おまけ
満島聡子が渡り人としてこの世界にやって来て一年。
彼女は第一王子サトゥークの妃になることに肯い、二人は正式に婚姻の儀を挙げた。
「疲れただろう、サトコ」
サトゥークがそう労うと、聡子が「そうですね、少し」と控えめに答えて一つ息をついた。
しかしその顔にはかなり憔悴の色が濃い。無理もない、とサトゥークは気の毒になった。聡子はほとんど弱音を吐くことはしない性格だし、表情も豊かであるとは言い難いほうなので判りにくいが、それでも今はぐったりとした疲労が彼女の上にのしかかっているのが目に見えるくらいだ。よほどずっと気を張っていたのだろう。
なにしろ、三日だ。
荘厳で神聖で堅苦しい式を挙げ、それから他国の王族や国中の貴族たちとの顔合わせ、お披露目、挨拶、様式に則ったやりとり、それを経てから今度は国の民へ向けた同様のことを繰り返し、終わったら終わったで、息をつく暇もなく、国をあげての盛大な宴。
王族の結婚とは、これが三日間ぶっ通しで行われるのだ。こういったことに慣れているサトゥークでさえ、最後のほうは疲れのあまり頭の芯がぼうっと痺れて思考能力がなくなりかけていたほどである。ましてやずっと緊張しっぱなしの聡子には、どれほどの負担だっただろうと思う。
ようやくそこから解放されて、湯浴みを済ませ、寝衣に着替えて、新しく夫婦の寝室となったこの部屋に入ってサトゥークと二人っきりになった今、どっと疲れが押し寄せてくるのはまことに無理もないことだと言えた。
そう、無理もない。無理もないのだが、しかし。
本日は、初夜である。
三日間の一連の儀式の間は、まだ正式な夫婦になったとは見なされないため、新郎新婦は寝室を別にせねばならない。そしてサトゥークと聡子は現在ではお互いに慕い慕われる恋人同士の仲ではあるが、具体的な行為はキスくらいという初心な仲でもある。妃になる女性は純潔を守る決まりなので、これでもサトゥークは相当我慢と忍耐を強いられてきたのだ。
そしてようやく迎えたこの日この夜。
花嫁がぐったり疲れて瞼が半分くっつきそうになっていても、大変申し訳ないのだが、このままスヤスヤ眠らせてやることはちょっとできそうにない。
「この三日、よく立派に務めをこなしてくれた。サトコの花嫁衣装は、それはもう美しく、可愛らしかった」
聡子の黒髪をそっと撫でながら、サトゥークは甘い声で囁いた。下心はあるが、もちろん本心から出た言葉でもある。
大人が五人くらいは寝られそうな巨大なベッドは天蓋付きで、柔らかな紗幕が下りている。暗い部屋はいくつかの蝋燭が灯されているだけで、薄っすらと浮かび上がる光がゆらゆら揺れて、ぼんやりと二人の姿を浮かび上がらせていた。
これ以上はないというくらい、ムード満点だ。
「私、ちゃんとできていましたか」
その上、珍しく聡子が不安げな目をしてこちらを見返してきたりするものだから、サトゥークは限界に近いまでにくらっとしてしまった。
いやいや、いかんいかん。初めての夜なのだから、優しくソフトにロマンティックに、そして紳士的に進行せねば。女性にとってそういうのは重要だと聞くし。
「もちろんだとも」
式次第も挨拶も他の王族や貴族の対応にも、王家にはいちいちうるさい決まりごとがある。聡子はそのために、式のずっと前から猛勉強して練習を繰り返していた。
未だ慣れないことも多い異世界で、彼女は本当によく努力をしてくれたと思う。
「サトコは素晴らしかった。生まれながらの姫君のように堂々として、気品があった。皆、口々に賞賛していたぞ。母上も父上も、この上なくご満足のご様子だった。言うまでもなく、私もだ」
サトゥークの言葉に、聡子はほっとしたように表情を緩ませ、口元をほころばせた。
どうしよう、可愛い。普段は口達者で、場合によってはサトゥークよりも大人びたところもある聡子は滅多にこういう弱い部分を見せてくれないから、なおさら可愛い。困った、なんかもういろいろ制御が利きそうにない。
「サトコ……」
ひそやかな声で名を呼んで、彼女の頤に指をかける。
ゆっくりと顔を寄せ、その唇に触れようとして──
はた、と気づいた。
……あれ? このまま、進んでしまっていいのか?
