rain
六月に入って初めての雨が、梅雨の始まりを告げた。
シャツのボタンの隙間からは、初夏の湿気と涼しげな空気の両方を感じ取ることができる。空は墨を流したように薄暗い。住宅の薄汚れた屋根が雨に流されていた。
恭介はそっと腕を伸ばし、傘の縁から垂れる雫に触れた。手に溜まっていく水は冷たく、すぐに溢れていく。彼はそれを見て指を広げ、零した。水を吸収する気のないアスファルトから水が跳ね、脚にかかる。溜息が冷たい景色に溶けこんだ。
「おはよう」恭介の後ろで女の声がした。彼女は傘も差さず、薄暗いなかに白いワンピース姿で、まるで幽霊のように佇んでいた。雨の一粒一粒を受けながら、恭介の前に回り込む。
「おはよう」
「久し振りね」
「何ヶ月ぶりかな」
「そんなに?」彼女は目を丸くした。
実際は、何ヶ月も合っていない訳ではなかった。ただ五月病のやるせなさが持続していて、ひどく時が遅いような気がしていた。
「とりあえず、入りなよ」恭介は傘を顎で指した。
少し濡れた短めの髪を揺らしながら、彼女は隣に立った。傘からはみ出た右肩には雨が跳ねていた。
二足の靴が水を纏った音を立てていく。雨はこの住宅街を様々に彩っていた。雨どいから落ちる細い水が、地面を穿とうとする音。側溝に小さな滝ができて、地下で響く音。一戸建ての庭にあるほんの小さな池で、波紋が広がる音。雨がつくる音はどれも静かだった。
「あ、そろそろ」彼女は言った。
水が滴る雨どいの下を、ゆっくりと傘が通過していく。透明で小さなドームを雫が打ち付ける様子が、内部からも見える。その音に包まれて、二人は唸った。
まっすぐ続く道を進むとY字路があり、右を選んで区立小学校を過ぎると神社がある。そこは先ほど見た校庭の半分ぐらいの大きさで、人がおらずひっそりしていた。二人は鳥居の下で境内に向かって立ち止まった。名前の分からない鳥の高いさえずりや、背の高い木々が葉を擦り合わせる音が、敷地内を覆っている。
「お参り?」
「いや」恭介は建物の奥を見つめながら答えた。「あの鐘みたいなの、鳴らせないだろ」
「だからやらない?」
ああ、と軽く頷くと同時に、真っ白な猫が後ろからやってきた。猫はまるで彼女のことが見えているかのように彼女を避け、境内の方へしなやかに走っていった。そしてこちらを一瞥して、裏の方に消えてしまった。
「あいつ、神の使いか何かかな」
「ちゃんと参拝しなさいって君に言ってるんじゃないの?」
「じゃあ、仕方ない」こんなこと今まであっただろうかと振り返りつつ、猫の軌跡を辿っていく。
凹凸のある参道には水たまりが点在していた。別に猫は好きでもなかったが、なんとなく威嚇してしまわないように水たまりを避けた。周りの砂利は泥水で半身浴をしながら雨に打たれている。境内は湿っている所為か、いつもより木の匂いが強く感じられた。
恭介は参拝の作法は何も知らなかったが、取り敢えず太い縄を適当に揺らし、手を合わせた。
『あなたにも隣の彼女が見えているのか?』目を閉じている間は、名も知らぬ神にそう問いかけていた。
神社を出て少し横道に逸れると、大通りが近くなっていることが耳で分かった。車が湖を滑っているかのように飛沫を飛ばす音だ。不規則に右から左から、耳を駆け抜けていく。ヘッドライトが路面の水滴を光らせる景色が、自然と浮かび上がった。先ほどの神社がここからさほど離れていないのに静かだったのは、神社を囲む木々が防音壁になっていたからだろう。
「さっきの神社の猫さ」彼女が言った。「小学生の時、会ったことある気がする」
「猫の顔なんて覚えられるのかよ」
「ちょっとは分かるかもしれない」
「じゃあ、お前ならこれは分かるんじゃないか」
恭介は側の電柱を指さした。迷子の猫、というポスターが貼ってある。梅雨の時季であることを考慮してラミネート加工にしてある。ところがポスターにある愛猫の写真はモノクロで、金をかけるところが間違っているだろう、と指摘したかった。
彼女は唇に指を当てて「うーん」と考えた後、「雨が降ってるときに外を歩いてるんなら」と言った。
「まあ、善処してあげてくれ」
