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二、振臼撫祇子(歴オタ喋り妹キャラ風お笑い)

 振臼撫祇子(ぶるうす ぶぎこ)は、俺と同じ英語ゼミを取っている二年生だ。俺がイケメンすぎるせいか、遠慮して寄ってこない女が多い中、撫祇子(ぶぎこ)は初日からいきなり講堂の左はじの最前列にいる俺のところへ、うしろからズカズカやってきて、右どなりにどっかと座った。そして長テーブルに荷物を放ると、目を細めた妙にエロい流し目をこちらに向け、ニーッと笑ってきた。

 ふつうなら、いきなりそんなことをされたら怖いだろうが、彼女のとっぴな行動には驚きこそすれ、不思議と不快さはまったくなかった。そしてややハスキーな、小動物っぽく跳ねるような声で話しかけてきた。

「私は振臼撫祇子(ぶるうす ぶぎこ)ぞな。よろしくなりねー」

「な、なり……?」


 語尾が特殊なので戸惑った。あとで知ったことだが、彼女は重度の歴史オタクで、日常会話でも、口調がつい武士や平安貴族みたいな仰々しいものか、あるいは明治か大正時代の書生のように古風になってしまうという。歴史好きの女、いわゆる歴女だが、撫祇子の場合は筋金入りで、本人が歴史上の人物になりきって日常を生きていた。いわゆる中二病をこじらせたまま成人したパターンである。

 ここでふつうのラノベとかなら、彼女がいきなり決めポーズでもして、歴史上の誰かのまねをかます、とかなりそうだが、それはなかった。どうせ作者が、この「なりぞな喋り」をさせたいだけで、設定とかなにも考えてねえんだろう。こいつにはよくあることだ。


「ああ、俺は平川かずみ。よろしく」

 挨拶を返す俺に対し、撫祇子は終始うれしそうにニヤニヤしていたが、女が俺にデレデレするのはいつものことなので気にしない。だが、彼女はさらに心臓が鉄拳で出来ていた。流し目の目じりをさらにイヤらしくデレーッと下げるや、いきなり半ばうっとりと、こんなことを言った。

「かずみ君かぁ。君ぃ、かわゆすなぁ」

「は、はあ……」

「かわいい呼ばわり」は慣れてはいるが、初対面でいきなりされると、正直、恥ずかしい。相手がひくとか思わないのだろうか、この人は。


 撫祇子は、頭をすっぽりつつむヘルメットのような髪を肩のうえでざん切りにし、ややでかいお下げを顔の両側にたらして、黄色いリボンでむすんでいる。ツインテだから、ふつうなら子供っぽく見えそうなものだが、顔がでかくて幅もワイルドで、首のうえに、たとえば石どうろうなんかがでんと乗っているようでおそろしく安定感があり、かっぷくがすごいので、俺より歳うえに見えた。

 いちおう整ったかわいい丸顔のはずなのだが、そのやたら人を横目で見る目つきのエロさと、ニヤけたときにつりあがる口のでかさ・プラス・いにしえ喋りによって、美女というよりは、好色なスケベオヤジの雰囲気をかもしている。着ている服も、首とそでにフリルがついた紺のワンピで、その色のシックさが、年上感をいっそう高めていた。


 撫祇子は、俺がゼミに来ると、いつも隣に座るようになった。ほかに女の学生がいなかったせいで遠慮がなかったのもあったろうが、とにかくなれなれしかった。でも嫌いにはならなかった。かもす人柄のせいだろう。セクハラまがいの発言も、ひわいな流し目も、妙に許せる感じがあった。だが、そこは気をつけているのか、体に接触することはまったくなかった。

 あの日までは。





 ゼミが早く終わり、まだ午後六時をまわったころだった。部屋を見たいというので、家に連れてきた。女を入れると薫さんは気を悪くするかもしれないが、あっちだって俺に手を出しているのだ。かまうこたぁない。それに、べつに撫祇子とつきあっているわけではない。あくまで友達である。