いや、それはもちろんいいに決まっている。正式な夫婦なのだし。初夜なのだし。聡子だって自分を好いてくれているのだし。誰にも責められる筋合いはない。ダメだと言われても今さらもう止められない。
いや、でも、今まできちんと考えたことがなかったのだが。
──あちらとこちらでは、「それ」は同じなのだろうか。
やり方っていうか。行為の手順っていうか。それら諸々に関わるあれこれっていうか。
渡り人についての資料は極端に少ないため細かいことまでは判らないが、過去、王や王子の正妃となった渡り人が、子どもを産んだという記録は多く残っている。中には六人も息子や娘を産んだという渡り人もいたそうだ。
残念ながら聡子のドレスの中身までは未確認だが、こちらの人間と構造や仕様はそう変わりないと思われる。すなわち、行為自体は不可能ではない、ということのはず。
でも、その詳細かつ具体的な流れも、こちらの世界のものと同一なのだろうか。
聡子の世界についてよく聞く機会はあるが、そんなことまで突っ込んで訊ねたことはさすがにない。
聞けば聞くほど不可解で、こちらの世界とは何もかもが違うあちらの世界では、男女の立場も在り方もやはり違っているらしい。
こちらにとっての「普通」が、あちらでは非常に特異なものである、ということも知っている。
つまり、こちらの普通の作法が、あちらにとっては大変に屈辱的なものだったり、受け入れられない嗜好のものだったりする可能性も無ではない。
ということは、だ。
この夜、サトゥークがする行為が、聡子に「変態」などと思われるようなことだったりする、かもしれないわけだ。
ええー! いや困る。それは困る。これからだって夜は共にするのだし、聡子のことは愛してもいる。やっと自分の妻になってくれた女性に、第一夜から嫌われてしまったりしたら、サトゥークは明日から立ち直れそうにない。
「……サトコ」
さっきから頤に指をかけたまま固まっているサトゥークに、きょとんとした顔を向けていた聡子は、少し震える声で再び呼びかけられて、「はい」と律儀に返事をした。
「つかぬことを訊ねるが」
「はい」
「……その、我々は晴れてこうして夫婦になったわけだ。判るな?」
「はい、判っています」
「サトコは、夫婦になった夜に、その、すべきことというか、したいことというか、いやいや、したいことというのは語弊があるが、つまり、そういった件について、少しは知っているだろうか」
サトゥークの曖昧極まりない質問に、聡子は「はあ」と目を瞬いた。
「結婚した男女が、初めての夜に行うことですよね?」
「うん……!?」
ずばりと言われて、サトゥークのほうがうろたえた。行うことって、そりゃそうだが、もうちょっとこうなんというか、直接的ではない言い方はないものか。
「したことはないですけど、知識はあります」
「サトコ、うら若き乙女が『したこと』などと言うのはいかがなものか」
「保健体育の時間に習いましたし、あちらではその手の情報には不自由しませんでしたので」
あちらは一体どんな世界なのだ、とサトゥークは戦慄した。
「ホケンタイイク、とは」
「学校の授業の一つです。詳しく説明しましょうか?」
「いやいい」
すぐさま断る。聡子がいた世界の教育機関については興味があるが、今はいろいろとそれどころではない。
「……それでその、やはり人の見た目がそう変わりない以上、『それ』についても、あちらとこちらではそう差異はないのだよな?」
嘘でも適当でもいいから、「それはきっと同じじゃないでしょうか」と切実に言ってもらいたかったのだが、いつでもきっちりしている聡子は真面目に首を傾げた。
「私、こちらでのそれを知りませんから、なんとも言えません」
「今夜のことについて、何も聞かされなかったか。年配の侍女とか、そのあたりに」
「佐藤くんにすべて任せていれば大丈夫、と言われました」
「……」
くそっ、なんて無責任な!
自分のことは完全に棚に上げ、サトゥークは内心で舌打ちして猛然と悪態をついた。
婚姻の儀式に関わる一切については教育係がみっちりと聡子に指導していたのだから、ついでにそこらへんもこそっと教えておいてくれればよかったではないか!
