第一章 我が家に人形がやってきた。
家事というものは時間を食う。とにかく食う。
敷地面積六六〇平方メートル。そのうちの半分を使った武家屋敷っぽい家で行う家事ならば、食われる時間は長きにわたる。それを学生という身分で行うのだから、気を利かしてくれてもいいんじゃないかと思うのは、自分のわがままだろうか。
「頼むよ、工藤」
学校からの帰り道、ボブカットの髪に細い眼を持つ幼馴染の伊予裕子が、かれこれ三〇分以上も、しつこく頼みつづけていた。
「顔を出してくれるだけでいいんだ。道着の上から防具をつけて、面か胴か小手か喉当てを、竹刀で攻撃してくれるだけでいいんだ。二本ほど」
「言わない。それ、顔を出すだけって言わない」
無視を決め込んでいた栗色の髪を腰まで伸ばす少女――工藤美咲は、思わず反応してしまった。
活発そうな少女である。身長は高く、乳白色の制服からスラリと伸びる手足は健康的。鳶色の瞳は常に自信に満ち溢れているが――いまばかりは、失敗の念に彩られていた。
かわいい、というよりも凛々(りり)しい美咲の顔に後悔が表れるのとは正反対に、裕子の顔に笑みが浮かんだ。
「ようやく反応してくれたね。ひどいじゃないか、無視なんてさ」
「……あんたが何度も何度も同じ頼みを繰り返すからでしょうが」
「何度も何度もしつこくねちっこく続けるのは、説得の基本だよ」
「それ、脅しか嫌がらせって言わない?」
「ただ頼んでいるだけさ。もっとも、首を縦に振ってくれるまで続けるつもりだけど」
「新聞の勧誘か、あんたは」
「悩まされているなら、工藤の代わりに対応してあげるよ。出費なしで洗剤一ダースを取れる自信がある」
「あんたなら、マジでできそうよね」
口の達者な幼馴染を見てため息を漏らした美咲は、少しだけ譲歩することにした。
「練習試合だっけ?」
「出てくれるのかい」
目を輝かせる現役女子剣道部主将に、美咲は釘を刺しておく。
「話を訊くだけよ。――それで、いつなの?」
「五月の連休明けの日曜日。碓井学園とだよ」
「連休明けって、テスト前じゃないの。ムリに決まってるわよ」
裕子は首を傾げた。
「問題でも?」
「テスト勉強よ、テスト勉強。あんた、学生の本分を忘れてる」
「工藤は直前に慌てるタイプじゃないだろ」
「このところ勉強ができてないのよ」
「なにかあったのかい?」
美咲は顔に渋みを入れた。
「先週、使ってない部屋の片付けをしてたら、ポカしちゃってね。――障子をやぶっちゃったのよ、それも全部」
「相変わらず不器用だね」
「うっさいわね。慣れてないだけよ」
言っても、裕子の表情は変わらない。手で口元を隠して笑っている。
美咲の顔はますます渋くなった。
「笑いごとじゃないわよ。おかげで今週は、障子の張り替え週間だったのよ」
「ごめんごめん。それで、終わったのかい?」
「ええ、昨日なんとかね。けど、部屋の片付けが全然終わってないの」
「なるほど。それで勉強する時間がないと」
「そうよ。やれるときにやっとかないと、うちってすぐゴチャゴチャになるから」
聞いていた裕子はふむ、と顎に指をやる。
「つまるところ、部屋の片付けが終わればいいんだね?」
「そうだけど……」
「なら話は早い」
パンと手をたたいて、笑顔になる裕子。美咲はイヤな予感がした。
「組が総力をあげて手伝いに――」
「けっこうです!」
発言半ばで美咲は拒否した。裕子は眉間に皺を寄せる。
「人の話しを最後まで聞かずに断わるなんて、失礼だと思わない?」
「あんた、いつぞやの出来事を忘れたの」
裕子は頭上に『?』を浮かべた。美咲はヒクっと頬を痙攣させて、
「あたしが庭の雑草がすごいことになってる、ってぼやいたときのことよ。それを聞いたあんたは手伝うって言って――」
「『言って』?」
「――言ってあらん限りの重機と気合の入った組員を、うち前に勢揃いさせたでしょ!」
「ああ、中学のころの話だね。思い出したよ」
裕子はクスクスと笑った。
「いや、懐かしいね。あの日の光景はいまでも憶えてるよ。いい思い出だ」
「いい思い出でじゃない、いい思い出じゃない! 人垣はできるわ、警察は来るわ、マスコミは来るわ、地元新聞にも載る大事になったじゃない!!」
「その新聞、いまでもうちにあるよ」
「捨てなさいよ! っていうか、あんた、草むしりとカチコミを同一視してない!?」
「制圧して排除する。同じことじゃないか」
「おかしい。その認識は絶対おかしい!」
美咲は気炎を上げた。
「あの日以来、ご近所さんから工藤家がなんて言われてるか知ってる? 借金で首が回らなくて、立ち退き寸前だって言われてンのよ!」
「それは失礼だね」
「ホントよ。迷惑な話だわ」
腕を組んで憤慨を表しながら、裕子は言った。
「工藤姉妹はお爺様の愛人候補だ。訂正してもらわないと」
「なおのこと迷惑よッ!!」
たまらず美咲は叫んだ。
ちなみにお爺様とは伊予組八代目組長、伊予雅史のことである。政財界に顔の利く東海地方一の大極道にして、古希を迎えてなお、夜の街に足を運ぶ妖怪ジジイだった。
