上原写真館の『今』
ぱしゃりとカメラのシャッターを押す。ライトが光って、一瞬世界が光に包まれる。光が消えると向こうに笑顔を浮かべた家族の姿が見えた。
「どうですか?」
「いい写真がとれましたよ」
白髪を生やした老夫婦にまだ若い父と母。その間には生まれたばかりの赤ん坊。今時珍しい三世帯の家族だ。老紳士の言葉に私は微笑みを返して答えた。
「それは良かった」
「現像は二日後になります。後ほど連絡をするのでまたお越しください」
「そうですか。孫が生まれた記念にと、息子の反対を押して撮ってもらったのですが、いい写真になったのなら嬉しいですな」
「ちょっと親父。写真屋さんの前でそんなこと」
老紳士の息子なのだろう、父親が私にちらちらと視線を向けながら慌てた様子で肩に手を置いた。
「本当のことだろう?」
しかし老紳士はおどけた様子で肩をすくめ、口角を吊り上げてみせた。父親ははぁと深いため息をつきた。その後ろで老婦人と赤ん坊を抱いた母親がくすくすと笑っている。この家族のいつもの光景なのだろう。母親の胸に抱かれた赤ん坊も、撮影の時は慣れない環境に緊張していた様子だったが、今はうとうとと眠たそうにしている。
「では」
「はい」
老紳士はそばに置いていたダークグレーの帽子を手に取ると、ステッキをつきながら頭にかぶって出口へ向かった。その後を小走りの父親が追っていく。母親は苦笑しながら父親の後を追い、老婦人が私に小さく頭を下げて出て行った。
家族を店の出口まで見送る。彼らは帰りの坂道を寄り添い合って歩いていった。その姿が見えなくなったのを見計らって、私はあの家族に頭を下げて店に戻った。
「さて」
いつの間にか夕方だ。空は茜色になって、太陽はそろそろ沈もうかとしている。出口に面した窓の外から穏やかな夕日が差し込んでいた。その光は店のあちこちに飾られた写真を照らし、カラーの写真をセピア色に染める。
静かになった店の中で、私は細く長い息をはいた。近くにある商店街から夕飯の食材を求める客たちと店主たちの威勢のいい声が聞こえ、遠くから町を彷徨う竿売り屋のスピーカーの音が響く。
開いたままの出口から木枯らしが吹いた。十一月の夕方は短い。じき茜色は夜の藍色に飲みこまれてしまうだろう。風の冷たさに驚きながら、私は「OPEN」の札を「CLOSED」に裏返して出口の扉を閉めた。
扉を閉めると店の中が急に静かになる。扉一枚で忙しない外の世界と離れ離れになってしまったみたいだ。自然と、私の目は飾られている写真たちに吸い寄せられる。
アップで撮った赤ん坊の写真や、家族四人でとった記念写真。日本一大きい山やさりげない日常の風景まで。新しい写真もあれば、古い写真もある。写真の端が黄ばんでいるのは先代である父が撮った写真で、真新しいのは私が撮った写真だ。
デジカメやスマートフォンの普及で、先細りが心配なこの業界だが、とっておきの一枚を欲しがる人たちは少なからずいるらしい。父が始めて息子の私が受け継いだこの『上原写真館』も、何とか営業を続けられている。
父の代から続く学校関係の写真撮影もあるから、私が齢を取って動けなくなるまでは食べていけるだろう。
店じまいもしたし、さっきの家族の写真を選ぼうかとカメラのデータをパソコンに移していると、出口が開かれ、冷えた空気が入ってきた。
「上原さん。帰ってきましたよ」
「おかえり」
冷気と一緒に入ってきたのは去年から『上原写真館』にバイトで入った大学生の杉田君だ。金髪に革ジャンという、中々刺激的なファッションセンスを持つ杉田君だが、プロのカメラマンを目指しているらしく、仕事には真面目で写真への愛情もある。私にはもったいないくらい出来たバイト君だ。
「はいこれ。学校から修学旅行の写真注文の封筒、もらってきましたよ」
「うん。そこに置いてといて。いつも通り、店の掃除をお願い。それが終わったら帰っていいよ」
「了解っす」
