Episode 1 Gluttony
「おはよう、目が覚めたかい?」
目を開けた瞬間、最初に見えたのは、胡散臭い笑みを浮かべたメガネの男だった。白衣に身を包み、椅子に座ったまま、優雅にコーヒーをすする姿はまるで自分だけの世界に浸っているかのようだ。手元のノートには見慣れない文字がびっしりと走っている。――俺には一文字も理解できない、言語だった。
「……ここは?それに、お前は誰だ?」
問いかける俺に、男はふわりと椅子ごと近づいてきて、名刺を差し出した。
「僕は神代 樹。ここは神樹会病院。僕はここの院長だ。覚えているかな?君はグラトニーと契約した時に気を失ったんだ。」
その瞬間、耳元からひそやかな声がした。
ーーー『よぉ!相棒!』
目を向けると、赤い首輪をつけた小さな猫――いや、猫の形をした悪魔が、俺をじっと見つめている。
「……お前は?」
『おいおい、忘れたのかよ?失礼な奴だなぁ。俺はグラトニー様だ!お前、ルイと契約した悪魔だぞ。俺様ほどの存在と契約できるなんて光栄に思え!さあ、まずは肉だ、肉を寄越せ!せっかくこの世界に来たんだから、この世界の肉を味わわせてもらうぞ!』
小さな猫はふんすっと鼻を鳴らしながら、俺の足をペシペシと叩く。要求は明確、そして――容赦ない。
「おーい、グラトニー。今は少し落ち着かせてくれ。綴くんも混乱しているだろうし、契約の際に大量の血と妖力を消費しているんだから、しばらく安静にしてもらわないと。」
神代院長はそう言うと、病室の冷蔵庫から大きな生肉の塊を取り出し、「ぐらとにぃ」と平仮名で書かれた餌箱にそっと入れた。
「綴くん、今日は薬を飲んでゆっくり休むんだ。疲れているだろうから、今日は入院になる。君と同じく、後に二人、大きな力を持つ者と契約して寝込んでいる人がいる。心配はいらない、よくあることだよ。」
「ああ……わかった。ありがとう。」
薬と軽食を手にしたまま、俺は再び瞼を閉じる。頭の奥で、グラトニーのふざけた声がちらつく――けれど、やがて、深い眠りが俺を包み込んだ。
❖━━━━━━━━━━━━━❖
『よぉ!相棒!朝メシを寄越せ!』
グラトニーが肉球で俺の顔をペシペシ叩いてくる。
「うるせぇ……」と思いながら目をこすり、ベッドの上で伸びをすると――
「おはよう、調子はどうかな?」
神代院長が静かに部屋に入ってきた。白衣の裾を整えながら、にこやかに微笑む。
「お、おはようございます……」
「……グラトニー、院内では暴れないでくれよ?」
『相棒が寝ぼけてるぞ!肉をよこせ!朝メシだ、朝メシぃ!』
ペシペシ。俺の顔に再び肉球が触れる。
「……あ、はいはい、わかった。後でやるから落ち着け」
神代院長はベッドの脇に腰を下ろし、机の上の書類を整理しながら静かに話す。
「今日で退院だね。体調はだいぶ回復しているようだ。契約の影響も少しずつ落ち着いてきたみたいだね」
「はい……なんとか」
『ごちゃごちゃうるせぇぇ!肉!肉!』
「……仕方ないな」
院長は笑みを浮かべ、冷蔵庫から小さな餌箱を取り出す。中には昨夜の間に用意された生肉がきちんと詰められている。
「ほら、グラトニー、まずはこれで朝食にしてもらおうか」
『むむ……悪くない……だがまだ足りぬ!』
「君も朝食をきちんと食べるんだ。今日は退院だから、ちゃんと準備してね」
「はい……ありがとうございます」
グラトニーは小さな餌箱に顔を突っ込みながらも、時折俺の顔を見上げて小さく『うむ、まぁまぁだな……』と呟く。
院長はその様子を微笑ましそうに見ながら、さらに軽く書類をめくる。
「さて、退院手続きはすぐに終わる。準備ができたら私と一緒にフロントまで来てくれ」
「わかりました」
――朝食を終え、まだ『肉をよこせ!』と騒ぐチビ悪魔を押さえ込み、何故か横にあった猫用ケージに押し込む。
『うおおお!?出せぃ!肉をよこせぇぇ!相棒ぅ!』
