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薫かあさん  作者: 白夜
4/10

四、東郷雪乃(サドの女王お嬢様)

 言語学のテストは、なんでも持ちこみ可である。しかし持ちこみ可ということは、ぶっちゃけ思考を使うむずかしいテストということだ。よそみたいに暗記ですむ問題は、まず出ない。持ちこみは参考書オーケー、辞書オーケー、教科書ももちろんオーケー、ただし、先輩などの人間だけは原則禁止だ。「犬はいいんですか」と聞いたのが昔いたらしいが、吠えさせてほかの学生を妨害する計画だったらしく、禁止になったという。


 で、その日は期末試験だった。これが終われば、楽しい夏休み。二ヶ月もあるから、一年生だった去年は、どうやって暇をつぶすか今ごろからうんざりしていたが、今年はちがう。モデル研究部の合宿があるからだ。死んでも行く気である。部長がいるんだから、あたりまえだ。だから、部長が来なかったら行かない。今のところ、その心配はなさそうだが。

 しかし、まずは目の前の、この試験をなんとかしなくてはならない。単位を落として合宿どころではない、なんてことにでもなったら、大ごとだ。

 親父の話では、昔の学生は、何もしなくても待っていれば、どこからかテストの答えの書かれたノートが回ってきて、それを写せば合格できたらしいが、今の学生は先輩後輩の関係がうすく、そういうコネが出来ない者も多い。そういうぼっちは、自力で勉強してテストを乗りきるしかない。俺も、その一人だ。


 そういえば俺には友達が、今のところ撫祇子ひとりしかいない。男の友達がいないのは昔からで気にしていないが、身の回りがいつも女ばかりなのは、よくないことかもしれない。ほかの男が聞いたらうらやましいと思うかもしれないが、同性じゃないとわからないとか、異性では同性の友達みたいにはいかない、なんてことはたくさんある。同性の友達がいないと、人は孤立するともいうし、たとえ恋人や伴りょがいなくても、友達さえいれば人は生きていける、とも聞く。だが俺の場合、いるだけですぐ女が来ちゃうので、男と縁ができない。ふつうは逆だよな。


 なんとか終わって立ちあがり、伸びをした直後、すぐ後ろから「あのう」とかぼそく声をかけられ、ぎょっとした。「な、なんでしょうか」と見ればそこには、ぱっと咲いた花のような清楚可憐なお嬢様がいた。細おもての顔に、伏目がちのうれいを帯びたひとみ、そしてふるえるようなほそい眉。形よくとおった鼻筋につり目で、西洋ドールの写真集から抜けでてきたような、色白の愛らしい顔だち。その両側には、きれいに編まれた長いお下げ髪が、二の腕のあたりまでたれている。カラフルなチェックのシャツと、プリーツの少ないのっぺりしたスカートが一見ロリっぽいが、本人のかもす気品のせいで、子供っぽくは見えない。

 そのたたずまいは、とにかくひかえめで礼儀ただしく、どう見てもふつうの庶民ではない。一見して良家のお嬢様にちがいないと思ったが、あとで、まさにその通りだと知った。


「あのう」

 彼女が遠慮がちに言うので、俺もつられて、しどろもどろになった。それに気づいたのか、気づかうような笑みになって続けた。

「いえ、じつはお願いがあるんですけれど」

「ですけれど」って言い方がすごいなと思ったが、だまっていた。

「初対面で、たいへんぶしつけで恐縮ですが、そのう――」

 いったん目をふせてうっすらと半びらきにし、うつむいて、迷うようにあごの下で指をごにょごにょやってから、またこっちを見た。

「お昼を、ごいっしょしてはいただけませんか。お金は、こちらで出しますので……」

 なんだそういうことか、と納得した。可愛い娘に食事に誘われる。よくあることだ。だが、あいにくこういう愛らしくてオンナオンナしてるのは、俺のタイプではない。昼もそのへんの手ごろな店で、一人ですますつもりだった。

 しかし、なぜか断れなかった。「いいですよ」と言うと、ものすごくうれしい、という感じでほほが赤らみ、目を細めてにっこり笑った。つり目と鋭利な鼻筋のせいか、どこかキツネっぽい笑いだと思った。


