第1話 金と女(前編)
都にやってきたカズはチンピラに襲われているところをお晴に助けられ、彼女の知人、弥吉が食堂を営んでいる店で腹を満たしていた。
そんな時、殿上人である日野川富が借金の取り立てに現れ……。
「都はまだかぁ……」
黒い短髪の少年は棒きれを突きながらひたすら森を歩いていた。この先にこの国の都がある。何日も何も食べていないが、もうすぐ食にありつける。
ここは江戸時代のような現実とは異なる世界。田舎から来た少年、卯月元一(通称、カズ)は都に出稼ぎに来ていた。
この国では貧富の差が大きく、都に住む一部の人間がこの国の富のほとんどを独占していた。一方で庶民は重い税をかけられ、田舎の農民や商人は貧しい生活を強いられていた。
そのため、カズのような田舎民は家業を継がない場合は都に出稼ぎに出たり、地方領主が済む城下町の商店に丁稚奉公に出たりする。
次第に森の出口が見えてくる。ここを抜ければ都だ。カズの足は自然と早くなる。もうすぐで、食べ物にありつけるかもしれないから……!
都の食べ物かあ。いったいどんなものがあるんだろう……。南蛮ものかなあ、中原ものかなあ……。
ついに森を抜けだす。彼の目の前には立派な都の正門が見えた。森から正門までは野原が広がっていた。周りにはツクシやタンポポが咲き、山裾は桜が満開だ。周囲は春の空気に包まれていた。
正門の中に入ると、目の前に大きな通りが広がっていた。大通りはまっすぐ奥の竜の門まで続いている。そして、道の中央には桜の木が列をなして植えられていた。桜は五分咲きといったところだろうか。
大通りにはカズと同じような出稼ぎ民が職を探しに商店を訪ね歩いたり、売り子が軒先で宣伝していた。中には大きな風呂敷を抱えた異国の買い物客も見える。
正門付近からは見えづらいが、長屋がいくつも見えた。長屋はどれも粗末で壁や柱はひびが入ったり、ツルが巻き付いたりしていた。窓の格子やガラスもところどころ割れていた。築何年かは知らないけど、とてもぼろい。とはいえ、壊れたところは修復してあるし、長屋の住民たちがところどころで掃除をしているところを見ると、生活はできているのだろう。
カズはさらに龍の門の向こうを見る。門と塀の向こうに大きな屋敷がいくつも見える。きっと貴族や〈殿上人〉の邸宅が広がっているんだろう。
ここがこの国の都、〈華の都〉。この国が始まった時に王が名付けた名称だ。都を創設する際に街の大通りと、王宮周辺に桜の木を植えたからだ。
この国では花といえば桜だった。その『花』に国が繁栄するようにと願って『華』という字を当てたという。
しかしながら、その繁栄はこの都とその周辺に限られ、庶民の暮らしは苦しいことに変わりはなかった。ここにこの国の矛盾があった。
とりあえず何か食べ物が欲しい。彼は実家の家族からもらったお金を一切使っていなかった。何より少ないお金なので使うわけにはいかないのだ。いつ何があるかわからない。この都に来るだけでも命がけである。
食堂は近くにないだろうか。杖をついて探した。
ところが。
「おい、そこの兄ちゃん。持ってる金を俺らに寄越せよ」
嫌な予感がした。後ろを向くと、自分よりも一回り体格の大きな少年がこっちに嫌な視線を送っている。
「お、お金なんて持ってないよ……」
「その巾着袋は何だよ?」
少年はカズの右手に握られている巾着袋を指差した。数少ないお金が入っている袋だ。こいつらに渡すわけにいかない。
「これはお金じゃないよ」
「持ってるんだな? 少しでも構わねえ。腹の足しになりゃいいんだ」
少年は獲物を見つけた狼のように、目を爛々と光らせる。
