第2話 金と女(後編)
――カズ、カズ
暗闇のどこか遠くから自分の名前を呼ぶ声がする。その声は徐々に大きくなっていった。
目を開けると、古びて蜘蛛の巣がかかった天井が見えた。下を見ると、ほこりをかぶった床。しかし、カズの体の下には座布団が敷かれていた。
少し痛む頭を触ると、額が布切れで縛られていた。
「カズ、気が付いたのね。よかったあ……」
お晴が安心した様子でカズを眺めていた。
「ここは……」
「弥吉さんの食堂。あなた、突き飛ばされて頭を打って気を失ってたのよ。周りにいた人と一緒にここに運んだんだけど」
「そうなんだ……。ありがとう、お晴さん」
「あなたが無事でよかった。だけど、弥吉さんが……」
そういえば弥吉がいない。弥吉はお富のしもべたちに縄で縛られていた。彼がどうなったかは、カズも想像できた。
「まさか、あのお富って女に……」
お晴は一つ頷いた。そして頭を下に向ける。
「ごめん。私、何もできなかった。あいつら、あなたを投げ飛ばした後、すぐに弥吉さんを連れて行ったのよ」
しもべたちが弥吉に迫る中、お晴も意を決して鉄扇で応戦した。しかし、十七の少女が一人で多数の男を相手すること自体、無理があった。
お晴はしもべ一人を相手するだけで精一杯で、ほかのしもべたちは弥吉を背負いあげると、足早に去っていったという。
「弥吉さんはどこにいるの?」
「多分上京のあの〈殿上人〉の屋敷でしょうね」
お晴は深くため息をついた。
「私がもう少しまともな判断をしてたら……」
「うん……」
しかし、嘆いている暇はなかった。弥吉は連れ去られてしまった事実に変わりはない。
一度、助け出す別の方法を考えないといけない。
お富は社会の掟を教えに行くとか言っていたが、あれはそんな類でないのは簡単に想像できた。
「相手は上京の〈殿上人〉かあ……」
「貴族の中でもお上に出入りできる人。私たち庶民には遠い人たちだよねえ」
しかし考えてもいい案は浮かんでこない。そのうえ考えているうちにカズは空腹を覚えてしまった。
そういえば今の時間は昼だ。
「ごめん。お腹空いちゃった……。何か食べながら考えようよ」
「そっか。お昼まだだったもんね。」
下京のお茶屋〈なつかわ〉。
おばあちゃんとひさめがいるお茶屋だ。カズたちはひさめに料理を頼んだ後、弥吉を助ける方法をいろいろ話し合っていた。
お富のいる場所を探し、乗り込むのが一番いいのだ。しかし、実際は簡単にできるわけがなかった。
お富たちは上京の屋敷に行ったのだろう。まあ彼女の屋敷がそこにあるからなのだが、それ以上に厄介なことがあった。
「一応、上京への入京許可書は持ってるんだけどね……」
「え、お晴さん、上京に入れるの!?」
「仕事で依頼が入ることがあるからね」
上京へは貴族や一部の商人以外の立ち入りは禁止されていた。
だが、許可書がある者は門番に要件と許可書の提示さえすれば入ることはできた。
「でも実際は門番の人が徹底的に調べるから、入るのに妥当と認められた人以外は入れないのよ」
仕事で行くときはいつまで滞在するか、どんな仕事をするかを聞かれる。掃除の依頼のときはいいけれど、上京での依頼はなかった。
「仕事を誤魔化して行く、何て無理だよね」
「そんな時間、ないと思う」
カズとお晴がいろいろ考えていると、ひさめがチラシを持ってやってきた。
「相談してるみたいだけど何してんだ? 駆け落ちでも考えてるのか?」
その言葉にお晴がいきなり声を上げた。
「そ、そんなわけないよ! それよりももっと大事な話」
お晴はカズとひさめから顔を背けた。
「てか、私たちそういう関係じゃないから」
ちらりとお晴を覗くと、彼女は顔を膨らませている。
カズはお晴の言っていた「そういう関係」の意味が全くわからなかった。あくまで僕ら、同じ仕事をしているだけなんだけど……。
話が脱線した。元に戻す。カズは相談事をひさめに話した。
「弥吉さんが借金の件でお富さんに捕まってさ……。僕らで何とかして助けたいんだけど」
「ああ、あの食堂のおっさんのことか」
ひさめもどうやら弥吉のことは知っているらしい。彼女が話してくれたが、ひさめの祖母と弥吉は若い頃からの友人だという。
でも、彼が捕まっている場所の見当がつかない。
「多分上京に戻ったと思うんだ。お富さんの屋敷もそこみたいだから」
「そうか。それで中に入りにくいんだな」
ひさめはにっこりと微笑んで見せた。何かいい案で浮かんだのだろうか。
「ひさめさん、どうしたの?」
「こういうのはおれに任せろ。忍び稼業はこんな時に役立つんだよな」
カズはお晴と顔を見合わせた。どうやらお晴も分からないようだ。そういえばひさめは忍びを辞めたんじゃなかったのか?
