第1話 潮騒が包み込む楽園
男の赤子を抱くその姿は、正しく美しい聖母である。しかし彼女は、人というには精巧で整い過ぎていた。
「よしよし、お腹が空いたのね」
彼女は人ではなく、アンドロイドである。名をカレンという。彼女の全てであるその赤子に乳を与える姿は、否定の方法がない母子の関係だ。あるいはそれ以上であろう。
そうした美しい母の愛に守られ、男の子はすくすくと成長していった。彼はハルと名付けられた。
潮騒の寄せて返す音が心地よく響く朝、少年になったハルは薄い毛布の中で、ゆっくり目を覚ましている。カレンはいつも通り、最愛の息子のため、いい匂いがする朝食を調理していた。
「おはよう、母さん」
「おはよう、ハル。ちょうど、ご飯ができたわよ」
食べざかりのハルは、朝からぺろりとおいしいご飯を平らげるのだが、カレンはその様子を、幸せそうに微笑んで眺めるだけだ。母が食事を取っているのを、ハルは見たことがない。しかし彼の世界は、カレンと自分、そして潮騒が包み込む楽園だけである。食べながら母に笑顔を見せることがあっても、母がなぜ食べないのか、それを疑問に思うことはなかった。
「ハル、今日はどうする? 山に行く? 海に行く? お家でゆっくりしてもいいわよ」
「ゆっくりは嫌だよ~。そうだ! 海に行こう! でっかい魚を取りたい!」
「ふふっ、ハルはそう言うと思ったわ」
惜しみなく愛しむだけではない。カレンはハルに、生きていくのに必要な糧のとり方、読み書き、様々な知恵と知識を教えた。スポンジが水を吸うように、どこまでも優しく教える母に従い、ハルは深い興味を持って、それらのことを吸収していく。
忘却の文明、その波打ち際の遺跡で暮らす2人の絆を、断ち切るものは何もない。ずっと、そう思われた。
「母さん、今日は海に行ってくるよ。また大きいのを取ってくる」
「気をつけて行ってね。取れたら早く帰ってきなさい」
「分かってるよ。大丈夫」
その日もいつもの母子のやり取りだった。15歳になったハルはたくましく成長し、カレンから教えられた一人で生きていく術を、ほとんど身につけている。一人で糧を得に出かけることは、もう普通のことになっていたが、母は子供がどこまで成長しようが母である。目の行き届かなくなった今の方が、カレンにとって心配がひとしおだった。そして子は、親の心を知らないものだ。
カレンの気苦労の重なりに気づくことなく、ハルは銛を持ち、海に行った。今まで、息子が無事に帰らなかったことはない。微笑で朝日が照らす静かな波の浜辺へ、送り出したその日もそう思っていた。