「まあまあ。落ち着こうよ、工藤」
「誰のせいでこうなってるか、ホントにわかってる……?」
「わかってるよ。工藤は家事に追われて時間が取れない。そうだろ?」
「……なんか話をずらされた気がするけど――根本的にはそうね」
「だったら簡単な問題さ。使用人を雇えばいい。それで問題は解決さ。お金はあるんだろ?」
「そりゃ、お父さんが残してくれたお金はいっぱいあるけど……」
「だったらお爺様に頼んで、いい使用人を探してもらうよ」
「うっ……そ、それはちょっと……」
美咲が視線を彷徨わせていると、裕子は走り出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
「それじゃ、見つかったあかつきには、ちゃんと部活に入ってくれよ」
「っておい! 練習試合から入部に話が変わってるわよ! 訂正、訂正しなさい!」
「ほら工藤、いつまでそこにいるんだい。急がないとタイムセールに遅れるよ」
「えっ、ウソ? もうそんな時間!? ――って、ちょっと!」
まちなさい、と言葉がのどまで上がるころには、裕子の姿は交差点に消えていた。
「ああ、もう! うちに使用人なんていらないんだから!!」
「――って、言ってはみたけどさあ」
空が夕暮れに染まった午後の五時。
タイムセールに間に合い、お買い得品を買い漁った美咲は、公園のベンチで再思考する。
「たしかに言えてるのよねー」
美咲はスーパーの袋に入っている物を見た。冷凍食品に出来合い物。栄養バランスがいいわけがない。自分ひとりなら問題ないが、うちには幼い妹がいる。ただでさえ、歳のわりに体が小さいのだから、食事の改善は最重要事項であった。
食事だけではない。改善事項は家事全般が上がる。
家の中は常にほこりっぽいし、庭は雑草が生い茂り、万年塀は汚れに汚れていた。
「雇うしかないのかなー」
工藤家は小金持ちである。両親はいないが、使用人を雇えるだけの遺産は充分にある。
――となれば、なにも問題は無い。
雅史さんの力を借りて、良い使用人を雇う。
やはり、自分ひとりでは限界がある。これが一番ベターな対処法だ。
「でも、そう簡単にはいかないのよね……」
ため息をつき項垂れる。すると鞄より下がった手の平サイズの人形が目に入った。
気分転換にやってみよっかな。
公園を見渡し誰もいないことを確認した美咲は、人形を鞄から外す。
人形をベンチの上に置く。目を閉じた美咲は、十六秒かけて呼吸を整え、両手の指を人形に向けると――囁きを始めた。
「我は謳う、模造なる偶像の声を。模した汝れ、創りし主の願いを聴け。偶された汝れ、望みし主の願いを聴け」
開放節を唱え終えると、指向節に移行。両手一〇本の指から透明な糸が生えるイメージを作り、それを人形に接続させる。
「強化接続浸透認識、増命幻糸網羅認知。我が言の葉に応じよ、和が異の波に応えよ!」
目を開いた美咲が人差し指を動かす。
すると人形がぴょこりと立ち上がり、とてとてと歩いて美咲の膝までやってきた。
――これが他人を雇えない問題。美咲は傀儡師なのだ。
傀儡師。和名で傀儡師。錬金術師や叙術師、複幻師などに並ぶ異能力者の系統名で、幻糸と呼ばれる見えない糸を紡ぎ、手も触れずに万物を操る者。それが傀儡師だ。
と、言えば恰好は良いが、あくまで理論上の話である。実際に操れるのはヒトと同じ形をした人形くらい。万物を操るなどとは、過言極まりない誇張であった。
それでも、過去に置いてはそれなりに役に立っていたらしい。桶と洗濯板を使っての洗濯は人形に任せられたし、川からの水汲みだって疲れを知らない人形ならば何往復でもできる。農作業にも活躍したとされる。
しかし戦後までの話である。いまでは洗濯などスイッチひとつでできるし、水は蛇口を捻ればいくらでも出る。農作業では、農耕機械を使ったほうがはるかに効率的だ。
そんな科学万能な現代社会においては、まったくと言っていいほど役立たずな傀儡術なのだが、それが雇用上最大の問題なのだ。万一、自分が傀儡師だとバレたら封魔指定を受ける。そんなのは御免だった。
美咲は人形を躍らせながら盛大なため息を吐いた。
「まったく、なんでうちが傀儡師の家系なんだか……」
心からの嘆きは風にのまれる。
背後にある桜がざわめき、桜吹雪を舞い起した。
「わっぷ……」
ピンクの花弁の大群に襲われた美咲は思わず目を閉じてしまう。
「――Mishaki kudou?」
どこか、幼い声だった。
風が去り、目を開けた美咲が見たのは短髪の少年。黒いスーツを着た男が立っていた。
白色人種――いや、白色人種の血を持つ東洋人なのだろう。瞳の色はアイスブルー。肌は驚くほど白いが、髪の色は黒。背は美咲より頭一つ低く、顔もあっさりとした作りだ。
ここは社宅の多いベッドタウン。観光スポットもないので、外国人を見かけることは滅多になく、美咲自身も見慣れているわけではなかったが、アンバランスだと彼女は思った。
年下とはいえ、二つか三つほどしか違わないはずの少年が、妹と同じ小学生くらいに見えるのだ。なんでだろう?
