第一話 死して屍、使用後の
ハンドル操作をしくじった筈はない。
確かに少しばかり寝不足気味で、コンビニの駐車場にでも入って仮眠をとろうかとは思っていたけれども、ダンプカーに正面から突っ込むほどではなかった、筈だ。
にもかかわらず、今まさにそういう状況の真っただ中であり、死に際には時間がゆっくり進むように見えるというのは本当だったのだなぁ、と感心する他は無い。他にどうしようもない。手遅れ。死にたくないと泣いて喚くにも時間が足りない、即死しそうなのがせめてもの救いか。
運悪く半端に死に損ったら嫌だな、と考えたのが最後だった。
最後だったと思う。
ああ、つまり夢か、夢オチか、ということはやっぱり運転中に寝てしまったのか。それならそれで、やっぱり死んでるんじゃないか。ダンプの運ちゃんはいい迷惑だったろう、申し訳ない事をした。
ため息をつきたかったが、どうにもあいまいな感じだ。呼吸をしていないような気がするし、そもそも体の感覚があやふやで、立っているのか座っているのかも分からない。目を閉じているのか、それとも見えないだけなのか。とにかく何か見えれば、現状が分かってくるんじゃあないかと思いたいんだけれども。
と、「目」を意識した途端、見えるようになった。
なんだ、目を閉じていただけか…という安堵も、目の前の光景に吹っ飛んでしまう。
女神がいた。
すごい美女だ。自分の語彙の貧弱さに絶望する、死ねばいいのに。もう死んでるんじゃないかと考えていたところなんだけれども。
綺麗だった。仄かに紫がかった銀髪も、紫水晶のような瞳も。白桃色の肌には傷一つ無く、ふっくらとした唇は花の蕾のようで──
「結婚してください」
「え、無理」
無理か!
**********
「──すいません、錯乱してました」
「もう大丈夫ですか? その、頭とか」
「その部位には自信がありませんが、まぁ、目を合わせなければなんとか」
「…駄目そうですね」
「ええ、まぁ、昔からなんですけど」
胡乱な目を向ける銀髪の美女から頑なに目を逸らし、取り繕うように周囲を見渡している作業着姿の中年男が居るのは、全てが芸術品のように手入れされた庭園の中にある四阿。西洋風のそれは確か、ガゼボというのだったか。透き通るような白色の石材で出来たそれは実際にも透き通っているのか、屋根を通して幾分か抑えられた陽光を感じた。
「おひとつどうぞ」
「あ、こりゃご丁寧に…」
無精髭を撫ぜて、夏場は暑そうな場所だなぁと、美女と向かい合っている現状からの無駄な逃避を試みるおっさんの前に、そっと置かれたのはティーカップ──ではなく、無骨な湯呑茶碗。
「いやいやいや、おかしい、ここで魚漢字湯呑とかおかしい」
「玉露ですよ?」
「ほうじ茶の方が好きなんですが、いや、そうじゃなくて、この場所でそれは」
そこまで言いかけて、はたと思い出したように我に返った。
「ええと、そう、なんだこの状況」
「あ、やっとそこ聞いてくれます? もう、いきなり結婚とか申し込まれたからびっくりしちゃって、一時はどうなる事かと思いましたよ」
歴代横綱湯呑を両手で無駄に上品に持ち上げ、ずずーっとお茶を啜る美女。
「はじめて飲みますけど、貴方の世界のお茶も美味しいですね」
「それにしちゃあ、えらく堂に入った飲みっぷり…でした…が……今なんて?」
「貴方の世界のって」
「つまり、これは、あれか。死んで、異世界で、あれな感じの、あれか」
「それです。察しが早くて助かりますね」
「ええ、まぁ、なんていうか」
魚漢字湯呑を手にとって、茶葉に合わせてか低温の湯を使ったその玉露をぐっと飲み干し、ごんと乱暴に置くと、
「うわぁ…引くわぁ…」
腹の底から、一言吐き出した。
「そういうのは、もっと若い子がやるもんじゃないんですかねぇ…見ての通り、もう随分おっさんですよ。ほら、この腹見て腹。…あ、いや、やっぱ見ないでください…」
