯にためたやつを両手で運んだり、ほかにも圧力鍋とか、重いものが山ほどあるぞな。また、それに入れる材料の肉とか肉とか肉なんかも、脂をふくめると、いちいちバーベルのような重さなり。だからお店のコックさんは、みんな腕がプロレスラーみたく、メチャクチャぶっといっしょ?」
「た、たしかに……」
しかし、家庭でふつうに作るような料理だったら、鍋なんかも高齢の女性でも使えるていどの重さだと思うのだが。あつかう料理が、フランスとか中華とか、よほど本格的なのかもしれない。
「しっかし、ここの部長は、かなりふつうじゃないとのうわさぞな。撫祇子に押さえつけられたかずみくんなんか、指一本で折られてしまうかもねえ」
「お、おそろしいこと言うなよ!」
「よく言った!」
いきなり後ろで低い女声がしたので、俺も撫祇子もふりむいた。そしてビビった。ピンクのレオタード姿の筋骨隆々の女が仁王立ちで太い腕を組み、真顔でにらんでいたからだ。撫祇子と同じ色なので、どうもこれが女性用の運動着らしい。
年齢は薫さんと同じっぽく、三十代後半くらいか。髪はかなり短く、後ろは刈りあげている感じで、背はそれほどでもないようだが、全身のもりあがった筋肉のせいで、大柄に見える。胸は一見でかいようだが、胸にそびえるむきむきの筋肉のせいで大きく見えているだけかもしれず、あまり乳房と胸筋の区別がつかない。腕も足もぶっとく、ごつごつして岩のように硬そうで、たんに毛がないだけで、男のそれにしか見えない。腹筋にレオタードの生地が、四方に地割れが走ったようにぎりぎり食いこみ、見ただけで、全身凶器のおもむきである。「こういう人は、怒らせたら終わりだ」と思わせる。
いやまてよ、偏見はよくない。子供のころに親父が、テレビで見たマッチョな人にビビる俺に、言ってたっけ。
「ごつい人ほど、温和でおとなしいもんだよ。本気で怒って理性を失ったら、大変なことになる、って自分でわかってるからね。でかい男を見たら、まずかわいい奴と思って、まちがいない」
だがこの人は、見たまんまのような気がしないでもない。てか、すごくする。その第一声のでかさからして、とんでもなく強引な人のオーラがびんびんだ。しかも実際、そうとうヤバいといううわさだし。
ただ、顔じたいは鼻すじがぴんと通り、切れ長の目がどことなく色っぽくて、かなりの美人である。一文字にむすぶひきしまった唇は、きりっとしてりりしいし、額にかかる短い前髪も清潔に見える。きたえているせいだろうか、全体からかもされる雰囲気は、むしろさわやかで健康的だ。
しかし、俺のそんな擁護も、次の本人の言動で、あっという間にぶち壊しになるのだった。
「よく言った! 人のうわさは、そいつがいないときにするに限る!」
顔に似あうドス低い声で言い、ニヤつく筋肉女。明らかに悪意むき出しの笑いだ。今の言葉からすると、やはり話題の主なのはまちがいない。
俺はあわてて、撫祇子を指して言った。
「お、俺は関係ありません! こいつがひとりで先生の悪口を――」
「き、きたないなり!」と歯をむき出してさけぶ撫祇子。「君だって同意して、いっしょにビビってたぞい!! 先生、こいつも共犯ぞな!」
「だまらんかあああ!」
一喝され、俺たちはすっかり萎縮した。彼女は太い首を動かし、いまいましそうに俺たちを見まわして続けた。
「罪のなすりあいとは、まったくなさけない。伊吹と安西の頼みでなければ、こんな者どもをわざわざ仕こむようなたわけたことなど、せんわ。で、モデルのほうはどっちだ。あー言わんでも分かる。お前だな」
「そ、それは、どういう意味なりか?!」
マッチョ先生が俺を指したことに抗議する撫祇子。だがマッチョは冷たく言った。
「んなもん、見れば分かる」
「がーん」
ショックで床に両手をつく撫祇子。ちっとは自分を美しいとか思っていたのだろうか。有無を言わさず男に襲いかかるような撫祇子にも、いちおう女性の自覚はあるらしい。ちょっとかわいい、とか思ったが、あくまでちょっとだ、ちょっと。