「ひさめさん、一体何する気なの?」
改めてひさめに訊いてみた。
「おれが助けに行くんだよ」
「なら私たちも行くよ」
お晴が前に出る。
いきなりのお晴の行動にカズは少し驚いたが、カズも気持ちは同じだった。お晴は何もできなかったとはいえ、弥吉を必死になって助けようとしていた。
「でも危険だぞ。相手は殿上人。何考えてるのか……」
「ひさめさん、弥吉さんの命がかかってるのよ? 何もせずにそのままなんて、できっこないよ」
「それでも危険なものは危険なんだ」
「護身の心得ならあるから」
お晴はそう言って鉄扇を広げる。
カズもお晴に加勢した。
「ひさめさん、僕からもお願い! 弥吉さんは僕の命の恩人でもあるんだよ! このままだと、弥吉さん……」
あの弥吉の状況を考えると何をされるかわからない。
その後、二対一での押し問答が続いたが、ひさめはついに折れた。
「わかった、わかったよ! ……ったくよぉ。じゃあ、一緒に来いよ」
「ありがとう、ひさめさん!」
思わずカズは頭を下げる。お晴もうれしそうに微笑んでいる。一方、ひさめは後頭部を掻いてひとつため息をついた。
カズたちが顔を上げると、ひさめは人差し指を立ててカズとお晴を真剣なまなざしで見ていた。
「ただし条件がある。おれの指示には絶対に従うこと。いいな?」
***
その日の夜。天龍門の近くにある納屋の前。
ひさめはここで落ち合うと指示していた。
満月の下、カズは一人でお晴が来るのを待っていた。
周りは真っ暗。
カズは木刀を装備してさらに黒い忍び装束をまとっていた。
ひさめに武器になるようなものを持って来いと言われていた。
木刀は今日の帰り際に買ったもの。カズは木刀の腕には自信があった。地方領主主宰のチャンバラ合戦でいつも優勝するほどの腕前だった。
そして黒の忍び装束はひさめから借りたもの。夏川家の忍び装束の余り物だという。
夜はこっちの方が動きやすいとひさめは言っていた。
お晴さん、まだかなあ……。
「カズ、私が見えてないの?」
いきなり背後から声がした。驚いて振り向く。
目の前に長い茶髪の忍びがいた。
「し、忍び!?」
「どこが忍びよ……。ま、今はそうだけど、私だよ」
カズは目をこすった。もう一度目の前の女の子を見る。青い忍び装束を着ていたので闇に同化して見えづらかった。だが、間違いなく掃除屋のお晴だった。
「ごめん」
「いや、いいの。私もあなたが初めは誰かわからなかったから」
お晴はカズを助けたときと同じ鉄扇を持っていた。彼女によるとこの鉄扇は前の雇い主からもらったものだという。
護身用に徹底的に訓練を仕込まれたらしい。
カズは「雇い主」と聞いて、あることを思いだしていた。お晴と出会ってすぐのことだ。
「その雇い主ってご病気で帰られたっていう……」
「ええ。身寄りがない私をここまで育ててくれたのもその人……」
お晴は一人夜空を眺めていた。悲しそうな顔で。カズは思わず見とれてしまった。だが、お晴はそれにすぐ気づいたようだ。
「まあもう昔の話だから気にしないで。ね」
その時だった。
「そんな様子じゃ帰ってもらうぞ」
どこからか声がした。低めの女の声。カズはある気配を感じた。よく知っている人の気配だ。カズとお晴はその声がした方を見た。
誰もいない。ただ暗闇が広がるだけだ。
一つため息が聞こえたかもしれない。
「上だよ」
その時何かが飛び降りた。そいつはカズの目の前に現れた目の前には紫の忍び装束の女。
