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「行ってきます」
覇気のない声で挨拶をすると、明日美は家を出た。
むっつりと不愉快そうな表情をたたえ、重い足取りで学校へ向かう。
別に低血圧で朝が苦手というわけでもないが、毎朝気分はすぐれない。
自ら望んで入学した女子校に、秋も深まるというのに未だになじめないでいるからだ。
いじめに遭っているとか、話し相手がいないとかそういうわけでもないが、女同士特有のノリについて行けないのだ。
おまけに今朝は夢見も悪かった。
夢の中に黒髪の天使が現れた。見た目は細くて背の高い男に見えたが、頭の中では天使と認識していた。
天使は微笑んで明日美に問いかけた。
「君は、一体誰が好きなの?」
唐突で意味深な問いかけに明日美は笑顔で即答する。
「世界中の人、みんな好き」
天使は少し哀れむように明日美を見つめた後、鼻で笑った。
「ウソだね。君は誰も信じていないのに、みんなを好きにはなれないよ。そういうのは偽善だ。君は善人ぶっていても善人じゃない。かといって悪人でもない」
そう言うと天使はふわりと宙に浮かび、上から明日美を指差して見下ろした。
「神は白か黒かはっきりした者でないと愛さない。どっちつかずでいると嫌われるよ」
そして天使は闇の中に消えていった。
どっちつかずとは自分を見透かされたようで不愉快だった。おまけに天使が黒髪というのが縁起が悪い。言う事も毒を吐いているし、まるで天使の振りをした悪魔のようではないか。だが、後光が差していたので多分天使なのだろう。
夢の内容を反芻しながら学校の近くまでやって来た明日美は、途端に笑顔になり見つけたクラスメートと元気に朝の挨拶を交わす。
誰も知り合いのいない女子校で心機一転を計ろうと決意していた明日美は、どんなに不愉快な事があっても学校で仏頂面を見せた事はなかった。
よくない事は続くもので、教室に着いた途端弁当を忘れてきた事に気がついた。後で売店にでも行こうと思いつつ、席について隣の淳子に挨拶をした。——が、返事がない。
よく見ると怒ったような顔をして机に頬杖をついている。機嫌が悪そうだなぁと思わず見とれていると、視線に気がついたのか目が合った。
明日美は気まずそうに少し笑うと声をかけた。
「何かあったの?」
淳子は明日美の顔を見て、益々不愉快そうに眉を寄せると、
「放っといてよ! あんたの笑顔って時々ものすごく不愉快なのよね」
と言い、再び机に頬杖をついて明日美から顔を背けた。
明日美はしばらくの間、どう反応していいかわからず笑顔を引きつらせていた。
「あたしの顔が不愉快とはどういうことだ——っ!」
放課後、裏庭の片隅で明日美の怒声と鈍い金属音が鳴り響いた。
裏庭の片隅には金属製の錆びた焼却炉があった。掃除当番がゴミを捨てに来る以外にやって来る者はまずいない。
仏頂面を見せないように生活していると、色々とストレスが溜まってくる。誰もいない裏庭で物言わぬ焼却炉を蹴る事が明日美の鬱積した心のはけ口となっていた。
「どうせあたしは、あんたみたく美人じゃないし!」
そう言ってもう一度焼却炉を思い切り蹴り上げた時、焼却炉の向こうから男の声がした。
「焼却炉に罪はありませんよ」
ちゃんと確認したし、誰もいないと思い込んでいた明日美は心臓が止まりそうなほど驚いて焼却炉から一歩退いた。
「ごめんなさい!」
そう言って、目を固く閉じると焼却炉に向かって頭を下げた。
正確には焼却炉の向こうにいる人物にである。
女子校にいる男は教師に決まっている。公共物を傷つけている現場を見られてしまっては謝るしかない。
もっとも、焼却炉は雨ざらしで錆びに覆われ、元々傷やへこみが無数に存在し、一つや二つ傷が増えたところでどれが増えた傷だか判別は困難だった。
「君、一年生?」
男が問いかけてきた。
「はい。高崎明日美と言います」
うっかり正直に名乗ってしまい、こういう事に場慣れしていない自分の間抜けさを痛感した。親に連絡されたりしたらと思うと朝からの憂鬱が倍増した。
どのみち、生徒手帳を見せろと言われれば名前もクラスもわかってしまうのだが。
やはり今日は朝からついていない。どん底な気分の明日美に男が呑気な声で語りかけた。
「へぇ、明日美ちゃんって言うんですか。ぼくの名前と一字違いですね」
てっきり教師に説教を食らうと思い込んでいた明日美は固く閉じていた目を開いてゆっくりと顔を上げた。
(何? この人。先生じゃないの?)