杉田君は私の近くに封筒の束を置いて敬礼すると、鼻歌混じりにほうきを手に取った。
カタカタ、カチカチ。サッサ。サッサ。写真館の中に、キーボードを打つ音とほうきをはく音だけが響く。
さっきの家族の写真はどれもいいものばかりだ。私は記念写真を撮る時、ポーズや表情を変えつつ二十枚ほどの写真を撮る。最高の一枚を渡すために、苦悩しながら一枚、一枚写真を減らしていく。
パソコンの画面に映る残った二枚の写真を見比べてうんうんうなっていると、不意に視界が明るくなった。
「びっくりした」
「すごい集中力ですけど、暗い中で画面見てると目が悪くなりますよ」
顔を上げると、杉田君が呆れた顔で電気のスイッチを押していた。窓を見れば外はもう真っ暗。作業を始めた時はまだ五時過ぎだったのに、時計の針はすでに七時半を指していた。
「掃除が終わったら帰っていいって言ったのに。夜の一人歩きは危ないよ?」
「小学生じゃないんですから大丈夫です。帰るなとも言われてないですし。それに上原さんの写真選びは勉強になります。どうしてさっきの写真は没にしたんですか?」
「さっきの?あぁ、赤ん坊の目線がちょっと、ね」
「赤ん坊?」
杉田君が首を傾げる。私はパソコンを操作して、さっき没にした残っていた写真を出した。
「ほら。赤ん坊の目が私の方を向いてる」
「え?被写体がカメラの方を見るのはいい事じゃないですか」
「いいや。この子の目は不安そうに見えるんだ。だからこの写真よりも」
私はカチカチとマウスを動かして残った二枚の写真を見せる。
「こっちの母親を見ている写真の方が、柔らかみがある」
「なるほど……そういうことですか」
私が残した二枚の写真はどちらも赤ん坊が母親の方を見ているのだ。こちらの方が表情も安心していて良い。
「ならこの二枚はどうして?かなり違いますよね。右の写真の方がいいような気がしますけど」
確かに最後に残った右の写真はよく撮れている。十九枚目に撮った写真だ。家族の誰もが表情柔らかで、理想的な記念写真と言える。
それに比べて左の十七枚目に撮った写真は父親の額に汗が流れ、老紳士も大きく破顔している。直前に老紳士が表情の固い父親をからかったのだ。その時に撮った写真だから、これでは記念写真というよりも、スナップ写真だ。
「うん。私もそう思う。だけどね」
あの家族のための一枚を思うなら、綺麗に収まった右の写真よりも、少々崩れた左の写真の方が似つかわしい気がするのだ。
しかしやはりこちらの写真は記念写真としてはふさわしくない。だから悩んでいる。
ため息をついて私は椅子の背もたれに倒れ込んだ。ギシと音を立てて背もたれが後ろに倒れる。店に飾ってある写真たちが目に入った。
店内に飾ってある写真は私の写真と父の写真が入り混じるようにしている。けれど明るい中で見ればどうしても私の写真は父のそれと比べると見劣りしてしまう。
経験。技術。それ以上に父の写真には私にはない何かが映りこんでいるように見える。私の写真と父の写真。その差が選びきれなかった二枚の写真にあるような気がする。
「そういえば」
私が飾った写真を見ていることに気づいたのか、杉田君が思いついたように言った。
「上原さんって、結婚式の写真だけは撮らないですよね」
「……そうだね」
さりげない一言に平静を装った言葉を返す。私の心臓は激しく脈打っていた。結婚式。記念写真を撮る場面としてはありふれたものだろう。けれど、私は結婚式の写真をこれまで撮ったことがなかった。いや、結婚式だけではない。
私はカップルの写真を撮ることをずっと避けてきた。どころか父の代には飾ってあったカップルの写真も全て店から外してしまったくらいだ。
私は家族や子どもの写真、風景を撮ることはあっても男女二人の写真を撮ることは決してない。
「上原さんって独身ですよね。寡黙でかっこいい感じなのに、不思議です」
「杉田君みたいな若い子に言われると照れるね。でも私はもう若くはないよ」
