第3話
小森江と別れた後、4限を消化した僕はすぐに3限の代返を頼んだ相手の元へ向かった。
5号館を出て構内の大広場を突っ切り、最も古い4番館に入る。煉瓦色のタイルと、ヒビ割れたニュートラルグレーの壁が歴史を感じさせた。
1階の細い通路に、10人程度の入室を想定した小部屋が並んでいる。ここは通称『牢屋』と呼ばれ、ゼミやサークルの打合せなどに打ってつけだ。
ただ、本当に牢屋めいた部屋が1つだけあって、僕の目的地はそこだった。
目当ての相手は『牢屋』の左奥から2番目の部屋にいる。ノックなしに入ると、部屋に染みついた薬品臭が真っ先に鼻腔を突いた。
部屋の両脇を本棚が占め、あらゆる大きさの書籍がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。入りきらなかった本は棚の正面に積まれていた。
部屋の中心に書類の溜まった業務用デスクがあり、その手前に応接セットが置かれている。だが、テーブルにはタバコの灰皿やグラビア雑誌といった構内に相応しくないアイテムで悲惨な状態となっていた。出入り口の手前に鎮座する最新式のコピー機がやけに雰囲気から浮いている。
部屋の主は応接セットのソファで横になっている。近づいただけで酒を飲んでいたことが分かる臭いだった。
「シシブさん、代返のノートってどこですか?」
業務用の青いツナギを着たツーブロックの長身が、のそりと起き上がる。やがて寝ぼけた顔で僕を見ると、左耳たぶを捻った。
「……下半期の経済史第4回『産業革命による近代システムの発展』なら、さっき収集シタ」
語尾が1トーン吊り上がる癖にも耳が慣れた。
「いつも助かります」
僕は焼きカレー定食の食券をテーブルに置き、コピー機が吐き出した紙を漁る。シシブさんに弱みを握られた学生や職員が授業のノートをスキャンし、シシブさんのデスクトップにデータを献上する。彼自身が求めたわけではなく、大学側の勝手な贖罪らしい。
目的の紙束を発掘してホッチキスで留めておく。
以前、大学だより『ちくわぶ』で奇人変人特集を組んだときに取材で訪問し、それから話す間柄になった。だが、僕がシシブさんについて知っているのは、構内の便利屋であることと『13代目のシシブさん』であること、焼きカレーが大好きなことだけだ。
シシブさんが電子タバコを専用機器に取りつけて吸い始める。
「先代のシシブに弱みを握られた奴が、いまだにノートのコピーやら試験問題の解答やら送りつけてキヤガル。お前みたいに代返頼む奴がいるから、俺は何もせずに見返りを得られて助かるガナ」
「シシブさんって、いったい何なんですか」
「知りタイカ?」
「いや、止めておきます」
大学職員でさえ畏怖する『豊中大学のドン』に深く関わるのは、今後の大学生活に影響を及ぼしかねない。今回みたいに、友達も取っていない講義の代返を頼む程度の関係が楽だ。
僕が部屋を出ようとすると、後ろから声を掛けられる。
「お前、マッチングアプリ始めたんダッテ?」
「……え、情報得るの早くないですか」
「ザコいプロフィール見に行ったんデナ。不細工な顔写真と眠気を誘う文面で、危うく吐きそうにナッタ」
「お酒の飲み過ぎでしょ」
というか、男のシシブさんがなぜ男のプロフィールを見ているんだ。
シシブさんは煙と共に言葉を吐き出す。
「さっき小森江に撮ってもらったんダロ。なら次はザコい駄文の修正ダナ」
「いや本当になんで知ってるんですか!」
「OBと繋がってるから、そりゃ分かるサ」
シシブさんは左耳に装着したイヤーカフを指差す。あそこからいったい何を聞いて僕の情報を握ったんだろうか。プライバシーもへったくれもない。
「先代のシシブがアプリ開発会社で働いているんだが、直々に依頼があってナ。大学内でマッチングアプリに手出してる奴の特徴と、上手くいかない理由を探してくれって言われてンダ。それで情報集めてたら、お前が苦労してるっぽかったんデナ」
セキュリティにうるさい世の中で、どうして僕の情報はガバガバになってるんだ?ポケットに入れているスマホがずしりと重く感じた。
でも、僕のプロフィールに欠陥があるのは確かなようだ。寝る間も惜しんで書いた本人としては、欠点を見つけ出すのに苦労してしまう。だが、不足があるなら教えてもらわねば。
「シシブさん、教えて下さい。僕のプロフィールのどこがダメなんですか!」
「焼きカレー定食の食券は持ってるノカ?」
「後払いで頼みます!」
「良いダロウ。逃げるとは思わないが、もし条件を破ったら潰ス」
シシブさんはヘラヘラ笑っているが、言葉の意味はシンプルでただただ怖い。この人、本当に大学にいて良いんだろうか。
マッチングアプリ『KuruMia』を開き、改めて自分のプロフィールを見てみることにした。
『初めまして!クスです。
趣味は洋服を買ったり見たり、ハンズで香水選んだり……(笑)あとは友達とご飯食べに行くのが好
きです!最近は牛タンにドハマり中!
