4話 奈桐だよ、私。
奈桐と初めてキスした時のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
幼稚園に通っていた時。
確か、外遊びの最中だった。
呪いによって眠りについたお姫様を、王子様がキスして目覚めさせるという童話。
それを読んだ奈桐が、実際に自分たちもしてみよう、と言ってきたのがきっかけだ。
年齢は、お互いに四歳とか、それくらい。
唇と唇を重ね合わせることにどんな意味があるのか。どんな気持ちになるのか。
そんなものは知るはずがなかったし、推測だってまるでできない。
けれど、奈桐のことが好きなのは事実だったから。
俺は……いや、俺たちは。
こっそり、周りの園児や、先生たちにバレないところで、隠れてキスをした。
不思議な感覚だった。
手を繋いだり、頬に触れたり、髪を撫でたりするのとはまったく違う。
体の芯から奈桐と絡まり合えるような、そんな感覚。
心の底から幸せだと思える大切な行為。
それがキスなんだ。
「……っはぁ……」
儚くて、甘い吐息。
不意に繋がった俺たちは、唇と唇を離し、見つめ合う。
それぞれに、また違った感情を抱きながら。
「な……凪……ちゃん……」
「……成……」
驚きの色を瞳に浮かべる俺と、喜びに満ちた柔らかな表情でこちらを見つめる凪ちゃん。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
わからなかったけれど、頭はすぐに状況を理解する。
俺は今、自分より十五も歳下の幼女とキスをした。
言うまでもなく児ポ案件。
背筋が凍る。
会って間もないってのに、いったい何をしてる。
嫌な汗が一気に出た。
そして、縋るように凪ちゃん(4)へ跪き、
「ななな、凪ちゃん!? だだだ、ダメだよ!? 突然会って間もない男の人にこんなことしちゃ! き、キスなんてそんな……! え、えぇぇ!?」
「……ひひっ」
歳上のお兄ちゃんだってのに、その威厳もまるで無しに慌てふためく俺を見て、凪ちゃんはいたずらに笑う。
確かに笑う気持ちは理解できた。
自分のことながらすごくみっともないと思う。
でも、それは同時にこの子のことが心配になったからでもあった。
会って間もない男の人に四歳の女の子がキスを仕掛けるなんて。
天然でやってるのなら、この子は将来確実に魔性の女の子になる。
容姿の方も奈桐に似てて怖いくらい可愛いし、きっと騙される男子は量産されるはずだ。
そうなってくると、確実に一人や二人、ヤバい思想を持った男の方もおられるわけで……。
ナイフでグサッとイかれたり、ストーカーされたり、想像するだけでも震えるような未来を凪ちゃんは迎えてしまう。
それだけは避けさせないと。
奈桐似のこの子が不幸に陥るのは耐えられない。俺はこれから義兄にもなるわけなんだし。
「『ひひっ』じゃないでしょ!? いい!? 簡単に男の人へキスなんてしちゃダメだよ!? お兄ちゃんと約束して!?」
「どうして? 成、どうしてキスしちゃダメなの?」
「どうしてって、そりゃ決まってるよ。世の男子はね、基本的に女の子には弱いんだ。特に奈桐……じゃなくて、凪ちゃんみたいに可愛い女の子にはもう瞬殺されるくらい!」
「しゅんさつ……」
俺の顔をじーっと見つめ、呟く凪ちゃん。
俺は頷いて続けた。
「そう、瞬殺! 瞬殺された男の人は、もう凪ちゃんのことしか見えなくなって、凪ちゃんを追い回したり、好きになり過ぎて暴力を振るおうとしてくるかもしれないんだよ」
「好きなのに、暴力なの?」
「うん、そう。暴力」
「成は私のこと好き?」
「ぅえ!?」
唐突にストレートな質問をされ、変な声が出た。
しかし落ち着け俺。相手は奈桐にそっくりだとはいえ四歳の女の子。なに動揺させられてる。毅然としてないと。
「そ、そりゃもちろん好きだよ。これから兄妹になるんだし。仲良くしなきゃだし」
「じゃあ、暴力したくなる?」
「え、えぇ!? いやいや、したくなるわけないよ! 俺の『好き』は暴力に直結するような『好き』じゃないし!」
「……?」
首を傾げる凪ちゃん。
それもそうか。こういう反応になってもおかしくない。
言ってることが難しすぎる。
難しすぎるのだが、なんて言い換えたらいいんだろう。うーん。
そうやって考えていた矢先だった。
凪ちゃんがまた顔を近寄せてきて、
「私も成のこと好き」
これまたストレートに告白してくれた。
きっと、この子の容姿が奈桐に似てなかったら、俺はきっと一ミリもドキドキなんてせず、幼女の可愛い告白として受け入れていたんだろう。
でも、こればかりはそうじゃない。
最愛の女の子がまた俺の元へ戻って来てくれたみたいな感じで、凪ちゃんのことを見つめるだけでどうにかなってしまいそうになる。
俺は、つい凪ちゃんから視線を逸らしてしまった。
笑える話だ。
幼女からの告白に照れる二十歳の男なんて。
「だけど、凪は暴力振るいたいとか思わない」
「……う、うん」
「ぎゅーってしたい。成のこと。ずっと、ずっと」
「っ……」
「……もう、絶対に離れ離れにならないように」
「……え?」
今、なんて言った?
問いかけようとしたのだが、それは叶わなかった。
凪ちゃんが、俺にそんな質問をする隙を与えてくれなかったから。
「成、こっち」
手を引き、俺のことを立たせてくる。
そして、そのまま引っ張り、ベッドの上にごろんと寝転んだ。
二人で横になり、見つめ合う形。
俺は小さい体の凪ちゃんに頭を抱きかかえられるような感じだ。
「凪ちゃん、あの……」
「おかしいと思わない?」
「……え?」
「凪、四歳なのに難しい言葉使えるし、理解もできる」
それは……まあ。
「うたかた幼稚園もね、成が通ってたこと知ってて、それで通いたいってパパにお願いした」
「っ……。そ、それ……」
「……うん」
頷いて、凪ちゃんは俺の顔を優しく抱き締める。
俺は彼女の小さいお腹に顔を埋める形になった。
そして――
「ただいま、なの」
「………………へ?」
何が……だ?
「私、奈桐。中身、奈桐だよ」
「………………???」
「十五歳の、奈桐だから」
一際強く春風が吹き、部屋の窓を揺らした。
強く揺れた。
音がする。
ガガッと。
けれど、それは風に揺らされる窓だけではなかった。
俺の心臓も、強く鼓動したのだ。
ドクン、と。
本当に強く。
あり得ないセリフを聞いて、強く。
自分のことを奈桐だと言った女の子に抱かれながら。