 いっしょに外へ出ながら、どうもおかしいと思いつづけた。いつもなら、なんやかやと理由をつけて断るのに、なぜ今日にかぎって。相手には悪いが、誘われたからっていちいちつきあうのはめんどうだし、あまり親切にして期待させると、あとでかわいそうなことになる。

 俺の好みは、おとなしくてひかえめで男を立てるような、お人形さんのような愛くるしい娘ではない。向こうからブルドーザーのごとく有無を言わさず蹂躙してくる、ギラギラした下品な女だ。たとえば撫祇子みたいな。あるいは薫さんとか。

 なのに、今はこんな「かわいらしい」を絵にかいたようなご令嬢と、いっしょにメシを食いに行こうとしている。どうしたんだ俺。嗜好が変わったのかな。


 いや、まてよ。モデル研究部の蘭子さんは、向こうから押してくるようなタイプではないな。なのに俺は、彼女といると胸がときめいて、ドキドキする。蘭子さんは、男らしいところは薫さんと一緒だが、俺を外見で判断せずに、ふつうだと言ってくれた。イケメンとかエロいとかいうんじゃなく、ひとりの人間として見てくれた。本当は、俺はそういう女性がいいんだろうか。

 じゃあ、なんで薫さんとかに、簡単に体をゆるすんだ。自分がわからなくなってきた。うすうす分かってはいたが、やはり俺はスケベで軽くて、いいかげんな男なのだ。だから、なんとなく気に入った女になら誰でもやらすのだ。って、未遂ばっかで、まだ未経験なんだけど。

「ここです」


 考え事してていきなり言われ、はっと見れば、目の前にその店があった。のれんに太字で横書きにでんと書かれた文字、「ラーメン宗次郎」。有名な通好みのラーメン屋で、いつものように入り口から行列ができている。

(作者注・執筆当時、参考にした二郎は未経験だったため、以下でちょい変わった大盛のようにさらっと流してあるが、後日、実際に体験した際、食いすぎで死にかけました。もう行かんです)


「ああ、ここですか。二、三回、入ったことあります」

 最後尾にならんで俺がふり向いて言うと、彼女は後ろについて、ほっとした顔をした。

「よかった。一度入りたかったんですが、一人では勇気がなくて」

「最初は戸惑うけど、べつに怖いところじゃないですよ。ただ、二十分以内に食いおわらなきゃいけないけど」

「お客の回転をよくするためですね。大丈夫です、早食いには自信があります」

「最初はふつうの味にしか思わなくても、何度目かで中毒になるらしいですよ。俺はまだだけど、今日ので、なるかもしんない」




 店を出ると、彼女は麺のうえに野菜がうずたかく盛られてとんがり帽子のようだったとか、麺を野菜のうえに乗せて汁の吸いすぎを防ぐ、とかの食べ方を教えていただき、大変ありがとうございます、などとまくしたてて、校内とはガラリと変わったはしゃぎ方なので、かわいいなと思った。

「わたくし、東郷雪乃(とうごう ゆきの)と申します」

 完全にうっかりしていた自己紹介をいきなりされ、俺もした。お互いに半ばあわててしたので、済むと顔を見あわせて笑った。

 すっかりいい感じになったとき、「なにか飲みませんか」と聞かれ、じゃあそのへんのファミレスでも、ときょろきょろしかけたのを、てのひらで制された。そして、また言いにくそうな顔になった。

「あのう……じつは」

 言いつつ、はにかむようにほそく白い指でほほを触ると、上目で遠慮がちに見つめた。

「わたくしのうちが――このあたりなんです」



 来てみると、やはり想像どおりの立派なお屋敷だったが、その形状は、予想をはるかにうわ回っていた。キャンパスから家へ帰る方角と真逆だったので今まで気がつかなかったが、近くに、こんな古風な建物があったとは。


 明治時代の洋館みたいな白ぬりの壁に、うす茶色の木製のわくで囲った四角い窓。二階にはこれも木製の、バツ印を横に延々並べた柵の伸びるベランダ。中央にでんと建つ母屋の両側には、たぶん階段のあるところだろう、三角屋根のロケットみたいのがくっついてそびえている。母屋のかぶっている屋根が、えらく高級に見えるので、近くで見あげると、ウロコみたいな柄と、レンガ状のが上から交互にならべられている。

