大好きな宰相様の睡眠時間を守るために
◇より下はヒロイン視点 ◆より下は宰相視点です。
◇
コツコツと、つややかな暗緑色の床石と白い石壁でできた廊下にヒールの音を高らかに響かせながら突き進む。前にいる者は足音に振り返った瞬間に強張った表情で即座に廊下の壁に張り付くようにして道をあけ、出会い頭に進路が交差しそうになった者は必死の形相で踏みとどまる。
それはもう見慣れた光景で、今となっては道を塞ぐ者など一人もいない。
石造りの王城、その廊下に等間隔に配置された天井近くまである縦長の窓から差し込む明るい月明かりの中、目的の部屋の扉が体の真横に来たときに両足を揃えて立ち止まる。くるりと体の向きを90度かえて扉の真正面に向き直ると、踝まである臙脂色のドレスの裾がわずかに翻った。ベルベット地でできた飾り気のない長袖の侍女用の制服は動きやすく、袖先のパリッとした白い生地と、そこに留めるドレスと同生地のくるみボタンもとても気に入っている。
丁寧に磨かれた飴色の木製扉を見据え、すうっと短く息を吸い込み、一瞬の間を置く。
鋭く息を吐き出した。
コンコッチャズバァン!!
今夜も良い音が出ました。
ノックの音が終わらないうちに扉を開け放つ至難の業。この城で、いえ、この世界でわたし以外にできる者などいないでしょう。一歩踏み入れた広い室内を見回し、呆れ顔を向ける人に向かって型通りのお辞儀をする。
「閣下、今宵は月が綺麗でございますよ。それと、何度も申し上げますが、睡眠時間を削ってまで厨房の片隅や男子更衣室、王様の寝室などで隠れてお仕事をなさるのはおやめくださいませ。」
頭を下げたまま閣下のお言葉を待っていると、はぁーという細々とした小さなため息が聞こえてきた。
「よくここに入れた・・・いや、王の寝所も無断で入るお前に言っても無駄なことか・・・」
少し上体を起こして閣下を窺うと、軽く額を押さえるようにして目を瞑っている。絵になる。さすが閣下です。
「閣下、ご心配には及びません。この国の王様お妃様をはじめ、みなさま閣下のことには協力的ですから。」
睡眠不足の閣下を想うみなさんがどれほど協力的か、きっと閣下はご存知ないのですね。けれどいつの日か、必ずやみなさんの想いが報われる日が来るとわたしは信じています。
「・・・そう言えば、私が賊に攫われたときもお前は来たな。」
閣下のその言葉に、わずかに肩が跳ねて全身が強張る。
わたしが犯した、ただ一度の過ち。
「あ、あのときは申し訳ありませんでした。まさか身代金を要求されていたとは知らずに、つい、いつものように・・・」
「まぁ、おかげで私は助かったのだが、誰も止め・・・あぁ、いや、この話はやめておこう。」
ただでさえ閣下誘拐事件の失態を思い出してヘコんでいるのに気づかれてか、それ以上は言わずにいてくださるなんて、さすが閣下です。この国を支える宰相様なだけはあります。大好きです。
緩く頭を振る閣下を見つめながら、この世界に来たときのことを思い出した。
この世界にぽとっとやって来てそろそろ三ヶ月。
最初に出くわしたのが閣下で良かった。本当に良かった。
閣下に出会えたのなら、あの耐え難いほどの孤独を感じた時間も無駄ではなかったのです。
薄い部屋着とスリッパで、暗くて肌寒い洞窟内を時間の経過もわからないまま無闇に彷徨いすぎてぼろぼろのふらふら、虚ろな視線と泥と異臭にまみれて不審度満点。捕まって拷問されても仕方ないような格好だったはずなのに、遭遇した閣下は言葉の通じなかった不審者を自宅のお風呂に入れてくれたうえ、ご飯まで食べさせてくれました。
そんな状況で、当然のように閣下中心の世界になりつつあったわたしの世界に、さらに追い討ちをかけたのも閣下ご自身でした。