「三十才は十分若いでしょ。……何か理由があるんですか?カップルの写真を撮らないのって」
「言わなきゃ駄目かな?」
図らずとも、強い口調になった。
「そりゃ、無理して聞くつもりはないですけど……」
杉田君はさっきまで語勢を無くして、肩を落とした。強く言い過ぎたかもしれない。気まずくなって目をそらす。するとほのかに黄色づいた電灯に照らされた紫苑の花と、その隣にある真っ白な額縁に入れた写真が見えた。
写真の中に映っているのは長い黒髪の少女。齢はまだ中学生くらい。いかにもお淑やか然とした淡い色調のワンピースを着て、秋空の下で日傘を差している。写真の中の彼女は私に向かって微笑みかけていた。
分かっていてそばに置いているはずのに、心臓が止まった思いがした。水を入れたコップに一輪だけ差した紫苑の花がわずかに揺れる。ハラリと花びらが一枚落ちた。
いじわるしちゃダメだよ上原。
強がりな彼女の声が聞こえてきたようだった。喉の奥から熱いものがこみあげてくる。そうだな。その通りだ。喉が焼けるほど熱いそれを飲みこんで、私は言った。
「実はね。私は昔、写真を撮るのが嫌いだったんだ」
突然の告白に、杉田君は驚いた表情を見せる。私はそばにおいた彼女の写真を撫でた。
「写真を撮るのが、嫌い?上原さんが?」
「うん。撮るどころか、写真自体が大嫌いだった。見たくもなかった。写真家の息子なのに、おかしな話だろう?でも理由があってね。私がカップルの写真を撮らない理由もからんでいるんだ」
長い話になるかもだけど、いいかな。聞くと、杉田君は黙って私の向かい側に置いてある椅子に腰かけて、コクリと頷いた。
*** ***
*** ***
「ほら。プリント届けに来てやったぞ」
「ありがと」
「ちっ。もうちょっと愛想よくしただどうだよ」
これは私が中学校三年生だった頃の話。私、いや俺には一人の幼馴染がいた。名前は藍原愛。苗字の藍に名前の愛。「あい」が二つでおかしな名前でしょと、彼女は言っていた。
「そう言われてもね。上原に愛想よくしてもなぁ。猫被っても意味ないし」
ベッドの上で愛はそう言って笑った。女の子向けのゴテゴテした造りのベッドにピンク色の布団。棚には不細工な――愛はブサかわいいと言っていたか――ぬいぐるみが置かれている。
パステルカラーの部屋の中で、愛だけはモノトーンだった。ベッドに下がる長い黒髪に黒曜石のような大きな瞳。色素の薄い唇に日焼けなどしたことがないような真っ白な肌。布団の上に無造作に置かれた腕は細く、触れれば折れてしまいそうなくらいきゃしゃだ。
深窓の令嬢という言葉がよく似合いそうな外見の愛だが、残念なことに性格はあまりよろしくない。
「プリントはもらったから、もう帰っていいよ」
「お前な」
愛はプリントに目を通しながら、しっしと手を払った。まるで俺を邪魔ものみたいに。こいつはいつもこうだ。毎日学校のプリントを届けてやっている俺にこの態度。あんまりではないだろうか。
「上原は私じゃなくて、もっと元気のいい子たちと遊んで来なよ。モテるんでしょ?」
口をついて出ようとした文句が止まった。いつか怒った俺が愛に言った言葉だ。愛の言葉はいつも通り。しかしその言葉の裏にあるゆるやかな拒絶に息がつまりそうになった。
「なら、お前も病気治して元気になれよ」
「無理だよ」
目はプリントに落としたまま、愛は学級通信を優しく撫でた。七月の登校日最後に出された学級通信。そこにはクラスの集合写真が載っていて、その中に愛はいなかった。
*
俺の父と愛の父は古くからの友人で、家も同じ校区だった。だから俺は小さい頃から愛のことをよく知っている。愛についての最も古い記憶は幼稚園の時、ベッドの上で高熱を出して寝込んでいる姿だ。
普段は真っ白な顏を真っ赤にして、辛そうに呼吸をしている愛の姿。俺は彼女のそんな姿をこれまで何度も見てきて、俺の目に鮮明に焼き付いている。
愛は生まれつき重い病気を患っているらしい。病名は知らない。でも医者からは大人になるまでは生きられないだろうと言われていることは知っていた。