 まさに現代人のすみかとは思えぬ、絵にかいたようなお城である。このお嬢様は、やはりただ者ではない、と見た。


「そんなに緊張なさらないで。ただいま、両親は留守ですから、遠慮なくあがってください」

 笑顔で言われて、「は、はい」と答えたものの、こういう金持ちの家ははじめてなうえ、ここまで大河ドラマの舞台のような御殿では、落ちつくはずもない。

 中も宮殿というか、毎晩舞踏会でもやってそうな上流感むきだしで、階段をのぼれば、上で何人も並ぶ使用人が頭を下げるわ、とんでもないところへ来たと実感した。雪乃さんによれば、この屋敷は重要文化財でもなんでもなく、戦後に株で財を成した父の祖父が一から建てたもので、自分は悪趣味であまり気に入らないそうだ。

「おしゃれでいいと思いますけど」

 俺が言うと、彼女は目をふせた。

「でも恥ずかしいわ、大むかしの少女マンガにでも出てきそうで。あまり見られたくないの。だから、お友だちをおよびするの、はじめてなんですのよ」

「そうなんですか」


 彼女の部屋は、思ったほど広くはなかった。板ばりの床一面に白いふかふかのじゅうたんがぺろんと横たわり、まっしろな壁に、窓にかかるレースのカーテン。かわいらしいタンスと机も白一色、わきにはピンクがかったベージュ色の毛布のかかったベッドがあって、はじに乗っている枕も同じ色である。どこから見ても、なんでもないふつうの女の子の部屋そのものだ。むろん実物を見たのははじめてで、今のはマンガとかで得た知識であるが。

 ただ、なにかがたりないような気がした。そうだ、ぬいぐるみだ。タンスの上とかに、動物なんかのかわいいふっくらしたぬいぐるみが、ごろごろひしめいていなくては、女の子の部屋っぽくない。いやまて、もう彼女は大人なんだし、そういうのはいらんか。


「お座りになって」

 ざぶとんをすすめ、「お飲み物をお持ちしますわ」と去ったので、気がぬけて、あたりをあらためてきょろきょろした。と、ベッドの下から何かがのぞいている。雑誌かなんかのはしっこかな。いったい、どんなのを読んでるんだろう。ダメだ、勝手にそんな。

 しかし、見たい知りたいという衝動をおさえられなくなり、指先でちょいと引っぱり出そうとした。

 そのとき。

「平川さん」


 背中に声がかかり、思わず「うわわわっ!」と座ったままそっちを向くと、卓にゆっくりとグラスをおく雪乃さんの姿があった。そして、じゅうたんの上に横座りになって俺とむきあい、神妙な顔で言った。

「ごめんなさい、おどろかせてしまって」

「い、いえいえ」

 ほっ、なにしてたかは見られなかったようだ。たぶん背中しか見えなかったはず。だが、それでも彼女のけげんそうな顔は変わらないので、不安になった。

 すると、いったんうつむき、またうれいの顔で悩むように口もとに指をあてると、また上目でこっちを見つめた。

「平川さん」

 意を決したように言う。

「わたくしのこと……どう見えます?」


「どう? うーん、そうだな……」

 俺は少し考え、率直に言った。

「すごく女の子らしくて、かわいいと思います」

 こういう「女の子あつかい」は、時としてセクハラになるらしいが、この場合は、まあ大丈夫だろうと思った。歳にあわず、古風な女性という感じがしたからだ。

 するとやはり、怒りだしたりはしなかったが、もっと予想外の反応をした。いきなり「すみません」と這うようにこっちへ来たので、思わずどくと、ベッドの下へ手をのばした。俺がさっき触ろうとした雑誌を引きだし、はにかむような顔で裏にして胸に抱えたが、急に「わ、わたくし、こういうのが好きなんです!」と、いきなりくるっと裏返して、俺に表紙を見せた。

 目が点になった。

 そこには、俺と同じくらいの歳の男が全裸で両足を大びらきにして縄で縛られ、あごを突きだして恍惚としている写真が、でかでかとあった。市販の品だからか、股間にはぼかしが入っている。