「あの、ミサキ・クドウさん、ですよね?」
困った声で尋ねられ、美咲は我に返る。そして同時に抱く警戒心。
「……あんたは?」
いまの見られた?
不機嫌顔の裏に浮かぶのは強い危機感。美咲は人形をポケットにしまうと、立ち上がる。
見られていたとしたら――記憶を消す。傀儡の術で記憶を操作し、消すしかない。
覚悟を決めた美咲はいつでも術を行使できるよう呼吸を整え、鋭い視線で少年を見つめる。
少年が動いた。両手に大きなトランクを持ったまま歩を進め、美咲に迫ると、
「初めまして。ボクはアキト・ユル・アイデ。本日よりクドウのしもべとなるものです」
「あ、そーいうの間に合ってるから」
なんだ、ただのバカか。春になると増えるって聞くけど、迷惑な話よね。
即答した美咲は片膝をついて恭し(うやうや)く頭を下げる少年の横を抜けると、全力で走り出した。
「――へ? あ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
誰が待つか。この手のバカはさっさと撒くに限る。つけられたりでもしたら、安心して眠れない。
公園を出て、交差点を曲がった美咲はまた角を曲がり、裏路地に入る。
そしていくつかの曲がり角を抜けると、ようやく速度を落とした。
「……ふう。ま、こんだけ距離を稼げば――」
「もういいですか」
ぎょっとした。
振り返ると、撒いたはずの少年がいたのだ。
脚には自信がある。陸上部に誘われたことがあるのだから、そこそこ速いはず。
だが、少年は軽々(かるがる)とついてきた。両手に人間が入りそうな旅行鞄を持ちながら。
男は速度を上げると、苦もなく美咲に並んだ。
「ぼ、ボクの話を聞いてください。ボクは――」
「あんたなんて知らないわよ! しもべも間に合ってるってば!」
汗一つかかず、呼吸一つ乱さず、横を走る困り顔の少年。いくら速度を上げてもついてくる。ターミネーターかマッハジジイ(古い)にでも追いかけられている気分だ。
「だから、ボクの話を――」
「あーもー! 間に合ってるって言ってンでしょ!!」
叫びながら十字路を左に曲がると急に人口密度が上がった。
見慣れた風景。ほぼ毎日足を運ぶ商店街のメインストリートに出たのだ。
チャンス。
美咲は買い物客でごった返すメインストリートに飛び込むと、人ごみを避けて走る。
いくら少年が速くとも、ここでは小回りがものをいう。案の定、大きな荷物を二つも持つ彼は人波に呑まれていた。
「ザマーみなさい! 特売品ハンターの異名は伊達じゃないのよ、伊達じゃ!」
美咲は高笑いを響かせながらメインストリートを疾走し――ふと足を止めた。
「――あ、お買い得品」
――公園のベンチ。ガックリと肩を落とした。
†
自宅についたのは、日が完全に沈んだころになった。
「ただいま〰〰」
美咲はダレた声で帰宅を告げる。
右手には別のスーパーの買い物袋。あんなことがあったあとでは、取りに戻れるはずもなく、買いなおしたのだ。
「……おかえり」
リビングから少女が顔を出した。
透明度の高い黒の瞳。短く切り揃えた同色の髪に、年中変わらない愛想のない表情。今年で一〇歳になる妹の工藤美琴である。
珍しい、と美咲は思った。学校以外のほとんどの時間を自室で過ごす美琴がリビングにいる。この時間帯なら、部屋で読書三昧のはずなのだが……なにかあったのだろうか?
「――ま、そんな日もあるわよね……」
「……?」
「なんでもないわ。晩御飯、いまから作るから」
通常価格と疲労のダブルパンチを受けた美咲は、肩を落としてスリッパに履き替える。
「……なにかあった?」
「ヘンな男に追いかけられたのよ。まったく、いい迷惑だわ」
盛大にため息をつきながらリビングに入り、
「それは大変でしたねぇ〰〰」
盛大にこけた。
「どうしたんですか、ミサ姉さま?」
「な、な、な、な、な――!!」
腰を抜かした恰好で、『な』を連呼する美咲。視界の先には振り切ったはずの少年――アキトが、リビング直結のキッチンにてエプロン姿で立っていた。
「なな――なんであんたがここにいるのよ!」
「あれ、言いませんでしたか? 本日付でクドウのしもべになりますって」
「だから、なんでそうなるのよ! っていうか美琴!」
立ち上がった美咲は腰に手を置くと、傍観している妹へ厳しい視線を向けた。
「怪しいヤツを家にあげちゃダメって言ってるでしょ!!」
「ど、どこですか怪しいヒト?」
おろおろとする怪しい少年。デン、と美咲のこめかみに青筋が浮かんだ。
「あんたよ、あんた!!」
「……ich?」
「そうよ! ドゥーよ!!」
「え? でも――ああ、そうでしたね。まだ自己紹介がちゃんと終わってませんもんね」
ニヘラ、とアキトがどこか幼稚な笑みを浮かべる。美咲のボルテージアップ。
「そうじゃなくて!」
「あ、ちょっと待ってください」
ストップ、と手を上げるアキト。絶妙のタイミングで美咲を止めると、フライパンのフタを開け、ハンバーグの火の通り具合を確認。用意してあった皿に乗せかえると、「ありがとうございます」と会釈をひとつ。「続きをどうぞ」と手を下げた。
