第七話 最初の魔法はトイレの臭い
自ら名乗ることで、おっさんは開き直った。というか、現実を直視するのを止めた。
悩んでも仕方ない。困ったら困った時に困ろう、と投げ出した。
おっさんはユーリ(中身はおっさん)であることを許容し、まぁ大丈夫だろういけるいける、程度の楽観的認識の中に押し込め、色々と想像出来る不都合からあからさまに目を逸らしたのである。
具体的には、生理とか来たらどうしようとかそういう魂が削れそうな恐るべき未来を断じて想像したりしない、とかそういう類の現実逃避であった。
アーアー聞こえなーい。
そんなことより美少女だ。
自殺志願者だと勘違いしたユーリを引き止めようと駆け寄り、うっかり泉の中へと突き飛ばして溺れさせ、すぐさま救出して自宅にて介抱したという、微妙に対応に困る恩人──狩人のマリィ。
とても綺麗な金色の髪を腰の辺りまで伸ばした、ユーリより頭一つ分以上背が高い女の子で、二人が正面から向かい合うと丁度ユーリの目の前にマリィの胸がある。
その胸は豊満であった。
中身がアレな現状のユーリとしては、最早抗いようも無く視線はその部位に釘付けと為らざるを得ないが、そこは流石に女神の宿っていた身体だと言っていいのか、視線がスケベ根性丸出しになったりはしない。
おっさんボディであれば、情状酌量の余地なく懲役ものの視線でも、ユーリボディというフィルタを通すと全く無害な視線へと浄化される。まさしくチート能力。なんという無駄遣いか。
とはいえ、友好関係を築くことを考えるなら、非常に現実的な能力であるとも考えられる。
見知らぬ変なおじさんと自分より小柄な可愛い女の子、果たしてどっちと仲良くなりたいか──なんて、問う事すらバカバカしいではないか。
実に素晴らしい身体である、名案だなさすが女神さま名案だコレ。などとあっさり手のひらを返す。
なにしろ、マリィと友好関係を築く、というのは現状での最優先課題なのだから。
無一文で、ほぼ素っ裸──トーガのような衣装かと思ったら、ただの布を身体に巻き付けているだけ(下着すら無し)だったと判明している──で森の中の廃墟に放り出された訳で、マリィと遭遇しなければ遠からず死んでいたかもしれない。いや、死んでた。サバイバル人生ハードモードだった。やっぱりあの女神、ちょっとアホかもしれない。
それに比べれば、ちょっぴり早とちりな美少女にちょっと突き飛ばされたからなんだというのか、むしろ感謝してもいいくらいではないか。
ここはなんとしてもお世話になりたい、居候になりたい、むしろヒモ、ヒモりたい。
それではどうしたものか、とお互いに自己紹介を済ませてから悩み始めたユーリに、マリィの方から提案があった。
「あたし狩人だから、二人分のお肉くらいへっちゃらだから、あたし一人で住んでて寝床も一つだけど、二人の方があったかいし、だからね、あのね」
「──お世話になります」
両手をついて頭を下げると、マリィはあわあわしていた。
どうも、彼女はひとりぼっちだったらしい。ぼっち。どこかの女神さまのようだ。なら、こっちは金髪の天使だろう。
人恋しさが解消された反動からか、実に甲斐甲斐しく面倒を見てくれる。
知ってて当然の常識のような事でも、マリィとユーリの間には大きな隔たりがあるから、なんでそんな事を聞くのかというような質問をユーリは繰り返すことになるのだが、マリィは特に怪しむ事も無く一つ一つ丁寧に教えてくれた。
例えば歯磨きにしても、ここでは木の実を使うようだ。柑橘系の爽やかな味がするそれを噛んで、噛んで、よーく噛んで、吐き出す。飲みこむとお腹を下すらしい。
ほかにもあれこれあったが、極めつけはトイレだろう。