自分の家に帰る途中、雨と土がブレンドされた匂いが鼻を掠めた。横を見ると、一戸建てに挟まれた更地があった。そこは恭介がこの町に引っ越す少し前に、家が火災で全焼したという土地だった。今は気温も上がってきたので、人間の許可を得ずに勝手に植物の生態系がつくられている。その自然界に抵抗するように、「国有地」と赤で書かれた板が、一人で泥の上に立っていた。見たことのない巨大な植物たちが、気持ちよさそうにシャワー浴びていた。
周りを歩く人間とは対照的だ、と恭介は考えていた。
夕方よりもいっそう激しくなった雨音で目を覚ました。枕の隣にある携帯を見ると、午前三時頃だった。
布団を取り、ベランダのガラス戸を引いた。雨は町を襲っていると錯覚させるほどに降り注いでいた。スリッパを履き、柵から手を伸ばす。一粒一粒が手のひらに確かな感触を残していく。心なしか夕方よりも重い気がした。空を眺めてみるが、真っ黒で雨雲があるのかどうかさえ分からない。その暗闇が夜のエネルギーか何かを注ぎ込んでこの重さになっているのか、と妙に納得した。
「よっ」隣にいる彼女が手を振った。「夜更かし?」
「いや、雨音で起きた」
「ああ、いいよねえ、これ」
彼女は雨を両手で掬ったりしてはしゃいでいた。考えてみると、こうして夜のベランダで彼女に遭遇するのは初めてだった。彼女は柵に腕を置くふりをして、水没しかける町を見物している。どうして雨がそんなに好きなのか、と訊いたことはあった。しかし理由は自分と同じだった。雨はすべてを流してくれる。なぜ彼女が自分の前だけに現れるのかなどどうでもよくなる程に、心を洗われる。
恭介は小さな椅子の上にある灰皿を床にどかし、腰掛けた。素材がプラスチックなのでひんやりしていた。腕を組んで目を瞑るとほかの感覚が研ぎ澄まされていくようだった。雨は強いが風は感じない。天からまっすぐ落ちて弾ける音が幾重にも重なってこうなるのか、と想像する。
「もしかして寝てる?」
「いや。こんなところじゃ眠れない」嘘をついた。
「私は雨の音に囲まれたらすぐ眠れそうだけどな」そう言って耳の後ろに手を当てた。「まあ、これはちょっとうるさいかな」
ベランダのすぐ下には街灯がある。暖かみを持つオレンジ色が雨の一部をくっきりと浮き上がらせている。まるで舞台で役者に当てるスポットライトのようで、今あそこに人が来たらしっくりくるだろうな、と思った。だが、真夜中の雨に打たれながら住宅街を散歩するような人はいなかった。
朝の雨は霧のように細かかった。ぱらぱらと地面に落ちる音は静かで、穏やかなホワイトノイズになっている。その音が心地良く、恭介は傘をささなかった。一般的にも、さすほどの雨量ではなかった。
顔を上に向けると少し眩しかった。口をあけて息を吸い込んでみる。心なしか体中が潤った気になった。もう一回やってみたいところだったが、タイミングが悪く向こうから通行人がやってきて思いとどまった。
金持ちそうな家の前には花壇があった。季節に合った紫陽花が咲いていたが盛りにはまだ早く、水色と紫色が淡いグラデーションをつくっている段階だった。葉の表面には微細な水滴が付着していた。なんとなくそっと手で拭う。
「おはよう」彼女も側で表面を拭った。「傘なくても大丈夫だね」
「おはよう」
今日の雨もなかなかいいな、などと言おうと思ったがとどまった。彼女が現れる雨は決まって心地良いのだ。以前はそのような言葉を交わしていたが、もはや二人の間で口にする必要はなかった。
「そうだ」恭介はポケットから煙草の箱を出した。「火、貸してくれよ」
彼女は硬直したが、少し間を置いてから冗談だと気づいた。
「ごめん、火の玉とかは出せないんだ」
「なんだ、そうか」恭介は頷いて、箱から一本取り出した。雨に濡れないようにどこかの家の塀に寄りかかり、指に挟んだ煙草をくわえる。
雨は徐々に落ち着いてきていた。雲間に細切れの日が差し込み、地面に模様をつけていた。
「というか、煙草吸うようになったんだね」
「吸魔がやってきたんだ」ライターの炎をかざす。
「うまいこと言ったつもり?」彼女は少し歯を見せた。
恭介は空を見上げ、雨雲に向かって煙を吹いた。
「うまい」