「では、料理はきさまか」と撫祇子を横目で見てから腕ぐみする。「まあいい、時間もないのでさっそく始める。私はこのフィットネス部の顧問、春日部あきらだ」
「まずは、お前からだ。話では、かなりの無体力らしいからな」と俺を指す春日部先生。「念のために、名前を聞いておく」
「平川かずみです」
「よし平川、まずは寝技の特訓だ」
いきなり鼻息ふんふんで両腕をひろげてハグしようと寄ってきたので、思わず逃げた。
「な、なんですか、いきなり寝技って?!」
ビビる俺に、女教師はなんでもない、というふうに言った。
「うちの看板はフィットネス部だが、柔道、空手、レスリングその他、各種格闘技の技を組みあわせて筋力をつけている。だから、まずは基礎として、柔道の寝技だ、気にするな」
「寝技なんて、筋力と関係ないでしょう!」
「えり好みとは、ぜいたくな奴だな。ではプロレス技にしよう。まずは、コブラツイストだ」と両手をあげて熊が襲うようなポーズをするので、あきれた。
「なんでそう、からみつくものばっかなんだよ! もう、いかがわしい意図が丸見えだぞ!」
「な、なにを言う」
あわてて手の甲でよだれをふく体育教師。目は野獣のごとくらんらんと輝いているし、ほほは紅潮してるし、すべてがバレバレなのに、まだ言いわけを続ける。
「私は、べつにスケベ心で、拘束技ばかり推しているわけではないぞ。動きを封じようとする力に抵抗することにより、筋肉を増大させるという、きわめてまじめなトレーニング法なのだ」
などと言うのだが、その顔や動きのみならず、発する声までが上ずって、あからさまにメスというかオスのように発情しまくっていやがるので、とうてい信用できない。俺は軽蔑の横目を向けたが、春日部はとたんに片手で顔をかくし、恥ずかしそうに顔をそむけた。
「こ、こら、そんなイヤらしい目で先生を見るとは、なんだ! いや、たしかに私ほどのナイスバディはいないし、顔もたぐいまれな絶世の美女だが――」と人差し指同士をつつきながら、それを見つめてぶつぶつ。
「はあ……」
俺は疲れて、ため息をついた。女はどいつもこいつも、みんなこうだ。俺をオナニー用のバイブぐらいにしか思わない。
だが、いちばんそう思ってそうなやつが、うしろから俺の肩をちょいちょいとつついて呼んだ。
「なんだよ、お前も俺を組みしいてレイプしたいのか?」
嫌そうにそっちを向いて、毒づく。
「順番なら、先生のほうが先だぞ。なんなら、二人で仲良くマワしたらどうだ」
「まあ、そうカッカしないで、聞くぞな」
撫祇子が、なだめるように言った。
「チミがまれに見る猛烈なマゾなのは、わっちがいちばんよく知っとりますがな。あの先生、中身はかなりアレですがな、体はそうとう、チミの好みではないなりか?」
「な、なに言ってんだよ! 俺はそんな……」
弱った。こいつはなんでもお見とおしだ。たしかに、考えたら筋骨隆々の女に無理やり蹂躙されるのは、かなり興奮するシチュだ。今は怖かったんでドンびいただけで、もっと紳士的に来られたら、よろこんでヤラれたかもしれない。
だが、撫祇子の目の前でヤラれるのは、あまりにも恥ずかしい。きっと興奮度マックスだろう。
どうしよう。おとなしくヤラれるのはやっぱ怖いし、かといって、このまま逃げるのも、なんかもったいないというか……。
「それに、わっちと同じで、サークルの部長に言われて、ここへ来たわけっしょ? このまま逃げたら、部長にもうしわけないなりよ」
まさか撫祇子は知らないはずだが、俺の最大の弱みをピンポイントでついてきやがった。そうだ、ここでやめたら、あこがれの蘭子さんをがっかりさせてしまう。下手すれば退部させられるかもしれない。それだけは、絶対にいやだ。
「まあ、本当にヤバくなったら誰か呼んであげるから、君は安心して変態教師に襲われて、ひわいな快感を堪能するといいなりー」
いつものニヤニヤ顔のままでそう言うのだが、口調がどこかつっけんどんで、妙にトゲがあった。
「な、なんか、怒ってないか?」
