婚約破棄ぱーと2
「っ、もう耐えきれん!!」
公爵家の三男であるフシーアナは、振り上げた拳をテーブルに叩きつけた。
騎士を目指しているフシーアナの拳は強く重い、テーブルは鈍い音を立てながら食堂の食器をきしませる。
だが今はフシーアナの熱い血が流れる心臓の方が、より深く軋んでいた。
「いい加減にしろネクラノ!その椅子はラブリィ嬢が今、まさに座ろうとしていたではないか!!」
フシーアナはラブリィを押し退けるように自分の正面の席に座ってきた女―――――幼なじみであり婚約者でもある令嬢、ネクラノを睨め付けた。
「フ、フシーアナ様。私は大丈夫ですから………失礼しました、ネクラノ様。
学友とはいえ、婚約者であるフシアナ様と親しげに振る舞う私は不愉快、でしたよね?
あまりにも話が弾んでしまって………どうかお許しくださいませ」
押し退けられる形になったラブリィは恥辱に耐え、健気にもネクラノへ頭を垂れて見せた。
両手は軽くスカートのすそを持ち上げ、左足を一歩引き、頭を垂れながら姿勢を低くする。
まだまだ拙いが、身分の低い貴族女性が高位の貴族女性に対して行う正しい礼の型だ。
ラブリィは、ちゃんと身に付けたのだ。
目に見えるラブリィの成長にフシーアナの心が少しだけ凪いだ。
フシーアナの学友である少女――ラブリィはその賢さゆえに、平民ながらも貴族階級の学舎で学ぶ事を許された、“奨学生”だ。
それまで庶民だったらしい彼女は、貴族間のマナーはもちろん、女学生用の制服―――夜会用のドレスよりは短いが、庶民からすれば裾を踏んで転けてしまいそうなほど丈長なスカート――も、初めて纏うのだと恥ずかしそうに言っていた。
そんな彼女が少しずつスカートさばきに慣れ、貴婦人らしいマナーを身に付けていく様がフシーアナには眩しかった。
「………」
だが、ぎこちないながら貴婦人の礼をとるラブリィを尻目に、ネクラノは頭を上げるよう促す言葉を与えない。
それどころか真横にいるラブリィを空気のように無視して、ただフシーアナを見つめるばかりだ。
慣れていない中腰の姿勢を続けるラブリィが苦し気に震えているのがわかる。
みじめに晒され続ける彼女の白いうなじは断頭台に戒められた虜囚を思わせた。
さながら断罪者気取りの心ない仕打ちに、フシーアナの激情は再び燃え上がざるをえなかった。
「お前がその気なら、こちらにも考えがある!!」
フシーアナはその場ですっくと立ち上がると、出せる限りの声量で大きく宣言した。
「私、フシーアナはこの女、ネクラノと婚約契約を交わしていた!!
だが、この場を借りて、その契約を破棄する!!
この場にいる者、全てが証人だ!!」
ビリビリと食堂を震わせるようなフシーアナの声と、そのセンセーショナルな内容に今度こそ食堂全体の空気が凍りついた。
どうなっているのか?
こんな一方的な破棄をネクラノ嬢は受け入れるのか?
