8話 幸福の欠片
馬車が石畳を踏むたび、車輪の音が小さく揺れた。
あの家を出てからしばらく経ったはずなのに、胸の奥に残った熱がまだ冷えない。
怒りでも悲しみでもない――ただ、息苦しさに似た疲れだった。
向かいに座るユリウス様は、窓の外を眺めたまま黙っている。
私は膝の上で指を組み直し、ほどけそうな気持ちをまとめた。
言いたいことは言った。
あの家に、もう帰らないとも。
なのに、ひとつだけ残っている。
喉の奥に引っかかったままの、形のない疑問が。
「……ユリウス様」
呼ぶと、彼はすぐにこちらを向いた。
「なんだ?」
ユリウス様と目が合うだけで、胸が少し落ち着くのが自分でも分かる。
私は視線を落として、正直に言った。
「ひとつ……聞いてもいいですか」
「許可は必要ない」
淡々とした返事なのに、どこか優しい。
私は息を整えた。
「どうして、あの時私に手を差し伸べてくれたのでしょうか?」
言い終えた瞬間、顔が熱くなった。
少し無礼な言い方だったかもしれない。でも、実際にあの時の私はまさに、行き場を失っていた。
ユリウス様はすぐには答えなかった。
馬車が曲がり、揺れが少し大きくなる。
「そんな大した理由はないが……」
やがて、低い声が落ちた。
「イリア嬢がうちの屋敷へ謝罪に来た時、俺は君に興味を持った」
「興味ですか……?」
意外で、私は瞬きをした。
あの謝罪の場面なんて、思い返すだけで怖かった。
「俺に無礼を働いた妹君ではなく、その姉のイリア嬢が代わりに来るというのは事前に聞いていた」
ユリウス様は窓の外へ視線を戻し、淡々と続ける。
「俺は、謝罪の場に慣れている。頭を下げる人間を多く見てきた。だが、無論その大半は自分の不始末のためにする。体裁のため、逃げ道を作るため、さっさと終わらせるため」
そこで一拍、言葉が切れた。
「でも、君は違った」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「君は……頭を下げることが生活の一部になっているような目をしていた」
そんな目をしていたのか、私は知らない。
けれど、否定もできなかった。
「あの時の感情が、恋愛感情だったかと言えば、おそらく違う」
ユリウス様はあっさり言う。
「そもそも俺は、誰かを好きだと思ったことがない」
思わず、言葉を失った。
社交界の噂では、ユリウス様は女好きだ。
屋敷に女を連れ込むだとか、夜会で遊ぶだとか。そういう話ばかり。
「……では、あの噂は」
「知らないな」
間髪入れずに返ってきた。
「気付いた時には、勝手に広まっていた。勝手に“そういうこと”になっていた。……訂正する必要もない、面倒だから放っておいた」
私は乾いた笑いが漏れそうになったが、堪えた。
笑うのは失礼だ。けれど、あまりに彼らしい発言と考え方だな、と感じてしまった。
「そんな理由もあって、噂は嫌いでな。イリア嬢について、いくつか自分の手で調べさせてもらったんだ」
「わざわざ、ですか?」
「あぁ、イリア嬢についての悪い話も、ヴァレンシュタイン子爵家の中の事情についても」
不思議と、嫌な気持ちにはならない。
人に関心を向けられなかった人生だ。知らないところだろうと、こうして私のことを考えていた人がいることに、少し驚いた。
「それで調べているうちに気付いた――君が頑張っていることを、誰も気付いてないことに。妹たちの代わりに頭を下げて、不始末の尻拭いをして……それでも誰にも感謝されない」
淡々としているのに、胸の柔らかいところを撫でられるような言葉だった。
「でも、君が家を出たあの日、あの場で出会ったのは偶然だ」
馬車の揺れが、ふと小さくなる。
私はあの夜を思い出す。冷たい風。行き場のない足。心許ない街灯の光。
「偶然、ですか?」
「偶然だ。君の後を追うような行動はしていないと誓う」
短く言ったあと、ユリウス様は少しだけ眉を寄せた。
ユリウス様の必死な反論に、思わず笑いが零れてしまう。
「だが、偶然にしては少し都合が良かったかもしれないな。俺はその時点で君のことを好いていたからな」
私は思わず視線を上げた。
心なしか、ユリウス様の真面目な顔も赤く染まっているように見えた。
「……理由を言えば、それだけだ」
胸が音を立てて揺れた。
私は言葉を探す。けれど、口が上手く動かない。
ユリウス様は、淡々と続ける。
「イリア嬢がいない生活は、少し落ち着かない」
どこまでも事実だけを告げる声なのに、胸が痛いほど甘い。
私は、つい目を逸らしてしまう。
顔を覆う手が熱い。胸が苦しい。
でも、ここは意を決して言うべきだと思う。
「……私も、です」
小さく零した声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
「気づけば、ユリウス様が……好きになっていたの、かも……」
「かも?」
「なんでそういういじわるを言うんですか、ユリウス様は」
「他意はない」
そんなことを言いながら、ユリウス様も照れているように見える。
「私に手を差し伸べてくれたあの時も、仕事や生活の中でも……私を、ずっと気遣ってくれるユリウス様が好きです」
言った途端、耳まで熱くなる。
ユリウス様の顔は変わらない。変わらない、はずなのに。
ほんの一瞬だけ、目元が緩んだ気がした。
「そうか」
それだけ。
けれど、その短さが、私には十分だった。
◇
半年後。
春はとうに過ぎ、庭の緑が濃くなり始めた頃。
ユリウス様はいつものように私の仕事部屋に来ていた。
本を読むユリウス様が、ふいに言った。
「ヴァレンシュタイン子爵家の評判は、地に落ちたな」
私は、驚かなかった。
あの家は、私が走り回っていたからこそ均衡を保っていた。私がいなければ、崩れるのは時間の問題だった。
「……そうですか」
「社交界は残酷だ。噂が広まるのは早い、失った信用はそう簡単には戻らない」
噂に関してはユリウス様も私も、身をもってその厄介さを知っている。
だからこそ、淡々と語るその声を聞きながら、私はペンを強く握りしめる。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。
完全に割り切ったつもりでも、姉としての心は、まだどこかに残っている。
――妹たちが幸せになれたらいいな。
今でも微かに残る姉としての心が、そう願っている。
けれど、それは昔の『助けたい』とは違う。
彼女たちが、自分の手でやり直せることへの願いだ。
私が選んだ道を見て、何かを学べるのなら。
それが、最後に姉として残せるものなのかもしれない。
窓の外で、鳥が鳴いた。
私はユリウス様の横顔を眺める。
こうした何気ない時間が心地良い。
――ここでなら、この先もずっと。
私は私のままでいられる気がする。
「ユリウス様、愛してます」
「あぁ、俺もだ」
私は照れ隠しに紅茶を一口飲んで、そっと微笑んだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
8話にて完結となります!
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