訝しげに視線を向けた目の前には、ベージュの作業服を着て頭をタオルで無造作に縛った長身の男が呑気な笑顔で、明日美を興味深そうに見つめていた。
「ぼくの名前は飛鳥って言うんですよ。柳沢飛鳥」
明日美はその顔に見覚えがあった。思わず飛鳥を指差すと大声で叫んだ。
「天使——っ!」
飛鳥の顔は今日の不運の始まりである夢の中に現れた黒髪の天使にそっくりだったのだ。
大声で指差されて驚いた飛鳥は一歩退いて素性を明かした。
「ぼくはそんな神々しい者ではありません。用務員です」
飛鳥の正体がわかった途端、明日美は無表情になると傍らに置いた鞄を持ち、
「そうですか。お邪魔しました」
と言い、軽く頭を下げて裏庭を後にした。
冗談じゃないと思う。あの小憎たらしい天使そっくりの顔を見ていたらせっかく晴らしたストレスが倍増してしまう。
焼却炉ではなく、人間を殴った方がスッキリするのかなとちょっと思って見たが、過激な意見は頭の片隅に押しやった。
「——よね? 明日美」
「え?」
「違うわよね?」
翌日の休憩時間、淳子とよしえが目の前でなにやらテレビドラマの事で意見を対立させていた。
明日美はその番組を見ていないし、興味もないのでぼんやりと他の事を考えていたら突然意見を求められたのだ。
明日美は苦笑をこぼすと、
「あの……あたし、よくわからないから……」
と、お茶を濁した。
本気でわからなかったし、適当にどちらかの味方をするわけにもいかないので正直に答えたつもりだったが、二人のお気に召さなかったらしい。
淳子はムッとした表情で明日美を少し睨んだ後、よしえに言う。
「ほらぁ、この子に聞くだけ無駄なのよ。いつだって煮え切らない返事しかしないんだから」
「そうね」
よしえもちらりと明日美を見た後淳子に頷くと二人で明日美の席から離れていった。
「どうして、いちいち同意を求めるんだよ! 味方がいなきゃ自信の持てない意見なんて捨てちまえ!」
放課後、すでに夕日の傾き始めた裏庭で明日美は今日も焼却炉の横っ腹を思い切り蹴飛ばした。
鈍い金属音の余韻が消え去る前に、焼却炉の向こうから飛鳥が顔を出した。
「やっぱり明日美ちゃんですか」
今日こそ邪魔されたくないと思い、焼却炉の周りを一周して念入りに確認したつもりなのに、やはりこの男が邪魔をする。
飛鳥は焼却炉の向こうからこちら側へ回り込み、明日美を見下ろして少し笑うと話しかけた。
「不満があるようですね。ぼくじゃ焼却炉のかわりにはなれませんか?」
明日美は上目遣いに飛鳥を見つめると訝しげに眉を寄せた。
「……殴っていいの? もしかして、あんたM?」
飛鳥は軽くため息をついた。
「違います。誰かに話すだけでも気が紛れるんじゃないかと思うんですけど。ぼくの方が少し年上だから何か助言ができるかもしれませんし」
「うん」
自分でも意外なほど素直に返事をしていた。考えてみれば飛鳥には最初から本音の自分を見られている。今さら取り繕う事など何もない。気晴らしに少し話してもいいかと自然に思っていた。
二人は校舎裏の壁際に放置された材木の上に腰を下ろした。
明日美はひざをかかえて話し始めた。
「どうしてあたしが女子校に来たと思う?」
飛鳥の答えを待たずに明日美は続けた。
「あたしね、根が正直者だから女の子とウマが合わないのよ。無神経だとか思いやりがないとか色々言われた。自分で言っておきながら、同じ事をあたしが言うと傷ついたとか言うのよね。女って本当の事言われると怒るでしょ?」