食後、こっくりこっくりと舟を漕ぎ出したわたしを大きなベッドまで運び、柔らかな布団に寝かせて眠るまで手を握っていてくれたのですから。
しかも夜中に目覚めてしまい、一人で暗くて寒い洞窟を思い出して震えていると丁度様子を見に来たらしい閣下に ま た も 手を握ってもらえたのです。
・・・ということで、これで閣下を大好きにならないなんてことがあるでしょうか。いいえ、あるわけがありません。あるはずがありません。それ以外の答えは認めません。
そんなわけでその夜、閣下の手の温もりを感じながらわたしの生き方は決まったのです。
わたしはここで閣下のために生きていこう、と。
いま思い出しても、あのときの閣下の手の温もりも大きさもはっきり思い出せます。
うっとりと辛いけれど美しい思い出に浸っていると、閣下が書類を片づけはじめました。
良かった。今日はもうこれで仕事を切り上げてくださるみたいですね。いつもなら、もう少しだけ、とかおっしゃってごねられるのに。
ほっと気を緩めたその瞬間、閣下が別のファイルを取り出して・・・
「閣下、お選びください。自然な流れでご就寝なさるのと、強制的に眠らされるのと、どちらが、お望みですか?」
にっこり微笑み、最後にわずかに首を傾けた。
どうしましょう。
王様の寝室、厨房横の食材倉庫、男子更衣室、バルコニー裏の物置、暖炉上の煙突などなど、目ぼしいところを隈なく探したのに今夜は閣下がいらっしゃいません。由々しき事態です。
閣下のご不在を確認し、導き出された結論は――閣下はまた、どこぞの小悪党に攫われてしまったということ。
仕方ありません。閣下のベルトに人知れずこっそり仕掛けた発信機がわりの魔法を起動させることにいたしましょう。
「本当に、ここに閣下がいらっしゃるんですね?」
所々にある松明が照らし出す剥き出しの土壁に挟まれた狭い通路を進みながらあたりを見回す。
後ろに流れて行く変わりばえのしない赤茶けた土壁と、湿った土の匂い以外は特に何も無い。
案内役として前を歩いていた男が、歩きながら顔だけで振り返った。
「何回も言わせんなよ、ったく。まあ何回も聞きたくなるくらい不安なのはわからねぇでもねぇが、確かにここに宰相様はいらっしゃるぜぇ?」
少々下品な笑い声を上げ、男がまた前を向く。
「にしてもあんたもドジだなぁ?こんなとこまで一人でのこのこ来ちまって、あげく捕まっちまってよぉ。アジトの前であんなに堂々としてちゃ見つからない方がおかしいってもんだぜ。」
酔ったようにふらふらしながら進む男の足が、通路の脇にある地下への階段前で立ち止まった。
◆
じっとり湿った空気と鉄柵の錆びた匂い。腰掛けようかと思った木箱は黴が生えていて、立ったままでいることにした。
さて、どうやって逃げるべきか。
あたりを見回したが松明に照らされるだけの牢の周囲には誰もいない。おかげで情報を引き出すこともできないときた。
ふむ。なにも経験豊富というわけではないが、こういう場合は一人くらい見張りを置いておくのが常ではないのか。それも多少気が緩んでぺらぺら喋るやつを。まったく気が利かない賊どもだ。気が利かないといえば、ここに押し込まれるまで視界と口を塞がれていたとはいえ、無駄口をたたいてくれるやつがいなかったということもその一つだろう。
仲間に頭の切れるやつがいるのか、それともただの偶然か。
まぁいい。まずはここがどこかが問題だろう。
体感した時間からみて町をいくつも越えたとは思えない。おそらく城からさほど離れていない場所。踏みしめた靴裏の感触、土臭い冷気・・・郊外の洞窟か廃坑あたりか?
