1
……ここって、少年漫画の世界じゃない?
そう気がついたのは、私が隣のクラスの女子生徒数名に囲まれている、まさにその時だった。
漫画のタイトルは、確か『ヘルト』。
私がかつて生きていた世界で、当時一大ブームを巻き起こしていた少年漫画『ヘルト』は、漫画好きの兄に借りて私も一度だけ読んだことがある。
騎士に憧れる平凡な少年オスカーが、持ち前の向上心やコミュニケーション能力を武器に夢を実現し、騎士として最上級の称号である〝英雄〟を手に入れるまでの人生が描かれている作品だったはず。
なるほど、三ヶ月程前に入学したばかりのこの学校で、確かに同級生には十五歳のオスカー青年がいる。
周囲の人から頭一つ飛び抜けた大きな身体に、整った顔立ち、そして抜群の運動能力を有する彼の人気は凄まじく、彼の噂話を聞かない日はないと言っても過言ではない。そのスペックの高さゆえ、裏では「オスカー様」と呼ばれたりもしているくらいだ。
あまり社交的ではない私に彼との接点はないけれど、常日頃から男女問わず多くの人間に取り囲まれている彼を知らない者など、この学校に存在しないだろう。
ちなみに、彼のファンだという女子生徒達が、陰で「勉強が苦手なところすら愛おしい」などと言っているのを聞いたことがあるので、オスカー青年は勉強が得意ではないらしい。
真面目に勉学に打ち込んでいる私からすると、その欠点は学生の身としては致命的なものに思われる。
けれどもそんな致命的な欠点すらも、「愛おしい」と肯定的受け止められているのだ。彼の人気の高さがどれほどのものかが窺える。
……とまあ、この世界の主人公であるオスカー青年についてはここまでにしておこう。
どうして、なぜ私が『ヘルト』の世界に転生しているのかということについても、考えないことにする。私がこの世界に生きていることと、前世の記憶を有したままそれを自覚していることについては、変えようもない事実なのだから。
今考えるべきは、私の未来についてだ。
先程も述べた通り、私とオスカー青年との接点は、今のところない。
人気者である彼のことを、私は一方的に知っているけれど、おそらく彼は私のことを認識すらしていないだろう。今のところは。
ゆっくりと息を吐き、周囲をぐるりと見回す。
私が前世を思い出している間に事態が好転しているはずもなく、相変わらず私は隣のクラスの女子生徒数名に囲まれている。
壁際に立つ私を取り囲むように半円形に並んだ女子生徒達から、一歩だけ私に近い位置でこちらを睨みつけている少女は、美しい表情をこれでもかと歪めている。
……まずい、まずいぞ。
目の前の少女に声を掛けられた時も、同じことを思った。数人の取り巻きを引き連れた、怒りを露わにする少女に対して「何を言われるんだろう……?」と不安に思った。
けれども今の私が不安に思っているのは、それよりもっと後のこと。
この後の私に降り掛かる出来事……『ヘルト』で描かれていたこの後の展開をより鮮明に思い出すため、私は必死に記憶を手繰り寄せる。
大人気少年漫画『ヘルト』において、学生編と呼ばれる期間、つまりこの学校に通う三年の間に、オスカー青年は未来の妻と出会う。
学校に入学して約三ヶ月が経過した、どんよりとした雲が空に広がる日のことだ。
その日、人気のない廊下を一人で歩いていたオスカー青年は、どこからか言い争うような声が聞こえてくることに気がつく。
声がする空き教室に飛び込むと、一人の少女が数名の女子生徒に囲まれていた。その少女は、女子生徒の中にあっても一際小さく感じられた。
少女の赤く腫れた頬と口端に滲んだ血を見たオスカー青年は、少女が暴力を振われたのだということを理解する。
「一体何があったんだ?」
オスカー青年が鋭い視線を向けると、少女を取り囲んでいた女子生徒達が怯えるような表情を浮かべた。
「何があったかは知らないけれど、一人に複数名で詰め寄るのは卑怯だろ? このことは、先生達にも報告するからな」