お茶屋の娘、夏川ひさめ。彼女は右手にクナイを握っている。月を背後に彼女はカズたちを突き刺すような目線で見ていた。ひさめはお茶屋で見たときの彼女とは違っていた。
「ひさめさん……」
カズの口から思わず声が漏れた。
ひさめはあらためてカズたちに忠告した。
「ここからはおれの言うようにするんだ。絶対に勝手な行動はするなよ」
その言葉にカズたちは頷いた。
天竜の門。カズたち三人は納屋の物陰に隠れていた。二人の刀を持った番人が周囲に不審者がいないか監視している。カズはあそこに入るのかと思うと身震いした。
ひさめが耳打ちしてきた。
「今からあいつらを始末してくる。ちょっと待ってろ」
「できるの? ひさめさん」
「ああ。任せとけ」
カズとお晴は息を呑んで頷いた。
ひさめは軽々しい動きで屋根から屋根へと飛び移る。かなりの速さだ。カズたちはその様子を見守っていた。いや、カズの目には何も映っていなかった。
その時だった。
カズの目には不思議な光景が映った。なんと、天竜の門の番人がいきなり倒れ込んだのだ。
スタっ……
誰かの足が着地した。
振り向く。
そこには微笑みを浮かべた忍びがいた。
あの時ひさめは何をしたのだろうか。暗闇であまり見えなかったけど、門番がいきなり倒れた。カズは気になったのでひさめに訊いてみた。
「あれは忍び稼業の時に使っていた催眠薬さ。見張りの目を逸らすときに有効なんだ」
だがその話を聞いてもなぜかお晴は納得できないようだった。
「ねえひさめさん。忍び辞めたとか言ってるけど本当に辞めたの?」
「おれは忍び時代の腕を使って人の役に立ちたいんだ。さ、行くぞ」
***
上京。
ここは本来なら一般庶民が入れる場所ではない。
許可証がないと入れないが、そもそも夜は門が閉められ、下京と分断される。真夜中に下京の人間が居ようものなら、即奉行所行きだ。
そんなところに行くと思うと、カズは余計に身震いした。
物音を立てないようにお富の屋敷を探す。
ひさめからの指示でカズとお晴は地上から彼女の家を探した。
ひさめは空から屋敷を探すという。
しばらくしてカズはある立札を見つけた。
ここは上京の西の端。
立札に「日野川邸」と記されてある。どうやらここのようだ。カズはすぐにお晴とひさめを呼んだ。
三人で屋敷に忍び込む塀を超えるのにはひさめの鉤縄を使った。
どこかに忍び込める入口を探すため、陰伝いに辺りを窺いながら進んで行く。
しばらくして、ひさめが床下に入り口を見つけた。だが、その穴は人ひとりがやっと入られそうな穴だった。
本当に入れるの?カズは心配になる。
「ひさめさん、ここから行くの?」
「当たり前だよ。他の場所はすぐにばれるからな。入るぞ」
ひさめを先頭にカズ、お晴と進んで行く。ここから入れそうな部屋を探して弥吉を助けに行く。中は真っ暗で何も見えない。しかも這わないと進めない。
頭の上から物音がする。誰かが歩く音だ。なぜか、カズの心臓の鼓動が速くなる。カズは妙に不安になってひさめを呼びとめた。
「どうした?」
「何か、見られている気がするんだけど……」
「見られてる?」
ひさめは辺りを見回している。
だが、彼女は首を振った。
「今はみんな寝てる。お前が怖がりすぎてるんじゃないのか?」
確かにカズは臆病で恐がりだ(いざという時は別)。
しかしそのせいで人の気配に敏感になってしまった。
もう一度ひさめに問いかける。
「上から音が聞こえてるけど……」
ひさめは頷く。
「誰かの足音だろう。でもまだばれてないはずだ」
ひさめが言葉を続けようとしたときだった。
グサッ!