誰もが彼らに注目し、息をのんでを様子を伺っている。
こうなってしまっては、もう後戻りは許されない。
立ち上げる気力をなくしたネクラノは椅子の中、蚊の呟くような声で答えた。
「………分かりました。その婚約破棄、受け入れましょう」
「っ!?そんな、フシーアナ様」
あまりの急展開に、当事者であるラブリィもまた混乱しているようだった。
だがその声音とは裏腹に、彼女の表情には恥じらいと喜びと、隠しきれない愛情が滲んでいる。
おそらく、家同士の都合もかなぐり捨てて、これほどまでに無礼な婚約破棄を強硬したフシーアナは公爵家から廃嫡されてしまうだろう。
だが、これでラブリィとフシーアナを隔てるものは無くなったのだ。
寄る辺の無い、恐ろしいまでの『自由』が堕ちたフシーアナに何をもたらすのかは分からない。
貴族として、あるいは騎士として学び、良くも悪くもフシーアナを縛り付け、留めてきた価値観や常識は何の役にも立たないだろう。
庶民の暮らしを知らないフシーアナは何度も恥辱にまみれ、不様に苦しむに違いない。
だが彼の傍らには、いつも彼女がいて、きっと微笑んでくれる。
酷く不安だったが、おそらく生まれて初めての爽快感と自分の運命を切り開く冒険心に、フシーアナは漲っていた。
「……最後にお聞かせくださいませ」
高揚するフシーアナとは対照的に、暗く沈んだ声音でネクラノは尋ねた。
ラブリィ。ネクラノはフシーアナの口からその少女の話を聞いたとき、奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
初心 (うぶ)な所のあるネクラノは長い事その違和感を嫉妬心なのだと思い込んでいたが、フシーアナの話を聞けば聞くほど違和感はネクラノに不気味な不安をもたらしていった。
初めてラブリィと言う少女に会ったのは、フシーアナが厳しすぎる訓練に音を上げ、ちょっと休憩していた時だったという。
―――騎士が訓練をするような時間帯は、学舎の生徒も授業の真っ最中なのに?
ラブリィは聡明であるがどこか無垢で無邪気なところがあり、靴と靴下をぬぎ捨て学舎の裏にある湖に足を浸したりするのだと。
―――女学生の制服の靴下は、下着の内側からガーターベルトで吊るす様式だ。靴下を脱ぐためにはまず下着を脱がなければならない。
ラブリィは庶民出身者ゆえに貴族としてのエチケットやダンスに興味はなく、そもそも豪奢に着飾ったりすること自体、あまり価値を見出せないらしい。
―――普通は、逆だ。庶民でも学業自体は学ぶ機会はあるが、貴族相手のエチケットや作法は、この学舎でしか学べないのに?
なぜ?
聞けば聞くほどにラブリィという女生徒の不自然さに気付かされる。
不安のあまり、家のつてを使い彼女のことを調べたが、結果はさらなる困惑をネクラノにもたらした。
「フシーアナ様、あなたはラブリィ様を『あやうい』、と思いませんでしたか?」
「?、何を……」
「そう、危うい、あまりに危うすぎるのです」
貴族にとって、庶民の価値は驚くほどに低い。
それこそくだらないエチケット違反を理由に首をはねたり、その相手が女であったなら面白半分に手籠めにするくらい訳ないほどに。
いっそ身分が高い貴族ならそんなことは考えない。
雲の上に暮らす彼らにとって、平民も地方の弱小貴族も、しょせん下々(しもじも)の者でしかないからだ。
そういった事にうるさいのは、貴族のプライドしか支えのない貧乏貴族や、身分の低さに負い目がある成り上がり貴族。
つまり、なまじっか愛らしくエチケットに疎い平民の小娘などは、ろくな身分も矜持もない貧乏貴族の毒牙にかかり、慰み者にされるか妾として使い潰されてしまうものなのだ。
そのため、貴族が妾の娘や豪商の娘を養女にする時は、ひとまず厳格な女主人が暮らす屋敷へ行儀見習いに出す。
そこで悪い男がつくのを避けつつ、貴族らしい生活様式やエチケット、マナーを学ばせ、時にはお茶会などで交友関係を広げてゆくのが定石だ。
だがそれらの通過儀礼をラブリィは一切受けていないと言う。