「……あんた、なにやってんの?」
意図してかどうか、勢いを殺された美咲は、理解していながら尋ねる。
「お料理です。献立はハンバーグにポテトサラダ、おみそ汁にコシヒカリとなってます」
「なんであんたがウチで料理なんて作ってんのよ!」
「あれ? お腹空いてませんか?」
「空いてるわよ! あんたのせいで走らされたからすっごく! けど、それとこれとは」
「ボクの……責任?」
アキトの表情が変わる。
疑問と当惑が交じり合った顔から一転して無表情。怒っているわけではなさそうだが、美咲はなぜか気圧されてしまった。
「な、なによ……」
「――ごめんなさい」
アキトは深く頭を下げた。
「……へ?」
「ボクが原因でミサ姉さまは気を荒げているんでしょう。だから、ごめんなさい。今後はそうさせないよう、注意します」
「……あ、うん。わかったならいいのよ」
思いもよらぬ反応に美咲の気も静まる。その隙をついて、アキトは笑顔を復活させると、提案した。
「ありがとうございます。あと五分ほどでできますので、着替えられたらどうですか?」
「あ、そうね。じゃあちょっと、着替えてくるわ」
美咲は踵を返すと、リビングから出て行く。
「ミコ姉さま。ミコ姉さまのごはん茶碗はどれでしょうか?」
「これ」
「ありがとうございます。量はどれくらいを?」
「ちょっと少な目。ハンバーグにニンジンはいらない」
「わかりました〰〰」
「――って、ちがーーーう!!」
ダッシュでリビングに戻った美咲は、キッチンに飛び込むとアキトの胸倉を掴んだ。
「そうじゃなくて、どうしてアンタがここにいて、我が物顔で料理なんかしてるのかって訊いてンのよ!!」
「えっと……もしかして、聞いてないんですか?」
「はあ? だからいったいどういうことなのよ」
「あ、やっぱり。連絡がいってないんですね〰〰」
ひとり納得したアキトは、懐から一枚の紙を取り出し、美咲に差し出した。
「なによ、これ? ……ハウスキーパー雇用契約書? って、住み込みで!?」
「はい。今日から住み込みで働かせてもらうんですよ」
「ちょ、ちょっと! あたしこんな契約した覚えないわよ!? 誰が――って、まさか」
「えっと、キョーコさんですけど」
「あンの人は……!!」
自称冒険家の叔母のなにも考えていない笑顔が脳裏に浮かび、美咲は契約書を握り潰すと、リビングから飛び出した。
行き着いた場所は階段の下にある電話。受話器を持ち上げると、神速でボタンをプッシュする。やや間を空けてからハスキーボイスの女性がでた。
『こちら工藤です。ただいま、諸事情により電源が入っていないか、電波の届かない遺跡にいます。用件のある人は発信音の後に用件とメッセージをいれてね♪』
「あたしです、美咲です! 居留守はやめて出てください!!」
『なんだ、美咲か。いやー、フったオトコかと思ったよ』
あっはっは、と気楽な笑い声。工藤姉妹の後見人、工藤恭子その人のものだった。
「どういうことですか恭子さん、使用人の雇用契約って! しかも住み込みでなんて!!」
またもや間。どうやら衛星電話らしく、会話に若干のタイムラグが生じるようだ。
『ああ、アキトのことかい。もうついたんだ。さっすがカルゲ、仕事が早いねぇ』
「なんなんですか、アレ!?」
『プレゼント』
「はあっ?」
思わぬ言葉に眉を寄せる。
『知り合いが経営する人材派遣の会社で、有能株のハウスキーパーがいるって聞いてね。安かったから雇ったの。一週間早いバースディプレゼントよ』
「いりません。クーリングオフしてください。してくれないなら、こっちでします」
『もーいけずぅ。でも、美咲ならそう言うと思ったわ。だ・か・ら♪』
恭子は脳が溶けたかと思えるような甘ったるい声色で、
『終身雇用で契約しちゃった、テヘ♪』
「ア―――アホですかァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
凄まじい怒鳴り声。受話器が震える。恭子が小さな悲鳴を上げると、複数の声が現れた。
『どうした、キョーコ!』
『敵か!?』
『起きろ、いつまで寝てやがる!!』
『周囲のチェック! 三六〇度警戒!』
『エンジンをかけ――バカ野郎! 先に防熱・対赤外線処理布被せとけ! 狙われるぞ! スティンガーも用意しろ!!』
物騒な発言の数々。恭子の慌てた声が止めに入る。
『あ、違う違う! 電話、ただの電話! ケビンからの連絡じゃないって!』
それでも続く怒声の数々。数回の発砲音が轟くと、ようやく沈静化した。
『あ、うん。なんでもない。ただの世間話よ。ごめんね。――あー、ビックリした』
「……なに、やってるんですか?」
『夢と浪漫と男臭さ溢れる宝探しゲーム』
「宝探しゲーム……って、いまモノホンの銃声が……」
『ゲームよ、ゲーム。実銃と実弾を使ってるけどゲーム。あんまり詮索すると引き込まれちゃうわよ。姉妹もろとも』
言葉そのものは軽かったが、なにやら重い意味が含まれていた。
美咲は忘れることにすると、改めて問い質す。
