第5話
「僕の運命の相手は間違いなく黒崎理子ちゃんです。彼女に捧げた時間と費用と想いに勝るものはないしいつか彼女と出会って親しくなるルートに突入すると確信してます。だから今の僕が取り組んでいる恋人募集キャンペーンはそのための布石なんです。大本命とスムーズに進めるために今のうちから彼氏としての振る舞いを学んでおいた方が良いでしょうし」
居酒屋チェーン店『チェスト』彦崎店はピークを終えて、緩やかな客数の午前2時を回ったところだった。
僕は厨房で皿洗いをしながら本城先輩に説いていた。換気扇の前で客が忘れていったタバコを吸う先輩は、細長い腕を強めに擦る。
「鳥肌もんなんだよなあ。取ってつけたような理由並べてないで、素直に喜べば良いっちゃ。本命とか何とか言ってたら、相手に失礼じゃないの?」
「いやいや最後に勝つのは愛しのチャンリコですよ。もちろん、ちはるさんは可愛い。でも『KuruMira』の人気ユーザーが本気で僕を相手にすると思いますか?それと同じです。ラフな関係の中でいろいろ学んで、次に活かせば良いんです」
「じゃあお前、次の日曜日のデートでチャンリコの写真が入ったTシャツ着て行けよ。あとプレゼントにチャンリコ推しの腹筋ローラーでも渡してやれ」
「彼女が僕のアイドルオタクっぷりを認めてくれる人だったら、もちろん着ますよ。でもそうじゃなかったら積みゲーです。まずは見極めです」
「本当にどうして彼女作りなんかしてるんだ……?」
『KuruMira』の上位ランカー『ちはる』さんとのやり取りは1週間経った今もなお、奇跡的に続いている。それどころか、今週の日曜日に遊園地デートすることになったのだ。
遊ばれているのでは、という不安がないわけではない。でも、ここまできたらやるしかない。
ちなみに、チャンリコと趣味が被った女性ユーザー『クーコ』さんからも、後日返信があってやり取りが続いている。
まさかの急展開に、現実の出来事なのか分からなくなる瞬間があった。このことはさすがに本城先輩にも言えていない。
ピンポーン、と店内から音が聞こえた。新規の客がきたらしい。先輩の溜め息を背中に聞きながら厨房を出た。細い通路をくねくね歩き、カウンターのある出入口に辿り着く。
「いらっしゃいま……せ」
客の姿を見て、一瞬だけ言葉を失った。金髪のホスト風の男と、高身長で7頭身くらいありそうなサングラス美女の組み合わせだった。問題は、その女性だった。
襟つきの革ジャンに、鎖骨が露わになった白のブラウス、黒のホットパンツから伸びる適度に筋肉のついた長い脚、ヒールの高い黒ブーツ。明らかに『見られる』ことを生業とした人だった。しかも……。
ホスト風の男が怪訝そうな顔で覗き込んでいた。
「お兄さん、大丈夫?2人なんだけど空いてるよね?」
「……え、ああ、はい。こちらへどうぞ」
我に返って、2人を個室へ案内する。ホスト風の男は、近くで見ると30代後半のように見受けられる。でもあの女性は、僕の妄想でなければ。
たぶん、チャンリコだ。
通路の左手にある一室の引き戸を開け、2人に入ってもらう。素早く厨房に行ってお冷とおしぼりを用意して、個室に戻る。
奥の席に座った女性はサングラスを取っていないが、僕はその奥の瞳を想像してしまった。
お冷とおしぼりを置くと、ホスト風の男が「注文良い?」とその場で声をかけてくる。居酒屋『チェスト』は無線タブレットによる電子注文式だが、イレギュラーは多い。
僕は努めて冷静に胸ポケットからメモ帳を取り出し、オーダーを書き込んでいく。その間も、サングラス美女の動向が気になって仕方なかった。
厨房に戻ると、本城先輩はすでにスタンバイオーケーだった。僕はメモ帳を先輩の胸元に押しつける。
「先輩ヤバいです。チャンリコがきてます」
「クス、夜勤止めた方が良いんやないの?まだ20歳なのに睡眠不足でボケ始めるのは良くないっちゃんね」
「そうじゃなくて!後で見てきて下さい」
「オレ、テレビも携帯もないからチャンリコ知らんし」
「チャンリコ知らないで今まで僕の話聞いてたんですか⁉」
「何となく想像した美女がオレの頭におるよ」
呑気に左手で自分の脳みそをコツコツと当てる本城先輩に脱力しつつ、生ビールをジョッキに注ぐ。
15歳の頃から夢中で追い続けてきた女性を見間違えるわけがない。あれはチャンリコだ。心臓が破裂しそうなくらいに音を立てて僕の仕事を急き立てる。
生ビールを両手に持って通路を歩き、個室の2人に渡す。さっとサングラス美女を見て、ますます可能性が膨らんだ。僕が毎日SNSやテレビでチェックしている彼女と同じ耳の形をしている。
「失礼します」と告げて引き戸を閉め、厨房に戻ろうとして足を止めた。客の話を盗み聞きするなんて、職務上よろしくないのは分かっている。けれど好奇心を押さえられない。
彼女がチャンリコなのかそうでないのか、せめてそれくらいはハッキリさせたい。サインを貰うか。こんなビッグニュース、ちはるさんに話したらどれだけビックリするだろう……。