オスカー青年の言葉を聞いて、女子生徒達は逃げるようにその場を立ち去って行く。
教室に残ったのは、オスカー青年と少女だけ。
「オスカー……様?」
「俺のことを知っているのか?」
初めて顔を見るその少女が自分の名を呼ぶことに驚いたオスカー青年がそう問い掛けると、少女は潤んだ瞳を彼に向けながら、柔らかく微笑んだ。
「もちろんです。オスカー様は人気者ですもの」
その時、雲の切れ目から光が差す。
オスカー青年の目には、夏の強い日差しを受ける少女が今にも消えてしまいそうなくらいにか弱く儚げに見えた。
おそらく叩かれたのであろう左の頬がじんわりと赤くなっているのは、痛々しいことこの上ないが、陶器のように白い肌とのコントラストが美しく、そんな少女にオスカー青年は思わず見惚れてしまう。
「オスカー様?」
気づけばオスカー青年は、少女の頬に手を伸ばしていた。
所在なさげに視線を彷徨わせる少女の頬が更に熱くなったのは、おそらく気のせいではないだろう。
右手の指先に触れる少女の熱を感じて、オスカー青年の胸には初めて抱く感情が芽生える。
『俺がこの子を守らないと』
こうしてオスカー青年は、その後妻となる少女と出会ったのだった。
…………とまあ、脳内で補完している部分もあるだろうけれど、概ねそんな感じだったと思う。
さて、それを踏まえて、ここでもう一度状況を整理しておこう。
この学校への入学からおよそ三ヶ月が経過した今日、私は空き教室で数名の女子生徒に囲まれている。
窓の外に目を向けると、どんよりと分厚い雲が空を覆っているのが見て取れる。
そして目の前には、私のことを憎々しげに見つめる少女。彼女の表情を見るに、「あ、これは叩かれるかもな」とすら思う。
ちなみに、生まれ持った体質とインドアな性格が相まって、私自身は細身で小柄、そして色白だ。亜麻色の髪と薄水色の瞳という色素の薄い色合いのせいで、存在感がないことは否定できない。
……これはもう、認めるしかない。
おそらくこの後、私はオスカー青年と邂逅を果たすのだろう。オスカー青年の、未来の妻となる人物として。
一見すると、悪い話ではないように思われる。なんと言っても、私は〝物語の主人公の妻〟なのだから。
けれども、『ヘルト』のその後を知っている私からすると、そうも言っていられない。
いっそのこと、このシーンにおける悪役である、目の前で怒りを露わにする彼女の方と立場を代わりたいとすら感じているくらいだ。
理由は明白。
オスカーの妻は、結婚後すぐに捨てられることになるから。
もちろん、オスカーが主人公の物語なのだから、「捨てられる」とは言っても、オスカーが悪者になるような形でではない。
学生編では頻繁に姿を見せていた彼女は、卒業後すぐに開かれたという結婚式のエピソードを最後に、いつの間にか読者の目の前に現れなくなる。どうやら、結婚後まもなく精神を病んでしまうらしい。
その間夫であるオスカーは、甲斐甲斐しく世話を焼くが、いかんせん彼にも騎士としての仕事がある。
最終的には「これ以上オスカー様の手を煩わせる訳にはいきません」と言う妻の両親が妻を引き取る形で、オスカーと妻は泣く泣く離縁したという。
そしてそのシーンは物語中で描かれることはなく、オスカーがバディである後輩騎士にさらっと口で説明するにとどまっていた。
ちなみにその後、オスカーはその後輩と恋仲になっていた。オスカーよりも五歳くらい年下の、若々しく健康的で、明るく可愛らしい女性だった。
公私共に切磋琢磨し合える彼女のおかげで、オスカーは大きく成長する。
『君がいなければ、俺は〝英雄〟の称号を得ることはできなかった』
オスカーがそう述べる叙勲式のシーンは、読者の間でも人気のあるシーンらしく、彼女の額に口づけをするオスカーを描いたファンアートは、SNS上にも溢れかえっていた。
正直なところ、少女漫画に慣れていたかつての私は、その展開に対して「まじか」と思った。