「それで、どうしてこんなことしたんですか。住み込みで雇うなんて、そんな無理ですよ」
工藤家は表向き、ただのくたびれた屋敷だが至る処に隠し部屋がある。そして部屋の中には怪しい道具や薬が保管されており、大半が禁制品だったりするのだ。
キッチンのふたりに聞こえないよう、小声で言う美咲に、恭子は笑って答えた。
『だいじょーぶ、だいじょーぶ。そこんとこはちゃんと考えてあるから』
「小麦粉や風邪薬とでも言うんですか? すぐばれるに決まってますよ」
『違う違う。根本的にたいじょーぶってことよ。だって、アイツ――』
突如にして受話器からけたたましい音が響いた。反射的に受話器を遠ざける。遅れて悲鳴とも怒号とも取れる声が上がり、エンジン音と発砲音が参加を始めた。
その中、恭子は声も口調もガラリと変えて、
『クソったれ! 奇襲だ、奇襲!! 起きやがれ!!』
「きょ、恭子さん!?」
『A班B班は敵を近づけさせんな! C班は撤収準備、あとE班を呼び戻せ! 急げ!!』
「恭子さん! 大丈夫なんですか、恭子さん!?」
叫ぶが爆音に掻き消され、まったく届かない。雑音の多くなった受話器の向こうでは、恭子がヒステリックに怒鳴っていた。
『ケビンはなにしてやがった! あとで薄汚ぇ○○○○ぶつ切りにしてやる!! 急げ! 長くは持たねぇぞ!!』
『A班壊滅、B班も被害甚大!』
『撤収準備整った! 全員乗せろ! 対人地雷のタイミング、しくじるなよ!!』
「Three two one―――Fire!!」と誰かが言うとこれまで以上の爆発音が轟く。どうやら近距離でなにかが爆発したらしい。凄まじいノイズが受話器を奔った。
『テメェらしつこいっつってンだよ! この盾はオレたちが先に見つけたんだ! 横取りするんじゃねぇッ!』
叫んで新たな発砲音が響く。ついでに明らかに日本語ではない絶叫が上がった。
「きょ、恭子さん……?」
『あ、ごめーん! 同業者かなにかと鉢合わせしたみたいなの! ちょぉ〰〰〰っと騒がしいから、落ち着いたらまた連絡するわ!』
『きたぞ、キョーコ! ヤツらヌーフの追っ手だ!』
銃声に紛れて聞いたことのない言葉が聞こえてくる。なんとなく『呪い』だの『死』だのという、ネガティブな意味な言葉だとわかった。
『ぬーふぅ……? はん、モグラどもの小間使いかい。アリーの呪いが恐くてトレジャーハンターが務まるかってンだ! 日本人だからって舐めンなよ! 大和魂見せてやる!』
「ああ、恭子さん。大和魂の使いどころが激しく間違ってます――って、もしもし!?」
一方的に切られる電話。
その後、何度かけても繋がることはなかった。
†
「――事情は理解したわ」
食欲を刺激する夕食の匂いを無視して、美咲は口を開いた。
「後見人の恭子さんと、あんたの勤める会社との間で使用人を雇う契約がなされた。そしてあんたは会社の指示に従って、遠路はるばるドイツからきた。そうね?」
料理を並べ終えたアキトがうなずく。
「クドウのしもべとなり、二十四時間体制でお世話をする。それが契約の内容です」
「解約は可能なの?」
「可能ですけど、雇用者側の都合による一方的な解約においては、違約金を支払う義務が生じますよ? 一週間の仮契約を済ませたあとなら消えますけど」
「払うわ。だからさっさと出てきなさい」
「な……」
ガーン、と衝撃を受けるアキト。慌てた様子で美咲に尋ねる。
「な、なんでですか!?」
「当然でしょうが! あんたわかんないの!?」
アキトは『?』マークを浮かべる。美咲はため息をひとつつき、説明した。
「あんたはオトコ。あたしと美琴はオンナ。同じ屋根の下で暮す。――以上」
「えっと……男性と女性で一緒に暮らすと、どう問題なんですか?」
「そ、それは……」
小首を傾げて訊かれ、言葉を詰まらせる美咲。赤い顔でもごもごと言葉を漏らした。
「だ、だって男よ? 男はみんなケダモノだって言うし……この家にはあたしと美琴だけしかいないのよ? 若い姉妹が住むこの家で寝食共にする使用人が男なんて、認められるはずがないじゃないの。あ――過ちが起こったらどうするのよ!!」
「あの……」
「なによ!」
「アヤマチ、というのはなんですか?」
「……へ?」
「まだ完璧に日本語をマスターしてなくて。抽象的な言葉に弱いんです、ボク」
エヘヘ、と照れ笑いをしながら、アキトは再度尋ねた。
「それで、アヤマチってなんですか? どんなことですか?」
「あ、過ちは過ちよ! それでわかりなさい! とくかくダメなものはダメなの!!」
「そ、そんなあ。考え直してくださいよお」
「ダメ」
「一週間、とりあえず一週間!」
「ヤダ」
「ほ、ほら。仮契約として一週間雇えば違約金を払わないですみますし」
「却下」
まったくもって相手にされない。アキトはいまにも泣き出しそうな顔になると、突然美咲に抱きついた。
「ちょ、ちょっと!」
「雇ってくださいよぉ〰〰!」
「イヤだって言ってんでしょーが!!」
「しっかり働きますから! がんばりますから! というか、せめて話を最後まで聞いてから決めてください!」