「べつにぃ。だいたい、わっちが怒る理由なんてないなりよ」
そう言われて、いちおう、「まあ、いいか」と納得した。
「ほ、本当に見ててくれるか?」
「うん、ここで君の苦悶の表情を、食い入るように見てるぞな」
「なんかやだな、それも」
見れば、春日部はまだひとりで「いや待て、まだ脈はある。私も高校時代は、かわいいとか言われたことあるし……」などとブツブツやっている。それで俺は、思いきって頭を下げた。
「先生、先ほどは疑ってすみませんでした。僕もモデル部の部長に言われた手前、どうしても筋力のほうをなんとかしなくてはならないのです。どうか、トレーニングのご指導、よろしくお願いします」
それを聞き、とたんに顔がかがやく春日部。
「そうか、よく言ったぞ細川!」
「平川です」
「よし、さっそく続きをやろう。まずは相手をこのようにはがいじめにしてだな……」と、太い腕を俺の両脇から肩にまわし、うしろからガッチリ拘束したので、あせった。
「ちょ、なんの技だか言ってくださいよ!」
「たんなる筋力トレーニングの基礎だ、気にするな。さあ、あがけ! もがけ!」
「は、はあ……」
不承ぶしょう両腕に力を入れてみるが、びくともしない。さすがは、マッスル製造部の顧問、鋼鉄のような肉体だ。二の腕といい、てのひらといい、ガチガチに硬くてヨロイみたいだ。ただ背中にぐいぐい押しつけられている胸だけは柔く、その感触で妙に女を意識してしまい、体温が上がってしまった。
「ふふふふ、私のおっぱいで興奮しておるようだな……」
見ぬかれてビビる。
「ち、ちがいます! てか、けっきょく変なことしてるだけじゃないですか!」
「バカモノ、このように拘束から脱しようとあがくことにより肉体を行使し、筋肉をつける訓練なのだ。背中におっぱいを押しつけようが、決して変態ではない」
「というかこれ、べつに先生が相手じゃなくても、筋トレの道具とかでいいんじゃ……」と撫祇子が疑問を呈したが、無視された。
「次は、柔道の締め技を使う。体をひらいて立て」
俺が立つと、前からいきなりがばっとハグされた。
「ちょ、ちょっと、先生!」
「あわてるな。単なる柔道だ」などと、俺の腰と首に腕を回してガッチリと固定し、片足も俺のにからめ、体を前からぐいぐい上下に押しつけてくる。どう見ても柔道ではない。胸を巨乳でこすられ、レオタードごしに乳首を乳首で刺激されて、股間がヤバいことになってきた。
「あっ、だめっ、そこ!」
「おおっ! かずみ選手の膨張したおちんちんに、あきら選手の大股が見事に食いついたあ!」
いきなり片手マイクのふりで実況を始める撫祇子。アホか、なにやりだすんだ。
「さあ、かずみ選手、この危機をどう脱するか?! それとも恐怖のマッスル・ブルドーザーのえじきになってしまうのか?!」
「さあ次はいよいよ――」と、いきなり俺の耳に口をつけ、ねっとりとささやく。「寝技だ……」
「ひいっ!」
一気にバーンと床に押し倒され、完全に力が抜けた俺を猛烈に抱きすくめ、首に腕をまわしてぎりぎり絞める。頭に血がのぼり、意識がもうろうとした。
「ぐ、ぐへえっ……!」
「かずみ選手、首絞めされて苦しみ悶えているーっ!」
興奮して叫ぶ撫祇子。
「おおっ、な、なんというエロい顔! 八の字に眉をよせ、目をかたくつむって、口をぱくぱくあけてあえいでいる! こっ、こんな顔がゆるされていいのか?! いまにも白目むきそう! か、かずちゃん、このままイッてしまうんかーい! も、もうあかん! 見てるだけで、失神しそうなりよー!」
そう言って両手で目を覆い、自分が参っちまってどうするんだ。だが、俺はそんなこと気にしてる場合ではない。
「ぜ。ぜんぜ、ぐ、ぐるじ……!」
「はあはあ、なんとイヤらしい男だ、キサマは」
興奮に目をぎらぎらさせて言いつつ俺におおいかぶさり、体をぐにぐに押しつけまくる顧問。
「こんなにエロい肉体をぶら下げて、学内でエロスを全身からむんむんふりまいて歩くとは、まったくけしからん! 先生が身を持って罰してやる! ほれほれ!」