その図体に似合わず俊敏に少年の足が動き、彼は拳を上げて殴りかかってきた。拳がカズの頬に直撃した。
「うっ……」
カズは倒れ込み、巾着袋が手から離れてしまった。
右の頬に激痛が走し、カズは地面で転がりまわった。
「軟弱ものめ。これは頂くぜ」
少年は我が物顔でその場を後にしようとすると、少年は何かに突き上げられた。
一瞬少年の体が浮いたが、相当な力のようだ。
「ぐふっ。なんだよ……」
同時に巾着袋が飛び上がるり、少年の手から離れた。
気が付くと、巾着袋は肩までかかる長い栗色で、青い着物の女の子の手中にあった。
「ならず者の入江成樹君? あなたはそんな卑怯な方法でしかお金を稼げないのかな」
女の子は紅葉柄の鉄扇で扇いでいた。彼女の茶色い瞳はそのチンピラに向けられていた。攻撃的な視線が彼に突き刺さっている。
「て、てめぇは掃除屋〈なじみ〉のお晴……!」
「〈なじみ〉じゃなくて〈おなじみ〉! そんなことやってるとそのうち自身番にお預けだよ」
「金がねえんだよ! 仕方ないだろ!」
「それならちゃんと仕事探しなさい! 人の物盗むってどれだけ卑怯なのよ。どうやらあなたは自身番お預けだけじゃ済みそうもないね」
チンピラ少年の顔色が青くなる。
「くう……。覚えてろ!!」
成樹というチンピラ少年は街の長屋街に逃げていった。カズはその光景を目の当たりにしていた。思わず手を叩く。
なんなんだ、この子……。
「これはあなたのお金だよね?」
カズはふと我に返った。女の子はカズの巾着袋を持っていた。
「うん。ありがとう」
女の子からその巾着袋を受け取った。
「それにしても、君すごいよ。あんなやつを退治しちゃうなんて」
「すごいって、この下京って結構治安悪いのよ? さっきの成樹みたいなやつもいるから、注意しないと」
「そうなんだ……」
「今度からは気を付けてね。ところで、あなたは出稼ぎ? 見かけない顔だけど」
女の子がカズの様子を見ている。
「え、うん……。今日から一年ほどね」
「ふーん」
女の子は何か考え込んでいる。
「そうだ! 私と一緒に掃除屋やらない? 私一人だけで困ってるのよ」
「え、ちょっといきなり……。僕まだ何も決めてないよ」
「いいじゃない! 決めてないんなら、ちょうどいいでしょ!」
女の子は手を叩いた。
「じゃあ決まりね。私は清明晴。一応雇い主みたいになるけど、気軽にね」
カズは後頭部を掻くしかできなかった。まあ、仕事を探して路頭に迷い、さっきのチンピラみたいなやつに身ぐるみ剥がされるよりかはましか……。
「僕は卯月元一。カズって呼んでよ。お晴さん」
お晴は頭を掻いた。
「なんで『さん』付けなのよ……」
「いや雇い主だから……」
「そんなのどうでもいいでしょ? 年も近そうだし」
その時だった。カズは急にめまいを感じた。足が急におぼつかなくなる。目の前にいるお晴が霞んで見えた。
何日も何も食べてないからだ……。
「だ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「べ、別に何ともないよ……。あははは……」
なんともないわけがない。
お晴は近くの食堂に連れて行ってあげると言っていた。今はお晴の言葉に従うしかない。
ここに、カズとお晴の掃除屋を営む生活が始まった。この物語はそんな二人が仲間たちと繰り広げる笑いあり、涙ありの和風冒険活劇である。
***
カズはお晴に連れられてすぐ近くにあった食堂に入った。その食堂の外観は街の中にあった長屋と同じくボロボロで、戸口の暖簾は傷だらけ。格子もガラスも割れていた。中も壁の隅やガラスにクモの巣が張られ、店の中の棚や台も所々が壊れていた。