「雇うつもりないんだから、聞く必要ないわよ!!」
「お願いしますよお〰〰〰!」
「ダメなもんはダメ!」
「お願いします、ミサ姉さま!」
「誰が姉さまか!!」
「ならミサキ姉さま。あっ、ミサネェさまのほうがしっくりきますね」
「そうじゃなくて、どうして『姉』なのよ!?」
「? ミサネェさまはミサネェさまですよ?」
「だから、どうしてあたしらに『姉』なんて付けるのか、って聞いてるの! さっきからずっと言ってるでしょ!!」
「だってボクより年上じゃないですかあ!」
「美琴は年下でしょ!? つーか、だからってあんたに姉呼ばわりされるつもりはないの! 離れなさいよ!!」
「なら雇ってください〰〰〰〰!!」
「子供か、あんたは!?」
力いっぱい抱きつくアキトに、それを引っぺがえそうとする美咲。しかしアキトの力は美咲の予想以上に強く、しかも重い。
「放しなさいよ!」
「雇ってくれるまでは放しません!」
ぎゃあぎゃあと喚きあう二人は、まるで娘の結婚を認めないガンコ親父と、喰らいつく婿そのもの。どちらも意地になってきている。
そんなドタバタ劇が一〇分ほど続くと、とうとう美咲がキレた。
「こんの――いいかげんにせいッ!!」
気合一発、どうにかしてアキトを振り解くと、口早に言う。
「とにかく! あたしはハウスキーパーなんて雇う気ないの! 帰りなさい!」
「イヤです!」
力強く拒否。カッ、となった美咲が怒鳴るより早く、アキトは続けた。
「初仕事なんです!」
「え?」
「これがボクの初仕事なんです! 絶対成功させようと思って、ミサネェさまとミコネェさまが自慢するようなしもべになろうと思って、ここまできたんです!!」
吐露して、見上げてくるアキト。その涙目に気圧されて、美咲は仰け反った。
「それなのに、その日のうちにクビになったなんてことになったら――ボク、ボク!」
「うっ……」
アキトの独白に美咲は一歩引く。
「いままでボクを守ってくれた人たちに申し訳がたちませんよお。アリシアさんにカルゲさん、タユラさんにミリアさん。お母さんにだって合わせる顔がありません……」
「……………」
黙り込む美咲。その頭の中では深々(しんしん)と雪が降る中、都会へ向かう汽車に乗ったアキトを見送るため、ホームに勢揃いした親類縁者がハンカチを振る様子が流れており――かなり居心地が悪そうだった。
「お願いです。一週間……一週間でいいです。ヘマをしたら即解雇でかまいません」
涙目でアキトは頼み込んだ。
「ボクを、雇ってください!」
「で、でも……」
工藤は傀儡師の家系。傀儡師は、親族や組織の者以外に、傀儡師とバラしてはいけない。一日や二日ならともかく、ずっと共に暮せばいつかはバレる。
やっぱり断ろう。心を鬼にしてでも、断ろう。冷酷かもしれないが、それしかない。
決めた美咲が断ろうとすると、
「――いい」
ボソリと声。振り向くと、ひとり黙々(もくもく)と食事をとっていた美琴が会話に入ってきた。
「いい。雇う」
「ほ、ホントですか!?」
「ちょ、ちょっと美琴! 勝手に決めないでよ!」
「……ダメ? どうして?」
サラサラの髪を揺らし、小首を傾げる美琴。美咲は咄嗟に「うちは傀儡師の家系でしょ!」と叫びそうになるものの、なんとか呑み込んだ。
美琴は知らない。美咲は妹に、工藤が傀儡師の家であることを教えていないのだ。
「だ、ダメだからよ。第一、ウチに使用人なんて必要ないでしょ?」
「……障子を破った部屋」
「うっ……」
「外の塀……庭……家の壁……その他もろもろ……」
工藤家の問題点を挙げてから、美琴はもう一度自分の意見を口にした。
「……いい。雇う」
「……美琴、あんた随分とこいつの肩を持つわね」
美琴はハンバーグの乗っていた皿をチラリと見て、
「アキトの料理、美味しい」
「ハ、ハンバーグくらいあたしだって作れるわよ!」
「お姉ちゃんの料理。微妙」
微かな哀れみを視線に混じらせて言う。
「いい度胸ね、美琴。覚悟は――できてるわね?」
ヒクリ、と頬を痙攣させる美咲。身の危機を察知した美琴はさっとアキトの背に隠れ、彼と目が合う。
「お願いします!」
「うっ……」
必死の顔で、懇願してくるアキト。まるで捨てられた子犬を見つけたような感覚が、美咲を襲った。
「どうか、ボクを雇ってください!」
「ダメ……?」
「うう……」
頼み込むふたりに押される美咲。ひとたび劣勢になると、アキトの『初仕事』『申し訳がたたない』『合わせる顔がない』の言葉が道徳的な部分を強く突き、たったひとりの肉親たる美琴を敵に回して無理やり解約するといった強攻策も取れなくなり、
「……まずは仮契約からよ。なにか問題を起したら即解約、いいわね」
結局、妥協してしまう。
ま、恭子さんが大丈夫、って言ってたから大丈夫かな。バレたら記憶の操作をして、いちゃもんつけてやめさせればいいんだし――あーあ、あたしってホント、甘いなあ。
美咲はため息をついてイスに座る。すると、アキトの肩が震えていることに気づいた。