「ひいいっ! だめっ、そこ! ゆ、許してっ! あああっ!」
「はあはあ、可愛いぞ、かずみっ! もっといじめてやる! ふうう、ふうう!」
なにか、ようすが変なことに撫祇子も気づいたようで、あわてて言い出した。
「せ。先生、どうしたなりか?!」
「うるさい、このアドニスを永久に私のモノにする! 誰にも渡さん! このまま首を折ってしまえば、もう誰の手にも渡らん! この子は、私だけのモノだああ!」
「ぎゃあああ! 人殺しいい!」
恐怖に泣き叫ぶ俺の首を、腕でぎりぎり絞める殺人教師。だが、撫祇子の声がした。
「いま警察を呼ぶなりよ――あっ! ぐええっ!」
いきなり首を締められ、スマホを取りおとした。俺はやっと解放されてゲホゲホしたが、春日部は撫祇子を放さない。
「そんな真似させるか! まずはお前から首を折ってやる!」
「ぐええっ!」
「やめろっ!」
俺は飛びかかったが、かなうはずもなく片手で楽にはり倒された。撫祇子の首を絞めながら、ニヤつく鬼畜教員。
「ふふふふ、こいつを助けてほしくば、こっちへ来て、また私にめでられろ。しかばねになるまで、さんざん犯しまくってやるぞ」
「か、かずみくん」と、うめく撫祇子。「わっちはどうなってもいいから、早く逃げて。か、かずみくんだけでも――」
「ヒーローぶりやがって!」と力を入れる春日部。
「ぐえー」
「やめろ! 撫祇子を放せ!」
無駄と分かっていても、俺は叫んで奴の腕にしがみついた。さっきのテンションからして、奴は本気だ。撫祇子が殺される。こいつがこの世から、俺の前から永久に消えるなんて、耐えられない。こいつが助かるなら、よろこんで死んでやろうと思った。
腕に噛みついた。歯が折れそうになっても放さない。待ってろ、俺がいま助ける。撫祇子、お前がいないと俺は、俺は――!
「お待たせいたしましたあー!」
すっとんきょうな声と共に、いきなり春日部の頭にどんぶりがかぶさった。
「ぎゃああああ――! あぢいいい――!」
絶叫して撫祇子から離れ、そのへんを這いまわるマッチョ女。全身びしょびしょで頭にラーメンの黄色い麺が乗っているので、アフロみたいだ。
「熱湯じゃねえから、だいじょうぶだ」
白衣で腕ぐみし、冷たく言う彼女を見て、俺はおどろいた。
「か、薫さん?! なんでここに?」
「出前に来たんだよ」
そう言う足もとには、上に角ばった取っ手のついた、どんぶりをいくつも入れる出前用の箱がおいてある。どう見てもバイトの途中だ。
「なんか騒いでっからのぞいたら、性犯罪者がいたんで、ごちそうしてやった。
――おい!」
怒鳴られて、すっかり毒気のぬけた春日部は、あわてて「は、はいっ!」と正座した。
「あと数分で警察が来る。示談金三十万を支払えば、おまわりも学校にゃなにも言わん。でなきゃ、告訴されて首だ」
「い、いえ、私はですね、ただ、そのう、この学生さんに、筋トレの指導を、ですね」
正座のまま、引きつった笑いの口もとと見ひらく目で、両手をふって必死に言いわけするが、薫さんには通用しない。
「だきついて首しめんのが筋トレか?! とにかく、金を払えばぜんぶチャラにしてやる」
「お、お金、お金って、い、いったい、あなたはどなたですか?」
「あたしは、こいつの母親だ!」
俺を指す薫さんに、ビビる春日部。
「お、お母さまでいらっしゃいますか!」と、あわてて土下座する。「も、もうしわけございません! こちらの配慮が足りなかったようで、ふつつかではございますが、どうぞよろしく」
最後は意味不明になった。かなり混乱しているようだ。
「わけわかんねえんだよ!」と薫さん。「とにかく、申しひらきなら警察に言え。ほら、来たぞ」
春日部が警官に引っ張られていくと、薫さんは腕ぐみしてつぶやいた。
「いや、三十万じゃ足りねえな。百万はもらわねえと。かずみにひでことしやがった畜生だ。ほんとは死刑にしたいくらいだが、金のほうがこっちの得だしな」
俺は倒れている撫祇子に駆けよった。
