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『ぬいぐるみ依存症と綿の国』抱きしめるたびに遠のく世界

作者: 比古狭霧
掲載日:2026/06/21

第一章 やわらかい世界のはじまり


なぎは朝の光が苦手だった。


窓から差し込む白い光は、部屋の角をゆっくりとぼかしていくようだった。机の縁も、壁の継ぎ目も、自分の肩の線も、どこかで繋がって薄れていく。学校でも家でも、人の声は皮膚のすぐ下で小さな棘のように残り、視線は触れられたあとにじんわりと熱を残した。息をしようとすると、胸の奥で何かが詰まる。唯一、変わらないのは、幼い頃から抱き続けているぬいぐるみだけだった。


放課後の廊下を歩くとき、遠くで誰かの笑い声が転がってくるたび、凪は自分の体がわずかに縮むのを感じた。誰かに話しかけられる前に、部屋に戻りたかった。名前を呼ばれたのに、返事が遅れて…また変に思われてるかも。そんな思いが胸をよぎる。家に着くと、ドアを閉めた瞬間、沈黙が少しだけ軽くなる。


ぬいぐるみを抱き寄せ、頰をその古い布に押し当てる。


小学校の低学年の頃、誰にも言えずに一人で帰る道で、凪は初めてこのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。そのとき、古い布が頰に触れた感触が、胸のざわつきをそっと押しとどめてくれたのを覚えている。


「この子がいれば、誰にも見つけられない」と小さな声で呟いたあと、すぐに自分の声が恥ずかしくなって、ぬいぐるみの耳に顔を埋めた。耳の先が擦り切れ、腹の縫い目がところどころ緩んでいる。指先で縫い目をなぞると、綿の粒がわずかに動く感触が戻ってきた。そのときだけ、世界の角が少し丸くなる気がした。ぬいぐるみの温もりが、胸のざわつきを静かに包み込む。


夜になると、胸の奥で不安がゆっくりと膨らむ。理由ははっきりしない。ただ、息をするたびに何か重いものが沈んでいく。凪はぬいぐるみの耳に顔を埋め、目を閉じた。すると、部屋の空気がわずかに変わった。光が柔らかくなり、音が遠のく。触れていないのに、指先に綿のような温かさが残る。彼女は息を止めたまま、その感覚に身を預けた。


翌朝、ぬいぐるみを抱いたまま目を覚ますと、机の上の時計の針の音が、いつもより遠くに聞こえた。文字盤の数字が少し定まらない。凪は指で自分の手首を軽く押してみた。感触はあるのに、自分の体が少しだけ離れているような気がした。


それから、ぬいぐるみを強く抱きしめるたび、部屋の輪郭がゆっくりとぼやけていく。白い光が壁から染み出すように広がり、音が少なくなる。そこには痛みを突き刺すものが何もなかった。ただ、綿の粒が静かに揺れるような、柔らかな気配だけがあった。


凪はそれを、ぬいぐるみの縫い目の奥に開く小さな隙間だと感じ始めた。指先で縫い目に触れると、柔らかな光がひとつ、そっと応える。冷たくはなく、子どもをそっと撫でるような温かさだった。抱きしめるだけで、ほんの少しだけ息が深くなる。


学校の机の下でも、ぬいぐるみを握れたらいいのに——。灰色に染み込んだ音や光が、遠くに追いやられる。帰宅してベッドに横になると、耳元で小さな音が聞こえてくる。綿が互いに触れ合う、さらさらとした音。それは背負い込んだ感情に、呼吸をする時間をそっと与えた。


しかし、柔らかな安心感に身を委ねる時間が長くなるにつれ、朝の光がますます苦手になっていった。教科書は読めても理解できない。母の声が、別の部屋から聞こえてくるようになる。凪はそれを「疲れているから」と自分に言い聞かせた。けれど、ぬいぐるみの縫い目に触れると、すぐに胸がほどけていく。その優しさに抗う理由が、だんだんわからなくなっていった。


ある夜、凪はぬいぐるみを抱きしめたまま、小さく呟いた。


「ここにいれば……」


願いは白い光に溶け、視界の端がわずかに明るくなった。部屋を持たない心の欠片たちが、胸の底に静かに収められていく。凪はそれらが戻らないよう、ぬいぐるみの重さで押さえつけた。



