第2話
3限の講義は友人に代返と後日ノートの貸借を頼んだ。昼飯の焼きカレー定食500円と引き換えなら、安いものだ。
僕は近くのネット喫茶に行くことにした。構内で人が寄りつかない場所を探すよりも、有料の個室を選んだ方が確実だ。根暗が染みついていると、咄嗟のソロプレイが手際よくこなせる。
1号館を出て、校舎に囲まれた大広場を横切る。階段を降りて中央門へと続く通路を早足で進んだ。右手にドトールがあるが、油断はできない。大学にいる僕はアイドルオタクでも彼女全力募集中でもない、多くの友人と充実した大学生活を送る大学生なのだ。
3階分の階段を降りた先が中央門だ。その先は片側三車線の大通りになっている。さすがにマッチングアプリのプロフィールを変えるだけで4限もサボるわけにはいかないから、制限時間は90分といったところだ。
階段を駆け下りていると、けたたましいバイクのエンジン音が中央門に近づいてきた。まさか。僕はそのエンジン音を知っている。よりにもよって、このタイミングで。
案バイクは歩道を突っ切って中央門に滑り込んできた。居合わせた女子たちが色めき立つ。250CCの黄緑色に輝くスポーツバイクにまたがるのは、陸上部のジャージに革ジャンを羽織った長身のライダーだ。
中央門の前に立っていた初老の警備員が「またきみか!早く退き……」と言いかけ、女子たちに押し退けられる。黄色い声の中心にいるライダーがジェットヘルメットのバイザーを上げて、警備員に声をかけた。
「いつもすいません警備員さん。エンジン切ったんで、歩行者扱いでお願いします」
ゆったりと落ち着いたアルトの声は、まさしく女性だ。彼女はバイクから降りてスタンドをかける。取り巻きの1人が「小森江さん、今日は3限サボりですか?」と興奮気味に尋ねた。
「ああ、うん。ちょっと朝のジョギングの調子が良くなくて、ツーリングで山に行ってたんだ」
意味が分からない。だが、今は話している場合じゃない。取り巻きを盾にして、そそくさと集団の横を通り過ぎる。
だが、相手の捕捉力は侮れなかった。
「クスさん、3限サボってランチでも行くの?私、タンパク質摂りたい気分なんだよね」
僕は足を止め、仕方なく振り返る。小森江雫がバイクのシートを軽く叩き、「ちょっと置いてくるから待ってて」と白い歯を覗かせた。
知り合いをやたらめったら増やすのも考えものかもしれない。もちろん、僕自身が臨んだステータスではあるんだけども。
*****
結局、小森江を連れて向かった先はとんかつのチェーン店だった。豚肉は豊富なタンパク質を含んでおり、スポーツ選手には欠かせない食材なのだと彼女は去年の取材で語ってくれた。
赤と白のジャージに古着の革ジャンという出で立ちの小森江は、周囲の視線など全く意に介さず、メニューを読み込んでいる。
「かつとじはカロリー高いんだよなぁ。千切りキャベツはおかわり確定として、大人しく定食にするか……クスさん、決まった?」
「僕はかつとじ定食にする」
「性格悪っ!目の前で食べられたら、食べたくなるに決まってんじゃん!」
「1個くらい食べても体重管理に影響しないだろ」
注文ボタンを押して、店員にかつとじ定食ととんかつ定食をオーダーする。「千切りキャベツ、大盛かつドレッシングなしで!」とつけ加えた小森江は、いつだってスポーツ選手の意識を忘れない。
高校時代、陸上インターハイに短距離選手として毎年出場していた彼女は、3年の大会で2位という成績を収め、豊中大学にスポーツ推薦で入学した。そして今年の夏、1年生ながらインカレに出場し、5位に入賞した。大学広報誌『ちくわぶ』は、彼女を本校期待の選手として取材し、記事を書かせてもらったのだ。
小森江は水を一口含み、舌で唇を舐めた。
「クスさん、今月末の記録会で良い結果出したらまた取材する?」
「ぜひ頼むわ。本校期待の選手ってことで今後も追っかけるつもりだから。『ちくわぶ』、ネタ探しも一苦労なんだ」
「アシスタントもまた三四朗さん?自分で撮れば良いのに」
「餅は餅屋って言うだろ。別に僕が撮っても良いけど、上手い人に撮ってもらった方が良い広報誌になるし」
「意外と拘り持つよね~」
写真といえば、『KuruMira』のプロフィール写真は自撮りだった。身なりをしっかり整えたものの、写真の細かい微調整などはしていない。女性は目や肌艶を盛ったり、身バレ防止のために顔をボカしたりしていることが多いが、男性がそれをしたらいよいよ情報戦になってしまう。
でも、男性も最低限の嗜みとして写真の微修正は必要なんだろうか。それに、自撮りというのも矢継ぎ早のようなイメージを与えている可能性がある。試しに他の男性ユーザーの写真を見てみたら、誰かに撮ってもらった写真が多かった。
思いきって、小森江に写真撮影を頼んでみようか。
理由を尋ねられるのは間違いないから、適当に答えれば良い。小森江は他人の事情に詮索するようなタイプではないし、回答さえ持っておけば素直に撮ってくれる気がする。
スマホで時間を確かめると、4限開始まで1時間を切っていた。昼食はさっさと済ませるとして、写真撮影を頼む時間は今しかない。小森江が僕のスマホを眺めながら呟いた。
「クスさんのスマホ、最新モデル?」