 あまりの唐突さに面くらったが、やっと声を出した。

「え、ええと……SM、ですね、これは……」

「はい」

 いちおう返事はしたが、その蝋のように蒼白な顔と見開く目で、心中不安で心臓がばくばくし、頭が破裂寸前なのが、ありありと分かった。

「こ、こういうのが、お好きなんですか……」

「そ、そうです!」

 彼女は、(せき)を切ったように言葉を連打した。

「わ、わたくし、サドなんですの! 男の方が苦しんだり、痛がっているのを見ると、もう興奮しておかしくなるほどの、真性の変態なのですわ! ああ、一度でいいから、あなたのようなお美しい男性をふんじばり、思うぞんぶんいじめてみたい! それがわたしの夢なの! う、う、う、う……!」

 いきなり床に突っ伏して泣きだすので、俺のほうがあわてた。

「ゆ、雪乃さん……?」

「わ、わたしは、ぜんぜん女の子らしくもなければ、かわいくもないのよ。ただの下品でサドの変質者。最低でしょ。もうお帰りになって。気持ちのわるいものをお見せして、もうしわけ――」

 言い終わる前に俺はかけ寄り、彼女の両手をにぎっていた。これで帰ったらアホだ。


 おどろき見返す雪乃さんに、俺はほほえんで言った。

「気持ちわるいなんて、とんでもない。じつは僕もマゾなんです! あなたと同じ、変態ですよ」

「ええっ、まさか、本当に?!」

 おどろいて座りなおした雪乃さんの手を握ったまま、俺は真剣なまなざしで続けた。

「はい、僕は愛くるしいとか、清楚可憐なタイプの女の人がダメなんです。もっと荒々しくて、男を汚物でも見るような目で見下し、蹂躙(じゅうりん)して支配するようなサドの女性に、思いっきりヤラれるのが望みなんです。雪乃さんがそうなんて、すごくうれしいです! あなたがそうしたいのなら、ぜひおねがいします!」

 彼女の涙を指でぬぐい、俺は笑顔で力づよく言った。

 彼女は両手を口にあて、感涙にむせんだ。

「ううっ、こんな幸せなことがあっていいのかしら。Sの女にMの男をお与えになるなんて。まさに神様のお導きですわ……」


 じつは前々から、こういうことには興味があった。むろん以前に撫祇子や薫さんに蹂躙されたことがあるくらいで、縛られたりしたことはない。こういうことは、相手を完全に信用していないと、かなり恐ろしい。というか、信用できない相手に拘束されるなんて、犯罪に遭うのと同じである。

 だがそのときは、彼女なら大丈夫じゃなかろうか、という甘い見とおしをしてしまった。また、こんな女性に出会うなんて絶好の機会、まさに渡りに船なので、これを絶対にのがしたくない、という必死な欲望もあった。彼女がこっちと同じ初心者なのは、かなりの不安要素だったが、そのときはどうにでもなれ、という開きなおりもあった。

 だが、確実なことがあった。

 彼女はいい人間だ。だからだいじょうぶ。

 知りあって数時間だが、俺はこの雪乃さんなら、決して俺にひどいことはしない、と信じていた。




「あのう、雪乃さん……」

 隣の部屋で着がえてきた俺は、さすがに困惑して言った。海でもない屋内、それも豪邸の一室で、この格好。

「どうして、ウェット・スーツを……」

 頭と、手と、足首から下、それ以外のすべてを黒いゴムの生地におおわれ、妙に動きにくいしぐさで彼女の部屋にもどったのだが、俺の疑問に答えるよりはやく、雪乃さんの目は闇の中の猫のごとく、らんらんと輝いた。

「す、すごいわ! やっぱりわたしの目に狂いはなかった! さ、最高よ、はあはあ」と息を荒らげる。

「はあ?」

「ウェット・スーツは、体にぴったりした服だから、ラインが露骨にはっきり見えるでしょ。かずみ君、もんのすごくセクシーよ! その腰といい、肩といい、ふくらはぎといい、も、もうたまんないわ! はあはあ」

「そ、そうすか……」

 反応が、ほぼ薫さんである。わかってはいたが、女は俺と関わると、例外なくこうなる。これほどのご令嬢でさえ、目を見はり、鼻息ふんふんで、エロオヤジのごとく欲情しまくるのだ。まあ、蘭子さんはならないかもしれないが。


「だ、大丈夫ですか?」

「い、いいの、気にしないで、はあはあ」と息ぎれしそうになって、胸を押さえる。「今すぐ飛びかかって襲いたい衝動を、やっとの思いでおさえているだけですから、はあはあ」

