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……そんな私の決意も虚しく、冒頭。
私がいくら彼の妻として相応しくない行動をとり続けても、オスカーの態度に変化はなかった。
『ヘルト』の内容通りに動くためには、オスカーは遠征までに私と離縁して、バディである彼女と付き合い始めておく必要がある。遠征の日程から逆算すると、さすがにそろそろ動き出さないと間に合わない。
そう考えると、焦りを感じるのも仕方がないだろう。
今日もまた、オスカーから別れを切り出されることはなかった。
ここ最近は、彼との別れが一日伸びたことに対する安堵と、彼の今後に対する焦りとで感情が乱れて、夜も上手く眠れていない。仕事に支障をきたさないように、今日は早めにベッドに入ろう。
そんなことを考えながら、寝支度を整えている時だった。
「疲れているところ、本当に申し訳ないんだけど、フィオナに話したいことがあるんだ」
そう言うオスカーは、ひどく真面目な表情をしていた。そして彼から発せられたその言葉は、何かを決意したと言っても過言ではないくらいの重々しさを有していた。
……ついに、きた。
「どうしたの?」
「実は俺のバディが、ぜひ君に会ってみたいとうるさいんだ。あまりにもしつこいので、ぜひ一度会ってやってはもらえないか?」
オスカーからのその言葉に、私は衝撃を受ける。
だってまさか、私が〝主人公の妻〟である状態のまま、オスカーの未来の恋人と直接会うことになるだなんて……!
この世界の神様が、物語の細部にはこだわりがないらしいことは知っていた。
けれども、現妻と未来の恋人を直接出会わせるという暴挙に出るなんて、思いもよらなかった。
遠征まで残り少ない今の時期にそんなイベントを発生させるということは、ひょっとすると神様は私に彼女との直接対決をご所望なのかもしれない。やめてくれ。
そんなことを考える私の目の前では、オスカーが苦々しげな表情を浮かべている。
「何度も断ったんだけど……ごめん」
「俺としても、本当はフィオナとあいつを会わせるようなことはしたくないんだ」
言い訳なのかなんなのか、オスカーは私の反応も気にせず言葉を重ねる。
その内容を鑑みるに、彼もまた、来るべきイベントにおいて何かしらのアクシデントが発生する可能性を感じ取っているようにも思われる。
オスカーとの関係について、本音を言うならば、最後くらいはキレイな形で終わりたい。彼と歩む未来は諦めるから、彼と歩んできた過去だけはキレイなままで置いておきたい。
けれどももう、ここまできたらやるしかないのだろう。
『ヘルト』の物語通りにオスカーが〝英雄〟の称号を得るために必要であるならば、私は悪者になることも、甘んじて受け入れようじゃないか!
そんな決意を胸にベッドに潜り込んだ私は、その日もまた眠れぬ夜を過ごすことになるのだった。
◇◇◇
ついに迎えた約束の日。
我が家に訪れた人物を前にして、私は呆然とすることになった。
だってそうだろう。「これから夫の未来の恋人である〝若々しく健康的で、明るくて可愛らしい彼女〟を出迎えるのだ!」と、勇んで扉を開けた私の目の前に現れたのが、オスカーと同じくらいにしっかりとした体躯の青年だったのだから。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます! オスカーさんの奥さんですよね? ずっとお会いしたいと思っていました!」
出迎えの言葉も発せずに立ち尽くす私に気を悪くしたふうでもなく、その人物はハキハキとした口調でそう言うと、にっこりと笑ってこちらに手を差し出した。
はて、夫の相手はこんな人物だっただろうか?
そう思って、もう一度目の前の人物をじっと見つめるけれど、そんなはずはない。『ヘルト』においてオスカーのバディは、間違いなく女性だった。
先程発せられた声の低さ、短く刈り上げられた赤茶色の髪、握手のために差し出されている大きく骨張った手、そして百九十センチはあるだろうと思われる身長に鍛え上げられた大きな肉体。目の前の人物は、どう見ても生物学的には女性じゃない。
……あれ?