でもまあ、女性向け作品と男性向け作品では好まれる展開も違うのだろう。読者アンケートの結果等、大人の事情もあったのかもしれない。
だから、その時はそういうものなのだと受け入れた。
けれども、今の私にとってはその展開を「はいそうですか」と、そのまま受け入れることなどできない。
精神を病んで捨てられる未来など、全力で回避したいに決まってる。
……考えろ。考えるんだ。
どうすればこの世界で、幸せな未来を掴み取れるかを。
「私の彼と、随分と仲が良いみたいじゃない? どういうつもりなの?」
「ちょっと、レベッカさんの質問に答えなさいよ!」
頭をフル回転させる私の傍らで、恐ろしい形相の少女と女子生徒の一人が声を上げている。
なるほど、この後私に手を上げることになる少女は、レベッカという名前なのか。同学年とはいえ、クラスが違うのだから今まで知らなかったことは許してほしい。
頭の片隅でそんなことを思いつつ、しかし私はいかにしてこの後をやり過ごすかについて考えるのに必死だった。
「レベッカさんを無視するなんて、いい度胸じゃない!」
「ひょっとすると、驚いて声も出ないのかしら?」
「あらまあ、別に脅している訳ではないのよ? ただ私は、フィオナさんとお話がしたいだけなのよ」
そんなことを言いながら、にたりと笑うレベッカさんは、かなり感じが悪い。
これは、あれだ。どうやっても勝ち目のない相手に対して、悪役が向ける目つきだ。前世も含めて実際に向けられたのは今回が初めてだけれど、漫画なんかで見たことがある目と、本当にそっくり。
そんなことをぼんやりと考えているその時、突如としてとっておきの考えが閃いた。
「要は、オスカー青年に惚れられなければいいんじゃない?」と。
オスカー青年は、少女の儚さに心惹かれ、庇護欲を擽られた結果、「俺が守らなくては」という思考に至っていた。ならば、そう思わせる隙を与えなければよいのだ。
やってやろうじゃないか。
そう決意した私の口角は、知らず知らずのうちに上がっていたようだ。
レベッカさんの顔から笑みが消え、彼女の苛立ちが最高潮に達したことが見て取れる。
「調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!!!」
そんな怒鳴り声が聞こえたかと思うと、左頬に鋭い痛みが走った。……のと同時に、私はレベッカさんの胸ぐらに掴みかかる。
そんな私の視界の端で、私達を取り囲む女子生徒達が驚いたような表情を浮かべている。
掴み合いの喧嘩なんて、生まれて一度もしたことがない。
けれど、兄から借りて読んだことのある漫画の中には、不良が主人公のものもあった。
その中で私は学んだのだ。『大勢に囲まれて勝ち目がない時には、負けることになったとしても徹底的にトップをぶちのめせ!』と。
レベッカさん自身も、まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。
勢いよく掴みかかった私の体重を受け止めきれなかったレベッカさんは、そのまま後ろに倒れ込んでしまった。
彼女の顔には怒りよりも困惑の色が浮かんでいるけれど、ここで手を緩めてはいけない。
『相手側に生まれた僅かな隙を見逃しちゃあならねえ』と、不良も言っていた。漫画の中で。
覚悟を決めた私は、大きく息を吸い込んで、お腹に力を込める。
「私が! いつ! あなたの彼と仲良くしたのよ!? そもそも! あなたの彼って! 誰なのおおお!!!」
多勢対一人の喧嘩の仕方について漫画から学んだと言っても、実戦慣れしていない私にとって、実際に殴ったりするのはハードルが高い。
だから私はとにかく大声で威嚇する。
「同じ学校の男の子と会話した回数なんて! 数える程度だけど!? そもそもクラスメイトと会話した回数すら! そんなに多くはないからあああ!!!」