何かが何かを貫いた音だ。
「か、カズ……。後ろ……」
その声に振り向くとお晴が怯えている。その貫いたものの正体がわかった。
カズも震え上がった。
三尺ほどの刀が上から天上を貫いて下の床に突き刺さっていたのだ。
「ば、ばれたんだ……」
カズは震えが止まらなくなった。
「いい加減出てきたらどうだい!」
上から大声が聞こえてきた。
「カズ! お晴! いったん下がれ!」
ひさめの叫び声が耳にこだまする。カズはとっさに目を閉じた。目を開けると顔にほこりがかかっていた。咳き込む。
視界が開けてくると、穴の先にはあの女がいた。
「よく見たらあんたたち、今日の昼の坊やとお嬢ちゃんじゃないか。忍びだったんだねえ」
カズは歯を食いしばった。やはりいることがばれていたのだ。お富はカズたちを嘲っていた。お富は手先に短刀を装備していた。周囲にはあのしもべの男が数人。
ひさめは大声で叫んだ。
「お富と言ったな。あんたのことはこいつらから聞いてる。食堂のおっさんはどこだよ!!」
「あの男ならそこさ」
お富が指を差す。ひさめは立ち上がってその方向に目を向けた。
カズとお晴もひさめに倣ったが、その先には見るも無惨な姿の弥吉がいた。
頭から血を流し、壁にもたれて倒れかかっていた。
息が弱い。
「弥吉さん!!」
掃除屋のふたりは思わず声を上げた。弥吉のもとに駆け寄る。
「誰だ……。お前らは……」
「お晴です! で、こっちはカズ!」
「カズ坊に、お晴ちゃん……」
弥吉の声は掠れていた。
「弥吉さん、しっかりして!!」
「大丈夫だ……。俺のことは心配しないでくれ……」
弥吉は弱々しい口を必死で動かしていた。
「俺が悪いんだ。俺が金を借りなければ……」
「弥吉さんは悪くないよ! 悪いのはお富さんでしょ!?」
「ははは。お晴ちゃん、そうだな。俺、情けねえ……」
弥吉の痛々しい姿を見て、カズは怒りが込み上げてきた。こいつら、弥吉さんに拷問したんだ……。
だが、お富はそんなのお構いなしに話を続けた。
「こいつ何も喋らないんだ。だからこうしてしつけてるのさ」
お富の目がカズたちに向けられる。
「あんたらも同罪だよ。勝手に人ん家に上がり込んで。事が済んだら奉行所に通報しないとのねえ」
しかしそんなの今は関係ない。こいつは金のためなら人の命を奪ってもかまわないと思っているのだ。
お富は行動に出た。
「あんたらも同じ目に遭わせてやる。覚悟するんだねえ」
お富はしもべたちに指示を出している。
この時、ひさめがカズたちに耳打ちした。
「おれがお富を始末する。その隙にカズとお晴は弥吉のおっさんを助けるんだ」
カズは賛成できなかった。拷問を受けた弥吉の姿を見て、お富を許せなかったから。
「僕が行くよ。ひさめさん」
「でも相手は危険な武器持ってんだぞ。お前の武器じゃ……」
ひさめは渋っているようだ。
しかしそんな余地をお富は与えてくれなかった。お富が短刀をカズめがけて突き刺してきたからだ。
だがカズはすぐに木刀を出し、その短刀を振り払った。短刀は畳の上に飛ぶ。
「ほう、いい腕前だねえ」
お富はあざけりながら軽く手を叩いていた。その様子にひさめは渋っていた口をようやく開いた。
「わかった。でも無理はするなよ」
ひさめは弥吉を助けたらすぐに加勢すると言っていた。カズはお富と対峙していた。弥吉の救出はお晴とひさめに任せた。
お晴も参戦したいと言っていたが、カズは断った。弥吉の救出は一人では無理そうだったからだ。
「坊や一人で来るのかい?でも、子供だからって手加減はしないよ」
お富は短刀を袖から出すと、カズにかかってきた。
カズは素早く攻撃をかわしながら木刀を振りかざしてお富に踏み込んだ。
一撃がお富の右肩に命中した。
お富は右肩を抑えて尻餅をついた。すかさずカズはお富に接近しまた木刀を振りかぶる。
相手が怯んでいる今がチャンスだ。
だが、お富は不敵に笑った。
「勝負を甘く見ているようだね、坊や」
なにっ!?