第二章 現実の色が薄れる頃


足を踏み入れると、最初に届くのは小さな音だった。


さらさらと、指の間をすり抜ける感触。ぎゅっと詰められた芯の冷たさとは全く違う、ふわりとした温かみと軽さ。粒は触れるたびに、重い日常をそっと削っていくようだった。視界の端に、薄い白い膜のようなものが揺れている。指で触れると、ふわりと裂けて、白い粒が流れ込んできた。


凪は恐る恐る膜をくぐった。

白い粒が緩やかに流れ、足元に積もっている。


白い粒が緩やかに流れ、足元に積もる。触れると体が少し浮くような感覚があり、胸の重さがゆっくりと溶けていく。空は薄い白で満たされ、粒が凪の息に合わせて増えたり減ったりした。息が落ち着くと流れが穏やかになり、世界はより静かになる。


「ここは……?」


声を出した瞬間、近くに小さな白い綿玉がいくつか寄り添ってきた。触れると少し温かく、胸のざわつきをそっと吸い取っていく。吸い取られたあと、指の先にわずかな空虚が残った。


凪は驚きながらも、思わず手を伸ばした。綿の子たちは無言で寄り添い、抱きしめるとふわりと温かかった。


視界の端に、靄のような白いものが揺れている。凪が視線を向けると、靄がゆっくりと形を変えた。輪郭ははっきりせず、ただ「そこにある」と感じさせる存在だった。まだ近づいてはこないが、凪の視線を感じ取ったように、靄がゆっくりと揺れた。


「ここにいれば……いいよ」


遠くから、優しい声が届いた。それは凪がずっと欲しかった言葉だった。誰にも責められず、頑張らなくていいと言ってくれる声。


凪は足を止め、流れる層の粒を掬い上げた。指の間をすり抜ける感触が心地よく、時間がゆっくりと伸びていくような感覚があった。学校の喧騒も、朝の光の痛みも、まるで別の世界の出来事のように遠のいていく。


しかし、ふと我に返ったとき、凪は自分の体が少し軽くなっているのを感じた。いや——軽いというより、輪郭がぼやけているような。


「帰らなきゃ……」


そう思うと同時に、胸の奥で小さな抵抗が生まれた。ここにいれば、痛くない。忘れられる。でも、忘れるたびに、何かが失われていくような気がした。


凪は膜の裂け目の方を振り返った。現実の部屋の気配が、薄っすらと向こう側に見える。でも、足を踏み出そうとすると、流れる層の粒がそっと足に絡みつき、引き留めるように揺れた。


その夜、凪はようやく膜をくぐり、現実の部屋に戻った。しかし、ベッドに横になったときも、指の間に残る綿の粒の感触が消えなかった。


翌日から、凪はぬいぐるみを抱く時間が少しずつ長くなった。


そして、膜が現れるまでの時間が、どんどん短くなっていくのを感じていた。教室の輪郭もぼやけるようになり、帰宅して抱きしめるとすぐに流れる層が呼びかけるようになった。



第三章 沈む罪悪感


現実に戻るたび、胸の奥に重いものが静かに落ちるようだった。


綿の流れる層にいた時間は、粒のさらさらとした音と温かみに包まれ、救いのように感じられた。けれど膜をくぐって現実に戻った瞬間、世界の色が急に冷たく、平らになる。母の顔、学校の廊下、友達の何気ない言葉——それらが一斉に距離を取り、凪はその隙間に自分の罪悪感を見つけた。


「今日は休むのね」


母の声は心配で満ちている。凪はうなずくことしかできなかった。言葉にすれば、もっと重くなる気がした。欠席の連絡、心配そうな視線、クラスメイトの噂。凪はそれらを胸の奥にしまい込み、ぬいぐるみの古い布の匂いを頼りに呼吸を整えた。綿の流れる層のなかでは、誰も責めない。現実にいるときは、責められるかもしれない。


学校のカウンセラーの言葉は、紙の上で丁寧に並んでいた。認知行動療法、トラウマケア、マインドフルネス。どれも理路整然としていて、救いの道筋のように見えた。けれど凪には、それらの言葉が遠い場所にあるように感じられた。治療は現実の言葉であり、綿の流れる層の静けさとは違う優しさだった。


「……大丈夫です」

「……平気です」


口から出る言葉はいつも同じだった。ただ、気まずくならないための言葉だった。本当は助けてほしい。けれど助けを求めることで、誰かを困らせるのではないかと恐れていた。弱さを見せることは、凪にとって罪のように感じられた。だから凪は黙り、ぬいぐるみを抱きしめた。


