身に覚えがない自分
喫茶店で寛いでいたら、突然に見知らぬ女性から話しかけられた。妙に馴れ馴れしくまるで私を知っている風だった。始めは不審に思っていたのだが、話しているうちに、少しずつ以前に会ったことがあるような気がしてきた。
なんとなく、覚えているような、覚えていないような……。
実は私には似たような経験が少なからずあるのだ。物覚えが悪いつもりはないのだが、以前に会った事のある人や出来事を忘れてしまう。酔った所為なのか、それとも大した事でもないからなのかは分からないのだが、しばらく話していると記憶の片鱗のようなものは思い浮かぶから、恐らく、相手の勘違いではないだろうと思う。
私が忘れているのだ。
その程度なら別に構わないのだが、“人や物事を忘れてしまう”という困った性質の所為で、私は最近になって少しばかり恐怖体験を味わった。喫茶店にいたその時も、私はその事で悩んでいたのだ。
その話しかけて来た女性は、とても話し易く人当たりが柔らかかった。それで私は、恐怖体験の所為で心細くなっていたこともあって、ついその事を、彼女に相談してしまったのだった。
「ストーカー?」
そう彼女は言った。
「ええ、」と私はそれに頷く。正確に言うと、そうとしか思えない男性がいるという話なのだが。
「私の家に入って来てね、それで私に“大丈夫か?”って尋ねて来るのよ。まるで、私が病気みたいに」
私のその訴えを聞くと、その女性はいかにも心配そうな顔になってこう尋ねて来た。
「乱暴はされなかったのね? 警察には連絡したの?」
「乱暴はされなかったわ。警察には連絡したのだけど、それがまた問題で……」
「問題って?」
「よく分からないのだけど、警察とその男の人はどうもグルみたいなのよ。来てはくれたのだけど、注意するどころか、なんだか内緒話を始めちゃって、お咎めなしで解放。むしろ私の方が悪者っぽい雰囲気だったわ」
それを聞くとその女性は腕組みをした。
「凄い話ね。そんな事があるものなのかしら?」
ストーカー被害に対して警察は無力だという話をよく耳にするが、流石にこんな酷いケースは聞いた事がない。
「私自身も信じられないけど、事実なのだから、仕方ないわ。しかも彼の口振りからいってまだ来るよな感じがする。私、本当に恐いのよ」
それを聞くと、彼女は今度はこう尋ねて来た。
「その男性には、本当に心当たりがないの?」
「ないわ……」
しかし、そう答えた後で、私は自信がなくなる。
「いえ、なんとなく、覚えているような気がしないでもないの。そこはちょっと自信がない」
「どういう事?」
「私って、どうも人の事をよく忘れちゃうみたいなのよね。それでよく仕事だって失敗するわ。だから、実はその人にも以前に会っているけど、忘れちゃっているだけって事もあるかもしれない」
“実はあなたの事も覚えていなかったの”とは流石に言えなかった。
彼女は「ふむ」とそれからそう言うと、指を一本掲げながらこう続けた。
「わたしの知合いの知合いに、そういう話に強い人がいるの。ちょっと、相談してみるわ。もしかしたら、力になってくれるかもしれない」
“そういう話に強い”って、どういう事だろう? などと私は思ったが、社交辞令も込みで「ありがとう。お願いするわ」とそれに応えた。
それからしばらくして“そういう話に強い知合い”とやらから私は呼び出しを受けた。場所は前と同じ喫茶店だ。その人の名前は鈴谷さんといった。女性だ。スーツなどを着ているから社会人かと思ったが、若いその外見通りの大学生らしい。
「一応私は、民俗文化研究会などというサークルに所属していまして。多少は、文化的な話にも詳しいんです」
そんな事を鈴谷さんは言う。私は“民俗”と聞いて、オカルト的なものを思い浮かべた。妙な手合いに関わってしまったのかもしれない。
「まさか、お祓いでもやるつもり?」
それで、私はついそう言ってしまった。すると、それに彼女は首を横に振る。
「“民俗”と言っても宗教儀式だけを扱わっている訳ではありません。例えば“文化結合症候群”などと呼ばれているような心理的な病にも関心があります」
“心理的な病”と聞いて、私はストーカーも病気とされる場合がある事を思い出した。そういった方面から、彼女はアドバイスをくれるのかもしれない。彼女は続けた。
「“文化結合症候群”というのは、文化と密接に結び付いた精神疾患の事です。韓国の火病が有名ですし、日本人の“対人恐怖”をそれに含める人もいます。
