本家のミニマリスト(三十と一夜の短篇第83回)
「やあ、暑そうだね」
一馬がふと目をあげると、若い男が手を上げてふっている。
「はあ」
一馬が気のない返事をしていると、男は一馬の持っているバケツのなかの草刈り鎌と農薬のプラスチック瓶を見て、ニコニコ言った。
「墓参りだけのつもりが墓掃除になっちゃったのかい?」
男はニコニコ笑っている。
一馬よりもふたつか三つくらいの年上だから、ちょうど二十歳くらいらしい。
背が高く、なかなかハンサム。半袖の白いシャツと黒いズボン。
勝手な思い込みだが、ミニマリストに見える。つまり、彼のクローゼットには何十着という白いシャツと黒いズボンがぶら下がっているわけだ。
現代社会、それも都会というのは見ず知らずの人間にやたらと話しかけることを是としないが、田舎になれば、それも少しは和らぐのだろうか。少なくとも、一馬はこの若者と会ったことがない。
「あの」
「ああ。ごめん。馴れ馴れしいよね。僕は、あっちの本家のものだよ」
若者は曖昧に山裾に集まった三つの瓦屋根のどれかを指した。
「はあ、本家の方ですか」
本家。田舎の人間関係をざっくばらんに片づけるキーワードだ。都会ではこの概念はことごとく滅び、図書館でしか見られない。つまり、横溝正史の小説のなかだけだ。
ちなみに、一馬は分家の人間らしい。
だからといって、何か不都合を被るわけではないが、何か上級国民的な気持ち悪さを感じずにはいられない。
「きみは里帰りかい?」
「はい」
ふたりが歩いているのは森の縁だった。
左手には水田があり、本家のあるあたりまで視界が開けている。
右手はうっそうと茂る森である。
何の木かは分からない。植物に興味のない人間にとって、名前が分かるのは松と杉が限界で、桜だって花が咲いていなければ分からない。
ただ、この森はときどき高い生垣に変わり、砂利を敷いた脇道があらわれる。道は奥の農家の母屋まで続いているらしい。
こんなふうに横にそれる道があるが、どこで曲がればいいのかは、祖母と一緒にスマートフォンのマップを見て、墓の場所はあらかじめマークをつけている。
ちなみに墓のある場所は森のなかにあって、マップには載っていない。そこに着くまでの道すら載っていない。
これが夜や暗くなった夕暮れ時ならばホラーだが、いま、空は夏の全力で青く輝き、殺人的な太陽光線を降り注いでいる。
「いや、暑いねえ」
本家の人は、白い、何の模様もないハンカチで首筋の汗を拭っていた。
「東京から来たの?」
「はい」
「東京の夏はここよりひどいだろうね」
「そうですね。日差しはここのほうがきついですが、日陰に入れば、風が涼しいです」
一馬が最近気がついたことだが、地方の人たちは日なたは東京よりハードだが、日陰は涼しいと言われると、妙にうれしがる。
「そうだろうね。そうだろうね」
本家の人もその例に漏れない。汗を吸ったハンカチを左のポケットに入れると、新しい白いハンカチを右のポケットから取り出した。
やはりそうだ。ミニマリストめ。きっと同じものが百枚、タンスに入っているに違いない。
「どうだろう。ちょっと取引しないかい?」
「取引ですか?」
「お互いのためになるものだよ。つまり、墓掃除さ。わたしはきみのお墓を一緒に掃除する。そうしたら、きみもわたしのお墓を掃除する。掃除するお墓は増えるけど、ふたりでやったほうが絶対にいい。それにきみ、お墓の掃除なんて、ほとんどやったことがないだろう? その点、わたしはお墓掃除のプロだ。本家の墓はこの村のあちこちにあるからね。月に二回はどこかでお墓を掃除している。雑草の取り除き方やどこまで掃除すべきかも含めて、きみにレクチャーできる」
そう言われれば、そうだった。
お墓掃除などやったことがない。
