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私達の結婚を最も喜んでくれたのは、エドウィンだった。
「ほんとに、本当によかった! 二人の結婚を、俺がどれだけ待ち侘びていたことかっ……!」
行きつけのレストランで結婚報告をした途端、彼が大きな声をあげるものだから、顔見知りの店員までもが、「そうなのかい?」とでも言いたげな表情で目配せをしてくる。まあ、いいんだけど。
「フィオナちゃん。オスカーのこと、くれぐれもよろしくね! 困ったことがあったら、いつでも相談にのるからね!」
「……いくら相手がおまえでも、二人きりにはさせないぞ」
エドウィンからの申し出に、オスカーが真面目な顔をしてそんなことを言うのを見て、私は思わず笑ってしまう。
「ありがとう、エドウィン。頼りにしてるわね」
私がそう答えると、なぜかオスカーは何か言いたげな微妙な顔をしていた。
その後、レストランを経営するご夫婦の厚意により、私達のテーブルにはたくさんの料理とお酒が振舞われた。
「いつも贔屓にしてもらってるからね! 私達からの結婚祝いだよ!」
そんな言葉に促されて、気がつけばいつも以上に飲み食いしてしまったようだ。エドウィンなんか、完全に酔っ払ってしまっている。
「オスカー、ぐすっ……、おまえほんとに……、ずびっ、よかったなあああ」
ぼろぼろと涙を流しながら祝福してくれるエドウィンに、オスカーは「さすがに飲み過ぎだろ」と呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだ。
「あなたの幼馴染のこと、大切にするからね」
私がそう言うと、エドウィンが前のめりに話し出す。
「俺はずっと見てきたんだ……。学生時代、『気になる子ができたんだ!』って言って俺の家に飛び込んで来たオスカーも、毎日フィオナちゃんに話し掛けようと必死になってるオスカーも……」
「おいこら、言うな!」
「フィオナちゃんから告白の返事を貰った時なんかさ、『幸せ過ぎてどうにかなりそうだ』なんて言っちゃってさあ……。馬鹿じゃないのって思ったけど、俺も嬉しかったなあ」
「言うなって!!」
真っ赤な顔をしたオスカーに口を押さえられながらも、エドウィンの話は止まらない。
「入団してからは、毎日かってくらい俺の部屋に来てさあ。『フィオナが望む形で結婚ができるように、俺は何をすればいいんだろう?』って、こいつはいつもうじうじして……」
「もうおまえ、ほんとに黙れって!」
「家事をするようになってからも、最初のうちは『味見してくれ』って言って、いろんな食べ物を持ってこられたなあ。当時のオスカーの手料理は、しょっぱかったり固かったり、とても食べれたものじゃなかったのに、それが今ではこんなに立派に……」
「言うなよ!!!」
「…………ぐう」
「寝るな!!!」
言いたいことだけ言った後、エドウィンはテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだ。
そんなエドウィンを前に、オスカーは「こいつは……」と呟いて頭を抱えている。
「オスカー?」
そう呼び掛けて彼の手に触れると、オスカーの肩が大きく上下した。
「幻滅したか? その……エドウィンの話を聞いて」
恐る恐るというようにそう問い掛けてくるオスカーの瞳が、不安げに揺れているのを見て、私の胸がきゅうっと音を立てる。
「そんな訳ないじゃない。むしろ、オスカーがどれだけ私のことを思ってくれていたかが知れて、嬉しいくらいよ」
そう言って彼の手を上から包み込むように握りしめる。
私の小さな掌では、オスカーの手を覆うことはできなかったけれど、オスカーは嬉しそうに目元を和らげると、とろりとした声色で「ありがとう」と言った。
「あいつが言ってたように、俺は昔からずっと、フィオナのことが大好きだ。フィオナと結婚できることを、心から嬉しく思っている」
オスカーは「幸せになろうな」と付け加えると、そのまま私の頭のてっぺんに口づけを落とした。
「……そうね」
彼の幸せそうな顔を見て、たくさんの人々に祝われて、罪悪感がない訳ではない。私は、オスカーとの関係に、期限があることを知っているから。
それでも、彼の物語から退場させられるその日までは、精一杯オスカーを大切にしようと、そう思うのだった。
◇◇◇
オスカーと夫婦になってから、あっという間に三年が経過した。
その間、ずっと順調だったと言えば嘘になる。
「そんな言い方はないんじゃないかしら?」
「最初に感情的になったのはフィオナだろう」