そして、“解離性同一性障害”…… 俗に言う多重人格も文化と密接に関わっている事が知られています。例えば、インドでは人格交代前に眠るという過程を経ますが、これは実はインドでのドラマの影響ではないかと考えられています。他にも社会によっては、凄まじい数の人格が観察されたりと、文化毎でその特性が変わっています」
そう言いながら、彼女は不意に机を指で軽くトンと叩いた。そして、一呼吸の間の後、ゆっくりとしたリズムで同じ様に指で机を叩き始める。
トン、トン、トン
彼女は続けた。
「俗に思われているように、解離性同一性障害では、各人格の記憶が完全に解離している訳ではないそうです。つまり、思い出そうとがんばれば別人格の記憶も思い出せる事が多いのですね」
私にはどうして彼女がこんな事を説明してくるのか分からなかった。それで、こう尋ねる。
「まさか、あのストーカーの彼が、多重人格だとでも言いたいの?」
彼女は首を横に振る。
「いいえ、そうは言っていません」
トン、トン、トン
相変わらず、指で彼女はリズムを取っていた。こう言う。
「ところで、今、その男性の事を思い出してはみませんか?」
「どうして?」
「今なら、思い出せるかもしれないからです」
私はそう言われて、彼の事を思い出そうとしてみた。温もり。確かに会った事があるような。
しかし、肝心のところで、その輪郭を掴み切れない。
トン、トン、トン
「駄目。思い出せない」
そう私が応えると、次に鈴谷さんはこう訊いて来た。
「そうですか……。では、三週間前、あなたは何をしていましたか?」
「何を? 何をって?」
「職場で仕事をしていたのか、それとも自宅にいたのか」
「それは…… そんな前の事…」
「そう前でもないでしょう? 思い出すのは容易いはずですよ。あなたが普段通りに生活をしていたなら…」
普段通りに生活をしていたなら…
トン、トン、トン
そこで記憶が蘇った。
「違うわ。普段通りじゃない。わたしは、有休を取ったのだわ。それでその日は買い物をしようと街に出掛けて……」
私はそう言った自分自身に驚いていた。勝手に口が動いたからだ。いいや、それだけじゃない。私は言いながら、急速に奥に引っ張られるような感覚を味わったのだ。
鈴谷さんは頷く。
――トンッと大きく指で机を叩いて。
「それから、そのまま人格交代が起こった所為で、あなたは職場には復帰できなかった。そして、別のアルバイトをやり始めてしまった…… のですね?
あなたのアパートに来ていた男の人から、事情を聞きました。彼はあなたは仕事の同僚で恋人同士だと言っていました。写真も見せてもらいましたから、まず間違いないと私は判断したんです」
頭の奥で、意識を遠くに感じながら、私はその言葉に目を丸くする。
……なんですって? つまり、私は多重人格者って事?
身に覚えがない自分が口を開く。
「その通りです。その後は、ずっと彼女がわたしを支配していて、表には出て来られなかった。彼女は自覚がないから、病院にも行こうとしないし、彼が心配して家に来てくれたのに、ストーカーだと思ってしまうし。
お蔭で助かりました。しかし、どうしてわたしを呼び起こせたのですか?」
鈴谷さんはゆっくり笑うとこう言った。
「はっきり言って、ほとんど一か八かの賭けでした。上手くいったのはほとんど奇跡です。解離性同一性障害は、催眠とも深い関わりがあると聞いていたので、素人考えですが、指でリズムを取って催眠状態に誘い、そして他人格が記憶を共有しているという話で症状の変質を狙ったのです。解離性同一性障害が、文化と密接に関わりがあるという話は本当ですから、可能性はあると思いまして。そう本人が思い込めば、あなたの記憶も思い起こし易くなるのではないかと。
あ、因みに、解離性同一性障害で記憶が完全に分かれる訳ではないらしいという話も本当ですよ」
私はそれを聞くと、自分の頭の奥で深いため息をついた。なるほど。そういう事か。そして、
“しかし、この身に覚えがない自分が、主人格とは限らないじゃないか。もしかしたら、私の方こそがメインなのかもしれない。この扱いは、不当だ”
と、そう心の中で愚痴ったのだった。まぁ、鈴谷さんには聞こえはしないだろうが。
参考文献:臨床心理学における科学と疑似科学 スコット・O. リリエンフェルド (編集)ジェフェリー・M. ロー (編集)スティーブン・J. リン (編集) Steven Jay Lynn (原著)