第3話 笑いの翁(前編)
都に出てきた少年、卯月元一(うづき もとかず、通称カズ)が掃除屋を営む少女清明晴(きよあけ はる、通称お晴)をはじめとする様々な人との交流を描いた物語。
夏も近づくころ、カズとお晴は『笑いの翁』という鯉のぼり職人から掃除の依頼を受ける。掃除中カズはうっかり写真の額縁を落としてしまうのだが……。
皐月の初旬、卯月より気温も上がり山や野原の木々もその緑を鮮やかに彩り始めた。天気は晴れ。青く澄みわたった空も相まって清々しい陽気だ。
カズとお晴は今日も掃除に出かけていた。
「そういえばもうすぐ鯉のぼりの季節ね。あれ見て」
お晴の指差した先に鯉のぼりが上がっていた。色鮮やかな鯉が気持ちよさそうに風になびいていた。
あちこちに鯉のぼりが上がっている。
「懐かしいなー」
カズは思い出にふけっていた。
「何かいいことでもあったの?」
「別にいい思い出でもないよ」
カズの実家がある村ではこの時期になると集落のお寺で端午の節句の祭りをする。住職から法話を聞いたりお菓子をもらったり。まあ、子供がやんちゃなのは皆共通なので法話中からはしゃぐ子供もいた。うるさい声で法話は台無し。走り回るせいでお菓子は踏んづけられ粉々に砕け、さらに仏壇の花をひっくり返して水浸しになり、仏間は大騒動になる。
そのため、住職にこっぴどく叱られ祭りのたびに後片付けをさせられた。
「今でも村の子供はよく騒ぐよ。まるで泥棒に入られたようだって」
「そうなんだ……」
お晴の声が小さくなる。彼女はうつむき、つぶやいた。
「いいね、そんな人々がいて……」
「どうしたの? お晴さん」
「うん。あなたは幸せだったんだなって」
「そんな、よくあることだよ」
「私もそんな友達、欲しかったなあ……。独りぼっちだったから」
お晴はどこまでも青い空を眺めた。
カズはまさかと思った。彼女はお富の事件の時に「自分に身寄りがない」と言っていた。そして前の掃除屋の経営者がお晴を育ててくれたという。
お晴は昔の自分を思い出したのだろうか。
「ごめん。お晴さん」
「え?」
「変な話しちゃって」
「あなたが謝ることないって。私のも単なる思い出話だから」
お晴は顔を上げると、カズににっこりと笑って見せた。
「そうそう、泥棒で思い出したんだけど最近、上京を中心に空き巣が多いの。それで大騒ぎになってるんだ」
空き巣? カズはふと彼女を眺めた。
「空き巣ごときで大騒ぎになるの?」
「場所が場所でそうなるのよ」
卯月の下旬から都中で空き巣被害が頻発していた。
特に上京では被害が多く、各貴族が屋敷に警護の足軽は配置するなどの対策に追われていたのだ。
貴族はお金持ちだからお金や貴重品をたくさん持っているし、特に南蛮や中原など異国の商人と取引して手に入れた物は非常に高価だ。盗んで売れば遊んで暮らせるお金を手に入れられるのも夢じゃないという。
「うわあ……。それって僕らが仕事するのが馬鹿らしくなるね……」
「それを言っちゃダメ。とりあえず私たちは真面目に働くの。空き巣はいつか罰が当たるから」
「ま、そうだね」
そしてふたりの話題は今日の仕事先のことになった。
「これから掃除に行くところは鯉のぼり作ってるおじいさんの作業所よ」
「鯉のぼりの職人さん?」
「そうよ。私も何回か会ってるけど、本当に面白い人で会うだけで元気をもらえちゃうんだから」
その老人は笑顔が絶えない老人と言っていた。お晴によればその老人はこう呼ばれているという。
「人呼んで〈笑いの翁〉」
***
二人はお晴の言うその翁の家に向かった。お晴によると、その〈笑いの翁〉の家は下京の南西のはずれにある。
彼はいつでも朗らかに、時に大笑いをしているいつも笑いの絶えることのない老人なのだという。
彼は仕事の合間も、そうでない時も周りの人と話し込んでしまうらしい。それだけ周囲の人から慕われているのだ。
下京の南西入り口の通りにやってきた。周囲を国内外の商人や出稼ぎ民が歩いている。
入り口の通りを抜けて、その〈笑いの翁〉の仕事場があるという通りに入った。通りの南側から明るい老人の声が聞こえてきた。
法被姿の白髪の老人が通りすがりの着物姿の婦人と話しこんでいた。
夫人が去った後、老人の近くを元気な子供たちが駆けていった。
子供たちが色々と翁に声をかけている。
「わかっておる」と、老人は笑顔で手を振っていた。
「〈笑いの翁〉さん! おはようございます」
お晴が元気よく挨拶する。
「おう、お晴ちゃんか。掃除屋を開業したそうじゃのう」
「ええ」
「で、そっちの坊は?」
カズは初対面の老人に緊張した。
だが、それを補うようにお晴がカズを紹介してくれた。
気を入れなおして、カズはもう一度自分を紹介する。
「僕、今年からお晴さんの下で働くことになりました。よろしくお願いします」
「これは頼もしいのう。さあ、中に入りなさい」
翁は嬉しそうに笑っていた。
二人は仕事場に案内された。
仕事場は真ん中に大きな台があり、そこには鯉のぼりを作るための紙や色付きの筆、竹竿や塗料などが置かれていた。
部屋の隅に置かれている台の上には注文の概要が記されてあった。
びっしり埋まっている。
その隣には作り途中で乾かしてある布があった。
「すごいなあ……。あのおじいさん」
「ええ。もう八十近いのにああやって元気で鯉のぼり作ってるんだから」
さあ! という言葉と同時にお晴が振り向いた。
「さあ、掃除始めるよ! 壊れやすいものが多いから、気を付けてやるのよ」
「りょーかい」
鯉のぼりを汚さないように掃除をする。
部屋は六畳ほどしかないのだが、置かれている物が結構多いので思ったよりも時間がかかった。
天井や棚の上ももちろん掃除した。
二人は適宜休憩を交えて、事を進めていった。
カズが棚の中を拭いていたときだった。
何かが彼の手に当たった。
ガシャン!