全体的に暗い。そして、店の奥に似たような雰囲気の男がひとりしゃがみ込んで震えていた。
「弥吉さん、お久しぶりです」
お晴の呼びかけにその男が振り向いた。ひげの濃い中年の男だ。
「ああ、お晴ちゃんか。どうしたんだい?」
「この人、死にそうなんで何か食べさせてほしいんです」
「あら」
弥吉と呼ばれた店の主はカズに目をやった。
カズはお晴にもたれかかっていた。目の前の店主がぼやけていく。
「あんたか? 大丈夫かい?」
カズは少し緊張したが、そうだと答えた。客に食べさせる料理の載ったチラシをもらったが、とりあえずその中の天丼を頼んだ。
「じゃ、ちょっと待っててくれよ」
弥吉は厨房の奥へ姿を消した。
しかし店内は本当にボロボロだ。
ここって本当に料理はおいしいのだろうか……。
お晴に訊いてみたが彼女は微笑んでこう言っていた。
「少なくとも私はおいしいと思うけど? お昼とかここ結構使ってるよ」
「そうなんだ……」
お晴はこの店の店主とは長い付き合いだという。
「私が掃除屋を開く前まで雇ってくれた人がいたの。その人の時からの付き合いなんだ」
彼女は数年前から都にやってきて、その雇い主と掃除屋を営んでいたらしい。しかし、彼女が自分で掃除屋をするようになったのは去年からだった。
「で、その雇ってくれた人は?」
「今は実家に戻ってるよ。ちょっとした病気にかかってね」
少しお晴は感慨にふけったような顔をしていた。カズには彼女の茶色い瞳がどこか物寂しさを物語っているように見えた。
しばらくして弥吉が完成したての天丼を持ってやってきた。
「久しぶりの客だから腕によりをかけたよ」
カズの前にアツアツのうまそうな天丼が。湯気とえび天の風味が食欲をそそった。
「いっただきまーす!」
早速箸をとって食べ始める。ご飯とエビが口の中で調和し、いい味を引き立てる。食堂を通った天丼はすぐに飢えていたカズの腹を満たしていく。
箸が止まらない。とてもうまい!
「ごちそうさまー!!」
一刻(十五分)経たず(目安は五分かからない程度)と食べ終わった。
「うわあ、食べるの早いねあんた……」
「相当お腹すいてたのね……」
弥吉は後頭部を掻いている。お晴もその光景が信じられないようで、釘付けになっていた。
「ありがとうございます! 命が助かりました!」
「力になれてよかったよ」
弥吉は微笑んで食器を流しに置いた。お晴は代わりにお代を払った。
「じゃあ弥吉さん。また来るからね」
「おう!」
カズとお晴は軽く弥吉にあいさつを交わし、店を後にしようとした。
いきなり店の戸口が音を立てて開いた。窓ガラスが軋んでいる。中に豪勢な単衣を身に着けた女が押し入ってきた。掃除屋の二人は思わず身を引く。
「弥吉!あんた、いい加減金返してくれないかい!」
女は中年で、化粧が濃い。単衣姿からして上京に住む〈殿上人〉(上流の貴族で、お上に出入りできる者)のようだ。
女を見て、弥吉は覚悟を決めた顔で黙っていた。
女は台に借用書を叩きつけた。
「十日以内にこれだけ払うんだよ! うちも生活が懸かってんだ、わかったね!」
女は一方的に全てを吐き出すと、店を出て行った。
弥吉はそれを手に取り、落胆した。
「弥吉さん、どうかしたんですか?」
お晴が気遣っている。
「お富から金を借りるんじゃなかったよ。あいつのせいで全ておしまいだ……」
お富は借金の返済を強く要求していた。お富。本名、日野川富は〈殿上人〉と呼ばれる貴族の一人。
この都の下京の町人にとっては ”金に汚い女” として有名だった。金を得るためなら手段を選ばない。