綿の流れる層のなかでは、言えなかった言葉がそっと返ってきた。「ここにいればいいよ」と。白い靄がそっと近づき、凪の肩のあたりでゆっくりと揺れた。綿の子たちは膝元で光りながら、彼女の指に絡みついてくる。優しさは即効性があり、痛みを忘れさせた。忘れることは、救いでもあった。


しかし忘れるたびに、現実の自分は薄くなっていった。名前を呼ばれても反応できない日が増えた。自分の声が遠くに聞こえ、記憶の端が欠け落ちる。授業中に窓の外を見ていると、友達の顔が平らに見えた。凪はその変化に恐怖を感じたが、同時に流れる層の粒の温かさを思い出すと、層だけを残して遠ざかっていった。


ある午後、凪が学校から帰ると、母が部屋の掃除をしていた。床に落ちていたぬいぐるみを、母が軽く持ち上げた。縫い目が少し緩んでいた部分が、母の指に触れそうになった瞬間、凪は息を止めた。


「それは……」


言葉を飲み込み、凪はそっと手を伸ばした。母は驚いた顔をしたが、何も言わずにぬいぐるみを渡した。受け取った手の中で、古い布がわずかに温かかった。そのあと、凪は長い間、ぬいぐるみの腹の部分を指でなぞっていた。縫い目が少しほどけかけているのを感じながら。


母の視線を避けるように床の継ぎ目を見つめていると、視界の端がわずかに揺れた。そこから細い冷たい風が漏れてくる。家族を心配させる自分、学校を休む自分、友達との約束を守れない自分。その重さは、綿の流れる層の優しさと現実の責任のあいだでゆっくりと膨らんでいった。けれど同時に、流れる層に行くことでしか呼吸できない自分もいた。どちらが本当の自分なのか、凪にはわからなかった。


ある夕方、母が部屋のドアをノックした。凪はぬいぐるみを抱いたまま、声を殺して「大丈夫」と答えた。母は目を細め、何か言いかけてやめた。凪は胸の奥で流れる層の粒を探し、そこに小さな温かさを見つけた。けれどその温かさは、同時に重さでもあった。綿の流れる層に沈むほど、現実は遠ざかる。遠ざかるほど、罪悪感は深く沈んでいく。ごめんね、って心の中で繰り返す。でも声には出せない。


そこから冷たい風が少しだけ漏れてきて、現実の音が不規則に揺れた。そこから冷たい風が少しだけ漏れてきて、現実の音が不規則に揺れる。夜、ベッドのなかでぬいぐるみを抱きしめながら、凪は小さく呟いた。誰にも聞かれないように、ぬいぐるみの耳にだけ言葉を預けた。


「ごめんね」


こぼれた気持ちの涙は綿の中に吸い込まれ、流れる層の粒がひとつだけ、静かに揺れた。白い影の靄が遠くでゆっくりと寄り添い、綿の子たちが膝元で光をともす。


現実と綿の国のあいだで、凪の胸の重さはますます深く沈んでいった。



第四章 綿の国の深いところ


綿の流れる層からさらに奥へ進むと、空気がさらに静かになった。


音は遠くなり、足元だけがふかふかと沈む感触を残す。凪の呼吸はゆっくりになり、胸の奥の張りつめが沈む綿床のリズムに合わせて落ち着いていった。深いところには、昔どこかで触れた記憶の欠片が、薄く漂っていた。


そこにいるものは、輪郭はゆるく滲んでいて、声はいつも優しかった。耳に届くと、胸の奥がゆっくりほどけて、ずっと縮こまっていた肩が少しだけ緩む。学校で一日中息を詰めていたような重さが、ゆっくりと溶けていく。心が、静かに落ち着いていく。


白い影は静かに寄り添い、綿の子たちは足元で光る。彼らは凪が隠してきた痛みの輪郭に重なり、その深さでそっと応じた。


「ここにいればいいよ」

「もう痛くないよ」

「誰も責めないよ」


求めていた深さは、胸の奥をほどいていく。白い影は凪のそばに静かに寄り添い、ゆらぎの案内人が深くへと続く道を示した。その声は、凪が胸の奥でずっと求めながら言えずにいた願いの形でできていた。


そこに立つと、世界の手触りがゆっくり遠のいていくのがわかった。触れるものはすべて綿でできているのに、触れると冷たい風が抜ける。名前、匂い、約束——触れるほどに、何かが戻るかと思えば、別の何かが抜け落ちる。