「あのう、つかぬことをうかがいますが」

「なに?」

「縛るなら、なにも着がえなくても良かったのでは……」

「な、なにを言うの?!」

 いきなり叫び、恐怖におののくように手の甲を頬の脇に当てて目を見開く。

「まさかあなた、エロAVのように、全裸で縛られたい、などとおっしゃるのじゃないでしょうね?! そ、そんな、初めてのSMで、いきなりディープなところへ堕ちてしまうなんて、わたくしにはとても出来ない! で、でも、あなたが望むなら、無理してでも……!」

「わ、分かりました! 無理しなくていいです!」とあわてて制して、「僕も裸は恥ずかしいんで、服の上からがいいです」

「あーよかった。それを聞いて安心したわ」

 胸をなでおろす雪乃さん。


「着てらしたシャツとズボンの上からでは、しわになってしまいますから。それで、お着がえしていただいたの」

「ああ、それで……」

 なんだ、気づかってくれたんだ、と納得し、一気に好感が増した。次の一言で半減したが。

「で、どうせならエロい服がいいと思って。前々からウェット・スーツは、ひわいだと思っていたのよ。なんたってゴム製でしょ。ラバーよ、ラバー。弾力といい、香りといい、まさにマゾご用達のエロエロ・ファッション!」

 それ、泳ぐ人に失礼なんじゃ……。

「どう、その感触。興奮しない?」

「うーん、まあ……」

 肩を回してみたが、たしかに素肌にこれは、かなりの刺激だ。彼女の希望で、スーツの下は何も着けていない。ゴムのキツキツが、ちょっと動くだけで胸や股間を思いっきり刺激してきて、かなり変態的な着心地である。胸に横一文字に白のストライプが入っていて、カッコいいデザインのはずなのに、この着かたのせいで、まるきりそういう用途に使うものと化してしまっていた。


 ちょっと動いただけで、乳首がこすれて、あそこが膨らみそうになる。だが、やはり緊張のせいで、勃起までは至らなかった。女の前で、全裸にゴムのスーツを着こんで立っているなんて、興奮より、むしろ悪い意味での恥のほうが先にきてしまう。

 だが、彼女はそれでもうれしいようだった。

「うふふふ、かずみくん、恥ずかしいのね?」

 俺の羞恥に気づいて、ニヤニヤする雪乃さん。呼び方がいつの間にか「くん」づけになってしまっている。今から俺をいいように出来るのがそんなにうれしいのか、言葉も態度も長年のつきあいの友人同士のように、すっかりくだけていた。そのなれなれしさが、俺のマゾ心に火をつけた。



  xxxxxxx



 プレイの最中は女王様と奴隷だったが、終わると、さっさと元のあいだがらに戻った。とはいえ、直後の余韻はすさまじかった。俺は果ててうつぶせに倒れこみ、しばらくして横目で見れば、後ろに雪乃さんが見えた。ぐったりとベッドに背を持たれて座りこみ、うろんな目で遠くを見つめている。どこかの美しい夢の国でも見ているような恍惚の瞳だった。

 あまりにも幸福な時間だった。会っていきなり興味本位でしてみただけなのに、長年寄りそった恋人同士のような気がした。むろんこっちは男なので、出すと正気に戻るのだが、そのさめ方も、このけだるいよろこびを覆いつくすには、到底およばなかった。

 時計を見ると二時間以上も経っていたので、おどろいた。てっきり数分ぐらいかと思っていた。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。



 お土産にお菓子の折りづめをもらって屋敷を出た。親父の話では、こういう女にもらってばかりいる男を、昔はヒモといったらしい。からんでるからか? だが、ヒモでもテープでも、俺たちがたがいに依存しあっているのは、たしかだ。

 スマホの時計は、五時をすぎていた。住宅地の路地にさす夕日が、あかあかときれいだった。駅から家まで二駅だが、駅前通りに入る寸前にある小さな橋の上で、ふと立ちどまった。つっ立ったまま右をむき、ドブ川を見る。水は浅くちょろちょろと流れ、よどんだ黒い川底の泥に、ひしゃげた空き缶がじっとかしいで突き刺さり、向こうからの流水を左右に分けている。

 なんてことしちまったんだろう、と思った。

 俺には、蘭子さんというひとがいるのに。


 いや、これは友達で、恋心じゃない。セフレって言い方があるが、それだ。確かに雪乃さんとは気があうし、欲情するし、実際ヤッちまった(といっても、SMプレイだけで挿入はなし)が、愛してるかというと、ちがう。