昔は都周辺に関所を設置しまくって商人や旅行客から不当に通行料をせしめていたが、今はお上に咎められて関所は全て廃止させられた。しかし、今度は金貸しになって役人や裕福そうな貴族や商人に不当な金利で金を貸していた。
貴族や商人の一部にはその金を返せずに借金を踏み倒したり、訴訟に出たりする者も出ていた。
実は弥吉も彼女から金を借りていた。初めて都に来たときに開業資金が足らなかったからだ。お富は彼女は言葉巧みに宣伝していた。
―――――金は低利で貸す。階級は問わない。
その言葉に騙されてしまった。低利で貸すと言っておきながら、いきなり返済する金を十倍にして返せと言い張ってきたのだ。
本人は生活が苦しいとか言っていたが、そんなはずがなかった。〈殿上人〉は本当に豪勢な生活をしていると聞く。お富も例に溺れずさっきのきらびやかな装飾だらけの単衣を見ても「貧しい」なんて言葉で形容できない。
彼女は本当に金に関して汚かった。
「返すのが無理とわかっていてもしつこく取り立てに来るんだよ」
「それひどいですね」
「少年よ。大人の世界はこんなもんさ」
弥吉は気を取り直した。
「まあいいさ。この先どうなるかわかんねえけど、お前さんらも気を付けるんだよ」
夕方。
カズとお晴は桜通りと呼ばれる都の大通りを歩いていた。カズはこれから長屋の大家さんのところに行き、部屋を借りる準備をする。
さっきはいきなりすごい話を聞かされた。
「金に汚い女か……。僕も気を付けよう」
「そうだね。何かしてあげたいんだけどね」
とにかく弥吉は大変そうだった。
一方、お晴は弥吉の助けになりたかった。お晴もお富の名前は知っていたが、本人に会ったことはなくうわさでしか聞いたことが無かった。
だが、あそこまで金に汚い女だとは……。
「あんなのがいるから私たちって貧しいのかな」
「そうだと思う。僕もさっき餓死寸前だったから」
今日の所は明日の約束をして別れた。既に掃除の依頼は届いているとのことだった。
「明日は下京の正門前が落ち合い場所ね。今後はそこを集合場所にしようよ」
「了解」
これから新しい生活が始まる。
カズは桜が舞う夕焼け空を眺めていた。
翌朝。
カズは長屋(入居の手続きは全て終わらせた)から外に出て待ち合わせ場所に急いだ。
下京の正門前。桜舞う中、一人カズを待つお晴の姿が見えた。
「お晴さーん!」
「あ、おはよう。時間通りに来たね」
今日の依頼を受けた場所に向かった。依頼場所は下京西側にあるお茶屋。下京の西側には市が開かれていた。桜通りと同じく、様々な地域から来た人でごった返している。売り子たちが自分の店の宣伝を威勢よくやっている。
お晴はいつも昼食をここで買っていた。
「でも今から行く所にも私の知り合いがいるの。いいものが売ってないときはそこで食べるんだけどね」
少しして、そのお茶屋が見えてきた。
お茶屋の前で六十半ばぐらいの、白髪交じりのおばあちゃんが店を切り盛りしている。
「おばあちゃん! 久しぶり!」
お晴の呼びかけにおばあちゃんが振り向いた。
「あら、お晴ちゃん。仕事に来てくれたんだね」
その時、おばあちゃんが目を凝らした。
「隣にいる子は誰だい? お晴ちゃんのお友達?」
カズは自分のことだとすぐに気づいた。
「ああ、私が雇いました。昨日偶然会ったんです。一人で掃除屋するのも大変ですから」
お晴に軽く背中を押された。小声であいさつしなさいと言っている。
「ぼ、僕は元一です。掃除屋を手伝うことになりました……! お願いします!」
カズは素早く頭を下げた。
妙に緊張しているのか、身体が硬直してしまった。