「おおー、きれいな部屋なりねえ」

 入るなり、うれしそうに小動物っぽくきょろきょろした。

「男の子の部屋は、もっと滅茶苦茶で崩壊して、腐ってるのがふつうなんだけど……。整理整とんできとりますなぁ」

「腐ってるって……」と座布団を用意し、「じゃ俺、飲みもの持ってくるから。雑誌でも見てて」

「おかまいなくー」

 笑って言いいつつ、お下げをゆらして座布団にちょこんと座わり、やや小さめの卓上に何冊か放ってあるうすい本を手に取る。そのしぐさが、ちょっとかわいい、とか思ってしまった。

 雑誌は親父からもらった週刊誌のたぐいだった。面白い記事があると、よく勝手にくれる。迷惑でもないのでもらうが、じつは捨てるのが面倒だからって、俺の部屋がひそかにゴミ箱あつかいされているのかもしれない。あの人は適当だから、ありうる。



 台所で、二つのグラスに冷蔵庫から出した麦茶をついで盆にのせ、廊下にでる。玄関に鍵はかかっていたから、薫さんは留守のようだ。今日は、あの人のバイトは休みの日だったはずだが、友達が来るときは、むしろいないほうが気楽だ。彼女には悪いが、あの素っ頓狂なテンションは、他人に見られると恥ずかしいものがある。


 キスされまくって遊ばれていらい、俺はすっかり彼女に対する尊敬の念がうせていた。あのあと、とくに謝罪もない。最低だと思った。もしかしたら、俺の歴史の中で最悪の母親かもしれない。

(一瞬でも、あこがれた俺がバカだったんだ……)

 俺はいつしかうなだれ、暗い気持ちになって廊下を歩いていた。だが、あんなしうちをうけてもまだ、どこかで嫌いになれない自分がいやだった。もしかしたら、遊ばれたうんぬんが嫌なのではなく、たんに薫さんに男がいたことがショックだったんじゃ……。


 あのとき、いきなり電話が鳴ってそれきりになったとき、俺はたしかにガッカリしたし、極楽から地獄へと一気に落ちたような気がした。だが、どこかで、彼女の二番目、三番目でも全然かまわない、むしろ、それで大満足だ、と割りきれる気持ちもあった。でもそれは、たんにあれだけ濃厚にやってくれた余韻のせいだったと思う。

 そこまで考えて、はたと気づいた。

(あれ? 彼女は人妻だよな、そういや……)(電話が来て、デートだの言ってたってことは――)

 俺は立ちどまり、盆を持ったまま、かたまった。

(浮気じゃねえか!)

 自分のことは棚にあげて、むくむくと怒りがこみあげてきた。

(なんだよあの女、親父というものがありながら、よその男とデートだと?! ふざけんな!)

 腕がふるえ、盆を落とすところだった。撫祇子がわきから持ってくれなかったら。


「あ、ご、ごめん」

 あわてて必死に素にもどって言ったが、暗さは消せなかった。それでも、だいじょうぶそうと分かると盆から手をはなし、撫祇子は頭をかいて苦笑した。

「いやあ、トイレを探して用をたしてきたなりよ。勝手に歩きまわって、申しわけござらん」

「あ、いいよ、そんなこと」

 とたんに心配そうな目になる。

「なんかあったなりか? よければ、この撫祇子さんが相談に乗ってしんぜよう」と胸をぽんとたたく。

 癒された。しあわせすら感じた。もしかしたら好きになったかもしれない。だとしたら、生まれて初めてのことだ。女を好きになるなんて。

「大丈夫だよ。心配かけてごめん。部屋に行こう」


 だが部屋に戻ると、やはりもとの撫祇子だった。週刊誌のヌードグラビアをひらいて俺に見せ、ニヤニヤする。

「やっぱり君も、こういうのに興味がおありですかな。性的に飢え盛る年ごろですからなぁ」

「ばっ、バカ言うな。振臼(ぶるうす)と一緒にしないでくれ」

「もう、撫祇子でいいと言ってるのにぃ」と流し目をくれて、ふざけて照れたように肩をまるめ、腰をぷるぷる震わせてぶりっこする。「かずみ君がつれない態度だと、撫祇子、泣いてしまうなりよー」

「はあ……分かったよ。ぶぎ――ん? どした?」

 名を呼ぼうとして、彼女が恍惚として自分を見つめているのに気づいた。目にはいつものイヤらしさはみじんもなく、ただじっとりとうるみ、ほほは紅潮し、口もとはゆるんで、うっとりしきっているのがあからさまにわかって、俺は戸惑った。

