第8話
アイドルオタクというステータス上、オタクでない人に白い目を向けられるのは慣れていた。逆にお前たちには熱中するものがないのかと、僕が鼻で笑いたいくらいだった。
でも、その考えのせいで僕は一度大きな失敗を犯した。だから大学デビューを果たして、今はマッチングアプリで知り合った女の子と一緒にいる。
段取りはバッチリだったはずだ。チャンリコに全力投資しているだけじゃダメだと気づいてから、僕は世間の関心をチェックするようにした。今日の僕は、普通の大学生であるはずだ。
では、なぜ目の前の彼女候補はキレている?
「……顔はめちゃくちゃ好みなのに、蓋開けてみたらこの始末。あんた、普通にアプリのプロフィールと全然違うじゃん」
ちはるさんは脚を組み、大きな溜め息を吐いた。地上に着いたら、間違いなく僕らは別れる。それまでに起死回生の一手を打てるか。
せっかくマッチングしたチャンスを、あっさり手放すわけにはいかない。彼女持ちでアイドルオタクというポジションこそ、僕の目指す到達点なのだ。
乾ききった唇を舐めてから、対話を試みる。
「無理に座ろうとしてすみません。それに、今日は上手く段取り組めなくて。緊張してました」
あくまで下手に出ること。ここで我を通したところで、減点が積まれるだけだ。
目を細めたちはるさんは、少しだけ首を傾げる。
「緊張?何に?あんた、彼女いたことないの?」
「え?いや、あるけど?」
「声、思いっきり裏返ってるじゃん。もう良いよ、普通に無理しなくて」
ちはるさんは興ざめといった様子で景色に視線を移し、口を真一文字にした。もう僕と話すことはないという意思の表れか。
どうすれば良いんだ。相手は『いいね!』数1,000以上の人気ユーザーで、会えたこと自体が奇跡的だ。向こう数年の運気と引き換えにデートしたレベルなのに収穫が何もないなんて、残酷すぎる。何か、手を打たねば。
けれど、話しかけるなオーラ全開の女性を振り向かせる技術なんて、14年近くの教育期間で一度も教わっていない。チェックメイトだ。
観覧車が4分の3に差し掛かり、地上に近づいていく。
いろいろ考えているうちに、だんだん腹が立ってきた。どうして僕だけがこんなに四苦八苦しているんだ?今日、僕らが会っているのはお互いの意思によるものじゃなかったのか?ちはるさんにも責任の一端はあるはずだ。
前に同じ穴の狢と出会えたら罪悪感も少なく済みそうだ、なんてことを考えていた。でも甘かったと痛感する。普通に腹立たしい。
確かに、ちはるさんは『KuruMira』の上位ランカーだから僕のことを新規開拓程度に思って評価を下しているかもしれない。その立場故の感覚はあるだろう。でも、それにしたって上から目線すぎやしないか。
マッチングアプリで出会えたチャンスだと思っていたけれど、このまま一緒にいても進展が見込めないなら、もう良いか。どのみち、僕はチャンリコ一筋だし。彼女候補は探せば見つかるだろうし。
ちはるさんはスマホを取り出し、指を細かく動かす。
「待ち合わせの時点で嫌な予感はしてたんだよね。どうして輩に絡まれた私を助けなかったの?もう少しで連れて行かれそうになってたじゃん。目、合ったよね?」
何も言い返せない。輩にビビって声をかけられなかったのは明白だった。回答に困った僕は、思わず疑問に疑問で返してしまう。
「あの2人は、サクラ?」
「普通に見て分かるでしょ。あんたがどう動くか試しただけ。案の定、何もしなかったけどね。普通に、だいたいの男は見て見ぬフリするからそこまで気にしてないけどさ」
今までも同じようなことをして、彼氏候補の行動を観察していたのか。背筋がゾッとした。最初から、僕は値踏みされていた。脱力しかけて膝が曲がりそうになった僕に、ちはるさんは溜め息を吐く。
「とりあえず座れば?もう少しで下に着くけど」
そういえば屈んだ状態のままだった。僕は無言で頷き、座ろうとする。
だが、足を上げたときにつんのめった。箱がグランと揺れて、ちはるさんの方へ倒れ込む。彼女が僕の様子に気づき、顔を上げた。
「うわッ」
ちはるさんにタックルしかけて、すんでのところで留まった。ただ、頭が真っ白になっていた。
僕の左手が、思いっきりちはるさんの右胸を鷲掴んでいた。右手は彼女を壁ドンする形で窓ガラスに着地している。
僕は女の子の胸を揉んだことはない。けれど、左手から伝わる感触が直感めいたものを伝えていた。
一揉み。考える。一揉み。考える。一揉み。考え、
「……このクソクズ野郎‼︎」
その瞬間、視界が白くブレた。頭を強く打ったときの感覚に似ている。ビンタされたら、引っ叩かれた頬よりも、無理やり捻られた首が痛いのだと初めて知った。
僕が素早く彼女から距離を取ったところで、ちょうど観覧車のドアが開く。観覧車の係員と目が合った。彼は僕からサッと目を逸らしつつ、引き攣った笑みを浮かべる。
「えっと……もう1周します?」
次降りたときに僕の顔がボコボコに腫れている絵面しか浮かばないんだが。
いや、降ります。そう言おうと口を開きかけて、ちはるさんに腕を引っ張られた。
「普通に閉めて下さい」
係員が「ごゆっくり〜」と素早くドアを閉じた。いやいや待てよ何してるんだ。
箱が再び緩やかな上昇を始める。僕はそっと席に座り、一瞬だけちはるさんを見た。彼女の瞳に光はなく、形の良い唇が無機質に動いた。
「この1周で、通報されるか情報をばら撒かれるか選んでね」
恋人を作るというのは、こんなにも難しいものなのか?