花瓶とかの割れ物ではないが、それに近いものが割れる音だ。
下を見ると肖像写真の入っている写真立てが割れていた。
「ま、まずい!」
すぐに拾って戻そうとしたとき、写真が彼の目に映った。白髪の老人の隣に小さな子供が笑顔で写真に写っていた。
「こら、そこ何してんの? 休憩したいなら私に言ってよ」
「え」
ふとカズは下に落ちている写真立てに目をやった。
やばい……。
お晴に顔を戻す。
「うん」
お晴はカズの異変に気付いていたようだった。彼女の視線の先にある写真は無残なありさまだった。
「ちょっと! あれだけ慎重にやってって言ったのに!」
お晴の怒号が飛ぶ。
「ご、ごめん!」
「とにかく、おじいさんの所に行くよ」
ところが、奥の部屋から足音がした。
「もう終わったかのう」
翁の声だ。こっちに向かってくる。
「やばい! 心の準備とか出来てないのに!」
残念ながら翁はもうすぐそこまで来ていた。戸がゆっくりと開く。
同時にカズは額を自分の後ろに隠した。
ちょっと何やってんのよ! 隣でお晴が怒鳴るような形相でカズを睨んでいた。
「ほう、さすが掃除屋じゃ。もうきれいになっておるではないか」
「え、ま、まあ」
お晴は笑ってごまかしていた。彼女は同時にカズの腕を肘でつついた。
「さっさと出して」
鋭い耳打ち。
その様子を〈笑いの翁〉は不思議そうに見ていた。
「どうかしたのかのう?」
「い、いや……。少し手違いをしてしまいまして……」
カズはお晴が言い繕っている間に後ろで隠していた写真を前に差し出そうとしていた。
そして……。
「ほ、本当にすみません! 僕の不手際でこんなことに!」
カズは前にその額を差し出した。
額縁は壊れ、写真がはみ出している。
同時に彼はその場の時間が止まったかのような感覚に襲われた。
何も聞こえず、心臓の鼓動だけが聞こえる。
「それは……、わしと孫の写真……」
まだ時間は止まっている。〈笑いの翁〉が笑いでなくなるのか……?
「よく探してくれたのう。ありがとうよ」
カズは目を開けた。
その言葉は意外なものだった。
「その写真を探しておったのじゃ。見つけてくれてありがとうよ」
結局その写真を見つけたことで大目に見てやると翁は言っていた。
「本当に申し訳ありません!」
カズとお晴は頭を下げた。
しかし、雄二は笑顔を絶やさなかった。
雄二はこの写真について語ってくれた。
この写真は偶然この近くを通りかかった南蛮商人が撮ってくれたものだという。
「この写真はわしと孫の写真じゃ」
「え、翁さん、お孫さんがいらっしゃったんですか?」
お晴は驚いていた。
彼女はこの〈笑いの翁〉と知り合いになって大分経つが、そのような話は聞いていないという。
「そのお孫さん、今は……」
「もうおらんよ。去年の今頃に死んだ……」
雄二は悲しそうな目をしていた。
それを見てお晴は口をつぐんだ。カズも一瞬身震いした。
「す、すみません。悪いこと訊いて……」
「いいんじゃ。もう済んだことじゃし」
そして、雄二は報酬の封筒を二人に渡した。
だが、二人は浮かない顔だった。
「お前さんらががっかりする必要は無いじゃろ? 顔を上げなされ」
しかし、カズもお晴も何も言わなかった。
ただ、報酬を受け取ったときにお礼を一つ言っただけだった。
その日の帰りのこと……。
二人はあの翁の過去を思い、失礼なことを聞いてしまった自分たちを自責していた。
「結局、私たちが立ち入ったらダメな話だったんだね……」
「うん……」
お晴の声にカズは力なく頷いた。あの翁のことを考えずに……。
結局、その話はしないことにした。
その日はもう日は暮れていた。桜通りに出るとその場で別れた。
それから数日経ったある日。
新緑はさらに進み、たまに夏を思わせるような日が続くころだ。
カズとお晴は今日も掃除に出かけていた。
今日は下京の南西のある一軒家での掃除の仕事をしていた。
今はその帰りだ。色んな話をしている時、あの作業場が見えてきた。
カズは一度足を止めた。
「ねえ、お晴さん。この前のおじいさんじゃない?」
カズの目の先にはこの前出会った翁……。
そう、雄二だった。
雄二は作業場の前で、この前彼と話していた夫人と話し込んでいた。
だが、雄二は何か浮かない顔をしていた。
いつもなら笑っているのに、今日はその笑顔が一つもなかった。