それならと地図を思い浮かべ、いくつか思い当たる場所に見当をつける。
次に目的だが、身代金が目的か、私の命が目的か。私の命が目的ならこんなところで生かしておく意味はないから却下か。となれば、やつらは城と連絡を取るだろう。すでに取った後なのかはわからないが・・・
しかし、これは少々困ったことになったな。
幾度か誘拐の経験があるといっても、私には魔術の才も腕力もない。
自力での脱出を諦め、やはり助けを待つしかないのかと、落ち込んだ溜め息を吐きそうになったときだった。
「閣下!」
悲愴なその声に顔を上げると、明かりを持った男の影から小柄な人影が飛び出してきた。
走り寄って太い鉄柵を掴んだのは、ここにいるはずのない私の侍女、トーコだった。
長い黒髪に思慮深そうな黒い瞳。
心配げに見つめる目には涙が浮かび、心細そうに震える唇がもう一度私を呼ぶ。
土を踏む音とともに賊がトーコの後ろに近づき、舐めるようにその背を見やる。
その仕草が不快で、思わず眉間に皺が寄った。
「あーあ、かわいそうになぁ、こんなところまで宰相様を追っかけてきたばっかりにこのお嬢さん、これから痛い目にあうんだぜ?ぷっ、あっひゃひゃひゃ!」
何が可笑しいのか腹を抱えて笑う賊を尻目に、トーコが鉄柵にこつりと額を押しつけた。
「心配、しないでくださいね・・・?」
弱々しく微笑み、そう囁いたトーコが牢から離れるのを見て、思わず手を伸ばしそうになる。
そして、トーコの細い腕を賊が掴もうとした、その瞬間だった。
「ぉがっ!??」
わずかに翻った臙脂色の裾が落ち着くのと、奥の壁に激突した賊が昏倒して地に落ちるのとはほぼ同時だった。
にっこり笑いながら振り返ったトーコの右手には1本のはたきが握られている。
「閣下、わたくし少しお掃除して参りますわ。」
こんなときでも礼儀正しくお辞儀して通路の奥へ向かう仕事熱心な侍女を誰が止められようか。
その後、奥から聞こえてきた絶叫や爆音に、けっこうな大所帯だったことを知ったわけだが、もうもうと立ち込める煙の中から浮かび上がるように現れた彼女の姿はいつも通りで、塵一つたりとてついてはいなかった。
◇
閣下の睡眠を邪魔するものは何人たりとて許しはしません。
少しばかり人数が多い気がしましたが、閣下の睡眠時間のためには取るに足りない些細なことです。
賊のボスから至極丁寧に譲り受けた小さな鍵を持って通路を戻ると、閣下が牢の中で所在無さげになさっておいででした。当然です。こんなところで馴染んでおいででしたら即座に賊どもを血祭りにあげてやりましたとも。
鍵を使って牢を開けると、閣下の後ろのしょぼい木箱にカビが生えているのに気づきました。
なんということでしょう。柔らかな椅子もなく、ましてこんなものを閣下のおそばに置くなんて・・・もっと念入りに後悔させるべきでした!
・・・そうですね、今からでも遅くはありません。もう一度、と後ろを振り返ろうとしたとき。
「あまり無茶はするな・・・」
そっと引き寄せられ、呟くように耳元でぽつりと言われた言葉に動揺するなというほうが無理でしょう。かっちんこっちん、というものを初めて体験いたしました。これは動けませんね。動いたら死ぬ気がします。肉体的に、ではなく精神的に、という意味で。
覆いかぶさるように抱き締められ、閣下の顎がのった肩がこそばゆいです。まわりがこんなところでなければ即座にベッドインしてもオッケーなのですが、ここはいささか不衛生すぎます。それにきっと閣下はただ心配してくださっただけな気がします。とてもそんな気がします。ええ、とても。
「そうおっしゃるなら閣下も易々と敵の手に落ちないでくださいませ。」
少しがっかりしながらご注進申し上げると、閣下が小さく笑ったようでした。
「私が捕まったら、またお前が助けに来てくれるんだろう?」
閣下が動く度こそばゆくなる体を知ってか知らずか、腰に回った閣下の指先にわずかに力がこもって、さらにこそばゆくなる。
「当然です。わたくしは閣下の侍女ですから。」
少し躊躇ってから、ゆっくりと閣下の背中に腕を回していく。嫌がられたら即引っ込める用意をしながら回しきった腕は、体をさらに密着させ、彼の心に少し近づけたような気になった。
今日も今日とて勢いよく扉を開けると、呆れた顔をしてこちらを見つめる閣下と目が合った。
「よくここがわかったな・・・」
「当然です。わたくしは閣下の侍女なのですから。」
月明かりに煌く王城の裏庭の隅の隅。植え込みの脇にある小さな倉庫に閣下はいらっしゃった。まさか一度見つかった場所は探さないとでもお思いなのでしょうか?だとしたら、甘いですね。
にやりと笑ってみせると、溜め息を吐いた閣下が書類を片づけはじめて一瞬これで終わりかと心が躍る、が、そこは前例があるので注意深く、物言いたげにすぐ傍で見つめ続ける。
「ああ、お前の言いたいことはわかっている、今日はこれで終わりだ。」
確実に、絶っ対に鞄に仕舞ったのを確認してほっと息を吐き出した。あとは型通りのお辞儀をして本日最後のご挨拶を申し上げるだけである。そうしようと頭を下げたところで、角材の上に腰を下ろしたままの閣下が手を伸ばしてきて、あっと思ったときには膝の上だった。
は、速いです閣下!色々速いですよ!仕事とプライベートの切り替えも速ければ手も早いとか、そんなの閣下じゃありません!それにわたしは押すほうが好きなんです!
やたら積極的な閣下との攻防が日々白熱していく中、わたしはあることに気がついた。
わたしが閣下の睡眠を邪魔してたらダメじゃないのー!!