「え、えっと、撫祇子さん……?」

「うーん、か、かわええっ」

「えっ、なにが」

「今の『はあ……』なりよ! もういっぺん、お願いいたしまする!」

 なんだ、ため息ついた顔に萌えたってだけか。そんなのにいちいち感動するなんて、安いにもほどがある。いや、相手は真剣なんだから、そんなこと言っちゃいけないんだが。


「お願いったって、ただのため息なんか、わざと出せないよ」

「そ、そうなりか。あ、そうだ、撫祇子がまたあきれるようなことを言えば、また、ため息ついてくれるなりな。我ながらグッドアイデアぞな!」

「な、なんでそうなるんだよ」

 俺が戸惑っても彼女は気にもせず、ただちに「平川かずみにため息をつかすぞ作戦」を開始した。いきなりドヤ顔で変なことを言いまくる。

「かずちゃんって、すべてがセクシーどすなぁ。とくにうなじと腰のライン。なめらかなアゴの線」

「ちょ、ちょっと、なに言いだすんだよ!」

「その美しい鼻すじに、ふっくらとエロすぎる唇。んもう、なめまわしたくなるなりよー」と舌なめずりする。

「や、やめろ、恥ずかしいだろ!」

 手で顔をさえぎって嫌がったが、そのしぐさすら、奴には極上のオカズでしかなかった。

「そのおみ足に、胸板にお尻。きっと脱いだら鼻血出まくりのウルトラ・セクスィ・ボディなんざんしょうなぁ。ああ、うっとり」

「せ、セクハラで訴えるぞ」

「声も、ただしゃべるだけで艶めいて、みだらそのもの。耳もとで囁かれたら、どんな女子も悶絶間違いなしの極上エロボイスなりよー」

「は、はあ、そうかよ……」

 もう俺は疲れたので、ただ聞き流すことにした。一瞬でも、かわいい、などと思った俺がバカだった。


 すると、いきなり顔が急接近したので、ビビった。

「うわっ、お前、近いぞ!」

「それそれ、いまのその顔なりよ! その超アンニュイな顔! それで撫祇子の耳にイヤらしく囁いてくれたら、もう……」とのしかかるので、俺は押したおされて、あわてて両手で迫り来る奴のでかい顔を防いだ。

「や、やめろ! 犯罪だぞ、こんなの!」

「し、しどいわぁ。べつにキスしようとか、ましてセックスさせろ、なんて言ってない。たんに撫祇子の敏感な耳に、エロいことを、甘くとろけるように囁いてくれれば、それでいいなりよぉ」

「な、なんでそんなこと俺がしなくちゃ――あっ! こらっ!」

 いきなり撫祇子が抱きついてきて、うなじをべろべろなめだしたので、俺はもがいた。が、力が予想外につよく、身動きがとれない。

「ほ、本当はひとめ会ったときから、君のことがずっと好きだったなりー」と、俺をかたく抱きしめて首筋にキスし、そのまま耳の穴をくちゅくちゅとなめだした。いきなりの刺激に、俺はびくんと反応した。ニヤつき、目を細めてイヤらしい流し目をむける撫祇子。

「おーや、かずみ殿、お耳で感じてしまっていますな。もしか、まるで女の子のように敏感な体なんですかな。これは捨ておけませんな。もっと君の秘密を暴きたくなったでござるよ」


「く、くうっ、やめろ、放せっ……!」

 必死にあがいたが、万力にはさまれたように手足が動かない。なんて馬鹿ぢからなんだ。

「じつは撫祇子、格闘技もやってて、柔道も黒帯、寝技は得意中の得意なり。もうあきらめて、わきあがる快感に身をまかせるがいいなりよ」

「わきあがってねえっ!!」

 俺は、あせりまくった。べつに、かわいい娘に変なことされるのは、どっちかというとうれしいはずだが、彼女の欲情ギンギンのテンションと、すさまじい体力が、それ以上に怖かった。俺は抵抗するふりだけして、なすがままになっていた。手を這わせ、ズボンを脱がそうとする撫祇子。

