3話
街の喧騒から一本外れた通りに出たところで、私はようやく足を緩めた。
背後では人の声や荷車の音がまだ聞こえている。
働く場所は決まったし、衣食住の心配もひとまずはしなくてよくなった。
どちらもユリウス様のおかげだけど。
安心した途端、肩の力が抜けるのを感じた。
鞄の持ち手を握る指に、今更じんとした疲れが伝わる。
中身は少ないのに、やけに重い。きっと、緊張がほどけた反動だろう。
私は小さく息を吐いた。
――その瞬間。
ぐう、とはっきりした音が鳴った。
その間抜けな音は私のお腹からだった。
一拍遅れてそれに気付いて、私は慌てて立ち止まった。
つい、反射的にお腹を抑えてしまう。もちろん意味なんてないのに。
隣を歩いていたユリウス様が足を止める。
彼は一度だけ私の顔を見て、それから視線を前に戻した。
「お腹が空いたのか」
「……すみません」
言葉が先に出た。
謝る必要なんてないのに、昔からの癖で、口が反射するように勝手に動いた。
ユリウス様は眉をひそめることもなく、ただ短く息を吐いた。
「食べてないのか」
「今日はまだ何も食べておりません……」
声が語尾に向かって小さくなった。
朝の出来事とこの場の羞恥で、自然と私の視線は地面に下がった。
「そうだろうな」
責める声色ではなかった。
ユリウス様はそのまま、歩く方向を変えた。
迷いがない。足取りがまっすぐと大通りへと戻った。
「食べに行くぞ」
「え、でも……」
「いらないのか?」
有無を言わせない響きなのに、乱暴さはない。
「……食べたいです」
「聞こえないな」
「食べたいです!」
いたずらっぽく小さく笑った彼の横顔を、私は見逃さなかった。
一瞬迷ってから、私は彼の背中を追った。
昼時の食堂は、扉を開ける前から賑やかだった。
中から煮込みの匂いと焼いたパンの香りが漏れてくる。
ユリウス様が扉を押すと、温かい空気が一気に流れ出した。
外の冷えが肌に残っていた分、その温度差に思わず身体が震えた。
「いらっしゃい……って、ユリウス殿ではないか!」
店主が顔を上げ、ユリウス様を見るなり声を高くした。顔見知りなのか、嬉しそうな表情でユリウス様と目配せをする。
私はその視線に、ほんの一瞬だけ背筋を正した。
ユリウス様は気にした様子もなく、店内を見回す。
「あっちが空いてるな」
窓際の席へ向かう。
椅子を引くと、木が擦れるような乾いた音がした。
私は裾を整えて腰を下ろす。
テーブルには細かな傷がついていて、長く使われてきたことが分かった。
ユリウス様は私の向かいに座った。
「温かいのがいいか」
「えっと……はい」
「なら俺のオススメはスープだ。この店で一番の絶品だぞ」
「じゃあ、それでお願いします」
私は慣れた様子の彼に任せることにした。
店主へ短く注文を通す。
スープとパン、それから煮込みを一皿。
私が遠慮して口を開きかけた頃には、店主との話は終わっていた。
しばらくして、湯気の立つ器が運ばれてくる。
スープの表面がわずかに揺れ、香草の匂いが鼻をくすぐった。
私はユリウス様に促されるまま、スープをそっと口に運んだ。
――温かい。
喉を通り、胃に落ちていく。
それだけで、体の奥に溜まっていた冷えがゆっくり溶けていく気がした。
「……すごく、おいしいです」
思わず、素直な言葉がこぼれる。
「そうか」
ユリウス様は短く答え、彼もスープを飲んだ。
音を立てない、静かな食べ方だった。
店内は相変わらず騒がしい。
笑い声や話し声が飛び交っているのに、この席だけ妙に落ち着いていた。まるで別空間にいるかと錯覚するほどに。
ユリウス様におすすめされた食べ方を実践する。
私はパンをちぎり、スープにつける食べ方だ。貴族の長女らしくないわ、と母に怒られるであろう自由な食べ方だと思った。
指先まで温まり、ようやく実感が湧いた。
