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2話

 屋敷を出た。

 もう、戻るつもりはない。


 扉が閉まった音は思ったより小さかった。

 なのに、その音だけが耳の奥に残っている。背中に冷たい空気が当たって足が少し竦んだ。


 行く手は特に決まっていないけれど、私はとりあえず街へと向かう。



 鞄は軽かった。

 中身は下着と替えの靴下、薄いショールの必要最低限の衣服、そしてペンと小さなメモ帳などの簡素な身の回り品のみ。


 指輪も髪飾りも社交界用の手袋も、この中には入っていない。


 街への道中は寒さも相まって、私の薄い装いでは険しい道のりだった。

 少し勢いに任せて家を出たかもしれない。まぁ、だからと言って後悔は一つもしていないけれど。


 道中、濡れた石畳を歩いた。雪解け水が溜まり、歩くたびに靴底が吸い付く。

 裾が汚れないように少し持ち上げ、足元を確かめながら進む。息を吸えば鼻の奥がつんとした痛みが走った。



 街へついた頃には、手は氷のように冷えて硬くなっていた。


 ……さてと。


 考えるべきことは単純だ。

 まず、生きるためには働かなければならない。


 ただ、その『単純』が、今の私には重い。

 家と妹たちのために動くことだけは、何年も迷わなかった。まぁ、迷う選択すら与えられなかったという方が正しいかもしれない。


 けれど今は、自分で全部決めなくてはいけない。


 まずは今日の寝床を確保を優先しよう。

 私は歩きながら、手の中の硬貨の感触を確かめた。

 旅費として持ち出した銅貨。ゼロというわけではないが、決して多いとも言えない。

 高い宿は無理だ。とはいえ、最低でも鍵がある部屋は予算内で探したい。


 大通りに出ると、人の流れが少し増えた。

 荷車が軋み、商人が声を張る。魚屋の前では氷の上に並ぶ魚が鈍く光り、香辛料の店からは鼻をくすぐる匂いが漂ってきた。


 冬の街は冷たいのに、その喧騒が止まる気配は無い。


 私は宿屋の看板を探した。

「旅人宿」「下宿」「食事付き」――文字を追い、値段の札を見ては目を逸らす。

 安い宿は暗い路地に多い。人通りが減ると、空気も薄くなるように感じた。


 意を決して入った路地の奥で、煤けた看板を見つけた。

 文字は擦れているが『宿』の一字が読める。窓は小さく、入口の扉は分厚い木だった。中から煮込みの匂いがする。


 私は扉を押した。


 軋む音と一緒に、ぬるい空気が頬に触れた。

 暖炉の熱と、濃い酒の匂いと、布に染みた汗の匂い。嫌ではない。どこか懐かしさを覚えた。


 カウンターの向こうに店主がいた。太い腕で布を絞り、こちらを一瞥する。

 目は鋭いが、余計な愛想はない。私からすればその態度がむしろありがたい。


「泊まりか?」


「……はい。部屋は空いていますか」


「ちょうど一部屋だ」


「とりあえず二泊お願いします」


 仕事がすぐ決まる保証はない。焦って行動を誤るのが一番まずい。二日あれば、明日失敗しても立て直せる。

 硬貨をカウンターに置くと、店主は音だけで数を確かめるように指を滑らせ、引き寄せた。


「飯は出してねぇ、食いたきゃ外に行け」


 無愛想な店主から私は鍵を受け取った。


 部屋は二階の端だった。廊下の床板が鳴る。

 鍵を回し、扉を押し開ける。


 部屋は狭かった。触れるだけで軋む寝台はすごく硬い。他には壊れかけの机が一つと椅子が二脚。窓は小さく、隙間風が入ってくる。


 それでも、扉を閉めた瞬間に外の音が遠くなって、胸の奥が少し緩んだ。


 私は鞄を床に置き、椅子に腰を下ろした。

 手袋がないので、指先を揉んで摩擦で温める。冷えた関節がじんと痛む。

 壁に掛かった鏡は歪んでいるけれど、辛うじて自分の表情は見えた。


 疲れている顔が映った。

 でも泣いていない。目も腫れていない。


 私は一度だけ深呼吸した。

 少し休憩を――と言っても長くは休めない。少し落ち着いたら、働き口を探そう。


 そう思って私は目を閉じた。



 そのまま眠っていたらしい。

 数刻ほど経って、私は寝台から立ち上がった。

 髪を指で整え、ショールを肩に掛ける。服は目立たないものを選んだ。派手に見える装いは、無駄に絡まれるかもしれない。


 扉を開けて廊下に出た。

 階段を降り、外へ出ると、冷たい空気が頬を刺した。

 少し眠ったおかげで、さっきよりも少しだけ歩ける気がした。


 仕事を探すなら、まず掲示板だ。

 商人ギルドの外壁にある求人の板。以前、妹の不始末の謝罪で何度も通った道だ。

 あの時は視線が痛かった。


 大通りを抜け、ギルドの近くまで来ると、人の流れが一段と速くなる。