将来の希望も成長の喜びもない人生。となれば悲観的で根暗な人間になりそうなものだが愛は違った。彼女は明るく、元気で、やんちゃだった。病弱なくせに、いつも病気がないようにふるまっていた。
外で元気に遊べなくても、友達とおしゃべりすることはできる。大きな声で応援することはできなくても、元気な声をかけることができる。
だがそんな彼女が学校に通えていたのも小学校五年生の時まで。流行りの風邪にかかってしまった愛は、生まれつきの病気もあり、まるで崩れ落ちるように体調を崩して学校へ通えなくなった。
病院にはこまめに通っているが、体調の具合はいかんともしがたく、せめてと言っていた卒業式にも出られなかった。中学校の制服を着たことも一度もなく、今では時々来る家庭教師のような人に勉強を教わっている始末。
幼馴染ということもあり、俺は毎日彼女の家に学校の連絡物を届けている。
「ねぇ」
「なんだよ」
愛の部屋はいつもカーテンが引いてあって薄暗い。こんな中でよく文字が読めるものだと感心する。クーラーはついているからいるだけなら快適ではあるけれど。
愛は連絡物全てに目を通すと、ベッドの近くの机にポンと置いた。机はもはや物置になっているらしく、筆箱に収まらずに転がっているシャープペンシルやのりに鋏、ピンク色のファイルなどが置いてあった。
愛は身を乗り出してピンク色のファイルを手に取ると、不意に真剣な表情を見せた。
「私の写真を撮ってくれないかな」
写真を撮る。その言葉に俺はひどく動揺した。
「お前さ。分かってて言ってる?」
つい早口になる。呂律が回りきってない。
「何のこと?」
愛はとぼけた顔で言った。これは分かっていてやっている顔だ。
「ざっけんな。俺は写真が嫌いなんだよ」
「どうしてよ。どうして上原は写真が嫌いなの」
愛の問いに俺は言葉を詰まらせる。俺が写真を嫌いな理由は、他でもない俺自身が知っていることだ。しかし、そのことを愛にだけは知られたくない。言えるはずがない。
「誰が言うか。帰る」
だから俺はこれ以上頭に血が昇る前に愛から背を向けた。
「ちょっと」
俺は引き留めようとする愛を無視して、部屋を出た。夏の太陽の光を一杯に取り込んだ廊下は蒸し暑くて。土と草の生命の匂いがした。
「上原!」
愛の言葉を無視して乱暴に扉を閉める。愛の声が俺の足を鈍らせたが、俺はそのまま自分の家へと帰っていった。
*
「写真を撮ってほしいと愛ちゃんに言われたらしいな。なんで撮ってやらないんだ」
「親父には関係ないだろ」
その日の夜。夕食を食べていると、親父は俺に話しかけてきた。母さんに先立たれてからこの方、昔から仕事一筋だった親父は、俺と話をすることなんて滅多になかったっていうのに、久しぶりに口を利いたと思ったらこれだ。
今日の夕飯は親父が作った肉を買って焼いてご飯に乗せただけのどんぶり飯だ。男二人の食卓なんて、こんなものである。
「関係はある。お前は俺の息子だ。それに愛ちゃんも俺のもう一人の子どもみたいなもんだ」
どんぶりをかきこみながらの言葉。親父の顔は茶碗に隠れてよく見えない。親父と愛の父親は親友同士。話は筒抜けのようだ。
親父はどんぶり茶碗をドンと置いた。
「あれで愛ちゃんは我儘を言わない子だ。その愛ちゃんの願いだぞ」
「知ってる」
重い病気で迷惑をかけているという負い目があるからだろうか。愛はあれが欲しい。これが欲しいと言うことは滅多になかった。誕生日やクリスマスのプレゼントだって、子ども向けの安いぬいぐるみ。
毎日学校の連絡物を届けてほしいと言うのも、彼女からの数少ない我儘だ。
でも俺だって嫌なもんは嫌なんだ。特に、愛の写真を撮ることだけはやりたくない。
「祐樹。お前は知って……いや、何でもない」
「何だよ」
親父は強情張る俺に何か言いかけたが、首を振って黙り込んでしまった。収まりの悪い沈黙が居間に満ちる。親父は何か知っているのだろうか。