「いや、1世代前だった気がするけど。このシリーズ、なんか毎年新しいやつ出るよな」
「あー、でも私の機種より新しいじゃん。そろそろ買い替えようかなーって思ってるんだけど、今使ってるやつが手にちょうど収まるサイズで楽なんだよね」
新シリーズが出る度に機器が大きくなるのはなぜだろうか。携帯事情に疎いから何とも言えないが、僕も今の機種は右手で持って左手でタップする。片手であれこれするには、大きすぎるのだ。
……というか今の会話の流れ、写真の話題を切り出すのに打ってつけじゃないか?僕はスマホ画面から『KuruMira』をフェードアウトさせた。
「カメラ機能なんかバージョンアップする度に良くなってるんだよ。ほら」
スマホのカメラ機能を立ち上げて、画面を小森江に見せる。彼女は「へえ」と目を少し丸くさせて、自分のスマホと比べた。あともう一押しだ。僕は声の上ずりを抑えるべく、水を飲み干す。
「試しに撮ってみない?僕のこと被写体にして良いから」
素早く差し出すと、小森江は「じゃあ試しに」と僕のスマホを受け取った。それから「はい、視線合わせてー」と僕にカメラを向けてくる。
瞬時に男性ユーザーの写真の特徴を思い出す。テーブル越しに向かい合って座る写真は、いわゆる『彼氏風』というやつらしい。小森江には悪いが、今の状況はそれに適合する。確か、彼らは視線を下に落としてコーヒーを見つめていたり、テーブルに肘をついてカメラに向かって上目遣いをしていたり、いろんなポーズを取っていた。つまり、ただカメラに焦点を合わせて撮るだけでは就活写真と変わりないのだ。
考えろ、僕。彼氏風になるポーズだ。オリジナリティはいらない。既存の情報を基に、それっぽく……。
小森江が怪訝な顔をしてスマホのカメラ部分を降ろした。
「……クスさん、なんで首を90度近く傾けて微笑んでるの?首のすわってない赤ちゃんのマネ?」
「違うわ!」
「首の持病で写真撮ろうとしたらアレルギー反応で曲げたくなったり……」
「しない!何だその奇病」
僕の描いたビジョンでは問題ないはずだった。でも、実際のところは上手くいっていないらしい。まるで僕の大学生活そのものだ。
お冷を飲みながら別のポーズを思い出していると、正面からパシャリと音がした。小森江が撮った写真を眺めながら口を開く。
「画質良いね〜。画面が広くて片手じゃ操作できないデメリットはあるけど、写真撮る人は新しいバージョンで相当満足しそう」
「え、僕全然視線合わせてないけど」
「よく考えたら試し撮りなんだから何でも良いじゃんって思っただけ」
せっかくのチャンスだったのに、もったいないことをした。試し撮りを何度もやってもらうわけにもいかない。もう少し僕がポーズの勉強をしていれば……。
小森江からスマホを受け取り、諦めの気持ちで写真を見ておく。
「おお……」
予想と異なった写真に、思わず吐息が漏れる。
写真の中の僕は、手元のコーヒーカップに視線を落として思考を巡らせていて、思ったよりもサマになっていた。よく分からないが「彼氏風」というやつになっているんじゃないか?本当はカメラ目線で撮りたかったけど、これはこれでナチュラル感を出せている気がする。
「小森江さん、写真撮るの上手いんじゃない?今度三四郎さんに教えてもらえば?」
「スマホの精度が良いだけだよ。ていうか、逆にそんなので良いの?クスさんのセンス疑うわ」
そんなことはない。見れば見るほどしっくりくる。これなら下手に写真を微修正しなくてもいける気がした。
店員がかつとじ定食ととんかつ定食を運んでくる。写真がひと段落つきそうだからか、急に食欲が増してきた。割り箸を取って、割れ先に力を込める。
味噌汁を一口啜った小森江が「そういえば」と視線を宙に移す。
「友達が失恋して、マッチングアプリ薦めたら本当に始めてさ。今もマッチングアプリやってるんだけど、彼女風?の写真撮ってほしいって頼まれたんだよね」
バキッと音を立てて、割り箸が歪んだ形で分割された。小森江は特に気にすることもなく話を続ける。
「ちょうど今のクスさんみたいなやつだったなーと思ってさ。でもその後、写真をめっちゃ編集するの」
「確かに見た目はアピールの1つだけど、修正したら本物に幻滅しない?」
「その子曰く、まずは男に会いたいと思わせることが大事らしいよ。男も女も関係なく、人は結局見た目重視なんだって」
「でも、長続きするかは分からないな」
「会って話して、合わなかったらその日までの関係。また別の男を探すだけ。その子、そういう割り切り上手なんだ」
戦略ということなのか。僕が写真やプロフィールをゼロベースで提供していても、他の男性ユーザーが情報をデコレーションしている時点で、僕は差をつけられている。豪に入れば郷に従え、という言葉が浮かんだ。
情報戦を許容しないと、売り手側である僕の市場価値は上限を超えないのかもしれない。正直だけでは生きていけないのが人間社会であるということは、今の僕なら理解できる。
「ありがとう。小森江と話せて良かったよ」
「感謝されること、してなくない?でも悪い気分じゃないからいっか!」
ちなみに、と小森江が悪戯っぽく目を光らせた。
「クスさんはマッチングアプリやってるの?」
かつとじを頬張った僕は。咽せるのを全力で堪えながら首を振った。