ふと、自分に対して疑問を抱いた。今、僕の思考にちはるさんが滑り込んできた。
今まではチャンリコだけだったのに。先週からオンラインで文通のやり取りをしただけで、実名を知らない相手の楽しそうな笑顔を想像した。その笑顔すら、合っていないのに。
個室から会話が少しだけ漏れてくる。だが、判然としない。僕は諦めて厨房に戻った。
本城先輩が、ちょうどステンレス台に揚げ出し豆腐と枝豆とチャンジャを置いたところだった。
「クス、良いタイミングやね。そいつら、運んでくれるか」
「ありがとうございます」
意外とメニューを頼んでいて、深夜2時半になって厨房と個室を往復することになった。普段なら愚痴の1つや2つほど吐いているところだが、今日は違う。自分の感覚に意識が落ちていた。
不思議な感覚だった。チャンリコが同じ空間にいるかもしれないという極限の状況なのに、自制が働いている。
今までなら違った。僕は間違いなく、あの個室の引き戸を引いていた。バイトを首になる覚悟で、あの美女の正体を明かしたはずだ。
僕はチャンリコという大本命を応援し、出会うために生きている。でも、今までチャンリコに時間を捧げてきた分だけ同年代の空気を学ばなかったから、大学デビューに挑んだ。次は彼女作りだ。
アイドルオタク活動を控えめにすることで創出した恋活は、あくまで途中過程でしかない。僕が胸を張ってオタ活をするための準備でしかないのに。
どうしても身元不明の彼女候補が気になってしまう。ちはるさんとどんな話をしようか。もしアイドル好きを打ち明けてもドン引きしなかったら。笑ってくれたら。
僕は閉店時間まで、黙々と仕事をこなした。サングラス美女が店を出る直前に残した「どうも」の声音は、僕の好みのアルトだった。
*****
ついにデート前日を迎え、僕は同じゼミの海老津を連れて駅ビルにきていた。たまたまサークルの飲み会で使う出し物に悩んでいた海老津に、買い物の協力を頼んだのだ。
ツイストをかけた短髪と焼いた肌が特徴的な海老津は、僕の顔を見てニヤリと笑う。
「クスにも春が訪れたかー」
「え、分かるの?」
「口元が下心でニヤケまくってるからな。童貞でも『あ、こいつリア充候補だな』って気づける」
慌てて口元に手を当てる。口角は緩んでいないはずだ。サッカー推薦で大学に入ったリア充男の海老津からしたら、僕の様子なんて可愛いものだろう。
メンズファッションの集中した5階で、明日着ていく服を選定する。海老津はあれやこれやとアドバイスをしてくれるので、連れてきて正解だった。
フードつきのナイロンジャケットとメッシュのシューズ、肩掛けの革ポーチを買って僕の用事は済ませた。次なる目的地は近くにあるドンキだ。
駅ビルを出て縦長のアーケード街を歩いていると、海老津が僕の肩を突く。
「で、どんな女の子なん?」
「他大の人。アルバイト先で知り合って」
「居酒屋で?絶対合コンじゃん。店員のクスがよく輪に入れたな」
「まあ、よくあるお世話だよ」
「……あー、ゲロッた?」
一応、僕の実体験を基にしたデマカセだ。実際に介抱して仲良くなったお客さんはいる。でも、それはちはるさんではない。
ちはるさんとのやり取りは順調だった。彼女が料理好きで美容にも力を入れていることや、洋菓子が好きなこと、運動音痴なこと……いろいろなことを教えてもらった。
代わりに僕のことも話したが、なるべく相手に合わせていった。もちろん事実は事実で伝えられるが、嘘も方便といったところだ。
海老津はスマホを開くと、僕に画面を見せてきた。それを見て、動揺のあまり咳き込みになる。
「海老津、マッチングアプリやってるの?」
「そうそう。最近CMでもよく流れてるじゃんか、『KuruMira』。けっこう面白いぜこれ」
ユーザー名『エビちゃん』で登録された海老津の『良いね!』数は1,200件近くある。間違いなく上位ランカーだ。まさか、こんな近くにいたとは。
親近感による喜びは湧いたものの、尚更話しにくい。僕の『良いね!』数はちはるさんから貰った1件だけ。格差が酷過ぎる。僕は平静を装って尋ねた。
「今つき合ってる人いたよね?」
「あー、いるよ。でもスイッチするかもしれん!」
スイッチとは、たぶん乗り換えの意味だ。モテる男はやはり違う。海老津は歩きながら器用にスマホを操作して、別のページを開く。それはちはるさんのプロフィール画面だった。
「この娘、写真加工してるけどめっちゃ可愛くね?メッセージ送ったんだけど返信こないんだよ」
その人、明日僕とデートするんだけど。
喉まで出かかった言葉を必死に抑える。マッチングアプリは匿名性の高さこそ武器なのに、知り合いと恋敵になって潰し合いなんて真っ平だ。ましてや相手が海老津じゃ、勝ち目なんてない。
「クス、その娘とつき合うことになったら今度俺にも会わせてくれよ」
「分かった、全力で断るわ」
「今の断る流れじゃないやーん」
「……全力なんだよなあ」
小声で呟いた僕の様子に、海老津は全く気づいていなかった。