「……誰が相棒だ……」
――ケージの中で小さなグラトニーが暴れるたび、金属の柵がガタガタ揺れる。
『ふん!俺様はグラトニー様だぞ!相棒ぅ!肉をよこせ!肉ぅぅ!』
「……お、お前、本当に悪魔なのか……?」
俺は半ば呆れながら、ケージの蓋を押さえる手に力を入れる。
「初対面なのに、なんでこんなに馴れ馴れしいんだよ……」
『むむぅ……覚えてろ、相棒ぅ!この世界の肉は全て俺のものだ!』
「……いや、だから誰が相棒だって!」
思わず声が大きくなると、隣の病室から軽い笑い声が聞こえた。
「まあまあ、落ち着きたまえ」
振り向くと、白衣の神代院長が書類を手に微笑んでいる。
「ルイ、グラトニーは契約の影響で少し興奮しているだけだ。今日は退院日だから、ゆっくり手続きを終わらせよう」
「……わかりました」
俺は深呼吸して、ケージの中の小さな悪魔をじっと見つめる。
「……仕方ないな、少しの間だけ我慢するよ」
グラトニーは腕を振り回して暴れるが、ケージから短い腕を振り回しても大した脅威ではない。
『うぬぅ……相棒ぅ……いや、ルイ!肉を――』
「はいはい、後でだ」
俺はケージの蓋を軽く押さえつつ、ベッドを離れフロントへ向かう。
振り返ると、グラトニーはまだ文句を言いながら小さく暴れている。
「……こいつ、面倒くさいけど、なんか可愛いな」
俺は思わず苦笑する。退院前にいきなり悪魔と同居することになるとは、誰も想像していなかっただろう。
――フロントで退院手続きを終えると、神代院長に促されて俺は荷物をまとめ、ケージの中でまだ文句を言うグラトニーを押さえながら寮へ向かうことになった。
『ぐぬぬ……肉ぅ……ルイぃ!』
「はいはい、今はダメだって……」
俺は病院の廊下を歩いていた。
退院手続きを終え、まだ肉のことしか頭にない悪魔を抱えつつ、次の目的地――寮までの道を進む。
――そのとき、廊下の角から一人の少女が現れた。
銀色の髪を後ろで束ね、深い青の瞳が静かにこちらを見据えている。
黒いローブの裾には淡く魔力の紋章が浮かび、立っているだけで空気がピリリと張り詰める。
「……あなたが、ルイさん?」
少女は声をかけてきた。明らかに人を識別している様子だった。
「え、あ、はい……そうですけど……」
俺が戸惑っていると、ケージの中のグラトニーが反応して手足をバタつかせる。
『な、なにぃ!?お前も契約者だと!?俺様のルイを――いや、相棒を――横取りする気かぁ!』
「ちょ、落ち着け!」
俺はケージを必死に押さえる。悪魔の視線が少女――アリエル――に釘付けになっている。
アリエルは静かに微笑み、ゆっくりと言った。
「私は……天使ラファエルと契約しているの。あなたも契約者として目覚めたばかりだと聞いたわ」
「天、天使……?」
「ええ。この偶然も運命なのかしら?」
アリエルの声には、冷静さと強さが同居していた。
『むむぅ……相棒を――いや、ルイを――横取りするなんて許さぬ!』
「うるさい!ほんとに落ち着け!」
俺はケージを押さえつつ、グラトニーの小さな暴れっぷりを抑える。
アリエルは小さく首を傾げ、静かに笑った。
「ふふ……あなたの悪魔は元気ね。」
「す、すみません…」
ルイはまだ焦りながらも、アリエルの落ち着いた雰囲気に少し安堵する。
「それじゃ、私は先に行くわ。女子の寮の方へは別ルートなの」
「は、はい……気をつけてください」
アリエルはそう言うと、静かに歩き去っていった。
ケージの中で小さな悪魔はまだ手足をバタつかせ、低く唸る。
『よし!早く俺達も寮に向かうぞ!早く肉をよこせ、ルイぃ!』
「……こいつ、相変わらずだな」
俺は苦笑しながらケージを抱え直す。アリエルとの偶然の出会いは、一瞬で終わった。
『むむぅ……相棒ぅ、肉ぅ!』
「……ああ、ああ、だから!後でだってば!」
グラトニーの騒ぎを押さえながら、俺は寮へと足速に向かうのだった。