「……どうしたのよ?」
「――Ich」
「ん?」
「Ich liebe Hrau meine Mishanee〰〰〰〰!!(大好きです、ミサネェさま〰〰〰!!)」
「なに言ってるのかわからないけど、抱きつくな、押し倒すな、ミサネェ言うな――ッ!!」
早くも後悔する美咲だった。
†
草木も眠る深夜二時。
美琴とアキトが眠ったのを確認した美咲は、パジャマからツナギに着替えると、敷地内にある道場の隠し扉より続く地下室、所狭しと人形が置かれた工房に訪れていた。
「うっし、始めますか」
六芒星の円――単色陣の中心に立つと日課の鍛錬を始める。
邪魔にならぬよう、髪を三つ編みにした美咲が見つめるのは、専用のハンガーに固定された一メートル強の人形だ。
いや、これは人形というよりアンドロイドといったほうが正しい。
空気圧式の駆動装置に、軽合金の骨格。皮膚代わりの合成樹脂こそないものの、アイボールセンサを筆頭に鼻、口、耳がついている。
「今夜もよろしくね、人体模型くん」
言い得て妙な名前の人形――人体模型くんに笑いかけてから、美咲は意識を集中させた。
呼吸を四拍呼吸へ変えると輝き始めるのは、足元の単色陣。空気のように存在する命の力(美咲はなんとなく魔力と呼んでいる)を隔絶し、陣の内部を美咲のみの魔力で満たす。
「よし……いい調子いい調子」
順調に単色陣が起動したことに喜びを覚えつつも気を引き締め、開放節を紡ぎ始めた。
「我は謳う、模造なる偶像の声を。模した汝れ、創りし主の願いを聴け。偶された汝れ、望みし主の願いを聴け」
まぶたを下ろすと指向節に移行。単色陣の光が線を通り、人形側の陣へと飛び火する。
ここからが本番だ。
美咲は集中力を高める。
開放節は指向節を成功させるための下準備。指向節こそが傀儡の術の成否を別ける重要なポイントであり、難易度が高いのである。
限界にまで意識を集中させた美咲は、人形に両手一〇指を向けた。
「強化接続浸透認識、増命幻糸網羅認知。我が言の葉に応じよ、和が異の波に応えよ!」
魔力を活発化させる『強化』。
作り出した幻糸を人形に繋げる『接続』。
繋げた幻糸を人形の隅々(すみずみ)まで通す『浸透』。
造形や材質、硬度など、人形のすべて感じ取り、すべてを知る『認識』。
――それら、四つの工程を完了させて、美咲はゆっくりとまぶたを開いた。
「公園のときは成功したけど……どう?」
指に返る微かな反動。(フィードバック)五感がふたつあるような妙な感覚。小指を動かすと、人体模型くんの右腕が上がった。
成功だ。それも自分と同じサイズの人体模型くんで成功した。
これまで、人体模型くんでは数えられるほどしか成功していない美咲は、小躍りしながら自分を誉めた。
「おおっ! 一ヶ月ぶりの成功、なかなかやるじゃない。偉いぞ、あたし!」
「すごいですね〰〰」
同意の声に美咲の喜びも増す。
「でしょー。やっぱ才能あるのかしらね」
「当然ですよ。けど、やっぱりちょっと鍛錬不足ですね。通常、人形の簡易掌握って一分でできるものなんです。単色陣を使用して二分は、少しかかり過ぎですよ」
「へぇ、そうなん――」
感心していた美咲の顔が凍りつく。一呼吸置いてから、ギリギリと振り返った。
背後に立っていたのは、やはりと言うべきか、ヤツしかいないと言うべきか、現実って厳しいって思ってしまうが――アキトであった。
妙に可愛らしいピンクのパジャマに、ナイトキャップを被って眠っていたはずの彼は、なぜか昼間のスーツ姿で物珍しそうに周囲の人形を眺めていた。
「すごい量の人形ですね。貴重なものも多いです。これなんて名傀儡師、ヴァーカンソンのアヒルですよ。こっち側だと、重要文化財に指定されている代物です。ちなみにアヒルは、十八世紀当時の最先端機械技術と錬金術を組み込んだもので――」
ほこりを被ったアヒル持ち上げて、アキトは説明する。
が、美咲は聞いていない。血の気が失せた顔のままだ。
説明が一通り終わると、ようやくアキトは美咲の状態に気づいた。
「どうしたんですか? 肌が移植用皮膚みたいに青白いですよ」
ペタペタと、無遠慮に頬を触られて美咲の瞳に光が戻る。
「あ、あんた……どうしてここに? 寝てたんじゃ……」
「仮契約に関してお話がありまして。ミサネェさまを起こそうとしたら、道場の方から物音が聞こえて、ドロボウかなっと思って調べにきたら、ここに繋がる階段を見つけたんです」
「いつから……そこに?」
「ミサネェさまがその人形を人体模型くんと言ったところからですけど」
「もしかして―――ずっと見てた?」
「はい。すこし変わった傀儡の術ですね」
「見てた………ずっと………見られてた………」
途端、美咲の顔が赤くなった。鳶色の瞳が揺れに揺れ、全身からぶわっと汗が出る。
さて、EUに傀儡師などの異能力者を統べる『結社』があるよう、日本にもまた異能力者を管理する『八神』がある。『八神』は異能力者を保護し、その存在を隠す組織だ。
そして、組織には必ずルールがある。
八神基本法令其ノ壱。