「写真を撮ってやれよ。俺が言いたいのはそんだけだ」
結局、親父は何も言わず、薄っぺらいことだけを言って、席を立った。薄暗い部屋の中に俺と空になったどんぶり茶碗だけが残されていた。
明日から夏休み。しばらく愛とも会うことはないだろう。無視することになるが、しばらくすれば愛も写真を撮ってほしいと言わなくなるだろう。そう考えていたのだが違った。
強情な俺と強情な愛。俺たちの意地の張り合いは数日後に始まった。
*
『写真を撮れ』
「はぁ?」
数日後、新聞を取るためにポストをのぞくと、中に一枚のハガキが入っていた。書いてある住所は家の近く、というよりも歩いて三分くらいの距離にある場所だった。差出人の名前は藍原愛。
愛がわざわざハガキを送ってきたのだ。
ハガキに書いていあるのはこの短い一文だけ。わけがわからない。俺は本人に問い詰めようとし、その足を止めた。
これは誘いだ。愛はハガキを送ることで俺を挑発しているのだ。そして来いと言っている。言ったら写真を撮れと言われるに違いない。それが分かってむっとした。
「言いたいことがあるなら直接来いってんだよ」
いくら病弱といえど、数分の距離を歩けないほどではないはず。愛の家に行ったら負けだ。俺は愛からの手紙を机の上に放ると、部活に行くため制服に着替え始めた。
毎日ハガキが来るくらい、大したことないと思っていた。
次の日。愛から二枚のハガキが届いた。
さらにその次の日。愛から来るハガキは三枚になった。
ハガキは日に日に枚数を増していき、文面も『写真を撮れ』から『写真をとれ』、『写しんをとれ』、『しゃしんをとれ』と徐々に変化していき、ついにはおどろおどろしい字で『シャシンヲトレ』と書いてくるようになった。
「何なんだよ一体!」
七月が終わり、八月が過ぎ、九月を目前にして、一日に送られてくるハガキの量は四十枚近くなっていた。はっきり言って怖かった。
ハガキは捨てるに捨てきれず、机の上に積み重なっている。ハガキには消印が押してある。なら郵便局を経由して出されたってことだ。ハガキを出すのだってただじゃないだろうに、愛は一体何を考えているのか。親父にも一度聞いては見たが「なら写真を撮ってやれ」としか言われなかった。
耐えかねて、愛の家の前にまで行ってみたこともある。しかし愛の部屋はカーテンがしっかりとかけられていて、中の様子を伺うことはできなかった。
そうなると俺のほうももっと意地になって、戦々恐々としながらも愛からのハガキなどないかのように日々を過ごしていた。
意地を張ったことを後悔したのは新学期が始まってからだ。
「西小の人なら知ってると思う。藍原愛さんが入院しました」
担任が告げた言葉を、俺は信じることができなかった。お見舞いに。手紙を書こう。藍原って誰。クラスメイトたちの言葉が全て俺の頭の中を通り抜けて消えていった。手足の先から水が浸って、深い海の底に沈んでいくかのような感覚。息が苦しい。目の前が眩む。
「上原!」
考えるより先に、俺は教室を飛び出していた。
教室を抜け出して、階段を駆け下り、靴を履いて学校を飛び出す。愛がよく通っている病院の場所は知っていた。学校から走って二十分。俺はそれを十五分で駆け抜けた。
受付で愛の病室を聞き、病室へ急ぐ。病室までの道が遠い。ついた。俺は勢いよく扉を開けた。
「や。ようやく来てくれた」
「なんで」
扉の向こうには、点滴をする、いつも以上に顏色を悪くした愛がベッドに横たわっていた。
*
「写真を撮ってよ」
愛はいきなり病室に入ってきた俺を見て、驚いた顔をした後に微笑んで言った。
「なんで」
「だからさ」
「なんで言ってくれなかった!!」
病室の前で俺は叫んだ。無機質なリノリウムの床。白で統一された部屋。綺麗に見えた愛の黒髪も、俺にはくすんで見える。違う。思えば最近愛の部屋には明かりがともっていなかった。それは顔色の悪さを隠すためだったんじゃないか?