「はい、そこまでだ」


 いきなり聞きなれた声がした。見れば、撫祇子は後ろから誰かに首根っこをつかまれてビビっていた。その背後に薫さんが悪鬼のごとく目をつりあげ、地獄のオーラをゆらめかせて立っているのが見える。


「ち、ちがいますがな」

 あわてて、うしろに言いわけする撫祇子。

「あした理科の授業で男女の生態をやるので、予習していただけですにゃあ」と、なぜか猫の手になってまねく。よほど混乱しているらしい。

「ほうかい、ほうかい。ほんなら、あたしの生態も予習するか?」と、うなじを思いっきりつねり、撫祇子は涙目で「ぐぎゃあああー! お、おゆるしをー!」と叫んだ。放られると、街で人が寄った猫のように一目散にかけて、玄関へ姿を消した。

 俺は起き上がると、バツ悪い顔で目をそらし、ぽつりと言った。

「あ、ありがとう……」


 薫さんはイライラと自分の髪をなでたりしていたが、すぐに腕をくんで俺をにらみ、顔をまっかにして説教しだした。

「お前は無防備すぎる! 寄ってくる女にいちいちいじられてんじゃないよ。少しは警戒しな!! 隙がありすぎんだよ、だいたい」

「そんな、忍者じゃあるまいし、隙なんかどうやって消すのさ」と口を尖らせたが、薫さんの怒りはおさまらないようすだ。しばらく口のなかで、なにやらぐちぐち言っていたが、そのうちふうとため息をつき、俺の両肩に手をおいて、真剣な目で見つめて言った。

「いいかかずみ。お前はかわいい。もんのすごく、宇宙が百個終わるよりも、かわいい!」

「何も考えないでしゃべってない?」

「いいから聞け。しかも、ただ顔がいいってだけじゃない。お前はその……とてつもなくエロい」

「はあ……」

「わかってんのか?!」

 目を見開き、鼻息ふんふんに興奮しまくって言う。

「んもう、顔といい声といい、しぐさといい目つきといい、常にむんむんフェロモンが出っぱなし! どんな女も、一目でイチコロに理性をうしなう超絶ジゴロだ。まずは、それを自覚しろ」

 だが、俺があまりわかっていないようなので、薫さんは俺から手をはなして眉間に二本指をあて、「ダメだこりゃ」のしぐさをした。俺のバカさにあきれかえっているのは、あきらかだった。


 そりゃ、たしかにバカだが、それって俺が悪いのか? 悪いのは、セクハラしてきた相手のほうだろう。もしも性別が逆で、俺が女であっちが男なら、俺の性欲はきっとうすいはずだから、襲われたらビビっておまわり呼んで終わりだろう。

 だが、男が女に襲われた場合は、状況がかなり異なる。しかも相手は、あくが強いとはいえ、いちおうイイ奴だし、かわいかった。そんなのに襲われて、性欲はちきれそうな若い男子がこばめるだろうか? よほど相手のことが嫌いでもないかぎり、蹴とばして逃げるなんて不可能だ。