「し、しっかりしろ撫祇子!」
彼女は抱きあげる俺にうつろな目を向け、うわ言のように言った。
「わ、わっちはもう、ダメなり……。死ぬ前に君にキスしてほしいぞな……」
「わ、わかった!」
だが俺が口づけすると、奴はいきなり怪力で俺の首にしがみつき、ディープキスしまくった。俺は窒息しかけて、思わず押しのけた。
「ぶ、ぶはああっ! な、なにすんだよ!」
「も、もっとしてくれたら、撫祇子、完全に回復するなりよー」と寝たままハグしようと両腕をひろげ、唇をうにゅーと突きだす。
だが、薫さんがイライラと「おまわり、追加すっか」とスマホをいじろうとしたので、あわてて起きあがった。
「す、すびばぜぬ! 撫祇子はこのとおり、健康そのものなりよ! だから警察はいらないなりー!」とタップを踏んで踊る。
「救急車と間違えてるだろう。あー、まったくもう」
薫さんは嫌そうに言うと、後ろ頭をかいて、俺のところへ来た。そして両手で俺のほほを触り、眉を寄せた憂いのまなざしで俺の顔を穴のあくほど見つめた。あまりの唐突さに、どぎまぎした。
「……大丈夫か?」と、ぽつりと聞く。
「う、うん……」
「よかった――!」
いきなり感極まったように言うと、飛びつくように俺を抱きしめた。薫さんの熱い鼓動が全身に伝わってくる。俺のために、こんなにもどきどきしてくれるなんて。胸がじんわりと熱くなった。
「ごめん、心配かけて……」
俺も、彼女の肩に手を回した。
「いいよ、お前は悪くない」と俺の肩ごしに言う。「この世でいちばんかわいいだけだ……」
けっきょく、示談金は百万になったと国選弁護士が家の電話口で言った。薫さんは受話器を置くと、「すんげえ臨時収入だ! 宝くじも、こんなに当たったことねえ! かずみ、なんかうまいもんでも食おう」などと、うはうはしていた。
だが、俺はこのことがトラウマになり、あの筋肉と巨乳責めを思い出してオナニーできるようになるまでに、数ヶ月の期間を要した。
ちなみに、撫祇子との壮絶なディープ・キスは、それでオナニーどころか、その行為を思いだしもしなかった。やはりあいつはケダモノだ。一瞬でも、「もしや、俺はこいつに恋しているのでは」などと疑ったのがバカだった。
ただ、奴が殺されかけたとき、本気で動揺したのはたしかだ。でも、それは恋愛とはちがう。なんだろう。家族を奪われる感じ? ちがう。かけがえのない友達をうしなう恐怖だ。友達といっても、たまにエロいことされてるので、正確にはセフレだろう。セックス・フレンドもフレンドにはちがいないから、友情で結ばれているのだろうか。って、なんか変だ。
ふつうセフレって、批判的に使う呼び名だろう。おたがいの体だけが目当てでつきあっている不純な連中、みたいな。でも、少なくとも俺たちはちがう。たまに変なことをされるような仲でも、熱い友情くらいはありそうだ。だって撫祇子が傷つくのが俺はものすごく嫌だし、きっと向こうもそうだ。その点では、完全に親友だ。
いや、まてよ。あいつ、俺のことを好きだ、と前に言っていたな。でも悪いけど、俺はそれほどでもない。「どっちかっつーと好き」ってだけで、恋愛対象ではない。
でも、あいつが襲ってきたら体を許すに決まってるから、やっぱりただのセフレだ。なのに、おたがいにかけがえのない存在同士。なんだこれ。固いきずなで結ばれたセフレなんて、あるんだろうか。
そこまで考えて、あることに気づいた。いかん、俺にはほかにもセフレがいた。サドの東郷雪乃さんだ。あ、でもフラれたんだっけ。ラインで「別れよう」と言われてから、一度も会っていない。英語の講義でも、顔をまるであわせない。薫さんが言ったように、本当は別れがつらくて俺に会えないんだろうか。でも、俺と別れてすっきりしている可能性だってある。きっと、また会わない限りわからないんだ。
そうやって、俺がいろいろと考えている横で、薫さんは旅行雑誌を広げ、「伊豆に行こうか。いや、いっそ海外にするか。ナイアガラ見てえなぁ」などと、ひとりではしゃいでいるのだった。