エピローグ
時刻はもうすぐ午後八時。
冷たい風が吹きつける中、俺は早足で自宅までの道のりを歩く。
〝英雄〟の称号を受けてからずっと騒がしかった俺の周囲も、半年が経ってようやく落ち着きを取り戻し始めてきた。
繁忙期の真っ只中だというフィオナの職場も、もうすぐ山を越えるはずだ。来月辺りには、久しぶりに二人でゆっくりとどこかに出掛けることができないだろうか。
そんなことを考えて無意識のうちにだらしなく緩んでいた口元を、俺は慌てて引き締める。夜間ににやにやとしながら早足で住宅街を歩く大男なんて、不審者でしかない。
「フィオナちゃんのことになると馬鹿になるの、オスカーは相変わらずだね」
頭の中のエドウィンがそんなことを言うけれども、否定できないからどうしようもない。
フィオナに対する「愛おしい」という気持ちは、出会った頃から変わらず、むしろ共に過ごすにつれて増すばかりなのだ。
初めてフィオナと出会った日のことを、俺は鮮明に覚えている。入学してからおよそ三ヶ月が経過した、どんよりと曇った日だった。
数名の女子生徒に囲まれ、一方的に暴力を振るわれたのであろうフィオナは、教室に飛び込んで来た俺を見て、泣くでもなく俺の手に縋るでもなく、晴々とした表情で「やり返したから大丈夫」と言った。頬を赤く腫らした状態で。
そんな彼女を前にして、俺はそれまで自分が有していた「女性はか弱きものであり守るべき対象だ」という考えに、初めて疑問を抱くこととなった。
それほどまでに、自分の足でしっかりと立つ彼女は、強く美しかったのだ。その時俺の目の前に立っていた彼女は、決して〝一方的に守らねばならない弱者〟ではなかった。
その後エドウィンから「必死すぎて怖い」と言われるくらいにアピールを重ね、なんとかフィオナの恋人の座をもぎ取った訳だけれど、付き合い始めたばかりの頃は、俺からフィオナに向ける好意の方が、フィオナが俺に向けるそれよりも、遥かに大きいものだった。
そんなだから、学生時代の俺はフィオナの目に他の男が映らないよう、それはそれは周囲に目を光らせた。
フィオナは自覚していなかったけれど、凛とした美しさをまとう彼女に、密かに心を寄せる男は多く、苦々しい思いをしたことも一度や二度ではない。
「せめて学生時代の思い出に、フィオナさんのボタンを貰いに行こうかな」
そんなことを言っていた奴に、わざと聞こえるような声で「フィオナのボタンが俺以外の人間の元に渡ろうものなら、手が出てしまうかもしれない」と言ったせいで、その場の空気が恐ろしく凍ったことは記憶に新しい。
もちろん周囲に牽制するだけでなく、自分自身を高めるための努力も怠らなかった。
そうして「フィオナに釣り合う人間でありたい」と鍛錬に明け暮れた結果が、〝かつてない好成績〟と言われる出来での騎士団入団なのだから、フィオナの存在が俺にとってどれだけ大きいものなのかがわかるだろう。
「愛するフィオナに情けない姿を見せたくない」という思いや、「彼女に負けたくない」という気持ちも、良い方向に働いたと言えよう。
卒業後、フィオナと会う機会はぐんと減った。
同じ王宮内で働いているといえども、騎士団と文官とでは職務領域も全く異なるため当然だ。
それまでは毎日学校で顔を合わせていたフィオナと、数日置きにしか会えなくなってしまったことはこの上なく辛かったが、彼女の頑張りは俺の耳にまで届いていた。それが俺にどれほどの力を与えてくれたか、説明するまでもないだろう。
だから、働き始めてもうすぐ三年目になろうというあの日、初めて演習場に訪れたフィオナを目にして、俺は喜びよりも驚きが勝ることとなった。
唇を噛み締め、「一目見たいと思って来た」と言って無理矢理に笑おうとする彼女を前に、フィオナに出会う前の俺なら「辛いなら仕事を辞めてもいい」と言ったはずだ。俺が養ってやるから、守ってやるから……だから君は俺を支えることに徹してほしいと、なんの疑問も持たずに百パーセントの善意で言ったことだろう。
けれどもきっと、彼女はそれを求めていない。
俺が好きになったフィオナは、自らの足でしっかりと立ち、自らの手で道を切り開いていこうとする女性なのだから。
「支えてほしいから、結婚するんじゃない。俺はフィオナと支え合って生きていきたいから、結婚したいんだ」
そのプロポーズの言葉は、意図せず口から溢れ出たものだったけれど、そこに嘘偽りは一つもない。
フィオナの存在が俺の活力になっているのと同様に、俺の存在がフィオナに力を与えるものであってほしいとの願いが、言葉になって飛び出したものだった。
その後フィオナは、バディであるウォルトと俺が良い仲なのではないかと疑ってくる(いや、あれは〝疑う〟というよりは〝信じ切っていた〟と言うべきかもしれない)という、意味不明で突拍子もない想像力を発揮することもあったけれど、そんなところも含めて俺は彼女が好きなのだ。
俺はフィオナと出会ってから、毎日楽しく幸せに暮らしていると、胸を張って言うことができる。
「……ただいま」
フィオナとのこれまでを思い出しながら帰宅した俺は、誰もいない暗闇に向かって声を掛ける。
ひんやりとした家の中が、それでも寒々しく感じないのは、もう少ししたらここにフィオナが帰って来るとわかっているからなのだろう。
静まり返った廊下を抜けてリビングに入ると、今朝出したコップが置かれたままのダイニングテーブルが目に入る。そのまま視線をずらすと、昨日取り込んだ洗濯物がそのままの状態で置かれていることにも気がついた。
俺もフィオナも、今は家のことが後回しになるくらいに忙しいのだ。仕方がない。
来週末には〝騎士団の妻の集い〟が開催されると聞いているが、それについてフィオナに知らせる必要はないだろう。
「騎士を配偶者に持つ女性達の情報交換の場」とされてはいるが、人脈作りの場としての意味合いが強いその〝集い〟は、孤独を感じやすい騎士団の妻が居場所を作るための、そして万が一の際に騎士の妻が頼りにする先を確保するための場なのだ。
そのどちらも自力で作り上げているフィオナにとっては、わざわざ時間を割くほどのものではない。
そんなことを考えながら部屋の時計に目をやると、午後八時を十五分ほど過ぎた時刻を指していた。
あと五分もしないうちに、フィオナも家に帰って来るだろう。
おそらくフィオナが帰宅するまでに、部屋を暖め切ることはできない。食事の用意も洗濯物の片付けも、当然ながら何一つとして終わらせることはできていない。
けれども、外から帰宅したフィオナはきっと、俺の顔を見てほっとした表情を浮かべるはずだ。俺が家にいるという、ただそれだけの理由で。
そんな彼女を見て、今日も俺は思うのだ。
フィオナとのこの幸せな生活が一生続きますように、と。
これにて作品完結です。
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
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