第6話
デート当日の朝は、僕なりに平常のテンションだった。2日前まで全身に張り詰めていた緊張感は、『会うしかない』という覚悟の波にさらわれた。そのおかげもあって、昨日は予想以上に眠れたし、夜ご飯も喉を通ったし、今朝は皿を1枚割った。
……全部が全部、冷静でいられるわけがない。僕は久々につけた腕時計を横目に、皿の破片を落ち着いて集めた。
もしかしたら手を繋げるかもしれないのに、手を切ったら最悪だ。
*****
ちはるさんと落ち合うのは、県のターミナル駅である阪多駅の新幹線改札口前だ。数十分おきに改札を通ってくる十人十色の客から、たまに他県の方言が聞こえてくるのが印象的だった。
集合時間の10時まで、20分はある。すでに手洗いを済ませ、身だしなみも確かめた。デートが決まった日からキレートレモンを毎日飲んだ。腹筋と背筋を軽くこなした。イメトレも抜かりない。
あとは自己暗示の徹底だ。僕ならできる。高校までの僕とは違う。大学で上手く立ち回るために、ファッションや流行りのSNSに手を出した。
陽キャラのテンションを真似して、盛り上がるところで盛り上がれるようになった。今の僕なら彼女を作ることができる。
脳内で自分を鼓舞しながら、気分転換にスマホでSNS巡視を始めた。
三四朗さんが投稿した呟きに、来月開店するショッピングモールの写真が添付されている。ゼミ仲間の間でも話題になっている複合施設だ。彼女と行っても良いかもしれないな……。
ダメだ、全然頭に入らない。今朝の妙な落ち着きは何だったんだ。気を許したら、ちはるさんとのビジョンがすぐに浮かび上がってくる。
視線を上げて周囲を見回す。僕以外にも誰かを待っているような人は見受けられた。だが、どの人も思い描く彼女とは違う。
腕時計を見ると、まだ5分しか経っていない。少し気になる前髪を触りながら、静かに息を吐いた。
これは保たない。挙動不審過ぎて警備員に声をかけられるオチだ。
広告でも見ながら待とう。どのみち、あと10分も経てば戦いに入っているのだ。
視線を上げると、広い構内で目に入る光景があった。
チャラそうな男2人が、大学生らしき女の子を壁際に押しやっている。1人は口にピアスを開けた腰パン男で、腰に巻いた金色のチェーンが特徴的だった。もう1人が金髪メガネの大柄な男で、高そうなテーラードを着ている。恐らくナンパだが、見た目が怖すぎて話にならない。
対して女の子の方は……思わずガン見してしまう。
茶髪のセミロングと目鼻立ちの整った容姿に、心臓がドクリと鳴った。ベージュのカーディガンとグレーのロングスカートが穏やかな雰囲気を醸し出している。
もしかしたら。いや、もしかしなくても僕の会いたかった相手——ちはるさんだった。よりにもよって、こんなタイミングで。
腰パン男がニヤニヤしながらちはるさんの顔を覗き込む。
「待ち合わせ相手こないじゃん?ていうことは暇じゃん?俺たちいるじゃん!」
「……いえ、待ち合わせ時間よりまだ早いだけで……」
少し高めで、柔らかなイメージの声音だった。耳に負荷なく入ってきたちはるさんの声に、視線が釘づけになる。
いやいや、聞き入っている場合じゃない。たぶん、あの場に割り込むのは僕の役割だ。分かっているのに動けない。
金髪メガネがちはるさんの頭上に腕を置いて、つむじ辺りに視線を落とす。
「近くにパンケーキの美味い店あるの知ってる?話がてら、食べに行こうや」
「いえ、あの、困ります」
「今から会うのって男?」
「え、はい」
「彼女待たせる男なんて失格だって。俺たちと遊んだ方が絶対楽しいよ」
胸に針が刺さったような痛みを覚える。彼女も彼女で早い到着だが、僕だって到着済だ。あの男たちがこなければ、予定通りにスタートダッシュを切れたに違いない。
腰パン男が大げさに頷き、ちはるさんの手を握る。彼女が「ちょっと」と慌てた声で振り解こうとするが、男はヘラヘラ笑うだけだ。
「間違いないじゃん。もう脈なしだと思うじゃん?なしよりのなしじゃん!」
通行客は見て見ぬフリで通り過ぎていく。でも、僕に彼らを詰る権利はない。待ち合わせ相手である僕こそ、あの場に介入すべきだ。何度も自分に言い聞かせている。
ちはるさんが助けを求めるように周囲を見回す。咄嗟に視線を逸らそうとしたが、叶わなかった。彼女の視線が僕を捉えている。その目の奥から発せられているSOSを掴み取った僕は……体の向きを変えてしまった。
何をしているんだ、僕は。ソッポを向いている場合じゃないだろう。早く、早くちはるさんを連れ出せよ。
目が合った瞬間、頭が真っ白になった。当事者になる準備を終えていないのに、その場へ引きずり込まれることに対する拒絶反応の表れだった。
パン!と乾いた音が周囲に響き渡る。思わず音の鳴った方を見ると、ちはるさんが両手を合わせていた。すると、2人のナンパ男は大人しく彼女から離れ、人混みの中に消えていった。
いったいどんな手品を使ったのか。数秒前までの緊張感はすっかりなくなった。
「クスさん、ですよね」
「おォッ」
急に話しかけられてトドみたいな声が漏れる。我に返ると、ちはるさんが上目遣いで僕を見つめていた。
「あ、はい。くすば……クスです」
しどろもどろで答えた直後、微かに舌打ちのような音が聞こえた。ちはるさんを見ると、彼女に特段変わった様子はない。気のせいらしい。
「ちはるです。はじめまして」
「あ、はじめまして。じゃあ行きましょうか」
「え……ああ、はい」
今、何か間違えただろうか。ちはるさんの声がどこか平坦だった。でも原因が分からない。
とにかく構内を出よう。今日を上手くこなすためには、イレギュラーを一刻も早く消し去らなければならない。