森のなかのお墓が森との境が不明瞭だったら、どこまでやらなければいけないのか分からない。
それにね、と本家のミニマリストが言う。
「お墓の掃除はやり方を間違えたら、ノロイがある」
「呪い、ですか?」
「カタカナで『ノロイ』だ。このあたりの風習でね。死んだ人間は生きた人間をノロイすることができる。そのノロイというのは、タネを植えるんだ。ノロイ相手の人間にね。そのタネは、そうだなあ、三十日くらいで発芽する。幽霊が見えない人には見えないけど、見える人にはしっかり見える。ノロイされて発芽したものはいろいろ種類があるけど、共通しているのは紫色のベトベトしたものが血管まで入り込んでいて、体の表面、お腹のあたりから染み出していて、そのベトベトにまぶたや口がいくつもデタラメに開いている」
「……でも、自分の孫をそんなふうにノロイしますか?」
「さっきも言った通り、このへんはちょっと違う。死者が感じているのはただただ絶望とまだ生きている人間への妬み。生に対するひたすらの憎悪。親と子。祖父母と孫。自分の血筋にノロイをしでかした話はいくつもある。まあ、そこまでいくには相当な粗相をしない限り、ない、とは思うけど」
ごくりと唾を飲み、一馬は空を見上げた。
「昼間でも関係ないよ。あの紫のベトベトはむしろ昼間のほうが盛んなくらいさ。で、どうする?」
本家のミニマリストが立ち止まる。
森に、平らな石を敷いただけの細い道が口を開いていた。
「……お願いします」
「そう来なくちゃ」
森の暗さはいかに植物というものが日光をかすめ取ろうとしているかの証だ。
樹は地面の草たちにおこぼれをくれてやるつもりはないが、雑草たちは樹が倒れたら、即座に攻勢を強め、次の支配者たらんとしている。
「しかし、それにしても」
暗すぎる。まだ午後一時なのに、ライトが欲しくなるほど暗い。
草を引っこ抜いて、農薬を地面にかける。
一馬は墓の右側、本家のミニマリストは左側である。
墓石は古いもので苔がむしている。
ノロイ、とやらの話を信じているわけではないが、うっかり足で蹴ったりするのも判定内なのだろうか。
だが、本家のミニマリストは墓にお供えされたジャックダニエルを平気で開封して、ぐびっとやった。
「この後味の苦さがたまらない」
ノロイがあるなら、間違いなく本家にいく。
というか、ノロイは嘘なのだ。
いや、一馬だって本気で信じたわけではない。わけではないが、気味の悪い話だし、いくら未開封だったといえども、いつから置いてあるか分からないウィスキーの瓶を開けて、飲むだろうか。
そっちのほうが気味が悪い。
本家の人間は分家の墓に対して、お供えを好きに扱ってもいいという風習があるのだろうか。
雑草を抜く手が止まる。墓のまわりには石材がはまっていて、そこまでがお墓なのだ。そこから外は森である。
「もちろん森全体を草むしりするという野心旺盛なことを言ってもいいんじゃないかな。若者は野心旺盛であるべきかな」
墓石を挟んだ向こうから本家の声がした。
「いえ、人並みの幸せで結構です」
「わたしも同感だね。だいたい、このあたりの草は育つのが速いんだ。ノロイのタネと違って」
「ノロイって本当にあるんですか?」
「あると思う」
「でも、もし本当にノロイがあったら、お供えものに手をつけるのはまずいと思いますけど」
「大丈夫だよ」
「ところで、本家のお墓はどこにあるんですか? このそばだって言ってましたけど」
「そこの坂を上ったところだよ」
一馬の家の墓は下った斜面のそばにあった。
だが、この斜面は草が生い茂っていて、ここから上るのは難しそうだ」
「本当にこっちの斜面から行けるんですか?」
「そこの坂を上ったところだよ」
「でも、階段とかないようですし」
「そこの坂を上ったところだよ」
「結構、急ですよ。この坂」
「そこの坂を上ったところだよ」