ぺんぺんと軽快なビートを刻んで見せるが、まっすぐ見つめてくる美女の視線に耐えかね、己のみっともなく膨れた腹にちょっと死にたくなるが、そういえばすでに死んでいたような…。
などとぶつぶつ言いながら腹を抱えて丸くなるおっさんを特に気にする事もなく、目の前の美女は空になった魚漢字湯呑へほうじ茶を注いで、あらこちらもいい香りですねと頷くと続けて一言。
「若い命は世界の宝ですからね、貴重なんです」
「…なんでしょう、酷い話の気配が…」
「世界の損失にならない程度の命なら、いっそのこと適当なとこで切り上げてもらって、その魂を他で再利用っていうか」
「酷い話だな!」
「お陰様で、私のような成り立ての若い女神にも簡単に譲って貰えました。あ、これでいいならあげるよ? どうぞ! って」
「軽い! ぼくの人生軽いな! ひとの命をなんだと思ってるんだ!」
「そうですよね…いくらなんでもタダで貰う訳にはいきませんよ」
「そうでしょうとも! いや、そういう問題でもないかな!」
「さっき、菓子折持ってお礼のご挨拶を」
「菓子折!? おいこら自称女神さま? めちゃくちゃ可愛いからって何やっても許される訳じゃ…」
あまりと言えばあまりな話に、そりゃいくらなんでもと立ち上がるが、
「お願い、聞いて貰えます?」
「き、聞きましょう!」
そっと手を合わせて小首を傾げ、上目遣いで問いかけてくる潤んだ瞳に、即座に折れた。
声が裏返るほど動揺し、耳まで真っ赤になっているのが自覚できる程に顔が熱い。思わず結婚を申し込んだのは気の迷いではなく、今なお持続する一目惚れであった。
「あー、いや、その、と、ともかく、ともかくです、聞くのは勿論です、ええ聞かせていただきますとも! それはともかく、まずは色々と聞きたいことがあるんです。ちゃんと、お願いを聞けるように、まずは、その、今の状況を把握させてください」
「ええ、構いませんよ? 時間は充分ありますから」
「まず、まずですね、ぼくは死んだんですよね?」
「そうですよ、事故死ですね。即死です。具体的には運転中の軽自動車に対向車線から速度超過のダンプが突っ込み正面衝突、その直後に今度は後続のダンプが追突。ぺちゃんこです」
「人の死に様を軽く言いますね? 可愛いけども!可愛いから許しますけども! 男だったら殴ってますよ? 椅子で!」
「じゃあ私は大丈夫ですね、よかった可愛くて」
「あれ、なんだろうこの気持ち、今新しい何かが芽生えた気がしますよ?」
確かに可愛いけど、ちょっとイラッときた。一目惚れと合わさって、何か新しい扉が開きそうである。
「そ…それで、さっき、”いっそのこと適当なとこで切り上げてもらって”とか言ってましたが、それってもしや、実はもうちょっと長生きする筈だったけどここらで死んでもらう事になりました的な、そういうことだったりとか、しませんよね?」
「えっ」
「えっ」
「長生きしたかったんですか?」
「ちょ、いや、そりゃ、まぁ、その…そうでもなかったんですが、しかし、天涯孤独の身の上って訳じゃなかったですから、未婚といえども家族の生活とか、いろいろありますし」
「心残りですか…それもそうですね、ありますよね…死後、どんな風になってれば安心できますか?」
「え? あ、まぁ、そうですね、率直にいえばお金ですね。金に困らず、健康でってのなら、それこそ生きてる時から思ってますよ。普通に」
「お金と健康ですか…そのくらいなら、大丈夫です、任せてください」
「いやいや、えらく簡単に言いますけど、生命保険でとかそういう話ですか?」
「あっちの神様にお願いしてきます。そのくらいなら平気です、簡単です、ちょっと金運とかを上げて貰うだけですから」
「いかにも神様っぽい! って、ちょっと!」
善は急げとばかりに立ち上がり、ちょっと待っててくださーいとぱたぱたと走り出す後姿を、
「…ミニスカートだったのか…丈短けぇ…」
白く眩しい太ももに目を奪われ、ただ見送ったのであった。