4話
私がユリウス様の屋敷に来て、一週間が経った。
この生活にも少しずつ慣れてきた。
朝は自然に目が覚めるようになった。
顔を洗い、髪を整え、部屋の窓を少しだけ開けて外の空気を入れる。
冷たい風が頬を撫でて、冬の匂いが鼻を擽った。
朝食は毎日、私の部屋まで屋敷の使用人が運んできてくれる。
使用人の話では、ユリウス様は『食』へのこだわりが強いらしい。
この屋敷には専属の料理人がいるという。
もちろん私の食事も例外ではなく、その料理人が作ってくれているそうで。
これがまた、言葉にできないほど美味しい。
食事を終え、身支度を整えると仕事の時間がやってくる。
この流れがここ一週間で、少しずつ私の中で定着し始めていた。
今日も私は仕事部屋へ向かう。
そこは元々はユリウス様の父である公爵閣下の書斎だそう。今は使っていないから、と私に用意してくれた。
この屋敷は、私の実家より随分と広かった。手入れをする使用人の数も多いため、敷地内では色んな人とすれ違った。
最初は怪訝な視線を向けられることもあったが、この一週間でそれも落ち着いてきた気がする。
全員とまではいかないけど、世間話を交わせる程度の仲になった使用人もいる。
全員に受け入れられたわけではない。けれど、必要以上に注目されることもなくなった。
足音が響くこの長く広い廊下を抜ければ、私の仕事部屋へと到着する。
私に任された仕事は書類の整理と報告書の作成だった。
取引の報告、領地からの連絡、商会からの相談、社交界からの招待状。
中には雑談するかのような手紙も混じっている。
そしてこの一週間だけでも、縁談に関する書類はそれなりの数が届いた。
……ユリウス様の私生活に関わるものは、できるだけ見ないようにしている。
決して楽な仕事ではない。
来ていきなり、アークライズ家の中枢に位置する事務仕事をさせられるとは思っていなかった。
信頼されているのかもしれないが、私には少し荷が重く感じた。
仕事は単純な仕分けではない。
内容を整理し、要点を抜き出し、私なりの見解を添えて報告書にまとめる。
判断はユリウス様がする。
つまり私はユリウス様が考えるための材料を整える役目だ。
ユリウス様が何を考えて私を雇ったのか、正直まだ分からない。
けれど今のところ、不満を向けられたことは一度もなかった。
机に向かっていると、背後で扉が静かに開く音がした。
振り返らなくても分かる。
――ユリウス様だ。
私が仕事部屋にいると、こうしてふらりと入ってくる。
声をかけることはなく、こちらを一瞥することもない。
本棚へ向かい、一冊だけ本を抜き取る。
窓際に立って静かに読み始めるのだ。
ただ、それだけ。
報告書にも、私の手元にも興味を示さない。
——それでも、確かに気配はそこにある。
最初は気まずくて胃がきゅっと縮んだその空気が、今は不思議と慣れてきた。
——それにしても、ユリウス様は暇なのだろうか。
いや気まぐれなのだろう、と自分の中で片付けることにした。
しばらくして、本を区切りのいい所まで読み終えたであろうユリウス様は、小さく息を吐いて部屋を出ていった。
これがいつも通りの流れだった。
改めて、私は一人になった。
一度呼吸を整え、報告書の最後の一行を書き足す。
ペン先を置いて、私もようやく仕事に一区切りがついた。
休憩は自室で行う。椅子に腰を下ろした。
今思い返せば、この一週間は私にとって初めてに満ちていた。
眠る前に、誰かに怒鳴られる夢を見そうになる夜もあった。
それでも朝になれば仕事は待っている。仕事は確かに大変だけど、心は何故か穏やかだった。
鞄の留め具を外し、中から物を取り出そうとした時だった。
小さな金属音がして、硬い感触が指先に当たった。
「これは……鍵?」
取り出したそれを見て、私は固まった。
これは確か……街外れの煤けた安宿の鍵だ。
一瞬、頭が真っ白になった。
一週間。
仕事ばかりに集中していて、完全に忘れていた。
思わず額に手を当てた。
「……はやく、行かないと」
返さなければならない。
謝らなければならない。
妹たちの代わりでも、家のためでもない。
自分の不始末だ。
早く街へ向かわなければならない。
支度して廊下を出た時、横から声が掛かった。
「どこへ行くんだ? まだ仕事は残っているだろう」
振り返ると、ユリウス様が立っていた。
「えっと、申し訳ございません。……恥ずかしいのですが、宿の鍵を返すのを完全に忘れておりました」
「ほう、いつも完璧に仕事をこなす君が忘れ事とは珍しいな」
いつも完璧に仕事をこなす?