「あの、さっきから、ずっと同じことを言われてる気がするんですけど」
「そこの坂を上ったところだよ」
日射病、になるには日の光は差していないが、日なたと日陰の温度差でおかしくなってるのかもしれない。
一馬は農薬の瓶を置いて立ち上がり、墓石を後ろからまわり込んだ。
「あの、本当に大丈夫ですか? おれ、飲み物を――」
一馬の目に最初に入ったのは紫色のベトベトだった。
仰向けに倒れた本家の男の胴をノロイが覆いつくし、充血した目玉に囲まれた大きな口が唾を引いて、ぱかりと開いていた。
その紫色は腕や首筋の血管まで侵入していて、本家の男は生前やっていたみたいに紫の血管で脹らんだ首筋をハンカチで拭いながら、微笑んだ顔のまま、こう繰り返した。
「そこの坂を上ったところだよ」
「そこの坂を上ったところだよ」
「そこの坂を上ったところだよ」
「そそそそそそここここここの坂さかサカ坂さカさカかかかかか」
一馬が祖母の家に飛び込んだとき、あまりにもすごい悲鳴だったもので、祖母はところてんを突く手を止め、慌てて縁側へとやってきた。
そこでは顔を蒼くした一馬がいて、腰を抜かして、縁側にへばりつくようにして、
「ばあちゃん、おれ、ノロイされたかも!」
「のろい?」
「じいちゃんにノロイされたかも」
「じいちゃんに? 自分の孫を呪うバカがどこにいるんだい? もし、じいちゃんがそんなことしたら、わたしが墓を引き倒してやる」
「でも、本家の人は――」
「本家?」
「あっちの山裾に住んでるその本家の人が言ったんだ。ここの死人は孫でもノロイするって」
祖母はさっぱり何を言っているのか分からないので、一馬を落ち着かせて、ノロイ、勝手に飲んだジャックダニエル、本家のミニマリストについて、順番にきき出した。
「本家はここにはいないよ。川の向こうの神定町だよ。本家がいるのは。でも、いま、本家にそんな若い男いたかねえ――あ」
ちょっと待っててな、といい、祖母は装丁が黄ばんだ古いアルバムを持ち帰ってきて、そのうちの一枚を見せた。
白黒写真には白いシャツと黒いズボンの、二十歳くらいの若者がどこかの戸口にたらいを仕掛けようとしているところが写っていた。
「あ! この人だよ! 本家の人だ!」
それをきくと、祖母は、なあんだ!とホッと息をついた。
「ばあちゃん、カズちゃんがおかしくなっちゃったのかと思ったよ。あのね、カズちゃん。カズちゃんがあったのはね、じいちゃんだよ」
「じいちゃん?」
「まったく。じいちゃんは、ひどいことする。いたずら好きな人だったんだよ。じいちゃんは。じいちゃんは本家の五男だったんだけど、分家にはばあちゃんだけで、男の子がいなかったから、本家を継ぐ予定のないじいちゃんが婿にやってきた。本人はいくつになっても少年の心を忘れないなんて言っていたけど、そういうのは子どもっぽいと言うんだよね。あのね、カズちゃん。ノロイなんてのはね、じいちゃんの嘘だよ。カズちゃんをおどろかそうとしたんだよ。それにしても、これはいたずらが過ぎるね。こんなに怖がって。――ちょっとここにいなさい。ばあちゃんは仏壇のじいちゃんにお仕置きしてくるから」
祖母の姿が奥へと消えると、まもなく仏間のほうから「ごめん! 悪かったって!」という本家のミニマリスト改め祖父の声と素早い二発の平手打ちの音が響いた。
その音をきいて、一馬は、
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
と、安堵の息を吐いた。
自分が出会ったのが、間違いなく幽霊だったと知ったのに、さっきまで体を震わせていた恐怖が雲散霧消する。
「……幽霊も汗ってかくんだな」
喉の激しい渇きを覚え、一馬は卓に乗っていた麦茶を一気飲みした。
ジャックダニエルをブッと噴く。