ふと、凪は自分の輪郭が少しずつ薄れていくような感覚を覚えた。この静けさは、安心というより、どこにも自分の居場所がないような、冷たい温度に近かった。


白い影が耳元で囁いた。


「ここにいれば、あなたは守られる」


その一言は、胸の奥に落ちて、凪の重心をそっと前へ押した。けれど奥に長く留まれば、現実の感覚は戻らなくなる。記憶は沈む綿床の中に溶け、名前は遠くへ流れていく。凪はそれを知っていた。


奥の方に、冷たい綿の塊が積もっている場所があった。そこに手を伸ばすと、薄い声のようなものがふわりと浮かび上がってきた。手を伸ばすと、声はふわりと消え、代わりに別の記憶が浮かんだ。幼い日の笑い声、誰かの手の温度、忘れたはずの約束。戻ってきたものもあれば、戻らないものもあった。綿の国は与え、同時に奪う。


どこからともなく、緩やかに波打つ声が届いた。『選ぶのはあなただよ』と。声は自分のもののようにも、別のもののもののようにも聞こえた。


その言葉は優しく、しかし凪の胸に重く落ちた。深く沈めば、痛みは確かに消えていく気がした。でも、沈むたびに、指の先に残る現実の感触が、少しずつ薄れていくのも感じていた。浅く留まれば痛みは続くかもしれない。けれど続けることで、世界は壊れずに済むかもしれない。


凪は沈む綿床の床に座り、ぬいぐるみを抱きしめた。ぬいぐるみの縫い目の奥で、綿の粒の流れが小さく揺れている。白い影は微笑み、綿の子たちは寄り添う。深みの静けさは心地よかった。けれど凪のなかには、母のため息や学校の教室の匂いが、遠くに、しかし確かに残っていた。


「行ったり来たりしてもいい?」と、凪は小さく尋ねた。


ゆらぎの案内人が微笑むと、沈む綿床の粒がひとつ増えた。


「もちろん。あなたの世界は、ひとつじゃないから」


その言葉に、凪の胸の奥が少しだけほどけた。けれどほどけた先にあるものは、まだ見えなかった。



第五章 抱きしめるたびに遠のく世界


ぬいぐるみを胸に押し当てると、世界の角が丸くなり、痛みは静かに薄れていく。柔らかな気配が胸の奥でふわりと広がり、小さな塊がくるくると光る。そこでは時間が優しく溶け、誰も凪を責めない。けれどその優しさは、同時に選択を静かに突きつけてくる。


ある雨の午後、授業中に凪は限界を迎えた。


教師が名前を呼んだ瞬間、声が厚い空気の向こうから届くように歪んだ。教室の壁がゆっくりと溶け始め、白い柔らかな気配が床から這い上がってくるのが見えた。友達の顔が、次々と色を失い、平らな白い影に変わっていく。凪は自分の手を見下ろした。指の輪郭がぼやけ、まるで綿の粒になって流れていくようだった。


「凪……?」


誰かの声が、遠い遠いところから聞こえる。

でも、もう、凪という名前が自分のものだという実感がなかった。


胸の奥で、柔らかな気配が甘く囁いた。


「ここにいればいいよ。もう、戻らなくていいよ。」


その声は優しく、母の声とは違う、誰にも責められない優しさだった。


現実に戻れば、母の心配そうな目や、小さなため息、「今日も休むのね」という言葉が待っている。誰かを失望させてしまうこと、背中に冷たい視線がまとわりつくような重さ、毎朝訪れる眩しすぎる光——


忘れてしまえば、

それで済むのかもしれないと思った。


このまま消えてしまえば、傷つけることも、傷つけられることもなくなる。その思いは、静かに胸の奥へ染み込んでいった。息が浅くなり、指先が冷たくなっていく。視界が白くぼやけ、耳の奥で綿の粒がさらさらと流れる音だけが、どんどん大きくなっていった。


誰かが肩を揺すった気がした。でも、その感触はもう、遠い世界のもののようにしか思えなかった。


夜、ベッドの中でぬいぐるみを抱きしめながら、凪は静かに考えた。選ぶことは怖い。選ばないままいることも怖い。どちらを選んでも、何かを失ってしまう気がする。でも、このまま何も選ばずにいたら、きっと何も変わらないだろう。



最終章 綿の国の終わりと、私の歩き方


朝の光が、以前ほど凪を急かさなくなっていた。窓の外の雨の匂いが、布団の中まで届く。凪はゆっくりと目を開け、枕元のぬいぐるみを見た。大きなぬいぐるみはいつもの場所にいる。けれどその隣に、小さな白い国が糸でぶら下がっていた。チャームだ。糸の結び目はぎこちなく、綿が少しはみ出している。完璧ではない。凪はそれを見て、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