「レベッカさんって言うのよね? はじめまして! ではないのかもしれないけど! 名前も知らない相手の彼氏のことなんか! 知る訳ないでしょうがあああ!!!」
……もう、支離滅裂な発言であることはわかっている。
けれども、めげずに大声を出し続けた甲斐もあって、周囲の女子生徒達の驚きの表情が怯えの表情に変わるのに、それほど時間はかからなかった。
「ちょ、ちょっと落ち着いて。大丈夫だから、私が悪かったわ」
私に馬乗りになられた格好で、胸ぐらを掴まれたままのレベッカさんまで、私の心配をし始める始末だ。……まあ、今まで大人しいと思っていた相手が奇声を発し始めたのだから、私が彼女の立場でもそうする。
当然ながら、怒りや苛立ちといった感情は、すでに彼女の中から消え失せていることだろう。
勝ったな。
教室の扉が勢いよく開け放たれたのは、私がそう確信したのとほぼ同時だった。
扉を開けた人物は、よっぽど勢いをつけていたのだろう。部屋中に響き渡る鈍い音につられて、私達を取り囲んでいた女子生徒達が一斉に入口へと視線を向ける。
彼女達から見て扉の正反対にいる私の位置からは、彼女達の表情を窺い見ることはできないけれど、おそらく全員が怯えるような表情を浮かべたままであるはずだ。
「……一体何があったんだ?」
当然ながら、そこに登場したのはこの世界の主人公であるオスカー。
彼はレベッカさんに馬乗りになる私を見て、呆然とした表情を浮かべている。
「オスカー様……」
思いがけず、私の口から彼の名を呼ぶ声が漏れ出た。計画通りに事が進んだことに安堵したせいだと思う。
「……俺のことを知っているのか?」
困惑顔でそう問い掛けるオスカーに、「この世界のオスカーと出会うのは初めてだったな」と思い至る。
けれども、彼は常に人々の中心にいるのだ。私が同級生としての彼を認識していたとしても、不思議ではない。
「もちろんです。オスカー様は人気者ですもの」
そう言って微笑むと、彼はぴしりと硬直してしまった。
その瞬間、雲の切れ目から光が差す。
オスカーの登場に乗じて、レベッカさんとお連れの方々はそそくさと部屋から出て行った。支離滅裂な奇声を発する人間からいち早く逃げようというその姿勢は、自分の身を守る上で最善の行動だと思う。
だから、この部屋には今、私とオスカーの二人しかいない。
よたよたとこちらへ歩を進めるオスカーの目には、頬を腫らして口端に血が滲んでいる私の姿が映っていることだろう。
夏の強い日差しを受ける私は、華奢な体型と真っ白な肌を有してはいる。
しかし彼の目に映る私は、決して〝儚くか弱い少女〟ではない。
「……頬が、赤くなってしまっている」
オスカーはそう言いながら、おずおずと私の頬へと手を伸ばす。
けれども、私が一歩下がったものだから、彼の右手は私に触れることはなく空を切った。
そんな私の行動は、彼にとっては想定外のものだったのだろう。オスカーがエメラルドグリーンの瞳を、さらに大きく見開くのがわかった。
本物を見たことはないけれど、おそらく宝石のエメラルドであっても、こんなに美しくはないだろうというくらいに、深く澄んだ瞳だった。
なるほど、これが少年漫画の主人公の目か。
そのようにどうでもいいことを考える私は、もはやオスカーを自分とは無関係の人間だと信じ込んでいた。
「危機はすでに去ったのだ」と、「人気者である彼と、儚さもか弱さも持たない存在感が薄いだけの私は、この先接点を持つことなどないだろう」と、安心しきっていた。
「叩かれはしましたが、こちらもやり返しましたから。ご安心ください」
そう言いながら浮かべた私の笑みは、事情を知らない人間からすると、奇妙さを感じるくらいに晴々としたものだったと思う。
けれども、その時の私は達成感に満ちていて、オスカーの目に自分ががどのように映っているのかなんて、気にもならなかった。
戸惑いがちに「それは……よかった」と呟いたオスカーがどんな表情をしているのかすら、その時の私は気づいていないのだった。