6話 絶望への回答
応接間。
ユリウス様の隣で私は、姿勢を何度も崩しては正す、そんな動きを繰り返して感情を落ち着かせようとしていた。背筋を伸ばしても肩が僅かに浮いて、呼吸を整えても胸の内側が騒がしいまま。
覚悟は決めた――それでも、緊張は別物らしい。
応接間は広く、重厚な調度が静かに光を吸っている。壁には落ち着いた色の絵画が掛けられている。暖炉に火は灯っていないのに、空気が妙に乾いていると感じるのは私の喉が原因だろうか。
ユリウス様は背もたれに深く身を預けたまま、感情の読めない顔で座っている。私だけが落ち着かない。その差が余計に、自分の小ささを浮き彫りにする。
待つこと数分。
扉が控えめに叩かれ、次いで音もなく開いた。廊下から入ってきた使用人が一礼する。
「旦那様、レオナルド・シルベリア様をお連れしました」
使用人の背後に、長身の影が揺れる。応接間の灯りの中で輪郭がはっきりするにつれ、私は喉が締まるのを感じた。
――この人が。
侯爵家嫡男、レオナルド・シルベリア様。
彼は応接間へと入ってきた。背筋が通り、装いは隙がない。無駄のない動作のあと、彼と視線が重なった。
優越でも警戒でもない。親しみでもない。
言葉にしづらい硬い静けさ――何かを堪えるような色が、瞳の奥に沈んでいる。
「……イリア・ヴァレンシュタイン嬢」
私の名前を呼ぶと、レオナルド様は数歩進んで応接間の中央で足を止めた。言葉を発する前の、ほんの短い逡巡。
次の瞬間。
彼は静かに頭を下げた。
躊躇いなく曲げられた背は折れそうなほどに深い。
「本日は、謝罪のために参りました」
私は息が詰まりそうになった。
隣を見ると、ユリウス様が目を丸くしていた。珍しいものを見た時の反応だった。
レオナルド様はゆっくり顔を上げた。表情は硬いまま、しかし視線だけは私から逸らさない。
「私はあなたに対して、事実確認が不十分なまま――結果として、あなたの立場を奪ってしまった」
レオナルド様の言葉に、私の指先が膝の上で固く結ばれる。痛みで自分を繋ぎとめるように。
私は聞くことにした。
「……なぜ、今さら謝ろうと思ったんでしょうか?」
頭を下げられた時、混乱と同時に浮かんだのは感情ではなく、疑問だった。
侯爵家のレオナルド様が、地位も立場も下の私に、頭を下げるなんて大抵のことではありえない。
それに、自分の非を認められる貴族がこの国にはどれほどいるのだろうか。
「僕はあなたに関する噂を……噂として扱わず、事実として受け入れてしまった。何も調べず、あなたが間違っていると勝手に決め付けた……」
淡々としていた。
私は唇を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
――本当に、今さら。
そう思う気持ちは確かにある。
でも今は、別の問いを選ぶ。
「今は、その考えも変わったということでしょうか」
声が自分でも驚くほど冷たく響いた。
今日こそは、思ったことを隠さない。そう決めた。
「なぜ貴方は、私が『噂どおりの人間ではない』と……そう判断したのですか?」
応接間の空気が、ひとつ沈んだ。
レオナルド様が目を伏せる。
「あなたのことを、直接知っているわけではありません」
けれど、レオナルド様は続ける。
「噂だけで人を断じたことは、誤りでした。……僕はその誤りに、気づいた。遅すぎるのは分かってる。今更何を言っているのか、と」
言い訳も正当化もない。
ただ、間違いだと認めるレオナルド様のその姿勢が、私の中の怒りの置き場を揺らした。
私はゆっくり息を吐く。
私が家を出た直接の引き金は、私の悪い噂でも、レオナルド様が出した縁談の条件でもない――それを受け入れた家族への怒りだった。
私はずっと、その事実から目を逸らすために、分かりやすい悪者を探していたのかもしれない。
私はゆっくり顔をあげる。
「……謝罪の言葉は、聞きました」
レオナルド様をまっすぐ見据え、胸の奥に溜め込んでいたものを、言葉にする。
「今はまだ、正直分かりません……でも、今の私なら、未来のどこかでレオナルド様を許してるような気がします」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
許しは免罪符じゃない。けれど、私はもう恨みのためだけに生きたくない。
レオナルド様が、わずかに息を吐いた。肩から力が抜ける。
「……ありがとう」
そう言うとレオナルド様は一歩下がり、改めて礼をした。先ほどのように深くはない。
「本日はこれで失礼する」
使用人が静かに扉へ近づく。
レオナルド様はユリウス様にも目礼だけを残し、何も言わずに踵を返した。
扉が閉まる音が、重厚な部屋に小さく響く。
私はようやく、息を吸い直した。
終わった――そう思った瞬間、胸の奥に残ったのは勝利でも爽快感でもなく、静かな疲労と、ほんのわずかな解放感だった。
数日後。
レオナルド様がセレナとの婚約を解消した――その報せを、ユリウス様から聞いた。