スポーツジムにも通ってるんで、筋トレに興味ある人はぜひ話しましょう!
趣味が合って、笑い合える関係になりたいなって思ってます!よろしくお願いします!』
『KuruMira』はプロフィールの参考として、同性ユーザーの内容も見ることができる。最初こそ強がってオリジナル感満載で書いていたが、反省して他のユーザーの文章を参考にしながら何度も書き直した。これのどこがいけないのか。
シシブさんも自分のスマホを使って読んでいたらしく、小さく唸った。
「何度読んでもザコい文章ダゼ。こんなのは誰でも書ケル」
「そりゃ確かに、ユーザーさんの文章は参考にしましたけど」
「俺が言いたいのはそういうことじゃネエ。分からないノカ」
僕なりにいろいろと女性目線とやらを考えたつもりだ。
短めの文章で自分を簡潔に伝えられて、女性の共感能力を引き出す中身が良いらしい。ソースはグーグル先生だ。実際、男性ユーザーのプロフィールを読んで納得したし、十分参考にさせてもらっている。
しばらく考え込んでいると、妙齢のつなぎ男は顎を軽く掻いた。
「お前、どうして彼女作りたいンダ?」
「どうしてって……」
彼女を作りたい理由はある。でも、それを相手側に伝える必要はあるんだろうか。ピンときていない僕に、シシブさんは目を細めた。
「プロフィールは書けて当然ダ。でも、お前の場合は本当にただの自己紹介でしかなくて、その先のビジョンが見えナイ」
ビジョン。僕は心の中でその言葉を咀嚼した。けれど、僕が彼女を作りたい理由なんて。いつの間にかシシブさんから目を逸らしている自分に気づく。突き刺さるような視線の先から言葉が聞こえた。
「どういう人とつき合いたくて、どういう繋がりが欲しいンダ?その辺がお前の開示した情報にないから、女もビジョンが思い浮かばなくて惹かれないンダ。趣味が合って一緒に楽しむだけなら、友達で良いダロ?」
県内の他大生で、アイドルオタクに寛容な人とつき合いたい。以前、本城先輩に話した通りだ。でも、今シシブさんに問われているのは、たぶんそういうことじゃない。
僕はどんな人間で、どういうことに重きを置いている人なのか。どんな人と一緒にいたいのか。
僕とつき合ったら、彼女にとってどんなメリットがあるのか。
薄雲の切れ目から光が射したような気がした。けれど、それが正解なのかと問い質す自分に出会う。微調整した写真に、本音と建て前を調合したプロフィールで女性の目に留まる準備をする。それはもう、就活の書類審査と変わらない。
けれど、みんなが同じラインに立っているなら僕もそのウェイブに乗るべきだ。理屈じゃない。僕は今、数多の同性ユーザーと戦うため、自分という商品のマーケティング戦略を立てているのだ。
考えが甘かった。マッチングアプリを有料で始めれば、彼女なんて3ヵ月後にはあっさりできていると高を括っていた。でも間違いなく違う。現実だろうがオンラインだろうが、恋愛は等しく椅子取り合戦だ。
シシブさんは電子タバコを大して美味くなさそうに吹かす。
「そもそもアイドル好きなことくらい書いておいたらドウダ?上っ面の趣味なんざ、すぐにバレるからナ」
「最初は入れてたんですけど、敬遠されそうだし」
「お前、本当に彼女作る気あるノカ?敬遠しなかった奴が、今後出会う可能性として絞られるんだろうガ。上っ面の情報流して守備範囲広げておいても、向こうはそんなのお見通しだっつーノ。極めて平均的で面白くないんだからナ」
耳が痛いし、何も言えない。じっくり読んだら、僕のプロフィールは別の誰かに託しても通用しそうなくらい薄っぺらかった。
自分の内に秘めた彼女を作りたい理由に、そっと触れる。あまりにも身勝手で打算的な、人には言えない内容だった。僕はシシブさんを見据える。
「正直、彼女ができるなら誰でも良いんです。今は」
「爽やかにクズだナ、お前。イレギュラーなデータを収集するには打ってつけの人材かもしれないガ。OBも喜ぶだろうヨ」
「僕がマッチングアプリ始めたことは誰にも言わないで下さいよ」
「情報料を払う奴には教えるが、そうじゃない限り言わねえヨ」
僕とつき合ったらどんな良いことがあるか。正解は、『何もない』だ。でも、僕は彼女を作る。目的を果たすために。
可能であれば同じ穴の狢に出会いたい。その方が罪悪感も少なくて済みそうだ。
だが、今は誰かと話すためのセットアップをしなければならない。全ては前提あってこその話だからだ。
シシブさんにもらったアドバイスを胸に、僕は『牢屋』を後にした。