俺は叫んだ。何事かと様子を見に来た看護師を無視して、俺は続ける。
「いつから入院してたんだよ」
「上原と最後に会った次の日。決まってたんだよ。病気が悪化してきてて、家での治療が難しくなった」
「言ってくれればよかったのに」
「やだよ。弱ってる私を見るの、上原嫌いでしょ?」
「どうして毎日ハガキを書いた」
「なんでかな」
最後の方の字はおどろおどろしかった。愛の顔色を見れば分かる。愛が俺がいるのに身を起こしていないことからも分かる。愛にはもう『写真を撮れ』と書く体力もろくに残っていなかったのだ。郵便で送って来てたのだって、自分で投函する力も残っていなかったから。
なのにこいつは毎日毎日、無理してたくさんのハガキを書いて……
「やっぱり会いたかったのかも」
「なら、そう書けよ。会いに来てって書けば俺だって……」
「藍原愛に会いに来てって?あいが三回も重なっちゃったよ」
「くだらない冗談を言ってる場合じゃないだろ」
力が抜けて俺は膝から崩れ落ちた。愛がお構いなくという風に手を振る。後ろから見ていた看護師たちが仕事に戻って行った。
「上原が写真を嫌いなのって、私のせいだよね」
崩れ落ちた俺に愛は言葉をかけた。別に愛のせいだけじゃない。でも愛のこともある。力なく頷いた。愛は短く息を吸った後、少しの間ためらって言った。
「ごめんね。無理言って」
愛の言葉は優しかった。普段はそっけなかったり、やんちゃだったりするくせに。馬鹿野郎。ごめんと言いたいのは俺の方だった。
俺は写真が嫌いだ。写真は目に見えた瞬間をありのままに映す。そこに撮った人間の想いの入る余地はなく、温かな光景も、冷たい現実も、無機質に薄っぺらな紙の牢獄に閉じ込めてしまう。
写真は残酷で、冷徹だ。それでいて見た人に平等に過去を押し付ける。
思い出したくない記憶を延々と蘇られ続ける。
写真を嫌いになったのは俺が小学一年生だった頃。交通事故で母さんが死んでしまった時のことだ。
線香臭い式場で、花に囲まれて母さんは笑っていた。モノクロの写真。突然のことできちんとした写真ではなかったけれど、そこは写真館を営む父のこと。すぐに用意できたらしい。
母は棺桶の中に入って、姿は見えない。あえて見えないようにされていた。交通事故だ。とやかく見せられるものではないのだろう。
母はこの箱の中にいる。でも母は笑っている。写真の中で。写真を見ると母との思い出がよみがえってきた。泣いていた時抱きしめてもらったこと。幼稚園の運動会で一等を取ってほめてもらったこと。高熱を出した愛のお見舞いに行った時、ギュっと手をつないでもらったこと。
写真の母は笑っている。閉じ込められた写真の中で、変わらない笑みを浮かべている。
でも母はもう笑っていない。笑うことができない。笑った母はここにいるのに、母との思い出もずっと残っているのに、
母はもうこの世にいないのだ。
そのことを理解するのと同時に、真っ黒な服を着て、わんわん泣いた愛が式場に入ってきた。愛。俺の幼馴染。彼女は体が弱い。大人になる前には死んでしまう。幼い俺もそのことは知っていて、だから、
写真を見る度に愛が死んだことを思い出すのかと思うと、写真がどうしようもなく嫌になった。
写真は無機質だ。見たままの光景を写し取って物にする。すぐに埋もれてしまうだけのはずだった一瞬をペラペラの檻に閉じ込めてしまうのだ。瞼に焼き付いて離れないものを、忘れたくてしょうがないものを写真は閉じ込めて、思い出させようとする。
