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「冗談じゃないわよ! なんであんな天使の思い通りにならなきゃいけないのよ!」
放課後、例のごとく明日美は焼却炉を思い切り蹴り上げた。
すると、焼却炉の向こうから黒髪の天使が顔を覗かせてため息をついた。
「……本当にへこんでしまいますよ」
その姿を見た途端、頭に血が上った明日美は焼却炉の向こうに回り込んで天使につかみかかった。
「てめーっ! いい度胸だ! よくもあたしの前に顔を出せたな!」
あまりの剣幕に天使はあわてて明日美を振りほどいた。
「落ち着いて下さい。ぼくです、ぼく」
ハッとして我に返った明日美の目の前には心配そうに見つめる飛鳥が立っていた。
「何があったんですか?」
飛鳥が尋ねると落ち着きを取り戻した明日美は俯いてつぶやいた。
「飛鳥さん、あたし誰も嫌いになりたくないよ。誰にも嫌われたくないよ。天使の言うように白黒付けて誰かを嫌いになりたくない」
そう言って飛鳥に背を向け帰ろうとすると、その背中に飛鳥が静かに問いかけた。
「だから? 明日美ちゃんは笑ってるんですか? でも、ずっとそうだと疲れませんか?」
明日美は少し立ち止まったが、そのまま何も言わずに歩き始めた。
家路をたどりながら飛鳥の言葉を繰り返し思い出す。
(確かに疲れるよ。でも、他にどうすればいいのかわからない)
翌日、明日美は淳子と一言も口をきかないまま一日を過ごした。
朝、一応挨拶をしたが返事はなかった。帰りもとりあえず挨拶だけしようと思い、席を立つと淳子の方から声をかけてきた。
「明日美、ちょっといい?」
「うん……」
そのまま黙って淳子について行く。
淳子は教室を出て階段を下りると外に出て校舎の横で立ち止まった。少し後ろで明日美も立ち止まる。
振り返った淳子は明日美を睨みつけた。
「あたし、あんた見てるとムカつくのよ。何を言っても何を聞いても当たり障りのない適当な返事しかしないじゃない。わざと怒らせようとしても、あんた笑って受け流すのよ。たまんないわよ、ああいうの! あたしなんかバカバカしくて、マジで相手にできないって事?!」
淳子が言い終わるのとほぼ同時に明日美は彼女の頬を叩いていた。
淳子は驚いて目を見開いたまま頬を押さえて言葉を失った。
明日美自身も自分に驚いて一瞬頭が真っ白になった。だが、この状況は笑ってごまかしようがない。それに今さら本音を隠す事などどうでもよくなっていた。
明日美は淳子から顔を背けると眉を寄せて苦々しげにつぶやいた。
「……あたしが、なんで笑ってるのかなんて知らないくせに……!」
そして淳子をその場に残したまま走り去った。
駆け込んだ先は、やはり裏庭の片隅の焼却炉。
明日美は大きくひとつため息をつくと拳で力なく焼却炉を殴った。
人を殴った方がスッキリするかと思った事もあったが、ちっともスッキリしない。逆に何もかも失ってしまったような喪失感を覚えていた。
自分は何をやっていたのだろう。人を不快にさせないようにしていたつもりがかえって不快にさせていたなんて。
どうしたらいいのかわからなくなり、明日美は項垂れた。涙があふれそうになった時、焼却炉の向こうからすでに耳慣れた声が聞こえた。
「今日は蹴らないんですか?」
明日美はあわてて涙を拭うと飛鳥に背を向けた。
「……うん。帰る……」
そう言って立ち去ろうとすると、飛鳥が呼び止めた。
「待って下さい。そんな顔で行かれたら気になるじゃないですか」
涙を抑えられなくなり、明日美は立ち止まると両手で口を押さえて必死に声を殺した。
飛鳥はゆっくり歩み寄ると明日美の頭を撫でた。
「我慢しないで泣いていいですよ。ここにはぼくしかいませんし」
その言葉に甘えて明日美は少しの間しゃくり上げた後、俯いたまま飛鳥に言った。
「飛鳥さん、あたしどうしたらいいかわからない。あたしが笑うと不愉快だって言うんだもの」
すると飛鳥は間髪入れずにサラリと言った。
「それは明日美ちゃんの笑顔が偽物だからです。友達にはバレてるんですよ」
明日美は少し顔を上げて飛鳥を見た。飛鳥は真顔でまっすぐ明日美を見下ろしていた。泣きはらした顔を見られたくなくて明日美は再び俯いた。
頭の上から飛鳥の声がする。
「明日美ちゃん、ぼくの前では本音だけなのに友達の前だと違うんですね。本音を全部見せる必要はないけど、友達だと思っている人が全然見せてくれないと、信用されていないようで不愉快だと思いますよ」
