7話 イリアの決断
レオナルド様が婚約を解消してから数日後、早朝。
ヴァレンシュタイン子爵家から届いた手紙を、ユリウス様から受け取った。
内容は短かった。
『至急、戻りなさい』
理由も用件もない。
いつもの命令――これを書いたのは母だと、すぐに見当がついた。
私が家を出ても、あの人は変わっていない。
そう思った時点で、心は少し冷めていた。
だからこそ、逃げない。
レオナルド様に言ったように、改めて私の意志を伝える必要があると思った。
昼までには戻るつもりです、とユリウス様に伝え、私は馬車に乗って一人で実家へと向かった。
◇
屋敷の門を抜けると、使用人たちが丁寧に頭を下げてきた。疲れが溜まっているのか、みんな目に生気がないように見える
通された応接間には、父と母、そしてセレナとリリスが揃っていた。
机の上にはシルベリア侯爵家の封書があった。開いていて、紙の端が微かに歪んでいる。
父が言った。
「侯爵家から通達が来た。……セレナとの婚約は解消とのことだ」
リリスに抱き寄せられるセレナの肩が震えている。泣いたのだろう、目の縁が赤い。
対してリリスも平静を装っているように見えたが、唇を強く噛み締めていたのか血が滲んだように赤かった。
「……つまらない男だっただけよ」
リリスの言葉に、母は睨んだ。
妹に対して、母がそんな目をするなんて。いつも妹たちが何か問題を起こして怒った時、私に向けていた目だ。
次に母はその目を、私へ向けた。
「イリア。あなたが戻って、収めなさい」
私は椅子に座らず、そのまま立っていた。
「収める、とは?」
父が苛立ちを隠さない。
「お前も分かっているだろう。リリスに対して、ギレム辺境伯からも話が来ている。それにセレナは侯爵家との婚約も解消されたばかりだ。今、ヴァレンシュタイン子爵家は――」
「大変だ、と?」
私の言葉に、母が口を尖らせる。
もう、両親に苛立ちを隠す様子はない。
「そうよ。あなたが家を出たから、余計に拗れたのよ」
「お前のせいで社交界に顔向けできん、責任を取るのがお前の役目だろう」
セレナも意を決したように続ける。
「お姉様がいなくなったから! みんな私ばっかり責めるの。ひどいよ……私だってちゃんと頑張ってたのに!」
その言葉が、私の胸の奥を鈍く叩いた。
「頑張ったのに」は、ずっと私の胸にあった言葉だったはずなのに。
私は一度だけ息を吸う。
「セレナ。私が家を出たのは、あなたのせいじゃないわ」
「じゃあ誰のせいだと言うの。あなた、まさか私たちを責めるつもり?」
母の言葉に、父も続く。
「イリア、お前は自分の立場を分かっているのか。お前一人の感情で、家の体面を――」
私は父を見る。
母もそうだけど、この人もまったく変わっていない。
この期に及んで、私を労うよりもまた家の心配を……嘘でも吐けば、まだ私の善意が働いたかもしれないのに。
まぁ、正直そんなもの今の私にはないけれど。
「体面のために、私を切り捨てたのはそちらでしょう。また体面のために戻ってこい、と?」
母の顔が歪む。
「切り捨てた? ずいぶん被害者ぶるのね」
「被害者ぶっているのはどっちでしょう。いくらなんでも都合が良すぎるとは思いませんか?」
私の声は静かだった。静かだから、余計に刺さるのかもしれない。
リリスが鼻で笑う。
「結局、自分が可哀想なだけじゃない。姉なら、家のために動くべきでしょ?」
「……姉なら?」
私の口の端が、微かに引き攣った。
「その姉が、今まで頭を下げてきただけ。今の私はもうヴァレンシュタイン子爵家の長女ではない、そうでしょう?」
父が机を叩いた。陶器が小さく鳴る。
「さっきから聞いていれば好き勝手!お前をその年まで育てたのは誰だ!」
母も同調するように声を荒げる。
「その恩を忘れてあなたが家を出ていったせいで、私たちはどれだけ――」
「それは違うわ」
私ははっきり言った。
「私が頑張って走り回っていたから、この家は均衡を保っていたんだと思います。そうじゃないなら……自分の力で、頑張ってみてください」
もはや、私は他人事のように話していた。いや、今は他人事だ。
他人の家庭事情で他責されて怒られる、そんな感覚だった。
セレナが泣き声混じりに叫ぶ。
「でも、今は私が困ってるの! 私の未来が――!」
「私の未来を切り捨ててよかったのに?」
この家の人間は……相変わらずだ。
自分のことを棚に上げ、人をコマのように使うのだけはすごく上手だ。
昔の私はこんな家族に従っていたのかと思うと、頭が痛くなってきた。
母が立ち上がり、私を睨む。
「じゃあ、あなたはこの家へ何をしに来たの」
私は少しだけ笑いそうになった。
来なければ騒ぎ立てるくせに、と言葉を呑み込む。私は怒りに任せて叫ぶ母とは違う。
「呼ばれたから来ました」
そして、私は扉の方へ向いた。
「これ以上は話しても意味がないので……失礼します」
父が低く言う。
「帰る場所など――」
「おかげさまで、こんな私でも安心できる居場所ができました」
私は振り返って、応接間に集まる家族へ頭を下げた。
「改めて、今まで何不自由なく育てていただいてありがとうございました」
部屋は静まり返っている。
私の中も、同じくらい静かだった。
だが、最後にリリスが言った。
「本当に、助けてくれないの?」
「家を出る時言ったはずよ、リリス。それが自分の人生だと」
リリスにとって、それは普段見せない弱音だったのかもしれない。
「あなたが黙って頭を下げていれば、こんなことにはならなかったのに……」
私は母が最後に呟いた言葉を聞こえなかったフリして、廊下へと出た。
玄関の扉に手をかけた瞬間、後ろから再び母の怒鳴り声が響いた。
「待ちなさい、イリア!」
気にせず、私は扉を開ける。外の冷気が頬を撫でる。
そして――門の近くに止まった馬車に、彼がいることに気付いた。
「……っ、アークライズ公爵家の……ユリウス様?」
「活気のある元気な家で素晴らしいな」
その一言で、場の空気が変わった。
あれほど大きかった母の怒りが、ユリウス様を前にして大人しくなるのが背中で分かった。
私は振り返り、母に向かって二度目の礼をした。
「ありがとうございました」
それだけ告げて、私は踵を返した。
もう、この家に帰ることはない。
私は、私の居場所へ帰る。