厳しい行儀指導も、弱小貴族達の下劣な洗礼も、そのどちらも。
「ネ、ネクラノ?貴様いったい何を………」
「フシーアナ様、よくお聞きください」
戸惑うフシーアナにネクラノは言葉を振り下ろした。
「この学舎に、女の奨学生はおりません。男だけなのです」
「今期だけではなく、開校してから一度として奨学金生の女性を受け入れた事が無いのです。
念のため学舎を回り、全ての奨学金生に会ってみましたがその中にラブリィ様はいらっしゃいませんでした」
「もしやラブリィ様は、どこかの貴族の養女に入られた方なのかと思い、フシーアナ様とお会いになっていた日や時刻に授業を欠席していた女生徒がいないかとも調べましたが、そんな頻繁に授業を抜け出した一生徒は、女にも男にもおりませんでした」
「そもそも、」
強く握りしめすぎて白くなってしまった自分の指先を睨みつけながら、ネクラノは息をそっと吸い込んだ。
今のネクラノには立ち上がる気力もないし、それどころか目線を上にあげる勇気すらない。
勇気、そう勇気だ。
ネクラノにとってその言葉は、とてつもない恐怖の言葉だった。それを口に出すのが恐ろしくてたまらない。
呼気に乾く唇を唾液で塗らし、ネクラノは勇気を振り絞って口を開いた。
「こ、この場に、ラブリィ様がおられるようにフシーアナ様はおっしゃっていますがその………」
「ラブリィ様は、一体どこにおられるの?」
ネクラノの声は最後の方こそ早口で小さなものだったが、気づけば食堂の誰もがそれを聞き取っていた。
「………は?何をふざけたことを言っている、ラブリィはここに——」
激高するフシーアナは、ふと食堂の生徒たちの眼に気付いてしまった。
そのぶしつけな視線は困惑と下世話な好奇心に満ちていて、ネクラノとフシーアナを刺し貫きそうなほど見つめている。
そう、ネクラノとフシーアナだけを。
挨拶を中断し、動揺のままにその場に佇み続ける可憐なラブリィには、彼らの視線が一切刺さろうとしない。
まるでそこに彼女が存在しないかのように。
不安に駆られたフシーアナはそっとラブリィの腰に手をまわした。
衆人観衆のど真ん中で、未婚の淑女にこんな不躾な真似をするのは間違っている。だがそれでも不安になってしまったのだ。
「きゃっ!フ、フシーアナ様っ」
抱き寄せたラブリィの体は細く、柔らかく、やけどしそうなほど熱を帯びていた。
日光を浴びるのが好きなラブリィの肌は、日焼けを嫌って引きこもるネクラノ以上に白くなめらかなのだが、今は恥じらいのためか耳まで赤く染まっている。
さらりと音を立てるのは、貴族令嬢にも劣らない豊かで長い、手入れの行き届いた美しい髪で、そこから花の香りを思わせる体臭がふわりと香る。
シャリシャリとした布の感触はネクラノも身に着けている女生徒の制服のもので、確かな質感でラブリィを包んでいる。
ラブリィは、ここにいる。
甘い体臭を吸い込むことで一瞬の不安を払うことができたフシーアナは、今度こそネクラノを怒鳴りつけてやろうと未だに椅子に座り続ける彼女を睨みつけたが、思わず固まってしまった。
生真面目すぎるネクラノはいまだ抱き合うフシーアナとラブリィを見ているのだがその眼に、不実な元婚約者にむけるだろう怒りや嫉妬はなく、むしろ不思議なものを見るような感情しか載っていない。
「その、フシーアナ様?何をなさっておられるのですか?」
———まるで腕の中に誰かを抱いていらっしゃるように振舞って……。
気付けば食堂の生徒たち全員が、その不思議そうな眼差しで、フシーアナ達を見つめていた。
まるで奇妙な一人芝居を見るような目つきで。
一体、どういうことだ?
不安と疑念、奇妙な違和感。どうしようもない恐怖に浸食されていく自身を知りながら、フシーアナは腕の中の物を見た。
自分の腕の中にいる少女は、やはり愛らし気にこちらを見返すばかりだった。
男にとって都合のいいこと言うヒロインちゃんなんて、おらんかったんやで?
↑
ただこれをやりたかった(笑)
もっとラブリィちゃんには攻略的なセリフ吐かせたかったけど、もう書きつかれたし諦める。