飛鳥の言う事はもっともだ。元々、違う人格を完璧に演じられるほどの千両役者じゃない。
いくら穏和なフリをして必死にごまかしたところでバレバレだったのだろう。その証拠にほんの少し見ただけの飛鳥にすらバレている。淳子がバカにされているようでムカついたのは当然だ。
明日美は俯いたまま、よろよろと移動すると焼却炉にすがった。
それを見て飛鳥が不服そうに呑気な声を上げる。
「え? なんで?」
「何が?」
顔を上げて反射的に問い返すと、飛鳥は自分を指差して、
「だって、目の前にぼくの胸があいてるのに、わざわざ焼却炉にすがらなくても……」
と、当たり前のように言う。
明日美は思わず吹き出すと、天を仰いで大声で笑った。
飛鳥はガックリと肩を落とすとため息をついた。
「そんな、のけぞって笑わなくても……。焼却炉よりもぼくの方がへこみますよ」
ふてくされたように顔を背けた飛鳥を見て明日美はクスリと笑った後、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と言うと、飛鳥の胸に飛び込んだ。
飛鳥は驚いて少し戸惑った後、ぎこちない仕草でゆっくりと腕を回し明日美をそっと抱きしめた。
少し早い飛鳥の鼓動を耳元に聞きながら、明日美は飛鳥が女の子じゃなくてもよかったと思い始めていた。
——飛鳥さんは、たぶん天使なんだ。だって、さっきすがった火の入った焼却炉より飛鳥さんの方がずっとあったかい——
翌朝、明日美は学校に着いたら真っ先に淳子に謝ろうと決意して家を出た。ところが、通学路の途中で後ろからやって来た淳子に突然挨拶の声をかけられた。
不意打ちを食らって曖昧な返事をすると、並んで歩きながらしばらく気まずい沈黙が続いた。耐えきれずに明日美が切り出した。
「……あの、きのうはごめんね」
すると淳子は平然と言う。
「いいのよ。あたしはあれで目的を果たしたんだから」
意味がわからず考え込むと、再び沈黙が続く。今度も明日美は耐えきれず淳子に言う。
「……えっと、飛鳥さん紹介しようか?」
淳子は苦笑する。
「いいわよ無理しなくて。昨日見たんだから、抱き合ってるとこ」
「え?」
明日美は赤面すると思い切り動揺した。
「なんで、そんなもん見てんのよ」
淳子は明日美の様子をおもしろそうに笑う。
「だって、あんたがマジで怒ったの初めてだから、あたしもちょっと言い過ぎたかなと思って後を追ったのよ。そしたらね」
淳子は明日美の後ろに少し視線を送った後、鞄の中からノリ付きメモ用紙とサインペンを取り出し、鞄を明日美に預けた。
そして、メモ用紙に何やらすばやく書くと明日美の背中の真ん中に貼り付けた。
「彼氏が来たわよ。じゃあね」
そう言ってかばんを受け取るとさっさと学校に向かっていった。
「ちょっと、何貼ったの?」
明日美がわめきながら自分の背中に手を回しメモ用紙を探っていると後ろから呑気に挨拶をしながら飛鳥がやって来た。
飛鳥は明日美の背中の黄色いメモ用紙に気付くと、それをはがして一読し明日美に突き出した。
「明日美ちゃん、できればラブレターはそっと渡して欲しいですね」
「はぁ?!」
明日美は突き出されたメモ用紙を凝視する。
そこにはピンク色の蛍光ペンでこう書かれていた。
”飛鳥さん、大好きです。明日美”
「違う! これは淳子が勝手に……!」
真っ赤になってわめく明日美に飛鳥はおもしろそうに笑いながら問いかける。
「違うんですか?」
明日美は顔を背けると吐き捨てるように言った。
「さぁ、どうかしらね」
そして、ふと名案を思い付いた。せっかく見つけた本音で話せる相手、飛鳥を失わないですむ方法。
なので、一応確認してみた。
「飛鳥さん、彼女いるの?」
「いるように見えますか?」
「全然見えない」
「そんなにキッパリ断言されると寂しいですね」
そう言いながらも飛鳥はなんだか嬉しそうに笑っている。
飛鳥に彼女ができる前に、自分が彼女になってしまえばいい。そうすれば彼女に飛鳥を奪われる心配はなくなる。
だが、何もかも見透かしたような飛鳥の嬉しそうな笑顔を見ていると、なんだかシャクな気がするので、この作戦の決行はもう少し先延ばしにしようと明日美は思った。
(完)
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