隣でお晴が彼のことは「カズ」と呼んでねと言っていた。
「よろしくな、カズちゃん。それだけ固まらなくてもいいんだよ」
おばあちゃんの朗らかな声がカズの耳に入る。とにもかくにも、カズの初仕事が始まった。
今回掃除する場所はお茶屋〈なつかわ〉。
このお茶屋を切り盛りしている夏川ことみばあちゃんはお晴と親しく、お晴が幼い頃からの付き合いだという。
カズはお晴から掃除の手ほどきを受けていた。掃除屋の仕事はとにかく集中して掃除をこなすこと。休みたいときはお晴に伝えること。
それだけだった。
「もちろんやり残しがあったり、手抜きならやり直させるからね」
二人は店の中や周囲で掃除していた。お茶屋はおばあちゃんの家も兼ねていた。台所の流し掃除や皿洗いなどをする。別に難しいものではなかった。
カズは外に出て窓ガラスを拭いていた。自分の顔が映るくらいに、きれいに磨いた。
「誰だ、おまえ」
ガラス越しに長い黒髪を束ねた女の人が映っていた。ふと振り向くと、カズの後ろには長い黒髪を後ろで束ねた女の人が立っていた。
風貌からして年上のようだが……。
彼女は風呂敷を抱えていた。
「あ、ぼ、僕は掃除しにここに来ている者で……」
「ふーん。仕事はサボんなよ」
その時、中からお晴がやってきた。
「カズ、手を止めてないでさっさとやっちゃって」
お晴もその女の人と目が合った。
女の人の顔が変わった。
「おまえ、お晴だろ?」
「え?」
お晴は目をぱちくりさせている。見るからに彼女もこの女の人のことを知らないようだ。
「何で私を知ってるの? てか、あなた誰?」
「お前のことはばあちゃんから結構聞かされてるよ。ばあちゃんよく喋るし」
何言ってるんだこの人。もう何が何だかカズにはわからなかった。
だが、それも次の言葉で吹き飛んだ。暖簾の奥から声がする。
「あら、ひさめ買い出しから帰って来たのかい」
「ああ。いい材料買ってきたぜ?」
おばあちゃんの声だ。
「え、おばあさん、この女の人と知り合いなんですか?」
カズは驚きの表情しか浮かばない。
「知り合いも何も、ひさめはばあちゃんの孫娘だよ」
ま、孫娘!?
カズとお晴は顔を見合わせている。カズは言うまでもなく意味不明だった。
「で、でも、おばあちゃん今までずっと一人だったじゃない」
お晴はこのひさめという女の人とおばあちゃんが一緒にいるところを見たことがないらしい。
「ああ、お晴ちゃんも初めてだったんだね。この子、これまでやっていた仕事を辞めてお茶屋を継ぐって言い出したのさ」
「今までやっていた仕事?」
どうやらひさめはこの間まで忍びをやっていたらしい。
しかし、何の事情があったのか忍び稼業を辞めてしまった。
ひさめは生まれてからずっと忍び修行に明け暮れていた。
それで祖母のことみばあちゃんとも出会う機会がほとんどなかったという。
「まあ、そういうことでよろしくな! 掃除屋の諸君!」
ひさめは暖簾を分けて店の中に消えて行った。
カズは気になっていることがあった。
「おばあさん、ひさめさんが仕事を辞めた理由って」
「さあねえ……。あの子何も話してくれないんだよ」
とりあえずカズとお晴は昼までに掃除を終わらせた。二人はおばあちゃんから報酬をもらった。そこまでは多くないかもしれないけど、カズにとっては初めての報酬だ。
「ありがとうございました!」
お晴は笑顔で頭を下げた。カズも彼女に倣って頭を下げる。
おばあちゃんは手を振った。
「今度来るときはゆっくしていってくれよ」
「またおいしいお団子、いただきに来ますね!」
お晴は元気よく手を振っている。カズもそれに倣って手を振ってみた。