鯉のぼりを受け取ると、夫人は会釈してその場を去っていった。
カズはお晴に会いに行こうと告げると、雄二のもとに走って行った。
「雄二さーん!」
カズは彼の名を呼ぶ。
「おう、お晴ちゃんにカズ君か。久しぶりじゃのう」
「どうされたんですか? 元気ありませんけど」
雄二は何かつぶやくように話し始めた。
「怖いのじゃ、鯉のぼりが出来るかどうか」
「え?」
何があったのだろうか……。
彼は淡々と話し始めた。
彼はもともと身体が弱く、このままでは鯉のぼり作りはできないと医者に言われていた。
しかし、雄二はそれでも生活のために老骨を鞭打って仕事を続けた。
だが、それが身体に対して負荷となった。
二日前、そのためか一時的に意識を失ってしまった。その後、医者に本気で止めるように伝えてきた。
「別に悔いはありゃせんよ。わしももう年じゃし、もう今年の端午で隠居するつもりじゃった」
翁は夕暮れを眺めた。
「じゃが、心残りがある」
心残り?
「それって……」
「カズ君よ……。皐月五日、その日はわしの孫の命日なんじゃ」
***
去年のその日、彼の孫の風助という少年が荷馬車にひかれて命を落としてしまったという。
風助は幼いころに両親を亡くし、祖父の雄二が一人で育ててきた。
そのため風助にとって彼は父であり、また雄二も実の息子のようにかわいがっていた。
しかし、風助が診療所に運ばれた時には既に瀕死の状態だった。
風助は最後の力を振り絞るかのように話していたという。
「おじいちゃん……、今度僕が生まれた日だね……」
「喋らんでいい。わかっておるよ」
雄二は涙が止まらなかった。
彼は風助の腕を掴んだ。
「金の鯉のぼりを……、お願い……」
雄二は軽く頷いた。
それを確認すると、風助は幼いが、とても屈託のない笑みを浮かべた。
***
話を終えると、雄二は空を見上げた。
「じゃから、あの子に金の鯉のぼりを作るまでは、死んだあの子も浮かばれんじゃろうて」
雄二は空を見上げていた。その目には涙が浮かんでいた。
そうだったんだ……。
カズは何とも言えなかった。
表向きは朗らかな老人だが、裏ではそんな大変なことがあったなんて……。
雄二は話を続けた。
「しかし、いくらそう言われようと金の鯉のぼりが完成するまでは仕事は辞められん」
その時、カズの隣から聞き慣れた女の声がした。
「私たちに任せてくださいよ!」
その声の主はお晴だった。お晴の言葉に雄二は戸惑っているようだった。
カズももちろん驚いた。
「お晴ちゃん、気持ちは嬉しいのじゃが……」
「できることなら何でもします」
お晴の目は本気のようだった。彼女は人助けが好きだし得意だ。
「カズもやるよね?」
お晴が同意を求めてきた。いきなりのことだったのでカズは焦ったが、頷いた。
「ぼ……僕も力になります。金の鯉の像探しは僕たちがやります」
カズとお晴の熱意のためだろうか。
雄二の目には涙が浮かんでいた。
「すまんな。では、そうしてくれ」
その後、カズたちは店の売上金の一部を雄二から譲り受けようとしていた。
これは雄二の提案だった。
お金は金の鯉の像を買うためのお金だ。
カズたちは受け取るのをためらっていた。
「そんな、貴重なお金を頂くなんて……」
カズは遠慮していた。
しかし……。
「これが孫のためになるなら惜しみはせんよ。受け取ってくれ」
結局受け取ることになった。
翌朝。
今日は一日仕事の依頼は来てなかったので、雄二の金の鯉探しに時間を費やすことになった。
金の鯉の像を探す。
でも、本当にそんなの売っているのだろうか。
何も知らなかったカズは都に詳しいお晴に訊いてみることにした。
「お晴さんは知ってる?」
「詳しくはわからないけど、見たことならあるよ」
どこで?
お晴は微笑んだ。
「まあ、あなたが見たら多分驚くと思う」
その本物の鯉の像を見たからだろうか。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
そういうお晴は苦笑いしていた。
カズはお晴の真意がわからなかった。
「とりあえず行ってみようよ。その方が早いから」
二人は桜通りを北へ歩いて行った。
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