海辺の夕日
俺は生きているのか?不吉な夢を見た。白い天井、蛍光灯の光、扇風機のカタカタという音、柔軟剤の匂い。
どれも俺が生きていることを証明してはくれない。朝日を見つけてやっと安心できた。俺は生きてる。
不吉な夢を見たのは頭痛のせいだろうか。
最近ずっと頭が痛い。
今日はいつもよりずっと痛い。
吐き気もする。
働きすぎだろうか。心なしか毎日眠い。
「明日病院に行くか。」
独り言に答えてくれる人などいない。
「脳に腫瘍ができています。」
医者にそう告げられた。
何も考えられなかった。不思議と悲しくはなかった。
結婚はしていない。
父は俺がまだ小さい時に死んだ。
母は田舎にいてここ数年あっていない。
日が沈みそうだ。夕日を見たら涙がこぼれた。眩しかったからかもしれない。でも、まだ死にたくないと思った。
正直、驚いた。自分にそんな感情があったなんて知らなかった。昨日までは毎日同じことの繰り返しで生きていても意味がないと思っていたのに。
その日は声を出して泣いた。
しばらくして入院することになった。
「もしもし俺だけど。健二だけど。」
電話で母に伝える。
「健二!どうしたの」
電話にでた母は驚いたような声をあげた。
「俺、実は脳に腫瘍ができた。」
母にそう告げたらまた涙が出てきた。
昨日あんなに泣いたのにまだ涙は枯れていなかった。
「そうなの…」
長い沈黙の後母はそう言った。
母に入院することと入院先の病院を告げ、電話をきった。
次に母と話したのは病院のベッドでだ。
母はわざわざ田舎から慣れない電車に乗って俺を訪ねてきた。
久しぶりにあった母は少し痩せ、手の血管は浮き出て髪も白くとても小さく見えた。
母はとても辛そうに俺を見た。
申し訳ないと思った。上京する時に母を悲しませ、今も母を苦しませている。
俺はこの人を笑顔にしたことがあっただろうか?
「治療が終わったらまた一緒に海に行きたいねぇ」母がそう言った。
「そうだな」
「健二がまだ小さい時、お父さんも一緒に海に行ったの覚えてるかい。健二は海を怖がって、結局海で泳がず砂浜で遊んだねぇ。夕日が綺麗だった。」
思い出した。砂の城が波に流されたせいでおお泣きして母と父を困らせたっけ。思い出したら涙が出そうになったが堪えた。母の前では泣かないと決めていた。
「懐かしいな。帰りに食べたカレーが甘くて美味しかった。」
「そうだったねぇ。」
母以外に俺を訪ねる人はいない。
母が帰ったら寂しくなった。
蛍光灯の白い光が刺々しく感じる。
その後母は何度も俺を訪ねてきた。
この近くのホテルに泊まっているらしい。
それなら俺の家に住めばいいということで母は俺の家に住むことになった。
最近毎日が楽しい。
腫瘍を治して母と海に行きたいと思っている。あの思い出の海に。
そんな思いがあったからか手術は成功し、俺は回復していった。あと少しで母と海に行ける。期待に胸が膨らんだ。
そんな中、母が死んだ。
しばらく現実を受け止められなかった。
心筋梗塞らしい。見つかったときにはもう死んでいた。もしホテルに泊まっていれば母はいち早く発見されて死ななかったかもしれない。それに、ストレスは心筋梗塞の危険因子になるらしい。全て俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいで母は死んだ。
俺は母を苦しめてばかりだ。
母の遺品から海に行った時の写真と手紙が出てきた。俺が退院した時渡すつもりだったらしい。
「…あなたが生まれてきてくれて本当によかった。あなたはいつも私を笑顔にしてくれました。あなたがいて幸せだよ。あなたには感謝しかないよ。本当にありがとう。元気になってくれて。
母より」
俺は母を笑顔にできていたのだろうか。
自信はない。
でも写真の中の母は笑っていた。
夕日をバックにして。
逆光でよく見えなかったけど確かに笑っていた。
手紙は濡れ、文字はにじんで見えなかった。
久しぶりに海に行った。母と行こうと言っていた思い出の海に。独りで。もう父も母もいない。
もう日が沈む。
海では小さな子供が砂の城をつくっていた。
子供も親も楽しそうだ。
あの写真みたいに。
オレンジ色の夕日が綺麗だった。
帰りに食べたカレーは甘くて甘くて少ししょっぱくって、それでも美味しかった。
「ありがとう」
つぶやきが波に飲み込まれた。