「もしかして佐藤くん」
「な、なんだ」
「やり方を知らないんですか」
「そんなわけあるかあっ!」
とんでもないことを言われて、つい大声を出してしまう。「やり方を知らない」なんて聡子に思われたら、サトゥークの人生最大の恥である。
「知識だけはありますが、経験がないので、私はよく知りません」
それはそうだろう。聡子のいた世界では、女性が結婚するのは二十代から三十代が多いという。聡子は賢いしよく物を知ってもいるが、それでもまだ十七歳なのだから。
「だから、佐藤くんにいろいろと教えてもらおうと思ってたんですが」
聞きようによっては大変に男のあれこれを刺激するような言葉だが、聡子の表情にそういった羞恥は見られない。
この場面にまったくそぐわない難しい顔つきに、サトゥークは非常にイヤな予感を覚えた。
「……でも、それも怠惰な考えでしたね」
「え」
た、怠惰?
「考えてみれば、私はいつも佐藤くんに教わってばかりです。こちらでは、文字にまだ精通していないので、どうしても人の言葉に頼りがちになってしまっていたんですが、自分でももっと努力すべきでした」
ど、努力?
「待て、サトコ」
サトゥークは慌てて止めようとした。
聡子が勉強熱心なのは、誰より自分がよく知っている。言葉は通じるが文字はまったく異なるこの世界で、時間をかけて少しずつ習得し、最近では簡単な書物なら一人で読めるようになってきたほどだ。
でも、そのことと、現在自分たちの前にある問題とは、とてつもないズレがあるような気がしてならない。
「私、反省しました」
聡子は毅然として顔を上げたが、その顔はどう見てもサトゥークの不安をまったく判っていなかった。反省はしなくていいのだが。というか、心の底から、今この時に反省なんてしてほしくはないのだが。
「佐藤くんに教えてもらう前に、自分でもこちらの世界でのそれについて、調べてみることにします」
しし、調べる?
「まずは周囲の既婚の人たちに聞いて廻って」
それはやめたほうがいい。絶対やめたほうがいい。聡子がそれについて聞いて廻る姿を想像するだけでも居たたまれないが、聞かれた人間の身になってみるとさらに居たたまれない。
「それからたくさん本を読んで、研究します」
けけけ、研究!?
本って、どんな!?
大真面目な表情できっぱりと抱負を述べる聡子に、サトゥークは泡を吹いて倒れそうになった。
なんでこんな成り行きになってしまったのか、自分でもよく判らない。だが、聡子のその台詞が初夜のベッドの上で新妻が口に出すものではない、ということだけははっきりしていた。
「し、しかし、サトコはまだ、すべての本に目を通せるわけではないだろう」
どこから反論していいのかさっぱり判らなかったので、動揺しきったままとりあえず思いついたことを言ってみたら、余計に墓穴を掘った。
「はい、ですから、時間をください」
「じ……時間?」
「私がこちらの知識をしっかり頭に入れられるまで」
「──というと、一晩か、二晩か」
「最低、半年くらいは」
「無理!」
ここでサトゥークは、自分の愚かさを悟った。
他のことならともかく、こんなことで理を通した話し合いからはじめようとしたのがバカだった。
こういったことは、まず愛情、そして誠意と努力で、行動あるのみなのだ。
目の前の小さくて華奢な肩に手を置き、そのまま押し倒した。クッションのきいたベッドの上で、聡子の身体がぽわんと弾む。
サトゥークはその上から覆い被さるようにして、正面から聡子の顔を覗き込み、真剣な声を出した。
「──サトコ、私はそなたのことが好きだ。これからずっと大切にしたいと思っている。夫婦として、そなたとは末永く、仲良くありたい」
「はい」
暗くて見えにくいが、聡子の頬が赤い。
「これからの長い人生、何があっても、私はそなたのことを信じよう。だからサトコにも、私を信じてもらいたい。私の愛情を疑わないでもらいたい」
「はい」
「ひょっとしたら、あちらとこちらとでは、多少、何かと、違いがあるかもしれないが」
「はい」
「……私のことを、嫌いにならないでもらいたい」
さすがに照れくさくて、少しだけぶっきらぼうになったその言葉に、聡子は一瞬口を噤み、それからふわりと微笑んだ。
サトゥークの首にゆっくりと手を廻し、「はい」と柔らかく返事をする。
「こちらとあちらでは、違っていることはたくさんあって、私、最初からずっと戸惑うことばかりでしたけど」
「うん」
にっこりと花が咲くように笑って、聡子が言った。
「──それでも、佐藤くんを嫌いになったことは、一度もありませんでしたよ」
完結しました。ありがとうございました!