愛の写真なんて取りたくない。愛が死んで、愛の写真を見る度に愛の死を思い出すくらいなら、このまま思い出の中に埋もれさせたい。形に残らなければ、写真に閉じ込めなければ鮮明に思い出すこともないのだから――
「そんなの嫌だよ」
俺の独白を、愛は否定した。
「写真はそんなに冷たいものじゃないよ。牢獄なんかじゃない。私、写真のこと大好きだもん」
愛は辛そうに、ゆっくりとした動きでベッドから起きあがると、棚の中にあるファイルを手に取った。いつか机の上にあった可愛らしいピンクのファイルだ。モノトーンな部屋に一滴の色彩がこぼれる。
「ほら」
「あ……」
愛はファイルを開いて俺に見せた。そこにあったのはたくさんの写真。プリンターで印刷したカラーのものから、学級通信から切り取ったモノクロの荒い写真まで。色んな写真がファイルに納められていた。
その一つ一つが丁寧にファイルに納められていて、愛がどこまでも写真を大切にしていることが分かった。
「写真はさ。上原の言う通り、辛い思い出を蘇られるものなのかもしれない。でも楽しい思い出も蘇られてくれるんだよ。古い思い出は新しい思い出に埋もれていく。でも写真があれば、それもとびきりの笑顔の写真があれば、悲しい思い出じゃなくて、楽しい思い出がよみがえってくるかもしれないじゃない。幸せな頃を思い出せるかもしれないじゃない」
私は、
「上原の古い思い出になるのは嫌だよ」
愛は泣いていた。泣いてファイルを抱きしめる。ポタポタとこぼれた涙はたくさんの写真を納めたファイルを濡らしていた。
愛に泣いてほしくない。愛はずっと俺の近くにいた。好きだった。だから私は。
「撮るよ。愛の写真」
と言ったのだった。
*** ***
*** ***
「それで撮ったのがこの写真。初めてにしてはいい写真だと思うんだけどね」
もちろん専門的なことを何も知らないで撮った写真だ。ポンボケしてないだけまし。アングルも、露出も他にも色々出鱈目だ。
けれどこれ以上の写真を私は今まで撮れた気がしない。写真の中の愛は笑っている。病に侵されて、歩くのも辛かったはずなのに、満面の笑み。彼女らしい、精一杯の強がりだ。
「愛さんはその後……」
「死んだよ。この写真を撮った二日後に。あっけなかった」
愛が大人になるまであと五年はあったはずだけど、と杉田君の質問にあっさりと答える。
「この強がりのために全ての力を使い果たしたんだろうね。でも愛のおかげで私は写真嫌いを薄めることができた」
実はこの写真は愛の葬式で使われていたりする。でもこの写真を見ても私は泣かなかった。悲しみよりも、彼女とのいい思い出が先に蘇ってきたからだ。
それから高校に進学した私は写真部に入り、大学では経営学を学びながら写真サークルに入って撮り続けた。
ただどうしても撮れなかったものがある。
「それがカップルの写真ですか」
「そう。どうしてもね。思い出してしまうんだよ。愛のことを。そして考えてしまうんだ。どうして私と愛は今隣にいないんだろうって」
カップルの写真を撮ろうとするとどうしても手が震えてしまう。私と愛の日々を夢想して、目から涙がこぼれてしまう。悲しみに襲われてしまう。これではいい写真なんて撮れるはずがない。だからカップルの写真は撮らない。
杉田君は真剣な顔で私の話を聞いてくれた。今、杉田君は天井を見上げて目を瞑っている。何を考えているのだろうか。