明日美は飛鳥の方を向いて指差した。突然話を振られて飛鳥は苦笑する。
「……あ、まぁ、そういう人もいますね」
明日美は飛鳥から視線を戻すと話を続けた。
「あたし、女なのにそういう女心ってよくわからなくって。女しかいないところに身を置いてみたら女心がわかるようになるかなって思って女子校に来たの。女の友達も欲しかったし」
飛鳥は意外そうに少し目を見張ると問いかけた。
「今まで友達いなかったんですか?」
「友達はいたよ。みんな男子だけどね。今はいないけど」
明日美はかかえたひざの上にあごを乗せて目を伏せた。
「男子はずっと友達ではいてくれないの。彼女できたら離れていくの。あたしと一緒にいると彼女に怒られるからって」
少しして飛鳥が問いかけた。
「——で、女心はわかりましたか?」
明日美は笑って首を横に振った。
「全然。ますますわかんない」
そう言うと明日美は鞄を持って立ち上がった。そして見上げる飛鳥に、
「愚痴もこぼした事だしそろそろ帰る。聞いてくれてありがとう飛鳥さん」
と手を振って裏庭から走り去った。
夕闇の迫る校庭を横切り、校門へ向かいながら明日美は驚いて立ち止まった。
(あれ? なんで?)
なぜか、涙があふれて頬を伝った。
限界だったのかもしれない。本音を隠し続ける事が。
飛鳥に話して気が弛んだのだろう。
そして、やっと見つけた本音を話せる相手がまた男かと思うと焦燥感を覚えた。
明日美は涙を拭うとひとつため息をついた。
(飛鳥さんが女の子だったらなぁ……)
明日美の席は廊下側の窓際にある。
翌日、休憩時間にぼんやりしていると席の横の窓ガラスをノックする音が聞こえた。
下半分は磨りガラスになっているので外は見えない。透明な上半分に目を向けると飛鳥が手を振って覗き込んでいた。
女子校にいるはずのないラフな格好をした若い男が教室を覗き込んでいるので一斉に注目を浴びた。
明日美は慌てて廊下へ出ると、飛鳥を引きずって廊下の突き当たりから階段を下りて踊り場まで連れて行った。
「なんで教室まで来るのよ?!」
非難するように睨みつける明日美に飛鳥は呑気に答える。
「生徒手帳、落としていたので届けに来たんですけど」
飛鳥が差し出した手帳をひったくると、明日美は更に苛々したように言う。
「そんなの担任にでも預けてくれたらいいのよ。先生でもない男が教室覗き込んでたらヘンタイと間違われるわよ!」
それでも飛鳥は苦笑をこぼしながら呑気に反論する。
「えーっ? でもぼく、廊下の蛍光灯取り替えたりいつも校内をうろついてますけど、間違われた事ありませんよ」
「それって授業中じゃないの?」
明日美に指摘されて飛鳥は途端に弱気になる。
「まぁ、廊下の真ん中に脚立を立てたりするんで、その通りですね。すみませんでした」
年上の飛鳥に素直に頭を下げられて気まずくなった明日美は顔を背けてつぶやくように言った。
「……別に、あたしに謝らなくていいわよ。……手帳、届けてくれてありがとう」
飛鳥は笑顔になると、
「じゃあ、お礼はへこんだ焼却炉の修理の手伝いで」
と軽く手を挙げた。
「元々へこんでるでしょ! あたしがへこませたんじゃないもん!」
吐き捨てるようにそう言うと明日美は飛鳥に背を向けて階段を上がった。
廊下に出て角を曲がるとそこに淳子とよしえが待ち構えていた。二人は好奇心に目を輝かせて明日美に詰め寄る。