その時、カズは腕に痛みを感じた。同時に木刀が落ちる。
鮮血が畳に滴り始めた。
カズの抑えた左手は血で真っ赤に染まっていた。短刀がカズの後ろに落ちていて、血が付いていた。振りかぶった隙に短刀を投げつけられたのだ。
お富はその隙を見逃さず足払いを決めた。今度はカズの方が倒れてしまった。お富は短刀をカズの喉元に突きつける。
カズは心臓が止まりそうになった。
「弥吉を助けるのは諦めな。そうしたらお前らの命は助けてやる」
どうする? 迂闊に動くと相手の短刀の餌食だ……。
「あなたが諦めるのねえ!」
どこからか声がした。
「誰だい!」
お富が立ち上がる。
しかし、周囲には誰もいない。だが、その時お富は背後を何者かに攻撃された。
彼女はその攻撃で突き飛ばされた。
その攻撃をした人はカズには見えていた。
青い忍び装束の少女が鉄扇を構えて倒れているお富を睨みつけている。
「お晴さん……」
思わず声が漏れた。お富はやっとのことで立ち上がった。
「この小娘ぇ……。死罪同然の事をしやがって……」
お富はおぞましい表情を浮かべていた。まるで獲物を取り損ねた猛獣のように。お富がジリジリと近付いてくる。
カズたちは一歩ずつ引いた。
「お前たち、ここで……」
お富が短刀を振りかざそうとした時だった。いきなりお富がふらついて、そのまま倒れ込んでしまった。
何があったんだ?
カズが見上げると、女の倒れた向こうに黒い忍び装束の女がいた。
「準備は完了だぜ」
黒い忍び装束の前に倒れている女の顔の上には粉末がかかっていた。
***
弥吉を助けてカズたちはすぐにお富の屋敷を出た。お晴とひさめは既にお富のしもべたちを始末していた。
お晴一人では相手に出来なかったしもべたちだが、ひさめの催眠薬は効果覿面だった。全員を一手に引き付けて粉をばらまくだけで眠らせてしまう。
カズたちはお富とそのしもべを縛って外に連れ出した。
彼らが催眠薬で眠っている間に彼らの縛った縄の間に書状を挟んで入れておいた。
この書状にはこう書かれてあった。
――お富というもの、男を監禁し命を取ろうとしたり。 名も無き忍び
これはお上の目の届くところとなり、奉行所の捜査が始まった。
お富は男(弥吉)を監禁して拷問を加えていたことを「社会の掟を教えるためだ」として容疑を認めなかった。
しかし弥吉が拷問で瀕死の重傷を受けていたことが判明すると、お富はお上に咎められ、監獄送りとなった。後に不当に高利でお金を貸し付けられ、多額の借金をしていた人々も借金は帳消しとなった。
その後奉行所は〈名も無き忍び〉を捜して謝恩を与えようとした。しかし見つけることはできなかったという。
それから二十日後。
カズとお晴は午前中の掃除を終えて昼食を摂りにお茶屋を訪れていた。その日はお茶屋の前に弥吉がいた。
「弥吉さん、お久しぶりです!」
お晴は声をかける。
「おお、カズ坊にお晴ちゃん。久しぶりだな!」
「弥吉さん、元気そうでなによりです!」
頭に包帯を巻いているが、どうやらケガは大分治ったようだ。今は食堂を立て直している最中で、その間はこの近くで屋台を開くのだという。
「この前は本当にありがとうよ。おかげであの悪魔から解放されたぜ」
「いいんですよ。弥吉さん、ホントに無事でよかった……」
お晴は思わず目をこすった。カズはそんな彼女をのぞき込んだ。
「あれ? お晴さんどうしたの? 泣いてるの?」
「え、いや、別に……。なんでもないよ!」
お晴は涙がついた腕を手拭いでふく。やっぱり、泣いてたんだ。しかし、弥吉が復帰できたことによる嬉し泣きだろう。
「もう、お晴ちゃん。心配かけてすまんな」
弥吉は思わず後頭部を掻いた。
「弥吉さん、僕からも復帰おめでとうございます」
「おう。ありがとな、カズ坊。お前さんが率先してあのお富を倒してくれたんだよな」
「いや、結局はひさめさんやお晴さんのお陰ですよ」
カズは頭がかゆくなった。同時にお腹がすく。
「そうだ。弥吉さん、天丼を頼んでいいですか? 僕ら、これからお昼なんですけど」
「ああ、かまわないぜ?」
とりあえずお晴にも同意を求めると、彼女も微笑んで頷いた。
「じゃあ、私はなにしよっかなー……」
お晴はチラシを眺めている。
「とりあえず弥吉さん。僕は天丼で。あの時みたいにとびっきりの天丼をお願いします!」
「ああ、任せとけ! !」
弥吉はお晴いわく、以前の彼に戻った。こうして下京の一角ににいつもの威勢のいい掛け声と、みんなの笑顔が戻っていった。
下京は今日も平和だ。
(『金と女』一件落着)