なんとか「はじめまして」という言葉を絞り出し、彼の大きな手を握り返したものの、頭の中は疑問符で埋め尽くされている。
「ウォルトと申します。オスカーさんには、いつもとてもお世話になっています!」
「ウォルト……君? こちらこそ、いつも夫がお世話になっています」
「うわあ! オスカーさんの奥さんに名前で呼んでもらえた……! 僕も『フィオナさん』とお呼びしてもいいですか?」
そんな会話の直後に、なぜかウォルト君はオスカーから頭を叩かれていたけれど、放っておかせてもらう。私はこの状況を頭の中で処理するだけで精一杯だ。
……ひょっとして、彼女は急に来られなくなってしまったのかもしれない。だから、その代わりとしてウォルト君が我が家を訪れることになったのかもしれない。
そう思った私は、「オスカーのバディの方は都合が悪くなられたの?」と尋ねてみた。
けれども、私の言葉を聞いた二人は、きょとんとした表情を浮かべている。
「何言ってるんだ? 俺のバディはウォルトだけど?」
オスカーは「心底訳がわからない」とでも言いたげに、そう答えるけれども、「心底訳がわからない」のは私の方だ。
もしかしてもしかすると、この世界の神様にとっては、〝オスカーの次の恋人がバディである〟ことが、取るに足らない些細な設定だったとか?
だから、公私にわたってオスカーを支える女性騎士であれば、相手がバディである必要はないと考えたのかも?
「俺はお茶を用意してくる。ウォルト、くれぐれもそれ以上フィオナに近寄るなよ」
「わかっていますよ。フィオナさんとどうこうなろうと考えるほど、僕は命知らずじゃありませんから」
ウォルト君とそんな会話を交わしたオスカーが部屋から出るのを見届けて、私は苦笑いを浮かべるウォルト君にそっと声を掛ける。
「あの……変なことを聞くけれど、騎士団で夫と仲の良い騎士の方はいるのかしら?」
ひょっとしたらバディではなくとも、オスカーが心を許している〝若々しく健康的で、明るくて可愛らしい女性騎士〟がいるのかもしれない。
そう思っての質問だったのだけれども、ウォルト君は私の問いに間髪を容れずに返事をした。
「『仲が良い』と言えばエドウィンさんでしょうね。オスカーさんは人気者ですから、それ以外にもたくさんの騎士から慕われていますよ」
「その中に女性がいたりは?」
「それは……はい。少数ですが、騎士団には女性もいますからね。ですが、フィオナさんが心配なさるようなことはないと思いますよ」
ウォルト君はそう言うと、「オスカーさんばかりがベタ惚れなのかと思ってましたが、そうじゃないんですね……よかった」などと言いながら、うんうんと頷いている。
「……気を遣わずに正直に答えてね? 別に恋愛的なあれこれじゃなくっても、オスカーと特別親しく関わっている女性はいないのかしら?」
冷静に考えると、これは妻の発言としてかなり危ういものだし、私がウォルト君の立場だったら「うへえ」となっただろう。
けれども、ウォルト君は嫌そうな素振りなど微塵も感じさせることなく、爽やかな笑顔を浮かべて言い放った。
「オスカーさん、いつもフィオナさんの話ばかりされていますから。あれだけ毎日『妻のフィオナが〜』『今朝もフィオナが〜』って話をされて、オスカーさんとそういう意味で親しくなろうと思う女性なんていませんよ」
……ウォルト君がそう言い切るのであれば、きっとそうなのだろう。
ならばもう、導き出される答えは一つしかない。
目の前に座るウォルト君こそが〝オスカーの未来の恋人〟なのだ……!