「思うんですけど」
「何だろう」
杉田君は私に真っ直ぐ目を向けると言った。
「あたしは写真は皆過去のものだと思っています。写真は未来を映さない。過去だけを映す。それって、案外大事なことだと思いませんか?」
「どういうこと?」
杉田君は、彼女は女性らしいしなやかな手で愛の写真を手に取ると言った。
「写真に写るものは全て過去。故人の写真ならなおのことです。写真は生々しい過去を温かい思い出にしてくれるんです。上原さんは愛さんのことを過去にしきれてないんですよ。だからカップルの写真が撮れない。思い出になり切れない記憶が上原さんを縛ってる」
杉田君……杉田さんの目はわずかに涙でうるんでいた。
「あたしじゃだめですか?あたしじゃ、愛さんの代わりにはなれないでしょうか」
突然の告白に、私は固まってしまった。杉田さんが抱きかかえている愛の写真が目に入った。ほのかに濡れた瞳の杉田さんが目に入った。
カチンと時計の針が動いた音が聞こえた。時間はとっくに夜。新しい一日が始まる予感がした。
*
後日、記念撮影をした家族が写真を受け取りにやってきた。
「どうぞ」
写真を受け取ると、父親が首を傾げた。
「これが記念写真……?」
選んだのはいかにも記念写真だった右の写真……ではなくスナップ写真のようだった左の写真。母親も同じように首を傾げている。
「いい写真ですなぁ」
しかし老紳士は写真を見て、満足そうに微笑んでいた。
「そうか?」
「そうさ。この写真は私たちの『今』を何よりも鮮明に映し出している」
老紳士は写真をじっと眺めると、柔和な表情を見せて言った。
「素敵な写真をありがとうございます。この写真には私たちだけではない、あなたの心まで映っているかのようだ」
老紳士の言葉に私は胸を打たれた。私の心。そうか。
「……写真は私たちカメラマンが見た一瞬を映すものですから」
私の言葉に老紳士は満足そうに頷いた。
「ですな。……ところで前来た時にも思ったのですが、こちらの写真は」
老紳士は店に飾ったままの愛の写真に目を向けた。
「いい写真でしょう?私が初めてとった写真なんですよ」
「そうでしたか。ええ本当に、素敵な写真です。それに添えられた花もいい」
「花、ですか」
愛の写真の近くに差していた紫苑の花。愛が亡くなる直前。「私の写真の近くにこの花を添えてほしい」と言っていたのだ。だから時期になると意味も分からず近くに添えていたのだが。
「紫苑の花言葉はご存知かな?」
「いえ」
「紫苑の花言葉は『追憶』、そして『君を忘れない』という意味なのですよ」
老紳士の言葉に、私は大きく目を見開いた。
私のことは思い出にして。
でも忘れないでいて。
どこか遠く、古い昔から、愛のそんな声が聞こえてきた。
「どうやら時を超えたメッセージは届けられたようだ」
老紳士は驚きに固まる私から、何かを察したらしい。齢を重ねた笑みを見せた。その周りには、何のことやらと首を傾げる「家族」の姿。その中でも父親と母親がお互いの顔を見合わせていて。
私は一つのお願いをした。
「あの……もしよろしければ」
『上原写真館』にとある家族の『今』を映す写真が飾られたのはそれからすぐのことだ。
現代のお話を書くのは初めてでしたが、どうでしたでしょうか。もし、このお話を気に入ってくださったのなら、感想、ブクマ、評価などしてくださると嬉しいです。