異能力者は家族・親族・八神に属する者以外に能力を明かしてはならない。この法令を破った者は封魔指定を受け、無期懲役に処する。
――つまるところ終身刑。どこぞの山奥の隔離施設ぶち込まれ、一生そこで暮らす。
「そんなのいやァァァァァァァァッ!!」
硬直が解けるや否や絶叫する美咲。頭を抱えて叫ぶ。
「イヤ、イヤよ! こんな若い身空で組織の隔離施設に投獄なんて! あたしはまだやりたいことがあるのよ! 恋もしてないし、ガンダムシリーズTV、OVA、劇場版、全部見てないし、水戸黄門もまだ14部までしか買ってないのよ! 城に核ミサイルがあるっていう都市伝説のあるテーマパークにだって行ってないし、鈴鹿でF1の観戦だってしてないし、八十八ヶ所廻りだってまだだし、大和ミュージアムにも行ってないし、百円ショップの商品全部買うっていう壮大な野望もあるのよ!!」
「えっと……ごめんなさい。よくわからないです」
申し訳なさそうな感想に、泣き崩れ震えていた美咲の肩がピタリと止まった。「おや?」とアキトは小首を傾げる。
「……どうしたんですか? 落ち着いたならそろそろ人形に――」
「フ、フフフ――――フフフフフフフ……!!」
アキトの言葉を遮り、ゆらりと、顔を上げる美咲。低い声色にマッチした笑顔を見て、アキトは思わず後退りをした。
「み、ミサネェさま……?」
「そうよ……そうなのよね。知られなきゃいいのよね……ムフ」
「お、落ち着いてください。さすがにこれ以上の放置はマズイと思うんですけど……」
「なあんだ。簡単なことじゃないの……フフフ」
美咲は更に「フフフフ!」と笑いながら、壁にかけてあるアモルファスナイフを掴み、
「記憶を消す! つーか殺す! あたしの自由と平穏と野望のために死ねい!!」
「ミ、ミサネェさま! ホントにマズイですって! 人形の掌握中ですよ!!」
「へっ?」
言われて、思い出す。いまにもアキトに飛び掛ろうとして美咲が慌てて振り返ると、暴れる人体模型くんの姿が目に入った。
瞬時に頭が冷えた。美咲は己の激情で乱れた幻糸を制御しようとする。
――が、とき既に遅し。
「やば!」
暴走状態に陥った人体模型くんが固定用ハンガーを破壊。アイボールセンサをデタラメに動かしながら、美咲に襲いかかる。
「ミサネェさま!」
美咲の脇を声が抜けた。スーツの裾が流れ、革靴を履いた足が突っ込んでくる人体模型くんの腹に決まる。人形は体をくの字に折ると、ハンガーを巻き込んで壁に激突した。
「ウソ……」
美咲はあんぐりと口を開けてしまった。
人体模型くんの重量は一二〇キロを越える。ハンガーだって簡易版だが一〇〇キロは下らない。それらを小柄で華奢なアキトが蹴り飛ばしたのだ。
「ミサネェさま、避けて!!」
人体模型くんを注視していたアキトが、弾かれたように振り返ると叫んだ。
なんで、と思うと同時に、美咲は理解した。
重厚な物が迫ってくる感覚。顔を上げると、総鉄製の箱がゆっくりと倒れてきていた。
――ハンガー用の極太電源ケーブルがのたうち、供給源の大型蓄電器を倒したのだ。
あ、死ぬわ。
冷静に美咲は予測した。さっきまでは死ぬよりかはいくらか優しい投獄人生のことで、あれだけテンパっていたというのに。
中途半端な希望が原因かなぁ。さすがに自販機サイズの蓄電器が頭の上に倒れてくる、五〇〇キロの圧倒的な現実を見たら、誰でも素直に受け入れるのかも知れない。即死だし。
などと納得する美咲は、まぶたをおろして人生の終止符を静かに待つ。
「………………」
待つ。
「………………」
――待つ。
「……………?」
訪れない衝撃に、美咲はそ〰〰と目を開くと、アイスブルーの水晶体と視線が合う。間近にアキトの顔があった。
「だ、大丈夫ですか?」
尋ねられて、美咲はうなずく。
「あ……うん……」
我ながら間抜けな返事だと思う。しかし、言い訳も同時に浮かんだ。
だってしょうがないじゃない。フツー、思わないって。あたしを抱いて飛び去るとかならまだしも、片手で五〇〇キロの蓄電器を受け止めるなんて。
「よかった〰〰〰」
はあ〰〰と安堵の息を吐いたアキトが、蓄電器の傾きを戻す。本当にあっさりと。たとえるならば、倒れてきた空のダンボール箱を、もとの位置に戻すかのように。
「立てますか?」
「う、うん……」
アキトの手を借り立ち上がる。
「……とりあえず、あんがと」
「お礼なんていいですよお。ミサネェさまを守るのがボクの役目ですから」
ニヘラ、とした笑顔を見ると、ようやく美咲の頭が回転率を上げ始めた。
警戒心が生まれ、反射神経が十五秒ほど遅れて再起動。表情を呆然から警戒に切り替えると、美咲はバックステップでアキトから距離を取った。
「――あんた、何者?」
アモルファスナイフを逆手に握った、ファイティングポーズ。鋭い眼差しを向けられて、アキトは頼りない笑顔を消す。
浮かんだのは大人の微笑み。穏やかに笑う彼は片膝を床につけて恭し(うやうや)く頭を下げた。
「私はアキト・ユル・アイデ。型式番号Yr-03。型式名称『騎士』。ルーンの〝ユル〟を名に持つ人形――【創幻人形】です」