そんなふうに、初めてオスカーと喧嘩をしたのも、結婚してからのことだった。
喧嘩の発端も、どちらが悪かったのかも、覚えてはいない。多分、どちらか一方が悪かった訳ではないんだと思う。
苛立ちを隠そうともしないオスカーを前にして、私は唇を噛み締める。
口を開けば涙が出そうだったけれども、泣いておしまいにはしたくなかった。私が泣けば、オスカーは私を許さざるを得なくなってしまうから。
そんな私の態度を見て、オスカーはわざとらしく溜息を吐いた。
「話をするつもりがないなら、しばらく一人にさせてほしい」
彼はそう言い残すと、寝室へと入って行った。
お互いに仕事をしているのだから、家に一人でいることには慣れている。しかしその時は、いつも以上に部屋の中がひんやりとしているように感じられた。
「……私も頭を冷やして来ようかな」
私だけが悪い訳じゃないとしても、ここまで喧嘩が大きくなってしまったのは私の態度にも原因がある。少し外を散歩して、そして帰ってからオスカーに謝ろう。
そう考えた私は、そっと家から外に出た。
夜十時を過ぎた住宅街、ひっそりと静まり返っている中を一人で当てもなく彷徨う。
「つい最近まで暑かったのに、夜はすっかり肌寒くなってるなあ」とか、「どこからか金木犀の香りが漂ってくるなあ」とか、そんなことを考えながら歩いていたせいで、「少し」と言うには長い時間が経過してしまっていたらしい。
すっかり気分転換して帰った私を出迎えたのは、仁王立ちのオスカーだった。
玄関扉を開けてすぐ目の前にオスカーがいるものだから、私は思わず「ひい」という声を上げてしまった。
けれどもそんな声に怯むことなく、オスカーはそのまま私を正面から抱きしめた。
「……フィオナが無事でよかった」
そう言うオスカーの身体は、僅かに震えていた。
「何も言わずに家を出るから、驚いただろ。そうじゃなくても、こんな時間に一人で外に出るなんて」
「……ごめんなさい。心配かけたことも、喧嘩についても」
「喧嘩に関しては、俺も悪かった。ごめん」
オスカーはそう言って、私の肩の辺りに自身の額をぐりぐりと擦り付ける。
「それに、先にフィオナから逃げたのは俺だ。あんな形で君を一人にすべきじゃなかった」
オスカーのその言葉に、「寂しかったわ」と言うと、耳元で小さく「ごめん」と返ってきた。
「次から夜に外に出る時は、俺もついて行くから」
「喧嘩中でも?」
「当たり前だろ」
「なあに、それ」
大真面目な顔でそんなことを言うオスカーに、私は思わず笑ってしまい、結局そのまま初めての大喧嘩は幕を閉じた。
それ以降、「目の前の相手から逃げない」というのが私達の間でのルールになった。「夜遅くに一人で出歩かない」というのも。
そういうふうに小さな喧嘩を繰り返し、お互いの価値観を擦り合わせて、私達はより良い関係を築いてきた。
オスカーとこのまま、ずっと一緒にいれたらいいのに……なんてことを思ってしまうくらいに、私は彼の隣に居心地の良さを感じている。
だから頭の片隅で、考えてしまうのだ。
だって、儚くもか弱くもない私がオスカーの妻なんだから。だって、彼との結婚時期も『ヘルト』とは異なっているから。だって、私は心を病んでいないから。
だから、ひょっとするとこの世界は、『ヘルト』とは違う動きをしているかもしれない……と。
そんなふうにして、私は僅かな希望に望みを託していたのだけれど、やはりその時は訪れしまった。
その日オスカーから告げられたのは、「今年度入団してくる準騎士と、バディを組むことになったんだ」という言葉だった。
その時の彼は少し照れくさそうな、そして嬉しそうな表情を浮かべていた。
騎士団に入団して一年未満の準騎士は、先輩騎士とバディを組むことになっている。平たく言うと、お世話係みたいなものだ。
経験の浅い準騎士を、バディである先輩騎士が一年間つきっきりで指導するので、この制度によってできた繋がりは一生のものになることが多いらしい。
準騎士のバディとして選ばれるのは、「騎士として相応しい」と認められた人物だとされているため、オスカーがそれに抜擢されたことは、当然ながら名誉なことだ。
けれども、私は素直に喜ぶことができなかった。ここで彼のバディとなるのが、私と離縁した後にオスカーの恋人となる人物なのだから。
『ヘルト』内でのオスカーは、彼女とバディを組むことで大きく成長していた。……いや、バディを組むだけではなく、恋仲になり公私にわたり支え合うことで成長していたのだ。
彼が〝英雄〟の称号を手に入れるためには、準騎士の彼女が必要不可欠。つまり、そろそろ私は〝オスカーの妻〟をやめなくてはならないということ。