カウンセリングは続いていた。ある日の面談で、カウンセラーは静かに言った。


「安全基地は人それぞれです。外から与えられるものでも、内側から作るものでもいい。大事なのは、それがあなたを動かす力になるかどうかです」


その言葉は凪の中で小さく震えた。


チャームを作る決意は、あの教室での出来事の夜から始まった。母が部屋のドアをノックしたとき、凪はぬいぐるみを抱いたまま小さく答えた。


「……少し、怖かった」


初めて出た本音に、母は驚いた顔をしたが、静かに頷いた。


「無理しなくていい。でも、ちょっとだけ話してくれない?」


凪はうなずけなかった。でも、心の中で「ごめんね、でも少しずつ…」と思った。


翌日、凪は机の引き出しからフェルトと糸を取り出した。白いフェルト、細い糸、針。道具を並べ、深呼吸を一つした。手が震えるのを感じながら、まずは小さな形を切り取る。切り口はまっすぐではない。けれどその不揃いさが、凪には自分の手の跡として安心できた。


縫い始めると、細めた二つの目は針先に集中した。糸を通すときの抵抗、フェルトが重なる感触、指先に伝わる微かなリズム。綿を少しずつ詰めるとき、指先から自分の体温が静かに移っていくような気がした。


詰めすぎると形が崩れる。詰めなさすぎると頼りない。ちょうどいい加減を探す作業は、凪にとって初めての「自分で決める」行為だった。針を動かしている間だけ、頭の中が少し静かになるのを感じた。


作業の合間に、凪は過去の記憶を思い出した。小学校の図工室で誰にも見せずに作った小さな人形。母が夜に縫ってくれたボタン。いじめられた日の帰り道、ぬいぐるみをぎゅっと抱いて歩いたこと。手を動かすたびに、それらの断片は順番に出番を待ち、終えると静かに引き出しに収まる。


完成したチャームを手に取ると、凪は小さく息を吐いた。思わず口元が緩むのを感じて、少しだけ驚いた。小さな白い国は、やわらかな世界への入口を思い出させるが、同時に自分の手で作ったパスポートだった。


ある日の放課後、凪は珍しく友達に話しかけられた。


短いやり取りだったが、返事が遅れすぎることもなく、なんとか「またね」と言えた。 家に帰ったあと、凪はベッドに座って自分の手を眺めた。指の先に、ほんの少しだけ熱が残っているような気がした。けれどその夜、ぬいぐるみを抱きしめると、胸の奥で静かに声がした。


「今日は、チャームがなかったら、きっとできなかった」


その声は小さく、けれどはっきり聞こえた。変化は一夜にして訪れなかった。チャームを作った後も、深さを求めたくなる瞬間は何度もあった。けれどそのたびに、手がチャームに触れ、指先の感触が意識を引き戻した。これを持っていれば、少しは大丈夫かな——そう思う自分が、少しずつ増えていった。


ある朝、母がいつものように「今日の学校、どうだった?」と聞いてきた。凪はポケットの中でチャームをそっと握りしめ、少し迷いながら答えた。


「……まあまあ、だったかな」


母は一瞬、驚いたように目を向けたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。その短いやり取りが、凪の胸の奥に静かな温かさを残した。


学校の帰り道、凪はいつもより少し遠回りをした。雨が小降りになった夕方、チャームを握りしめ、傘の縁に当たる雨音を聞いた。胸の中にはまだ不安があった。けれどその不安は、以前のように全てを飲み込むほどではなかった。


家に着くと、凪はチャームを机の上に置き、ノートを開いた。ペンを握る手は、まだ少し震えていた。ゆっくりと、明日を綴る。


ここにも、あそこにも、私は行ける。

どちらにいても、私はこれからも続くのだ。


インクの文字は少し滲んでいた。けれどその滲みが、凪には自分の手の跡のように思えた。ノートを閉じ、窓の外を見た。雨は上がり、街灯が濡れたアスファルトを静かに照らしている。


綿の国はまだ消えていない。けれど今は、凪が呼べばそっと揺れるだけのものになっていた。凪はチャームを指でそっと撫で、息を一つ吐いた。やわらかな世界は終わらない。けれどその終わり方は、静かに変わった。ぬいぐるみは今もそばにあり、凪はその温もりを借りながら、少しずつ自分の足で歩き続けている。


凪はぬいぐるみを抱き寄せ、目を閉じた。胸の奥で、柔らかな気配が小さく、優しく、一度だけ揺れた。

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