『ヘルト』におけるオスカーの次の恋人は、「五歳くらい年下の、若々しく健康的で、明るく可愛らしい女性バディ」だった。
私達より丁度五歳年下だというバディのウォルト君が〝若々しく健康的〟なのは見ればわかるし、彼が〝明るく〟良い子なのは会話をする中からでも垣間見える。それにまあ、幼さを残した顔は〝可愛い〟と言えなくもない。そもそも〝可愛い〟の基準なんて曖昧なものなのだ。この場合、オスカーが〝可愛い〟と思えばそれで良いのだろう。
つまり、生物学的には男性であったとしても、『ヘルト』における〝オスカーの次の恋人〟とウォルト君は、九十五パーセントくらいは合致しているということ。……多分。
そう考えると、きっとそれこそが正解なのだという気しかしない。
「男は仕事、女は家庭」という古い価値観の世界を作りながら、恋愛については先進的な設定を許容する神様には少し驚かされるものの、オスカーの恋人の生物学的な性別が『ヘルト』の設定と違っていたとしても、物語の展開的に大きな問題はなさそうだ。
物語の大枠に影響がないのだから、神様にとってはウォルト君が男性であることは、誤差と言える程度のものなのだろう。
そうか。なるほど。
ようやく辿り着いた答えに納得し、改めてウォルト君を〝オスカーの恋人〟として見てみると、これほど頼もしい人物はいないのではないかと思わされる。
騎士としてのオスカーを支えるにあたって言えば、同じく騎士でありバディであるウォルト君以上に、オスカーの近くにいられる人物はいないはず。
個人としてのオスカーを支えるウォルト君の力量は定かではないけれど、この短時間でも二人の仲の良さは十分に窺えた。きっとなんとかなるのだろう。
そう思うと、私はここで潔く身を引くのが良さそうだ。
オスカーの未来の恋人を相手に、胸ぐらをつかみ合うくらいのやりとりは覚悟していたけれど、相手がウォルト君であれば話は変わってくる。
こんなに感じの良いウォルト君と修羅場を演じるのは心が痛むし、彼を相手に揉めたくない。彼とやり合おうものなら、軽い怪我じゃ済まないのは目に見えている。
予想とは違った展開に、いまだ混乱しているけれども、なるべく穏便に話を進めようと、私は大きく息を吸い込む。
「ウォルト君は、オスカーのことが好きなの……?」
「はい、もちろんです。とても頼れる先輩だと思っています」
「オスカーも、そうなのかしら?」
「ええっと……おそらく? まだまだ僕では力不足な点もありますが、オスカーさんに認めていただけるように、日々の努力は怠っていません」
「そう……。なら、私ができることはもう何もなさそうね」
私のその言葉を聞いて、ウォルト君が不思議そうな表情を浮かべている。
そんなウォルト君の反応からもわかるように、おそらく現時点ではまだ、オスカーとウォルト君の関係は恋人という形をとってはいないのだろう。一途で誠実なオスカーが、たとえ相手が同性であろうとも、私と並行して関係を進めることなどあり得ないから。
だから私は、来る遠征に向けて、潔くオスカーの物語から退場しなくてはならない。二人が物語に沿った関係を、一刻も早く築けるように。
そう考えると、私はもはや役目を終えた身。
だから何も言わずに静かに退場するのが、キレイな形なのだと思う。
けれどもどうしても、最後にこれだけは伝えておきたい。
そんな思いを胸に、私は椅子から立ち上がり、ウォルト君へと歩を進める。
私の行動を目にして、ウォルト君が少し狼狽えるような仕草をした気がするけれども、今だけは無視させてもらおう。
だってもしかするともう二度と、彼と直接話をする機会などないかもしれないのだから。
「……オスカーのこと、これからもよろしくね」
そう言いながら、自身の両手でウォルト君の両手を包み込むようにして握りしめる。
途端にウォルト君がわかりやすく肩を震わせたけれど、私はそれに対抗するかのように、さらに両手に力を込める。
「あっ、あのっ、フィオナさん?」
「ウォルト君のこと、信じているからね」
私はそう言って、微笑むつもりだった。
けれども私の表情筋は上手く働いてはくれず、それどころかぽろりと涙が零れ落ちるものだから、どうしようもない。
……最後は笑ってお別れするって決めてたのにな。
ぼんやりとそんなことを思いながら、次から次へと溢れ出る涙を、なんとか押し留めようと苦心している時だった。
「何やってるんだーーーー!?!?」
リビングの入口辺りで、ガチャンという何かが割れるような重たい音がしたかと思うと、家全体が揺れるのではないかというくらいに大きなオスカーの叫び声が、部屋中に響き渡ったのだった。