――私は私の人生を生きている。
こうやって外でご飯を食べることは生まれて初めてだった。
それだけで、少し前に進めた気もした。
食事のお代はユリウス様が出してくれた。
さすがに、と拒んだ私だったが、彼に睨まれて思わず凄んでしまった。
「ありがとうございます、本当に美味しかったです。でも、あのやっぱりお代は……」
「執拗いぞ、俺は金には困っていない。君がうちで働くことになったお祝いみたいなものだ、気にするな」
「……すみません」
冷たい風が頬を打ち、思わず肩を竦めた。
さっきまでの温かさが一気に奪われる。
私は無意識に腕を抱き、外套の前を押さえた。
隙間から冷気が入り込むのが分かった。
その仕草を、ユリウス様は見逃さなかったらしい。
「寒いのか」
「……少し」
本当は少しじゃない。
すごく寒い。
「少しじゃないな」
さすがに震えた身体は誤魔化せなかった。
ユリウス様は通りの向こうを顎で示した。
「あそこだ」
「え?」
「布屋だ。手袋くらいは売っているだろう」
「いえ、そこまでしていただかなくても……」
私は一歩引きかけたが、ユリウス様は振り返らない。
「お祝いだと言うのに、飯だけなんて寂しいだろう」
私が何を言おうと、食堂の時と同じ調子で話はもう決まっているのだろう。
私は半分諦めたように布屋に入った。
棚には色とりどりの手袋が並び、革と布の匂いが混ざっていた。
ユリウス様は迷いなく、いくつか手袋を手に取った。
「はめてみろ」
差し出されたそれに、私は一瞬ためらってから手を通す。
内側の布が柔らかく、指先が包まれた。
冷えが遮られ、じんわりと温かさが戻ってくる。
ユリウス様は私の手元を見て、軽く頷いた。
「似合ってるな」
「……ありがとうございます。でも……」
「お祝いだ」
今日何度目かの言葉を口に出して、ユリウス様はすぐに会計を済ませてしまった。
外に出ると、風は相変わらず冷たかった。
それでも、指先はさっきより随分と温かくなった。
私は手袋をはめたまま、そっと指を伸ばした。
指先の寒さが消えたおかげか、歩く感覚もさっきより楽だ。
通りを抜けた先には、馬車が止まっていた。
装飾は控えめで、けれど手入れが行き届いているのが見てわかった。
ユリウス様が扉に手をかける。
「これから屋敷へ行く。もう街に用はないか?」
「はい、大丈夫です」
私は一度、呼吸を整えた。
それから視線を上げたまま、ゆっくり頭を下げる。深すぎない、けれど誠意を込めて。
「今日は助かりました」
「礼はいい。感謝は仕事の成果で示してくれ」
ユリウス様はそう言って、扉を押さえた。
私は裾を整え、馬車に乗り込む。
中は外よりずっと暖かかった。
座席に腰を下ろすと、馬車が静かに揺れる。
扉が閉まり、車輪が動き出した。
私は膝の上で手袋を握りしめる。
温かい。
私はユリウス様に期待されている。過剰なくらいに。
私なんかに何ができるのかは分からない。でも、それに応えることこそが私の進む人生だと思う。
隣を見ると彼の綺麗な横顔が見えた。
ふと、ユリウス様が女好きだという噂が脳裏に過ぎった。
胸の奥には言葉にはできない引っかかりが残っている。
私は噂が嫌いだ。知らない人間が広げた悪い噂を簡単に信じるつもりなんてない。
でも、ユリウス様の悪い噂が本当なのだとすれば、今日彼が私にしてくれたことは特別ではないし、こういったことを他の女性にもしているに違いない。
そんな考えが浮かぶたびに、私の中に理由の分からないモヤモヤが残る感じがした。
でも、そんな感情はきっとなにかの勘違いで、気の迷いだろう。
私はそれを胸の奥にしまい、窓の外へ視線を移した。
――私は私の人生に集中しよう。
そう決心した時、馬車はユリウス様の屋敷へと走り出したのだった。
……私は何か、大事なことを忘れている気がした。