……ついにこの時がきたんだな。
いずれこの日が訪れることを、オスカーの告白を受け入れた時から覚悟していた。その時がきたらどうするか、頭の中では何度もシミュレーションしてきた。
「そう、なんだ。どんな子なんだろうね?」
けれども、やっとの思い出絞り出したその言葉は、みっともなく震えていた。
当然ながら、それに気が付かないオスカーではない。
「フィオナ……?」
「ごめんなさい、驚いちゃって。準騎士のバディに選ばれるなんて、すごいじゃない!」
訝しげな表情を浮かべる彼に返す言葉に、嘘はない。「すごい」のはもちろんのこと、「驚いた」のも本当のこと。何に驚いたのかを言っていないだけ。
「……フィオナが、いてくれるからだよ」
「そんな訳ないじゃない。これは、オスカーの功績よ。変な謙遜しないで」
「謙遜じゃない」
オスカーはそう言うと、私の背中に両腕を回した。
彼の香りも体温も、私にはすっかり慣れ親しんだものになっている。
けれどもそれも、その時がくれば手放さなくてはならないのだ。
「ねえ、オスカー」
「なんだ?」
「私、あなたの妻になれて本当によかった」
その言葉を聞いて、私の身体に回された彼の腕に、より一層力が籠るのを感じた。
◇◇◇
バディができてしばらくは、げっそりとした様子で帰宅することが多かったオスカーも、半年が経つ頃には徐々に元気を取り戻し、ここ最近はまた足取り軽く職場に向かうようになっている。
おそらく、ようやくバディとも上手くやれるようになってきたのだろう。……将来恋仲となる、明るく元気なその子と。
とはいえ、オスカーから私に対する愛情表現は相変わらずだ。
彼はことあるごとに私を愛で、そして愛を囁いてくる。学生時代から変わらず、彼の愛情は私に向いている。
誠実で一途な彼は、私という妻がありながら、他の女性に目移りするような人間ではない。
だから、彼がバディである彼女と結ばれるかは、そして彼が〝英雄〟の称号を得ることができるかは、私の動きにかかっているのだ。
そう考えた私は、まずは家事のために割く時間を大幅に減らすことにした。
ちょうど仕事が繁忙期に入ったところだったので、「頑張るのをやめた」と言う方が正しいかもしれない。
食事は作らず、テイクアウトのもので済ませる。洗濯は、最低限しかしない。
どちらも私だけの仕事ではないけれど、騎士の仕事があるオスカーが全てをカバーできるはずもなく、私達の家は荒れた。
「フィオナだけのせいではないよ。俺もいっぱいいっぱいで、ごめん。でも、お互いに働いているんだから、こういう時があるのは仕方がないよな」
オスカーは何も気にしていない様子でそう言っていたけれど、彼が職場で「奥様がお仕事をされているから、家事も分担制なんでしょう? オスカーさんかわいそー」と言われている場面を目にしたことがある。
「男は仕事、女は家庭」という価値観が根強いこの世界において、夫に、それも激務とされる騎士である夫に家事をさせること自体が、非難されても仕方がないことなのだ。
次に私は、〝騎士団の妻の集い〟への参加をやめた。……と言っても、今までもそれほど参加できていた訳ではないのだけれど。
〝騎士団の妻の集い〟と呼ばれる、王宮騎士団に所属する騎士の妻が集まるそのお茶会は、有益な情報交換の場でもあり、さらには上官の家族と顔を繋ぐ場でもある。
もちろん参加は強制ではないが、欠席者に対する風当たりは強い。
実際、仕事を理由に欠席しがちな私は、一部から「騎士の夫を持つ者としての自覚が足りないのでは?」と陰口を叩かれていることも知っている。
こうして私は、彼と別れる心づもりをすると同時に、少しずつ条件を整える。オスカーが私と離婚をしても非難されないだけの、「仕方がない」と思われるだけの条件を。
そういった努力が実を結んだのか、このところオスカーが何かを言いたげにしていることには気づいている。そろそろ、次のステージに進む時が来たのかもしれない。
もしも心優しいオスカーが離縁を言い出せないのであれば、こちらから提案してあげることも考えなくてはならない。
あの日、空き教室でオスカーと出会ってから約八年。
その間私は、オスカーからとても大切にされてきた。愛情もたくさんもらった。
文官という仕事に就くことになったのも、きっかけはオスカーだった。おかげで私は、離縁後も困窮することなく一人で生きていくことができる。心も、病んでいない。
だから今度は、私がオスカーの背中を押してあげる番。
……あなたが最大限幸せになれるよう、私はきちんと〝主人公の妻〟としての役割を全うするからね。