マリィの住む小屋に、個室のトイレは無い。水洗とまでは期待してなかったが、まさか無いとは思わなかったので困り果てたユーリは仕方なく、背に腹は代えられず、何処で出すのか出した後はどうすればいいのかと幼児の如き質問をする羽目になった訳だ。
少し離れたところに質素なそういう設備、端的に言えば粗末なぼっとん便所が用意されていたのだが、済んだ後の後始末についての話でマリィがさらりと魔術について言及した。
生活魔術で身綺麗にするのだと。
初のファンタジー要素との接触が、まさかぼっとん便所だとは予想外だったが、ともかく初めての魔術だひゃっほうと大喜びでやり方を教わり、そうこうしているうちに限界を超えかけたのでそれでは早速、とマリィには離れて貰って用を足し、いざ綺麗にしようとしたところで発覚した新事実。
使えない。
幼い子供でも喋れるようにさえなれば簡単にすぐ出来る、というそれが発動しない。
そして、当たり前だがトイレットペーパーなんてある訳もなく、駅のトイレで気付いた時よりも遥かに困難な状況と、やっぱり自分には魔術なんて使えないという現実のダブルパンチでしょげかえっていると、心配したマリーが颯爽と登場。
嫌な顔一つせず、何も聞かず、さっと綺麗にしてくれた。やはり天使か。
しかし、あれも知らないこれも出来ないという応酬のあれこれが、なにやら彼女の保護欲を刺激しまくったらしく──
「ユーリちゃん、おしっことか大丈夫?」
「だ、大丈夫だから。うう…出来るだけ早く、自分で何とか出来るようになろう…」
「いいよ、心配しないで。いつだってマリィお姉ちゃんが綺麗にしてあげるから」
「マリィちゃん、それは有難いけど、有難いんだけど、うう…っ」
──ともあれ、マリィと友好関係を築き、深めるという当初の目的は、十二分に果たせたような気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「魔法使えねーじゃねーですか!どうなってんですだよ!」
「まぁまぁ、落ち着いてください」
「これが落ち着けるかあ!可愛い女の子に下のお世話される身にもなれ!なれよ!」
「いいじゃないですか、して欲しいからってして貰えるものじゃないですよ?」
「いいのか? あの身体で変な世界の扉を開いちゃってそんな遊びに興じちゃってもいいのか? お?」
「まぁ、私じゃないですから」
「うん、知ってた。そういう女神だって知ってた。ああもう、どうしよう!」
「魔力無いですからね、あの身体。魔力の源が丸ごと、可愛くてちょー有能な女神さまになって天に登っちゃいましたから、仕方ないですね」
「……可愛いからってなに言っても何もされないとか大間違いですぞ? お? 凄い事しちゃいますぞ? あ?」
「おおこわいこわい。まぁ、そのかわり私と直接繋がってますから、魔力は無いけど女神パワーでぱんぱんですよ? ぱんっぱんっですよ?」
「おお~、さすが女神さま。それで、その女神パワー? どうやって使うんですか?」
「えっ」
「えっ」
「使…う…?」
「なにその反応こわい」
「あ、じゃあ、魔力の代わりに使えばいいと思います」
「マジ適当言ってますよねそれ」
「まぁ、試した事は無いですが、神官の使う神聖魔法みたいな? そういう方向性に? なるんじゃないですか?」
「不確かにも程がある!」
「魔法なんて想像力ですよ想像力、それをややこしい手順を踏んで補強するのが魔術って感じなんですよ?」
「想像力……つまり、中二病を再発させろってか」
「なんだか出来そうな気になってきたでしょ?」
「まぁ、試すのはただですしね。いいですよ、女神さまがそう言うならやってみます」
「そうしてください。…ところで」
「はい」
「マリィちゃん可愛いですね」
「あげません」
「是非、私の信者一号に!」
「あげません」
女神さまはトイレとか行かない(確信)