 帳簿を抱えた職員が小走りで通り過ぎ、荷運びの男が声を張る。紙の擦れる音が、あちこちから聞こえる。


 掲示板の前には、すでに数人が立っていた。

 紙が何枚も重なり、端が風でめくれている。私は人の隙間に入り、目を走らせた。


 『帳簿係募集』

 『使い走り』

 『倉庫番』

 『住み込み使用人』

 『読み書きできる者優遇』


 そこには多種多様な仕事が張り出されていた。


 私は読み書きはできる。手紙も謝罪文も――嫌というほど書いてきた。


 ただ、張り紙の最後にいつも同じ一文が書いてあった。


 『身元保証人要』


 私は紙の端を指で押さえた。風でめくれるたび、文字が揺れる。

 保証人。家を出たばかりの私に、その言葉は重く伸し掛る。


 ……どうしよう。


 その時だった。


「……イリア嬢か?」


 背後から名前を呼ばれた。

 あまり聞き馴染みのない低い声だった。


 私は反射的に背筋を伸ばし、振り返った。


 そこには濃い色の外套を着た青年が立っていた。

 身につける生地の質と仕立ての良さで、彼が庶民ではなく貴族だということは一目で分かった。


 そして青年の顔を見て、私の記憶が繋がった。


 ――公爵家嫡男、ユリウス・アークライズ。


 私は彼を知っている。

 社交界では女性の噂が絶えない男で、直接私が『謝罪』で頭を下げに行った相手でもあった。


 リリスが「気になる」と言い寄り、相手が公爵家だと知らず、偉そうに振る舞った挙句、謝罪せずに逃亡。いつものように私が責任を負った。


 彼の顔を見て、その嫌な出来事を思い出してしまった。


 でも、あの時の彼に怒っている様子はなかった。


 『君の妹君は礼儀を知らないみたいだな』


 無表情でそう言ったユリウス様の言葉が、今も記憶に残っている。


 私は軽く会釈する。

 二度目の再会が謝罪でなかったことに小さく安堵した。


「お久しぶりです、ユリウス様」


 ユリウス様は一瞬だけ私を見て、掲示板へ視線を移した。


「仕事を探しているのか」


「……はい」


「ヴァレンシュタイン家のご令嬢がこんなところで仕事探しとは、これまた珍しいものが見れたな」


「えっと、そのことなのですが……」


 誤解されるのも嫌なので、私は今日の顛末についてユリウス様に話した。


 私の説明にユリウス様の表情が変わった。驚きではない、何かを考えるような。

 状況を頭の中で整理しているのが表情から読み取れた。


 「面白い。君ほどの者を遊ばせておくのは惜しい――我が家で働く気はあるか?」


 首を傾げる彼が唐突に口を開けた。

 あまりに直球な提案に、私は一瞬言葉を失った。


 何が面白いのだろう。


「……私が、ですか?」


「君が俺の屋敷に来た時のことを覚えている」


「その節は本当に申し訳ございませんでした」


「いや、謝るな。逆だ。俺は君の才能を買っているんだ。働く場所がまだ決まっていないなら、うちで雇いたい」


 評価の言葉は軽くなかった。

 でも、私は変に期待しないように指先へ力を入れる。


「……私に才能なんてないと思いますよ。あ、謝罪の才能とか言わないでくださいね」


「まさか、そんな単純な考えじゃない。家族や妹たちのためとはいえ、あそこまで真っ直ぐに話せる人間はそう多くないだろう?」


 妹たちのために、と思って謝罪をしていただけで、そこまで考えたことはなかった。

 実際、私は死に物狂いで頭を下げ続けていたのだ。考える余裕すらも、あの時はなかったと思う。


「その時、君の意思がしっかり伝わったよ――君のために妹君を許してあげたと言っても過言では無いくらいだ」


 彼は私のことを買い被りすぎている気がする。

 あえて口には出さなかったが、私は内心苦笑いを浮かべた。


「あと安心してくれ。衣食住はしっかり用意しよう、もちろん賃金も弾む」


 それは今の私に必要なものだった。

 喉が小さく鳴る。私は鞄の持ち手を握り直した。


「とても魅力的な提案をありがとうございます。とても嬉しいです」


「それはよかった」


 満足気に頷く彼に。

 ですが、と私は続けた。


「一つだけお伝えしたいことが」


「聞こう」


「……私は今後一切、人のために自分を殺して働くような都合のいい人間になるつもりはございません」


 この言葉を口に出した時、二度と『都合のいい道具』にはならないと決めた自分の誓いと感情が、一気に胸に押し寄せた。


 だからこそ、私は決めたんだ。


「――それでも、よろしいでしょうか?」


「あぁ、もちろんだ」


 考える素振りすらなかった。

 微笑んで即答したユリウス様に、私は感謝と誠意を込めて深く頭を下げるのだった。

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