カズとお晴は昼からも仕事が残っていた。約束の時間が正午過ぎだったので、昼食を食べずに仕事に入る。
昼からの掃除の依頼が終わるころには既に日は傾いていた。カズは何か気持ちよかった。報酬を得ることができたから。
もらった報酬は出稼ぎ民の場合は実家への仕送りに回すか、長屋の家賃に回される。しかし、長屋の家賃はそれほど高くないので、手元に残ることも多い。
仕事終わりの帰り道。途中で軽い食事を済ませて大通りを歩く。
「ふう、やっぱりきれいに掃除したあとは気持ちいいよ」
カズは背伸びして体についたコリをほぐした。
「でしょ? この仕事やって良かった?」
「うん。ありがとうお晴さん!」
「でも、日によっては仕事が多くなったり、少なくなったりするの。夏のお盆前とか、お正月の前は仕事が一気に増えるから、覚悟していこうね」
「それ、今ここで言うの?」
少し労働意欲が削がれたかもしれない。とはいえ、なりいきで始めた仕事だけど、この仕事でよかったのかもしれない。これでカズの初日の仕事は終わった。
***
それから数日間、カズとお晴は掃除の依頼をこなしていった。もらえる報酬は決して多くないけど、生活に困るようなことはなかった。
お晴にいろいろ教えてもらいながら、徐々に仕事のペースを掴んでいった。
そして、仕事を始めて十日後の昼過ぎ。外は晴れているが、桜は盛りを過ぎていた。昼からは仕事はなかったので、カズとお晴は久々に弥吉の食堂を訪れることにした。
「弥吉さん、大丈夫かなあ」
カズの頭にはあの弥吉の姿があった。
彼はお富から借金の返済証明を叩きつけられていた。
「どうだろう……」
お晴は心配そうな顔をして歩いていたが、彼女の表情はすぐに変わった。その原因はカズにもすぐに分かった。
食堂の前に野次馬が集まっている。大きな音と声が響いている。
「いつになったら返せるんだい!」
「す、すまねえー!!」
中年の男が食堂から飛び出してくる。両手を地面につき、後ずさりしている。男の姿は弥吉だった。弥吉は恐怖に怯え、その場から逃げようとしていたのだ。しかし、弥吉はすぐに数人のいかめしい顔の男たちに包囲されてしまった。
そして、弥吉を追い詰めていた女はすぐに出てきた。
食堂の中から出てきた豪勢な単衣をまとって現れた女。そう、初めて弥吉にあったときに借金を取り立てに来た〈殿上人〉、日野川富だ。
「弥吉! 借金返すと白状するまであんたはうちでお預けだよ!」
「勘弁してくれえーっ!!」
「うるさい男だねえ! おまえら、こいつを縛り上げておしまい!!」
弥吉の周囲にお富のしもべの男たちが現れる。恰幅の良いその男たちは弥吉より一回りも、二回りも大きな体つきだ。
当然弥吉はなすすべもなく両腕と胴体をまとめて縄で縛られてしまった。
見かねたお晴が耳打ちをする。
「カズ、助けに行こう」
「え……」
「このままだと弥吉さん捕まっちゃうよ!」
「お晴さん!」
お晴が着物にしまっていた鉄扇を取り出すと、野次馬の中に入っていった。カズもあとを追いかける。
「弥吉さん!」
カズが野次馬をかき分けて前に出ると、お晴の先にその縛り上げられた男が倒れこんでいる。お晴はすぐに弥吉に駆け寄る。
弥吉は両手足を胴体ごと縛り上げられ、身動きが取れない。
「お晴ちゃん、来ちゃだめだ……」
「でも……!」
そんなふたりをあざ笑うかのように、女の声がする。
「おやおや。あんたはこの前食堂にいた小娘じゃないか。あたしに何か用かい」
「あるに決まってるじゃないの。弥吉さんの縄をほどきなさいよ!」
お富は必死になっているお晴を見て、大声で笑い始めた。その笑い方はまるで鬼の笑い。不気味なものだった。