「ねぇ、明日美。今の人誰?」
「あんたとどういう関係?」
「もしかして彼氏?」
最後の一言を受けて明日美は動揺し、それを思い切り否定した。
「絶対違う! そんなんじゃないって!」
そして、笑顔を作ると焼却炉に八つ当たりしている事は割愛して飛鳥の事と手帳を届けてくれたことを二人に話した。
途中、ちらりと踊り場に目を向けると飛鳥が不思議そうな表情でこちらを見上げているのが見えた。二人のクラスメートに見つからないように後ろ手で手を振り飛鳥を追い払う。
二人に話し終えて、もう一度見ると飛鳥の姿は消えていた。
明日美が内心ホッと胸をなで下ろしていると淳子が笑顔で両手を合わせお願いしてきた。
「ねぇ、明日美。あの人紹介してくれない?」
「え?」
今、ホンの一瞬姿を見ただけの人に何故? 一目惚れした風にも見えない。
あまりに唐突な申し出に明日美が面食らっていると横からよしえが淳子の腕を軽く叩いた。
「ちょっと淳子、ずるい。あたしが紹介してもらおうと思ってたのに」
「そんなの知らないわよ」
淳子はプイと横を向く。
(飛鳥さんって、そんなにいい男だったっけ?)
なぜだかもめている二人をよそに明日美は飛鳥を思い浮かべてみた。
背が高くて足が長い。太ってないしスタイルはいいのかもしれない。でも、いつ見ても髪の毛ボサボサだし今日は寝癖がついていた。顔は十人並みだと思うけど?
おまけになんかボーッとしてて緊張感がない。
どう考えても取り合うほどのいい男とは思えないのだが……。
首を傾げながらふと、今は二児の母となった同じ学校OGの従姉妹の言葉を思い出した。
「女子校にいる若い男はね、三割り増し男前に見えるのよ」
彼女は在学中23才独身の男性数学教師に憧れていたらしい。
その教師は今も学校にいる。当時より少し年を取って結婚した事を除けば、それほど変わっていないものと思われる。何がそんなによかったのか明日美が尋ねたところ彼女はそう答えたのだ。
三割り増しにすれば飛鳥も男前かもしれない。
明日美が納得したと同時に淳子が問いかけてきた。
「ねぇ、明日美。あたしとよしえとどっちに紹介したい?」
「え?」
またしても唐突で、しかも強引な言い分だった。
明日美が答えに詰まっているとよしえも同調した。
「そうね。これはいい機会だわ。明日美に白黒つけてもらいましょ」
(どうして、あたしが決めるの?)
意味がわからない。飛鳥が選ぶならともかく何の関係もない自分が飛鳥の代わりに選んでもしょうがない気がする。もしかしたら飛鳥は自分が選ばなかったもう一人の方が好みかもしれないのに。
なにより、紹介自体したくなかった。紹介した誰かと飛鳥がつき合う事になったら、また自分は本音を話せる相手を失ってしまうのだ。
「どっちって言われても……」
そう言って明日美が苦笑すると淳子が苛々したように叫んだ。
「はっきりしてよ! どうしていつもそうなの?! どっちつかずで優柔不断なんだから!」
淳子は明日美に背を向け教室の方へ去っていった。
「淳子?」
よしえは呆気にとられて少し明日美の顔を見た後、淳子の後を追っていった。
明日美の頭の中で黒髪の天使の捨て台詞がこだまする。
「どっちつかずでいると嫌われるよ」
天使の啓示だ。天使の言った通りに事が進行しつつある。
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