 いや、それはひどい。好きなのは、たしかだ。ただ、蘭子さんみたいに、顔や姿、仕草や声を思うだけで、いっぺんに胸がどきどきしたりはしない。向こうが俺に対してそうだったら本当にもうしわけないが、雪乃さんとは性的に親友なだけだ。そうだ、性的親友、セフレならぬセックス・ベスト・フレンド。略してセベフレ。なんだそれ。


 だけど、たとえば男の友達同士で、いくら仲が良くても性行為まではしないよな。そうか、たんに男と女だからヤッたのだ。たまたま相手が異性で、たがいにそうなるような体の構造だったから、そうなった。それだけだ。

 同性だって、精神的に愛しあうことはある。中には肉体まで行くこともあるそうだし、それで友情が壊れることなくつきあい続ける例も、まれではない(と、なんかで読んだ)。セフレというと、いいかげんにつきあってるような意味に取られるが、本当はたんに性的な友というだけで、なにも悪いことはないんじゃなかろうか。

 そうだ、蘭子さんのことは恋人として(って、なってないが)愛して、雪乃さんは、親友として愛すればいい。だから今日みたいに、明らかに変なことをしたって、あくまで「友達づきあい」だから、なんてことはない。

 あっ、でも蘭子さんには、このことは内緒にしたほうがいいな。俺が平気でも、むこうが嫌な気持ちになるかもしれない。自分を愛してると言ってる男が、ほかの女に蹴られたり叩かれて射精してたら、いくらなんでもムカつくだろう。秘密にしなくては。

 そう思ったとき、雪乃さんからラインが来た。

 読んで、俺の目は見ひらいた。


「とても言いにくいことなんですけれど、わるいことになりました。さっきお帰りになった父に、さっきのことをすべて正直に申しましたら、烈火のごとく怒りだしたのです。もう目をつりあげて眉間にしわをよせ、『そんな男とは、絶対に別れろ!』と怒鳴りちらして、ラチがあきません。話したわたくしも愚かですが、昔から父にはなんでも正直に話してきたので、このことも、ついわかっていただける、と思ってしまったのです。

 口論になりました。『そのままのわたくしでいい、といつもおっしゃっているじゃありませんか! これがそのままのわたくしですわ! では、偽れとおっしゃるのですか?!』と叫んでメイドさんにはがいじめにされ、部屋に引きもどされました。そのあとも、父は『とにかく、そんな変態男には二度とうちの敷居をまたがせん!』と、一歩もゆずりません」


 ここまで読みながら、サドなのは分かってはいたものの、それ以外の彼女も、じつは気性の激しい炎のような女だったと知って、感動した。

 だがその先へ行き、読みおわると、たちまち血の気がひいてしまった。

「そういうわけで、とてもあなたとのおつきあいを許してもらえる状態ではありません。かくれて会ったとしても、いつかバレると思うと気が気ではなく、とてもあなたとの逢瀬(おうせ)を楽しむどころではないと思います。かずみさんを思いっきり、心ゆくまで愛せないのでは、おつきあいする意味が、まるでありません。

 ですから、申し訳ないのですが、あなたとはもう、これきりにしたいのです。無理におつきあいして父を怒らせて、かずみ君が傷つくのが、こわいのです。

 あなたとのあの時間、ほんとうに、ほんとうに楽しかった。二度と忘れません。どうかお体に気をつけて、お幸せになってくださいね。

 さようなら。ご返事はいりません」


 俺は足もとに大穴があき、奈落の底に落ちていくような気がして、よろけた。頭ではセベフレだの平気だの言っていたくせに、彼女が俺の中でこんなにもでかい存在になっていたことに、今さら衝撃をうけた。

 頭にかっと血が上り、発作のように折り返しで「分かりました。もうあなたには会いません。さようなら」とラインを送ると、さげていた折りづめを川にぶん投げていた。


 流れることなく泥に刺さるそれを見たとき、後ろに誰かいるのに気づいた。

「不法投棄だぞ。しかもお土産くさいから、もったいな――」

 聞きなれた声にふりむくと、相手はおどろきに目をひらき、言葉を失った。あごになにかがしたたるのに気づいた。涙がぼろぼろ出ていた。あわてて、袖でこする。

「な、なんで、ここにいるんだよ……」



 俺が鼻声で言うと、薫さんは決まりわるそうに続けた。

「バイトの帰りだよ。お前の学校がこのへんだから降りて、ぶらぶら歩いてたら、その、ここに来て。そしたら、お前が……」

 たしかに彼女は、バイト用のでかい肩かけカバンを下げて、白いTシャツに黒パンツのふだん着だ。髪はいつものポニーだが、よりによって、こんなときに会いたくない相手だった。