「これからこいつに社会の掟を教えるのさ。解放はできないね」
お富は一歩ずつお晴に近づいてくる。
カズにとってあのお富という女は恐怖以外の何物でもなかった。初めて彼女と出遭ってしまったときのあの怒号。そして、今回の脅迫。ビビるどころじゃない。体が硬直して、全く動けなくなる。
金のためなら手段を選ばない女なのだ。たとえそれがお上に背く行為であったとしても。
「さあ。そこをお退き。でないと、あんたといえどもただじゃ済まさないからねえ」
お晴は一歩も動こうとしない。ただ、鉄扇を構えてお富に視線を突き刺している。対するお富は余裕の表情。
カズはお晴も怖がっていると思っていた。成樹を退治できる実力を持つ彼女だが、〈殿上人〉であるお富が相手となると話は別だろう。
そして、弥吉さんも、お晴さんも危ない。
だが、カズの体は硬直していた。目の前にいる化け物のような女に立ちすくんでいる。
しかし、このままでいいのか……? あの人たちは都に来たばかりのカズを助けてくれた人。命を助けてくれた人たちだ。
もう時間的な猶予は残されていない。お富は弥吉を連行し、お晴に危害を加えるかもしれない。
行くぞ!
「弥吉さんを解放しろ!!」
カズは大声で叫ぶ。野次馬たちの目がカズに向けられる。
「か、カズ……」
お晴も目の前で息を切らせて立っている少年を見る。
当然、その声はお富にも届いていた。
お富の顔がカズに向けられた。カズは一瞬身震いする。
「お前はそこの小娘といた坊やじゃないかい。助けに来たのか知らないけど、この男はね、借りた金を返さない常識外れなんだよ。こんな奴は自身番に預けても無駄さ。あたしが直々に教えてやらないとわからないんだよ」
それは違う。このお富が不当に高い金額でお金を返すように迫っているだけだ。何を言われるかは知らない。だけど、カズは勇気を振り絞って声を出す。
「それは……、あんたのせいで返せないだけ……」
「違うね!! こいつは常識を知らないのさ! あたしは当たり前のことを言っているだけさ!」
お富の大声がカズの鼓膜を激しく揺らした。カズは思わず両耳をふさぐ。
「坊やはどうなのさ!! 金を貸しておいて返せません、もっとお金くださいってせがまれたら。こいつはそうやってあたしにたかってきたのさ。おかげであたしの生活は惨めなもんだよ!!」
大声で怒鳴り散らす。
そう吐き捨てるお富にカズは怒りを覚えた。弥吉さんがお金をたかった? この女の生活がみじめだ?にわかに信じることはできない。込み上げた怒りに、この女への恐怖なんかどこかに吹き飛んでしまった。
「あんたのどこが惨めなんだよ。どこから見ても」
「これだから下民はダメなんだよ。坊やも相当な常識はずれだねえ」
間髪入れずにお富が叫ぶ。しかも、鼻で笑いながら。
「さあ、そこをお退き! あんたもあの男みたいになりたいのかい?」
カズは一歩も動こうとしなかった。笑われたのも嫌だけど、それ以上にこの女が許せなかった。
「どかないのかい。ならば、おまえたち! この坊やを引き離しておしまい!」
女はすぐ近くにいたしもべに指示した。しもべがすぐにカズの両腕を掴んだ。カズは必死に手足をばたつかせてあがいた。
「ちょっと、離せ!」
しかし、男たちの腕力はすさまじく、どれだけあがいてもガッチリと両腕を捕まれ、動くことができない。
結局カズは男に軽々と放り投げられてしまった。
カズは野次馬を飛び越えて道端に転げ落ちてしまった。
激しい痛みがカズの全身を襲った。頭が揺さぶられ、壁打ち付けたような痛みがする。意識が遠くなる。
お晴さん、弥吉さん__。
(つづく)