雨はタオルを限界まで絞ったように、水滴をいくつか垂らして止んだ。
雨が上がったあと気温は初夏らしくなり、アスファルトから雨上がり特有のむせ返るような匂いが立ち上っていた。その匂いから逃げるようにして、恭介は住宅に囲まれた公園に行った。
公園はかろうじてサッカーができる程度の広さだった。ジャングルジムも砂場も滑り台もあるものの、濡れている所為か遊んでいる子供はいなかった。そういう訳で、公園の真ん中で煙をくゆらせてちょっとした背徳感を味わってみたりした。連日の雨が作った水たまりは波一つない湖面のようで、美しい雲と青空を反射していた。
恭介は木陰のベンチにいる。木は雨を遮るので、それほど濡れていなかった。その日は他にも、汗をかいた缶コーヒーを飲むなどして晴れを満喫していた。午後になると遊具も乾き、子供たちが現れて賑やかになっていた。
気温のピークがとっくに過ぎて落ち着いてきた頃だった。夕立が始まった。灰色に乾いていた砂の地面が点々と黒に浸食されていく様子を眺めてから、恭介は立ち上がった。吸い殻をねじ込んだ缶をゴミ箱にシュートして、避難を開始する。公園で遊ぶ子供たちは喜び混じりの悲鳴を上げていた。
夕立は立ち上がりが速い。あっという間にずぶ濡れになったが、それでもまだ慈悲なく降り続ける。道を折れてまっすぐ走ると区立図書館がある。その図書館の薄暗い屋根の下に入った。そこには恭介の他にも避難民がおり、冷ややかな表情で外を見ていた。
昨日とは違い、服だけでなく空気も湿気で粘りつくように感じられる。靴も走ってきたときに浸水してしまい不快だった。図書館前の道には準備していた傘を差して歩く人や、傘も差さずに駆け抜けていく人がいた。傘を差すか差さないかで雨音の感じ方は大きく変わる。今は音が図書館全体に響きわたり、耳を覆い尽くしているのに解放的だった。
そうやっていつものように今回の雨を観察していた。
そのなかに潜む不自然さにやっと気づいたのは、夕立が収まってからだった。
翌日も雨が降っていた。
今日も神社に行った。あの真っ白な神の使いが側を通り過ぎたが、一瞥もくれなかった。電柱の探し猫のポスターは剥がされていて、例の国有地は「建設予定地」と黒で書き直されていた。町中を歩いて彼女の姿を探してみるも見つからなかった。恭介は結局諦めて部屋で天井を見つめていた。
彼女はいなくなった。別にそれは「彼女と別れたとき」のような悲しさではなかったが、楽しみを共有する仲間がいなくなり惜しくはあった。
彼女と初めて会ったのは大学が決まって一人暮らしを始めた春だった。
春の雨は他に比べて少し柔らかい気がして、一番好きだ。彼女はそんなことを言った。恭介が町を知るために外をうろついているとき、彼女は雨の話ばかりしてきた。それは全く嫌なことではなく、共通の趣味の、しかも同世代の友達を見つけたようで嬉しかった。彼女がどういう存在なのかもそのとき知った。それでも静かな外の景色を眺めていると、そんなことはどうでも良くなった。
あの日から二年と少し経った。最後に彼女と話したことを思い出す。細雨の降る朝だった。初めて雨の中で煙草を吸った。
恭介は少し考えた。彼女はこの町に暮らしている――少なくとも、以前は暮らしていた。彼女は雨の日だけ現れて、煙草の日を境に姿を消した。
はあ、と溜息が漏れた。やはり彼女がいなくなった原因は分からない。
恭介はのろのろと立ち上がり、ベランダのガラス戸を引いた。今日の雨はなんだか物足りなく、観察する気分にはならなかった。ただ雨音だけがやけに鼓膜を震わせるノイズとして気になった。柵に腕を置き、もう一度彼女の事を考える。二年余りも一緒にいたのにお互い二人称しか使わなかったな、ということに気付いた。それも仕方のない事だったが、せめて彼女に名前でも付けようかという遊び心が湧いた。雨が降る度思い出すために。
雨の日だけ現れる霊だから、レイン。
そんなくだらない話をしていたら、お前はなんて言ったかな。
想像するだけ無駄か、と思って恭介は椅子に座ろうとした。椅子の上の灰皿は、なぜか水で満たされていた。
短い小説ですが、感想などありましたらぜひお気軽にくださいね。