 だいたいそんなことは、薫さん自身がいちばんよく知っているはずじゃないか。なんだよ、自分はあんだけ俺を襲っておいて、ほかの女がやるのは禁止かよ。

 だんだんムカついてきた。俺は、あんた専用のダッチボーイじゃねえ。


「とにかくだ」と指さして念をおす薫さん。「かずみ、お前はいるだけで女がうようよ寄ってくる体質だ」

 俺は磁石かよ。それか釣りえさか。

「気をつけろ。女はどん欲で、男を骨までしゃぶって捨てる恐ろしい生き物だ」

「たしかに、そうだね」

「おお、わかってくれたか!」

 喜ぶ彼女に、軽蔑の目を向ける俺。

「うん、あんたを見てると、よく分かる」

 彼女は、また顔をまっかにした。

「なんだよ、あたしがいつ、そんなことしたよ?!」

「だって平気で浮気するじゃん」

「お、お前とのことは、あれは、その……」

 とたんに床に目を落とし、しどろもどろになったので、イラッときた。

「俺じゃない! 親父というものがありながら、べつの男とデートしたじゃんよ!」


「はあ? なんのことだ?」

 目をまるくする。しらをきってる感じすらない。どこまで鈍感なんだ。頭きて、いちいち説明してやることにした。

「ほら、このまえ、俺にキスしてたとき、電話かかってきたじゃん。アッキーだか、ヤッキーだか、って。そいつのことだよ!」

「あー、あれか!」

 やっと思い出すと、つぎの瞬間、腹かかえて猛烈に笑いだした。俺は混乱した。

「なんだよ、なにがおかしいんだよ!」

「いやあ、なにかと思ったら、あれかぁ」

 涙を指でぬぐうと、いつものドヤ顔にもどって、言った。

「アッキーってのはな、友達だよ、あたしの。女のな」

「えっ、女?」

 俺はさらに戸惑った。

「だ、だって、デートがどうのって……」

「ああ、こんど、あいつの旦那も入れて、うちらとダブルデートする予定なんだ」

 これには俺もおどろいた。

「ええっ、じゃあ、夫婦二組で、どっか行くってだけなの?!」

「そうだ。言っとくが、スワッピングとかもないからな。ごく健全な、友人同士の交際だ。だいたい、誰が浮気なんかするか。あたしは、お父さんを愛してるんだよ」


 俺は腰がぬけて座りこんだ。その理由は、あとで考えて分かった。

 薫さんが親父以外の男とイチャついていると思ったことで、じつは心に壮絶なダメージを受けていたのだ。そこまでショックだったのだ。親父はいい。いちおう自分以外の男ではあるが、家族だから、そう気にはならない。だが、薫さんがよその誰だかわからん男に変なことしてるなんて、考えるのも耐えられない。

 いっきに気がぬけた俺は、その場で膝をかかえた。


「だ、だいじょうぶか?!」

 そう言って心配顔でしゃがみ、顔をうかがってくる。脈絡もなくきれいな憂い顔だと思い、いっそう切なくなった。だが、ふとあることを思い出し、たちまち胸に不快な緊張がはしった。

「薫さん……」

「な、なんだ?」

「たしか俺にキスした理由って、男にふられたからだろ? それは誰なのさ」

「あの人だよ。お父さん」

「親父だって?!」思わず顔をあげる。「親父にフラれたってことは……離婚か?!」


「待て待て、あわてるな」

 両手で制し、ちょっとてれた顔になる。

「じつはな、デパートでいっしょに見たドレスを買ってもらえなくて」

「ええと、ドレス……?」

「まったく、クリスマスまで待て、とか言うんだぜ、あの鬼畜」と、こぶしを握りしめて歯がみする。「たいして高くねえのに、買ってくれてもいいじゃんよぉ。ふてくされて当然だろ?」

「そ、そんなことでヤケ酒……」

 あまりのしょうもなさに即死しかけた。

 が、そうだ。聞きたいことがある。いいや、絶対に聞かねばならないことだ。


 気をたしかに持ち、俺は彼女を真剣に見つめて聞いた。

「親父を愛してるんだろ?」

「もちろん」

「じゃあ、なんで俺にあんなことした?」

「い、いやだったか?!」

 あわてて聞いてきたが、そういう問題じゃない。

「いやじゃなかったけど……」

「じゃあ、いいじゃん」

「よくねえよ! 理由が聞きたいんだよ!」

 すると、とたんに目をそらし、バツ悪そうにぶつぶつと言う。

「お、お前があんまり、そのぉ、か、かわいかったから……」

「はあ?!」

 俺はまた即死しかけた。

「ひ、人のこと言えないじゃん!」

 指さして指摘すると、彼女はひらきなおったようにニヤついた。

「なら、一日も早くあたしを『お母さん』って呼ぶんだね。そうすりゃ、もうしないよ」

「な、なんだよ、それ。なんでそうなるんだ?! ……ちょ、ちょっと待て!」


 呼びとめても、彼女は背をむけて廊下に出ていった。と思いきや、ドアからひょいと顔を出し、言った。

「かずみが、あたしを『薫さん』と呼ぶかぎり、あたしは『かずみの薫さん』だ。忘れるな」

 そうしてウィンクし、去った。

 俺は何がなんだかわからず、頭をかかえた。


 その晩は撫祇子のブの字も思いださず、それで抜くこともなかった。

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