 顔をそむけると、彼女はずばり言った。

「なんだ、どうした。失恋か?」

 なんで、こういうときだけメチャクチャ勘がいいんだ。だが、おもしろがってる感じではなく、妙にあきれたような、「しょうがねえな」という口調だった。また母親だからって親父面しやがって。などと、わけの分からんことを思った。

「ああ、そうだよ」

 俺はテンパっていたせいで、思わずラインの内容をべらべらしゃべった。もちろん変態うんぬんの部分ははしょったが。


 聞きおわると、薫さんは腕ぐみし、むずかしい顔になって言った。

「その娘、いまごろお前を想って、泣いてるかもしれんぞ」

「はあ? な、なんでだよ! 別れようっつったのは、あっちだぞ!」

 わけが分からなくなって叫ぶ俺に、薫さんは腕ぐみのまま、さとすように言った。

「女は、そういうことをするんだよ。別れる気なんかまるでなくても、なんかあって気が小さくなると、男にわざと別れ話するんだ。相手が信用できないもんだから、そうやってためすわけさ。ほんとうに自分を愛してるなら、こっちがなにを言おうが愛そうとするはずだ。別れるって言ったからって、簡単にうんとは言わないだろう、ってな。

 だから、これは必死の賭けなんだよ。うんって言われたら、もう終わりだからな。それをお前は、やっちまったかもしれないんだ」

「そ、そんなこと言われても……」

 女心なんてまるでわからない。めんどくせえ。だが、もし本当にそうだったら、雪乃さんが、さらに数倍もかわいく思えた。


「そういう話は、よくあるよ」

 腕をほどき、いつもの気楽な口調に戻る。

「たとえば、女房もちの男が旅行先で、現地の女とデキちゃったと。で、そいつが帰るってときに、女は笑顔で見送るんだけど、じつは内心では、いっしょに連れてってほしいと強く願ってる。でも、そんなん感じとる男はいないし、知ったところで困るだけだから、けっきょくは実現しないで終わるんだけどな。まあ、あたしだったら、連れてけって平気で言っちゃうけどな」

 そう言ってにやっと笑うのを見て、親父がこの人に惚れたのもわかる気がした。まるで男のようなさっぱりした女。それでいて、体はグラマー美女そのもの。そりゃ、誰だって落ちるよな。俺だって落ちかかってるわけだから。もしもこの人が母親じゃなかったら、今ごろ俺も――。

 そんなことを思うと、妙に気が休まってきた。でかいものをぽっかり失くしたという恐怖は、いつの間にかどこかへ消えていた。ただ話してただけなのに。薫さんマジックだろうか。


「落ちついたか。じゃ、帰ろう」

 俺の頭をぽんとやり、肩を抱いて歩きだした。腰や胸が密着していても、ヤラしさはみじんもなく、ただマユの中にいるような安堵とぬくもりだけが俺をつつんだ。そういや、すごい体験ばかりして、やたら疲れたな、今日は……。

「極端なことを言っちまって、わるかったな」

 駅に向かいながら、薫さんが言った。

「い、いいよ、そんなの」

「まあ、そのほうが希望があるけどな」

「えっ」


 思わず足をとめると、彼女は身を離して先に進み、続けた。

「その娘には悪いけど、完全にフラれるよりは、泣かれたほうがマシじゃん。だって、よりが戻る可能性があるわけだし」

「あっ――」

 俺が思わず言うと、薫さんは振りむきざま、「だろ?」と、ぱっちりウィンクし、また歩きだした。

 俺はやっと気づいた。

(そうか、わざわざあんなを話したのは、雪乃さんがまだ俺を想っているかもしれないから、元気をだせ、ってことなんだ。俺を勇気づけるために……)


 俺は自然に口もとがゆるみ、彼女の後ろをついていった。夕日にあかく染まるその背中が、とてもきれいだった。

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