この私がだろうか。
いや、そんなこと考えている暇はない。
早く行け、と私の心が急かしてくる。
「昼からのお仕事は夜に行いますので」
「いや、夜は休め。だが、街へは俺もイリア嬢についていく。問題はないな?」
「……はい」
雇い主にここまで言われたら断れるはずもない。
拒む理由を探す前に、私は小さく頷いていた。
街に着く頃には、外は夕方の色に染まり始めていた。
昼ほどの喧騒はなく、人の流れも落ち着いている。店先には灯りが入り、吐く息が光に溶けた。
宿へ向かう途中、通りを横切ろうとした時だった。
「……聞いたか? ヴァレンシュタイン子爵家の令嬢がギレム辺境伯の令嬢に手を出したって――」
「それ本当か?」
背後から聞こえた小さな声に、私の足は無意識に止まった。
「どっちが原因なのかねぇ」
「まぁどっちにしろ、先に手を出した方が負けだろ」
「それは言えてるな。ギレム辺境伯は相当お怒りって話だぜ」
「ほんと貴族同士、仲良くできないのかねぇ」
私は恐る恐る声の方を見た。
話している男性二人が、私に気付いてる様子はない。
私に向けられた嫌味ではないのだとすれば、彼らが話している噂は本当なのかもしれない。
「どうした?」
「いえ、何も」
ユリウス様からの呼びかけに、私の不要な思考は掻き消された。
私はゆっくり息を吐き、再び歩き出した。
——いつか、そうなるだろうとは思っていた。
それでも胸が少し痛むのは、まだ割り切れていない証拠だ。
けれど、私が戻って謝る理由にはならない。
宿の扉を押すと、暖炉の熱が全身を覆った。
酒と煮込みの匂いに、罪悪感が込み上げてきた。
カウンターの向こうで、宿の主が顔を上げる。
私は鍵を両手で持ち、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「遅れてしまい、申し訳ございませんでした」
慣れた動作だった。
けれど胸の奥の感覚はいつもと違う。
誰かの代わりではない。
自分の行いに対する謝罪だ。
宿の主は鍵を見て、眉をひそめたまま黙っている。
言い訳はしない。
私は頭を下げたまま待った。
その横で、金属音がした。
ユリウス様が金貨を一枚カウンターに置いた。
「俺からも、どうか」
短い一言。
宿の主は金貨と私を交互に見て、しばらくして息を吐いた。
「……もういい。返すだけ偉いってもんだ。それに、安心できる宿が見つかったみたいだしな」
それだけ言って、宿の主は鍵を引き取った。
改めて頭を下げて、私とユリウスは外に出た。
外へ出ると、街はすっかり夜の落ち着きを帯びていた。
「すみません、金貨を……」
「安心しろ、給料から引いておく」
「はい、お願いします!」
「嘘だ、気にするな。あそこで揉めれば困るのは雇い主である俺だ」
私は嘘ではないんだけどな。
「さっさと帰るぞ」
「は、はい」
私の感謝の言葉なんて待たずに、ユリウス様は馬車が待っている場所へと歩き始めてしまった。
馬車は通りから少し離れた場所に停められていた。
御者が頭を下げ、扉を開く。
踏み台に足をかけ、乗り込む。
扉が閉まると、外の喧騒が遠のいた。
揺れが一定になった頃、ユリウス様が淡々と口を開いた。
「そういえば、明日の仕事の件だが」
窓の外を見たまま言う。
何か含んだ言い方に思えた。
「明日、屋敷に客人が来る。――君も同席してくれ」
「客人、ですか?」
それは私にとって、また新たな仕事だと思った。
客人を迎え、話を聞き、必要なら記録を取る。
この屋敷で与えられてきた役割の延長線上。
――そのはずだった。
ユリウス様は、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙して。
「……レオナルドだ。君に会いたいと言っている」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
ユリウス様の口から出たのは、私を社交界の場から追放した男の名前だった。




